第二話4
夏が終わり、九月になった。
区立第三中学校の二学期は、静かな地獄の始まりだった。
教室での立ち位置が、いつの間にか変わっていた。
小学校時代、陽一は特別目立つ存在ではなかったが、「美月の幼馴染」という肩書きが、彼にある種の居場所を与えていた。美月と対等にやり合える剣道の実力も、周囲の目には好意的に映っていたはずだ。「あの二人はすごい」と言われることが、陽一の小さな誇りだった。
しかし中学に入ってからの半年で、その均衡は完全に崩れた。
美月は、もはや「学校の有名人」という程度の存在ではなかった。全日本一般の部、関東ブロック予選を勝ち上がり、全日本への出場が決まった。学業は中間テストで学年首位。容姿も、成長とともにいっそう整っていく。童顔だった小学校時代から、少女と大人の境目にある凛とした美しさへ。廊下を歩くだけで視線が集まる。他のクラスの生徒が、わざわざ教室を覗きに来る。
「金澤さん、すごいよね」「マジ可愛いし強いし頭いいし」「あれは別格だよ、同じ人間とは思えない」
そんな声が、教室のあちこちから聞こえてくる。休み時間のたびに、美月の机の周りには人だかりができた。男子も女子も関係なく、みんなが美月と話したがった。美月はそれを嫌がらず、誰にでも笑顔で応対していたが、その笑顔がまた周囲の憧れを加速させた。
そして、それと表裏一体のように・・・。
「ねえ、なんで金澤さん、あんな照川なんかといつも一緒にいるの?」
最初にその言葉を聞いたのは、体育の授業の後だった。
九月末の残暑の中、持久走の後に男子更衣室の前で休んでいた陽一の耳に、廊下の向こうから女子の声が飛び込んできた。教室に戻る途中の、二人か三人の女子。わざと聞こえるように言ったのか、本当に気づいていなかったのか。どちらにしても、その声は陽一の鼓膜に焼きついた。
「幼馴染だからじゃない? 小学校のときからずっと一緒みたいだし」
「それにしたって、さあ。今の照川って剣道部でも全然だし、成績も普通だし。体育の持久走だってビリから三番目だったじゃん」
「金澤さんに釣り合わないよね、正直。なんか、見てて可哀想になるっていうか」
笑い声。悪意があるのかないのか判別できない、軽い笑い声。明確な敵意ではない。だからこそ余計にたちが悪い。彼女たちにとってそれは、ちょっとした世間話程度のものだろう。昨日見たテレビの感想を話すのと同じ温度で、一人の人間の存在を値踏みしている。
陽一は壁に背中を預けたまま、目を閉じた。心臓が冷えていくのがわかった。怒りですらなかった。反論する材料がないのだ。事実だから。剣道で勝てない。成績も中の下。持久走も遅い。身長だけは伸びたが、それは何のアドバンテージにもなっていない。
釣り合わない。
その言葉が、石のように胃の底に沈んだ。
昼休みも、似たようなものだった。
教室で弁当を広げていると、美月が自然な足取りでやってくる。「隣、いい?」と微笑んで、陽一の机に椅子を寄せる。小学校の頃からの習慣だ。二人で食べる昼食。美月の弁当箱は二段重ねで、中身はいつも綺麗に詰められている。陽一の弁当は母が作った三色弁当。かつてはそれを並べて食べることに何の違和感もなかった。
しかし、周囲の視線が違う。
男子の何人かが、あからさまに不機嫌な顔をしている。金澤さんと昼食を食べたいのは俺たちだって同じだ、とでも言いたげな目。サッカー部の桐谷は、わざとらしく大きなため息をついてから窓際の席に移動した。女子の数人は、美月と陽一を交互に見て、何か囁き合っている。その囁きの中に「照川」という自分の名前が混ざっているのが、聞こえたのか、想像なのか、もうわからなかった。
陽一は弁当の卵焼きを口に運んだ。味がしなかった。母が毎朝焼いてくれる、少し甘めの卵焼き。小学生の頃は大好きだったそれが、今は砂を噛んでいるようだった。
「陽一、最近元気ないよ」
美月が箸を止めて、陽一の顔を覗き込んだ。眉がわずかに寄っている。心配の表情。
「・・・そうか? 普通だよ」
「嘘。目、笑ってないもん」
その言葉が正確すぎて、陽一は思わず目を逸らした。窓の外を見る。校庭では昼休みのサッカーが行われていて、歓声が遠くから聞こえている。
「別に。眠いだけ」
「最近ずっと眠い眠いって言ってるけど、ちゃんと寝てる?」
「寝てる」
寝ていなかった。夜中に膝の成長痛で目が覚め、そのまま天井を見つめて朝を迎えることが増えていた。痛みで起きるのか、痛みとは別の何かで起きるのか、自分でもわからなかった。
会話は、いつもそこで途切れた。美月が何かを言いかけて、やめる。陽一がそれに気づいて、気づかないふりをする。弁当の中身が減っていく間、二人の間には沈黙が横たわっていた。かつてはその沈黙すら心地よかったのに、今はただ重い。
美月が自席に戻ると、誰かが小声で話しているのが聞こえた。
「照川ってさ、なんか暗くない? 入学したときはもうちょいマシだった気がするけど」
「もとからじゃね? 目立たないタイプだったろ」
「金澤さんの隣にいるから余計目立つんだよ、地味さが。比較対象が悪すぎる」
「つーか、金澤さんに片想いしてんじゃね? あの態度見てると」
くすくすと笑い声。
陽一は、窓の外を見た。表情を変えなかった。変えないことだけが、今の自分にできる唯一の抵抗だった。頬の筋肉が引き攣りそうになるのを、奥歯を噛みしめて抑えた。
直接的な暴力はない。いじめと呼べるような明確な行為もない。上履きを隠されたことはないし、教科書に落書きされたこともない。ただ、「空気」があった。お前はここにいていい人間ではない、という無言の圧力。金澤美月の隣にいるお前は、場違いだという空気。
それは目に見えない刃物のようなもので、毎日少しずつ、陽一の皮膚を薄く切り裂いていた。
血は出ない。傷跡も残らない。誰にも見えない。けれど、確実に削られていく。自分という存在の輪郭が、日ごとに薄くなっていく感覚。教室の中で透明になっていく感覚。声を出しても誰の耳にも届かない、そんな夢を何度も見た。




