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第二話1

 四月の風が、真新しいブレザーの襟を揺らしていた。

 区立第三中学校の正門前に立ち、まだ糊の効いた袖口に視線を落とした。この春だけで身長が五センチ以上伸びた。採寸のときにはちょうどよかったはずなのに、入学式を迎える頃にはもう袖が丁度よくなっている。

 成長痛、と母の茉莉は笑った。大きくなるのはいいことよ、と。

 けれど陽一にとって、急激に伸びた手足は制御不能の異物でしかなかった。階段を上がるたびに膝の裏が軋む。箸を持つ指先の感覚すら、半年前とは微妙にずれている。まるで誰かの体を借りて動かしているような、据わりの悪い違和感が常にあった。朝起き上がるたびに、自分の輪郭が昨日とは違っている。伸びた骨に筋肉が追いつかず、関節がぎしぎしと文句を言う。夜中に脛が痛くて目が覚めることも、もう何度あったかわからない。

 まあ、でも。

 中学だ。新しい始まりだ。

 小学校では美月に追いつけなかった。全国準優勝。上には上がいると美月は笑っていたが、こちらは全国大会にすら届かなかった。東京大会の決勝戦で敗れたあの日から、ずっと喉に刺さっていた小骨のような悔しさを、この三年間で溶かしてしまおう。そう思っていた。中学で体が大きくなれば、リーチも伸びる。体力もつく。新しい環境で、新しい自分を作り直せるはずだ。

 桜の花弁が風に乗って、校庭のアスファルトの上を白く転がっていく。陽一は深く息を吸い込んだ。春特有の、土と若葉が混じったあの匂い。新しい教科書のインクと、上履きのゴムの匂い。校舎の壁に染みついた年月の匂い。何もかもが始まりの匂いだった。正門の両脇に植えられた桜が七分咲きで、薄桃色の花弁がまるで紙吹雪のように風に舞っている。新入生たちが親に連れられて次々と正門をくぐっていく。革靴の硬い足音、新品のカバンの留め具がかちゃかちゃ鳴る音、母親たちの華やいだ話し声。

「陽一」

 背後から、澄んだ声。

 振り返ると、金澤美月がいた。同じ中学の女子用ブレザーに身を包み、少しだけ伸ばした黒髪を耳の後ろに流している。小学生の頃のショートカットから変わったその髪が、春風にさらりと揺れた。ブレザーの胸元に赤いリボンタイ。スカートの丈は膝上五センチほどで、紺色のハイソックスが真新しい。

「やっぱり同じクラスだったね。名簿見た?」

 美月は嬉しそうに笑って、陽一の隣に並んだ。その目は相変わらず、底の見えない深い湖のように澄んでいた。小学校の頃と変わらない、まっすぐな視線。ただ、どこかに以前にはなかった大人びた翳りが宿っている気もする。成長しているのは、自分だけではない。

「ああ、見た」

 陽一は短く答えた。本当は、名簿を見たとき少しだけ安堵したのだ。同じ小学校から進学したのは学年の三分の一程度だが、金澤美月という小学時代からの特別がいるということ。それだけで、新しい環境への不安が幾分か和らいだ。初めて入る校舎、知らない同級生たち、見たこともない教師たち。そんな中で、美月の存在は確かな地面のようなものだった。

「剣道部、もう見学した? 道場が広いんだって」

 美月は歩きながら、まるで遠足の計画を話すように弾んだ声で言った。目がきらきらしている。新しい道場への期待が、全身から溢れ出ていた。

「ああ……まだ」

「じゃあ放課後、一緒に見に行こうよ。先輩たちの稽古も見られるかもしれないし」

 その「一緒に」という言葉の響きが、あの頃はまだ、あたたかかった。

 二人は並んで正門をくぐった。桜の花弁が二人の肩に降りかかり、風が校舎の間を吹き抜けて、美月の髪がふわりと陽一の視界を横切った。シャンプーの残り香が、春の空気に一瞬だけ混ざった。

 入学式の日。何もかもが新しく、何もかもが可能に思えた、最後の日だった。


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