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第二話3

 道場から帰る道は、いつも同じだった。

 学校の正門を出て、住宅街の坂を下り、桜並木の続く川沿いの遊歩道を歩く。小学校の頃からずっと同じ道を、二人で歩いてきた。春は桜、夏は蝉の声、秋は金木犀の香り、冬は街灯に照らされた白い息。季節ごとに色を変えるその道が、陽一にとっては日常そのものだった。

 七月の夕暮れは遅い。七時を過ぎても西の空はまだオレンジ色に燃えていて、川面がその色を映してゆらゆらと揺れている。夏の匂い。アスファルトの照り返しの余韻が、まだ足元に残っている。川風が運んでくる水草の青臭い匂いと、どこかの家のカレーの匂いが混ざっていた。遊歩道の脇に植えられた紫陽花は盛りを過ぎて、花弁の端が茶色く縮れ始めている。

 部活帰りで二人ともジャージ姿だった。制汗スプレーの匂いが微かにする。美月は竹刀袋を肩にかけ、ポニーテールの毛先が歩くたびに揺れていた。

 美月は、嬉しそうだった。

「ねえ陽一、長谷川先生に言われたんだけど、社会人を含めた一般大会に出てみないかって」

 遊歩道の欄干に手を触れながら、美月は足取りも軽く話した。声のトーンが高い。頬がほんのり上気している。興奮を抑えきれない、という顔だった。街灯の光がまだ灯る前の、夕焼けの中の美月の横顔は、少女というより一人の選手の顔をしていた。

 美月はちらりと陽一の方を見た。その目には純粋な喜びと、それから「一緒に喜んでほしい」という、無言の期待が宿っていた。小学校時代、大会で入賞するたびに二人で喜びを分かち合ってきた。その延長線上に、今の美月はいる。

 小学校の頃なら、陽一は素直に「すげえな」と言えただろう。「大人を含めた大会か、俺も出てやるから待ってろ」くらいのことは言えたかもしれない。二人で切磋琢磨してきた仲間が高みに上がっていく。それを喜べるくらいの器は、持っているつもりだった。

 しかし今、その言葉は喉の奥で固まって、出てこなかった。

 代わりに浮かんできたのは、さっきの地稽古の記憶だった。面を弾かれ、胴を打ち抜かれ、二本とも完封された記憶。立ち上がれなくなった自分の膝の震え。長谷川の称賛の声。道場に満ちた感嘆のざわめき。

 それらが、酸のように胃の中で泡立った。

 口をついたのは、こんな言葉だった。

「お前は、国立にも行くんだろ?」

 美月が首を傾げた。「国立?」

「全国選抜。全中。そんな実績を引っ提げて国立養成所。そういうのに行く人間ってことだよ。・・・俺なんかに構ってる暇、ないだろ」

 自分でも驚くほど、冷たい声だった。言葉が口から出た瞬間、取り返しのつかないものを吐き出してしまった感覚があった。けれど、止められなかった。一度口を開いた水門は、もう閉じられなかった。

 美月の表情が固まった。まるで予想外の方向からボールを投げつけられたような、無防備な驚きの顔。歩いていた足が止まる。サンダルの底がコンクリートの上でキュッと鳴った。

「なに、それ。急にどうしたの」

「急じゃねえよ」

 陽一は立ち止まった。夕焼けが川面に反射して、美月のジャージをオレンジ色に染めている。その光の中に立つ美月は、まるで別世界の住人のように見えた。今日の地稽古の残心の姿と重なる。揺るぎなく、美しく、自分とは決定的に違う何かを持った存在。

「ずっと思ってた。お前はそっちの世界に行く人間だ。俺は・・・違う」

 声が震えた。怒りなのか悲しみなのか、自分でもわからない感情が喉を締め付けている。

「何を言って—」

「俺はいいよ」

 遮った。美月が何かを言おうと口を開いたのが見えたが、陽一はそれを聞く余裕がなかった。聞いてしまったら、自分の中で辛うじて保っている何かが崩れてしまいそうだった。美月が何を言うか、わかっていた。「そんなことない」「陽一だって頑張ってる」「一緒にやろう」。そのどれもが、今の陽一には耐えられない言葉だった。

「俺は、いいから」

 背中を向けた。

 美月が一歩踏み出す気配がした。スニーカーのゴム底が、コンクリートの遊歩道を擦る小さな音。

 手が—美月の手が、陽一の袖口に触れかけた。指先の温度が、生地越しにほんの一瞬だけ伝わった。

 その指先の気配を感じた瞬間、陽一は半ば反射的に腕を引いた。

 触れさせなかった。

 振り返らなかった。

 ただ歩いた。早足で、逃げるように。夕焼けの中を、川沿いの道を、一人で。竹刀袋が背中で揺れるたびに、肩甲骨の間で竹刀がカタカタと音を立てた。

 背後で美月が「陽一」と呼ぶ声が聞こえた。もう一度、「陽一」と。二度目の声は、最初より小さかった。三度目は、なかった。

 聞かないようにした。頭の中で何度も同じ言葉が回っていた。

 俺じゃ、もう無理だ。

 お前の隣に立つことは、もう無理なんだ。

 目の奥が熱かった。成長痛とは違う、もっと深い場所が痛んでいた。胸の真ん中あたりに、焼けた鉄の棒を突き刺されたような痛み。それは物理的な痛みではなく、もっと根源的な、自分という存在が否定されることの痛みだった。

 家に着くまでの十五分間、陽一は一度も振り返らなかった。

 背後に感じていた美月の視線が、いつ消えたのかもわからなかった。


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