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妓楼の喪明け

―登場人物紹介―


趙翠玉ちょうすいぎょく……十七歳。上海、西棋盤街の置屋 「彩宝堂」の芸妓(二等芸者)。


潘淵はんえん……二十三歳(?)。蘇州出身の職人。


賈榮卿かえいきょう……二十五歳(?)。蘇州出身の書籍商。


趙緑宝ちょうりょくほう……三十八、九歳(?)。「彩宝堂」の女将で翠玉たちの養母。


趙青瓏ちょうせいろう……十五歳。翠玉の妹芸妓。


趙藍玲ちょうらんれい……十九歳。翠玉の姉芸妓。売れっ子。


趙白瑞ちょうはくずい……二十四歳。翠玉の姉芸妓。博打好き。


おう……五十歳前後(?)。潘淵の主人。

(一)

 昨日、紅珠こうじゅねえさんが死んだ。

 あるいは今日の明け方かもしれないが、本当のところは分からない。

 どのみち、今朝、私が起こしに行って見つけた時には、死人そのものの顔をしていた。

「あんな青二才に愛想尽かしされたくらいで」

 仮母かあさんは泣き怒っている。怒り九割に泣き一割といった塩梅だ。

「もう少しで借金が全部上がるって時に」

 私はまだ死ねないみたい。姐さんの顔からずり落ちた布を被せ直しながら、小さく息を吐く。

 まだ、借金の半分も埋めていないのだから。

翠玉すいぎょく!」

 仮母さんの声から一割の泣きが消えた。

「ぼさっとしてないでさっさと着替えしな!」

 喪服はどこにしまったっけ?思案しながら私は歩き出す。

 ずっと前着た時、襟元にちょっと染みを付けてしまった気がする。

「あんた、喪服に着替えても、口紅だけは忘れずに付けるのよ!」

 仮母さんの鋭い声が更に後ろから飛んでくる。

「お客様が葬儀にもいらっしゃるかもしれないから」


(二)

「それで、紅珠は三日前にぽっくり亡くなりまして、はい、昨日葬式を済ませたばかりです。ええ、本当にいいむすめでしたのに」

 仮母さんは相変わらず男の前では平気で嘘をつく。

 これは、私がこの彩宝堂さいほうどうに売られて来たときから変わっていない。

 というより、その前からもずっとそうなのかもしれない。

「佳人薄命というものだな」

 客も訳知り顔で頷く。

「わしに身請けしてくれといつも頼んでいたのに不憫なことをした」

 姐さんは、こいつが帰るたびに、普段の倍かけて湯浴みした。

そん老爺さまにはせっかくお越しいただきましたし」

 仮母さんは袖で大仰に目尻を拭う。涙で剥げた眉墨を気にしているのだと袖口を確かめる仕草で分かった。私の目をよそに仮母さんは言葉を継ぐ。

「翠玉がお相手したがっております。いかがでしょう」

 仮母さんに言われて私は初めて笑顔を作る。

 私というむすめは、本当に気が利かない。

「妹分か」

 客もそこで初めて私に顔を向けた。

 鴉片あへんの吸い過ぎですっかり弛んだ、下膨れの顔の中で、値踏みする目つきだけが底冷たい。

 あいつの目つきに虫酸が走る、と姐さんはよく言ったものだ。

「全然、見栄えのしない奴だな」

 見栄えのしない、と舌打ちされた瞬間、私の顔に唾が飛んだ。

 吐きかけられる客の息には鴉片と酒と、それからにらの様な匂いが混ざっている。

 近くにいると顔を背けずにいるのが苦行に思えてくる。

 お役人でもなければ、こんな男、野鶏よたかだって相手にしたくない。

「そりゃ、あの子と比べれば見劣りしますけれど」

 仮母さんは紅を塗りすぎた唇を横に引っ張り上げて食い下がる。

 その笑い方だと皺が余計に目立つのに。

「この子も気立てはいい娘ですよ」

 どう言いつくろおうと私の器量に変わりはない。

 仮母さんの作り笑いを背に客は出て行く。

 帰れ、白豚。

 私は心の中で客に蹴りを入れる。

 頭は大きいのに髪が少ないので後頭で揺れる辮髪べんぱつが本当に豚の尻尾みたく見えた。

「せっかく紅珠が遺してくれた上客だったってのに、このグズめ!」

 仮母さんは半分眉の消えた顔を真っ赤にしている。

「残ったお前がブスの上にバカじゃどうしようもないよ!」

 ぶったら余計にひどい顔になるのに。 


(三)

 部屋に戻って鏡を確かめる。

 むろん、あざが残るほど強く打たれたわけではない。

 仮母さんもそこは心得て加減しているし、十年も叩かれ続けた私はそれを知っている。

 だが、打たれた拍子に左の耳飾が外れてしまった。私は耳朶みみたぶがひどく薄いので耳飾が外れやすい。仮母さんの言葉を借りれば、それも貧乏性のそうだという。

「お前は全く金の寄せない体だよ」

 さっきもそう言われた。

「どうせ、あたしは木か石で出来た体なのよ」

 鏡に向かって舌を出しながら、外れた耳飾を付け直すが、すぐに耳飾の形そのものが歪んでしまっていると気付く。右の耳飾が真っ直ぐな柱型をしているとすれば、左はちょっと中折れ気味だ。

「また、作り直しか」

 左の出来損ないを耳から毟り取って一人ごちる。安物とはいえ、翡翠の細工物は金がかかるのだ。

「お金がないよ」

 鏡の中の顔はしょぼくれているのに、右の耳飾だけが完璧な姿で映っている。

 こっちの方は十年前、七つでここに来た時から、常に右の耳に寄り添っている。

 私は、この片割れだけの古い耳飾りを「大哥にいさん」と心の中で名付けている。

 ――大哥にいさん、どうしましょう。

 胸の内で念じて、右耳に下がった小さな柱を爪で弾くと、先っぽに付いた小さな鈴の音が右耳に響く。

 ――三妹サンメイ、大丈夫だよ、三妹。

 鈴の音がそんな風に囁いている様に聞こえる。これもずっと変わらなかったことだ。

 ちょうど一年前、水揚げして本当の妓女になってからも。

 ――三妹、お前は何も心配しなくていいんだよ。

 十年前、この翡翠の柱を右の耳に付けてくれた人は言った。顔も姿も霧がかかった様に浮かんでこないが、その声の優しい響きだけは鈴の音に混じって蘇る。まだ男になりきらない年頃の声だ。

 ――三妹、心配しなくていいんだよ。

 その言葉に押されて私は舟に乗り、上海シャンハイで行かれた先は、この妓楼だった。

 ――三妹、大丈夫だよ。

 大哥にいさん、あなたは私の行く先を知っていたんですか。

 鈴を小さく鳴らしながら、胸の内で問うが、思い出の中の声は耳の底を撫でるばかりで答えてくれない。


(四)

「また、やってる」

 鏡の隅に、派手な金糸で縁取った青の衣装が現れた。

仮母かあさーん、翠玉すいぎょくねえさんはまだ準備できてないって」

 振り向いた時には、青瓏せいろうはもう階下に向かって声高に叫んでいた。

「さっさとしろってあのアホに言いな!」

「分かりましたあ」

 青瓏はわざと幼げな笑い声で答えた。

 あんたを介さなくても、私には、もう聞こえている。

「だから、あたしは今日は駄目なの!」

 これは私の答えではなく、階下のまた別の方角から飛んできた声だ。

藍玲らんれい姐さんは今日、月のもので加減が良くないんですって」

 青瓏は私を振り向くとまたそっけない顔つきに戻って告げる。

紅珠こうじゅ姐さんがあんなことになってうちが大変だって時に」

 口調はさも困った調子だが、目つきは何だか面白がっている。

「あたしはお腹が痛いの!今、誰かが来て触ったら、引っ掻いてやる!」

 これも私ではなく階下からの声だ。

「後生だから、もう少し聞き分けておくれ」

 仮母さんの宥める声に次いで、階下から何か壁に叩きつけてガシャンと割れる音が聞こえてきた。

「お前、これは、七宝じゃないか! しゅう老爺さまから戴いた……」

「要らないわよ、こんながらくた!」

 階下の騒ぎを遠くに聞きながら、私は半ば独り言として呟いた。

「今月は今日から三日間、藍姐さんのあの騒ぎを聞くわけね」

 藍玲姐さんは亡くなった紅珠姐さんと並ぶうちの売れっ子だ。

 こうした妓女によくあることで、何かと見せ付ける様に高飛車に振舞っては、無理を言い出す。

「まるで、月に一回、お産するみたいだわ」

 お産を見たことはないが、そんな気がする。

「いい加減にして欲しいですよね、毎月」

 青瓏は大げさに嘆息した。

「紅珠姐さんは優しかったけど、藍玲姐さんは本当にわがままだから困っちゃう」

 この青服の小狐は、普段は侍従よろしく藍玲姐さんに引っ付いて、姉芸妓でも私などには小ばかにした口を利くが、おためごかしを語る時は、ますます狐そっくりの顔つきになる。

「昨日の葬式でも、他人事みたいな顔してたしね」

 話しながら、私は形の歪んだ耳飾を左耳につけ直す。

 さっきよりもっと曲がりが目立ってきた気がする。

「藍姐さんの代わりにあんたと出るなんて、荷が重いわ」

「いや、別に翠玉姐さんにそこまでは求めてないですから」

 青瓏は甲高い声で笑った。

 私より二つ下でまだ十五のはずだが、四十近い仮母さんによく似た笑い方をする。


(五)

「ただ、邪魔にならない様にいてくれればいいんで」

 ぶん殴りたい思いを抑えながら私は青瓏を振り返って尋ねる。

「で、今日来るお客は誰?」

 訊きながら、私はやっつけ仕事で頬に白粉を叩きかける。

 こいつが私のところに来るのは何か面倒ごとを押し付ける時だ。

「薬商のですよ」

 そんなことも知らないのか、とでも言いたげな顔つきで青瓏は答える。

「それから、今日はあっちがうちに来るんじゃなくて、私たちが金茂楼きんもろうのお座敷に掛けられたんです」

「ああ、そうなの」

 店で客を取るのも苦痛だが、外で宴席に侍るのもそれはそれで疲れる。

「あそこのお座敷は広いから他の店からも来るかもしれないわね」

 金持ちの客には、あちこちから芸妓やら役者やら宴席に呼び寄せて悦にいる手合いが少なくない。

 だが、お座敷に着いて、他店の芸妓たちと顔を合わせた瞬間の、あの凍った空気を思い起こすと、私は早くも行く気が萎えてくる。

老爺さまはうちが一番ご贔屓なんだから関係ないですよ」

 青瓏はこともなげに言い放つ。

 何を根拠にしているのか、こいつは会いに来る客が自分を一番贔屓にしているとすっかり信じ込んでいる。

「あの人、最初は藍玲姐さん目当てで来てたけど、最近はあたしばっかり構うから、姐さん、面白くないみたい。この前、あたしに……」

 青瓏に最後まで言わせず、私は答える。

「はいはい、あのチビでゴマ塩頭の爺さんが確か薬商の李だったわね。太って色の黒い李さんが呉服屋のご主人だった気がするから」

 腰を折られた青瓏はむっとして口を尖らせた。

「自分が上客つかないからって僻まないでくださいよ」

 言葉そのものより、このしてやったりという顔が気に入らない。

「あんただって、お客に黒豚だのハゲネズミだの仇名付けて笑ってるじゃないの」

 話しながら自分でもうんざりしてきて私は小声になった。

「お客と別れた後に、藍玲姐さんと一緒になってさ」

 一つ屋根の下で寝起きしていた姐さんが死んだばかりだというのに、私たちが語り合うのはこんなこと。

「とにかく、出るまでに琵琶の用意だけはちゃんとしといてくださいよ」

 青瓏は話しながら背を見せて部屋を出て行く。

「翠玉姐さんは、いっつもボヤっとして出遅れるんだから」

 何だい、私が毎回弾いて教えてやらなきゃ、歌一つまともに覚えられないくせして。

 心の中で毒づきながら、私は部屋の隅に置いた琵琶を睨む。

 字のほとんど読めない青瓏は、当然譜面が解せず、手で楽器を覚えるほどの根気もないので、弾き手が必要になると私を頼ってくる。

 薬商の李の、袖口からこっそり手を忍ばせてこちらの腕をねちっこく撫で回す癖を思い出して、私は袖口のぴったりした若草色の上着を手に取る。これなら、琵琶を弾くにも好都合だ。

 あの爺さんの最初のお目当ては紅珠姐さんだったのに、姐さんからは相手にされなくて次々狙いを変えた。そんなことも併せて思い出しながら、私は青竹色の裙子スカートの腰紐を改めてきっちり縛り直す。

 妓楼では、人が一人死んでも、生き残った人間のすることは何も変わらないのだ。

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