第二話2
入学から二週間が経った頃、中学の剣道部に正式入部した。
小学校の少年剣道とはまた異なる厳しさだった。基本稽古の量、素振りの本数、地稽古の密度。顧問の長谷川という三十代の教師は学生時代は県大会の上位常連で、生徒たちに容赦がなかった。「基本ができてない者は試合に出さん」が口癖で、一年生は実績のある陽一でも最初の一ヶ月をひたすら素振りと足さばきの反復に費やした。
板張りの道場は小学校の体育館くらいの広さがあり、壁には都大会の優勝盾が並んでいた。天井は高く、掛け声が反響して何倍にも増幅される。窓の向こうには校庭のイチョウの木が見え、季節とともにその色を変えていくのを、陽一は道場の片隅から眺めていた。
だが、何より陽一を打ちのめしたのは、稽古の厳しさではなかった。
自分の体だった。
春の終わりから夏にかけて、陽一の身長はさらに五センチ以上伸びた。入学時に百六十センチ超だった身長が、一学期の終わりには百七十センチに迫っていた。十センチの急成長。骨が筋肉を追い越し、関節が悲鳴を上げている。膝の成長痛は夜になると鈍く疼き、ときに眠りを妨げるほどだった。朝は手首の腱が強張って竹刀を握るのに時間がかかり、テーピングを巻かないと素振りすらまともにできない日もあった。
それだけではない。
体のバランスが根本的に変わってしまった。小学生の頃、陽一の剣道は「コンパクトできれいな剣戟」が持ち味だった。低い重心から繰り出す鋭い面打ち。相手の出端を捉える鑢のような小手。最小限の振りで最大の効果を出す、職人気質の剣道。師範である美月の祖父のが「お前の持ち味はスピードと正確性だ」と太鼓判を押した、それが陽一の武器だった。
しかし今、急に長くなった手足は、かつての自分のタイミングを完全に狂わせていた。
振りかぶりが大きくなる。腕が長くなった分、竹刀の軌道が遠回りする。踏み込みの幅が安定しない。右足で蹴り出す距離感が毎日変わる。昨日の稽古で掴んだ感覚が、今日にはもうずれている。踵が板張りの床に着地するタイミングが微妙に遅れ、体重移動がぎこちなくなる。かつては無意識にできていた動作の一つ一つに、意識を割かなければならなくなった。
砂の上に家を建てているような、絶え間ない崩壊の感覚。
自宅で素振りをしても、竹刀が壁にぶつかるようになった。振り幅が変わっているのだ。父が「焦るな、体が追いついてくる」と言ったが、その言葉はどこか空虚に響いた。父だってわかっているはずだ。成長期のスランプは、克服できる者とそのまま潰れる者がいることを。
一方で、美月は・・・。
「面あり!」
道場に、審判役を務める長谷川の声が鋭く響いた。
七月の地稽古。部内戦形式で行われるこの稽古は、一年生にとって最初の実力試験のようなものだった。板張りの床は稽古の汗を吸って黒ずんでおり、開け放たれた窓からは夏の夕暮れの熱気が流れ込んでいた。蝉の声が遠くで鳴いている。湿度の高い空気が道場の中にわだかまり、面を被っているだけで汗が滝のように流れ落ちる。防具の内側は蒸し風呂のようだった。籠手の中で指が汗でぬめり、竹刀を握る感覚が曖昧になる。
陽一は竹刀を構えたまま、目の前の光景を凝視していた。
美月が、三年生の女子部員の面を打ち抜いたのだ。
相手は副キャプテンの高橋先輩。身長百六十を超える、体格のいい三年生だった。去年の地区大会でベスト四に入った実力者で、部内では「高橋先輩に一本取れたら一人前」と言われていた。にもかかわらず、美月の面打ちは彼女の竹刀を弾き飛ばすような勢いで、一直線に打ち込まれた。
すり足の音すら、聞こえなかった。
美月の踏み込みは、陽一の記憶にある小学時代のそれとは質が違っていた。一歩が異様に深い。間合いの外から、一瞬で間合いの内側に入ってくる。まるで空間そのものを圧縮するかのように、距離が一拍で消える。竹刀の軌道は最短距離を描き、打突の瞬間に手首が鞭のようにしなって加速する。打った後の残心も完璧だ。竹刀を振り切った姿勢が微動だにしない。
周囲の部員たちが息を呑む気配が、防具越しにも伝わってきた。二十人以上の部員が壁際に正座して見学しているが、誰一人として声を発していない。道場に満ちているのは、蝉の声と、換気扇の低い唸りだけだった。
高橋先輩が面金の奥で目を見開いている。
「・・・すげえ」
隣で見学していた同級生の田中が呟いた。声が掠れている。
その向こうでは、二年生の男子部員が互いに顔を見合わせ、何か囁き合っている。「あれ、本当に一年か」「なんだあの踏み込み」「魔力か?」
陽一は何も答えられなかった。口の中が乾いていた。舌が上顎に貼りついて、唾を飲み込むことすらうまくできない。
美月が残心を解いて、相手に礼をする。防具を外した横顔は汗で光っていたが、息はほとんど上がっていない。頬がうっすらと紅潮しているだけだ。対する高橋先輩は肩で息をしながら、それでも「いい面だった」と短く言って頷いた。
あれは魔力だ。
陽一にはわかっていた。
この世界には、魔力という先天的な力が存在する。すべての人間が持っているが、その量と質には天と地ほどの差がある。日常生活では顕在化しないレベルの微弱な魔力しか持たない者が大半で、それを意識的に身体強化に回せる人間は限られている。スポーツの世界では特に顕著で、魔力による身体強化ができる人間とそうでない人間では、同じ練習をしても到達点がまるで違う。
美月の魔力は、中学に入ってから目に見えて覚醒し始めていた。
踏み込みの深さ。打突の速度。反応のキレ。筋肉の収縮速度や関節の可動域が、普通の人間の物理的限界を超えている。そのすべてに、身体能力だけでは説明できない「何か」が上乗せされている。竹刀を振る速度がまるで大人の男性のそれであり、しかもそこに少女特有のしなやかさが加わっている。それが魔力強化だ。
小学校時代、二人の差は「紙一重」だった。
あの頃の美月にも魔力の片鱗はあった。だが、それは時折垣間見える程度のものだった。十回に一回、異様に鋭い打突が飛んでくる。でも残りの九回は、陽一の技術で対処できた。その九回があったから、「紙一重」が成立していた。
今は十回中十回、魔力が乗っている。
もはや同じ土俵ですらなかった。
「照川、次」
長谷川顧問の声に、陽一は弾かれたように立ち上がった。
「はい!」
面紐を締め直し、竹刀を握る。手の皮が固くなった右手は、それでも微かに震えていた。掌の汗を道着の袴で拭ったが、すぐにまた汗が滲む。
対戦相手は、美月だった。
道場の中央に向かって歩く。板張りの床を踏む裸足の感触が、いつもより冷たく感じた。真夏なのに。
面金越しに、美月の瞳と目が合った。澄んだ黒い目。何の曇りもない、まっすぐな目。
その目に、一瞬だけ何かがよぎった気がした。戸惑い、だろうか。あるいは遠慮。幼馴染と公式の場で対戦することへの、微かな躊躇い。
だが、それはすぐに消えた。面金の奥の瞳が、剣士のそれに切り替わった。
来る。
蹲踞から立ち上がり、中段に構える。竹刀の先端同士が交差する。竹の繊維が触れ合う微かな振動が、手首を伝って脳に届く。剣先にかかる相手の圧力を感じ取る。美月の剣先は驚くほど静かだった。微動だにしない。まるで水面に浮かぶ枯葉のように、力みがない。
対して陽一の剣先は、わずかに震えていた。
陽一は、右足をじりと前に出した。攻めの構えだ。小学校時代なら、ここから出端の小手を狙う。相手が面に来る瞬間の、ほんの一瞬の隙を突く。それが陽一の得意技だった。タイミングの読み合いで勝負する、職人の技。
しかし。
美月が動いた。
いや、「動いた」という表現が正しいのかすらわからない。彼女の体が前方に跳んだ。跳んだ、というより、射出された。かかとが板を蹴る音が一瞬遅れて聞こえた気がした。陽一がそれを認識した時には、もう竹刀が頭上に振り上げられていた。
反射的に竹刀を上げる。防ごうとした。しかし腕の伸びが追いつかない。成長痛で強張った右肘が、コンマ数秒の遅れを生む。以前なら反射で間に合っていたはずの動作が、長くなった腕のせいでほんのわずか遅れる。そのほんのわずかが致命的だった。
竹刀が交差する。しのぎ同士がぶつかる甲高い金属音。竹と竹がぶつかる衝撃が、握りしめた手のひらを痺れさせた。
弾かれた。
陽一の竹刀が、力負けして左に流される。その隙間を縫うように、美月の竹刀が滑り込んでくる。軌道を変えたのではない。最初からこのルートを見越していたかのように、正確に、陽一の面へ打たれた。
面金に竹刀が叩きつけられる衝撃が、頭蓋骨を通じて脳に響く。視界が一瞬白くなった。耳の奥でキーンという高音が残響する。首が揺れ、バランスを崩しかけた。
「一本!」
長谷川の声が響く。
陽一はよろめいた。両足の裏が板張りの床を探るように滑る。踏ん張れない。足の裏の感覚すら、長くなった脛のせいで頼りない。以前は地面を掴むようにして立てていた裸足が、今はただ床の上を滑っている。
蹲踞。礼。再び構え。
二本目。
今度は陽一から攻めた。気合の声を腹の底から絞り出し、正面から面を打ちに行く。守りに回っていては勝機はない。純粋な速度なら、こちらにもまだ可能性がある。身長が伸びた分、リーチは以前よりある。それを活かせれば。一縷の望みに賭けた。
踏み込む。右足が床を叩く。竹刀を振り下ろす。全身の力を一点に集中させる。かつての自分なら、この一撃は相手の防御をこじ開ける威力があった。
だが。
振り遅れた。
竹刀の軌道が、自分の頭の中にあるイメージより明らかに遅い。長くなった腕が、空気を掴むように空を切る。手首の返しが追いつかない。体の中にある「陽一の剣道」のプログラムは、百六十センチの体用に書かれている。百七十センチの体では、すべてのタイミングが狂う。速く振っているつもりなのに、竹刀が遅れてくる。脳が命令を出してから筋肉が反応するまでの、ほんの数ミリ秒のずれ。それが積み重なって、打突の瞬間には致命的な遅延になる。
美月は半歩だけ退いて、陽一の面打ちをすっと躱した。紙一重いや、余裕ですらあった。陽一の竹刀が空を斬る風圧が美月の面紐を揺らしたが、打突は面金に触れてすらいない。
そしてそのまま返し胴。
抜き胴ではない。陽一の竹刀が空を切った直後、その軌道の下をくぐるようにして、美月の竹刀が陽一の右胴を正確に捉えた。陽一が打ちにいった力がそのまま前方に流れ、がら空きになった右脇腹に、美月の一撃が吸い込まれるように入った。
ばしん、と乾いた音。
衝撃が肋骨を震わせる。防具越しでも、息が止まるほどの一撃だった。胴の中で内臓が揺れる感覚。一瞬、酸素が肺から押し出されて、呼吸ができなくなった。
「胴あり! 二本、勝負あり!」
長谷川の声が、道場の壁に反響して消えた。
陽一は蹲踞したまま、しばらく動けなかった。膝の裏が震えている。立ち上がる力が足に残っていなかった。
視界の端で、美月が面を外す姿が見えた。額に薄い汗。呼吸はほぼ平常。頬に赤みが差しているが、それは疲労というより高揚の色だ。
対して陽一は、肩で息をしていた。心臓が耳元で暴れている。手のひらの汗で竹刀がぬるぬると滑る。面の中の空気が熱くて、自分の吐いた息で窒息しそうだった。面の内側に溜まった汗が顎を伝って首筋に流れ落ちる。
美月がこちらを見た。面金越しではなく、素顔で。その瞳に浮かんでいたのは勝者の誇りではなかった。何か別のもの。痛みに似た、複雑な光。
だが陽一は、その視線を受け止める余裕がなかった。
「金澤はすごいな」
長谷川が、他の部員たちに向かって言った。称賛の言葉。当然の評価。腕を組み、満足げに頷いている。
「あの踏み込みは、中学生のレベルじゃない。魔力の身体強化がこの年齢でここまで連動するのは珍しい。高校からは魔力制限で出られないかもしれないから中学で頂点を取ろう」
周囲がざわめく。道場中が感嘆の空気で満たされた。
その空気の中で、陽一だけが沈んでいた。
黙って面を外した。汗が目に入って、しみた。視界が滲んで、道場の天井がぐにゃりと歪んだ。泣いているわけではない。汗と、面の圧迫で充血した目が、ただ滲んでいるだけだ。そう自分に言い聞かせた。
紙一重だったのに。
小学校の頃は、いつだって紙一重だった。勝ったり負けたりを繰り返して、でもどちらが勝ってもおかしくないと周囲に言われるくらいの、拮抗した関係。それが二人の間にあったものだ。試合の後に「次は負けないからな」と笑い合える、対等な関係。
今は紙一重ですらない。
面を打つことすら、許されなかった。




