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第一話4

 季節は巡り、時は流れた。

 朝の通学路に春の桜が散り、夏の蝉時雨が降り注ぎ、秋の金木犀が香り、冬の北風が頬を刺す。その繰り返しを何度も経て、陽一は小学校の高学年になっていた。

 五年生の秋。

 道場での稽古は相変わらず続いていた。だが、そこに微かな変化が生じ始めていたことに、陽一自身はまだ気づいていなかった。


 最初の兆候は、些細なものだった。


 ある稽古の日のことだ。いつものように陽一と美月が竹刀を打ち合っていた。この頃になると二人の技量は目に見えて上がっており、打ち合いの速度も密度も小学四年生の頃とは比較にならない。陽一はパワーで押す戦い方に磨きをかけ、美月はスピードと読みで翻弄する戦い方をさらに洗練させていた。

 鍛錬の蓄積が、二人の剣をそれぞれの方向へ研ぎ澄ましていた。


 その日、美月が踏み込んだ瞬間だった。

 陽一は竹刀を振り上げて迎撃しようとした。いつもなら、美月の踏み込みの軌道は正確に読める。

 だが、この日の美月は違った。

 踏み込みの一歩目が、異常に速い。

 速いというだけではない。何かが、おかしい。

 陽一の目が美月の足元を捉えた時、彼は一瞬だけ理解の及ばないものを見た気がした。美月の足裏が板張りの床に触れる刹那、床との間にごく僅かな、本当にごく僅かな「隙間」があるように見えたのだ。まるで、空気のクッションの上を滑っているかのような。

 竹刀を打ち合う前に、美月の切っ先は陽一の面に触れていた。


「……っ!」


 陽一は一歩退いた。今のは、読みの問題ではなかった。美月の動き自体が、物理法則を一段踏み越えたような速度を帯びていた。


「美月、今の……すごく速かったな」

「え? そう? いつもと同じだけど」


 美月自身が首をかしげている。自覚がないのだ。


 その稽古を、道場の隅で見ていた人物がいた。

 陽一の父、孝三郎だった。

 その日は珍しく仕事が早く終わり、子供たちを迎えに来ると道場の入口に立ったまま、腕を組みじっと二人の稽古を見つめていた。

 孝三郎の目は、陽一ではなく美月に釘付けになっていた。

 元冒険者としての経験が、理性よりも先に警鐘を鳴らしていた。あの動き。あの速度変化。筋力や技術だけでは説明がつかない「何か」が、十歳の少女の身体に宿り始めている。

 孝三郎はそれが何であるかを知っていた。

 魔力マナだ。

 魔力の最も原初的な発露。身体強化の無意識的な発動。

 冒険者として現役だった頃、孝三郎は常に魔力を纏って敵を屠る冒険者を見てきたし、自分でも少ないながら魔力を使ってきた。だが、美月のものは異なっていた。10歳そこらで他人にわかるような魔力が発動することはほとんどない。

 壁にもたれ掛かりながら、孝三郎は頭の中で優秀な覚醒者の言葉を探った。才能のある人間が思春期に差しかかる頃、身体に眠っていた魔力が覚醒し始める。最初は自覚もなく、ただ身体能力の不自然な向上として現れる。足が速くなる。反応が鋭くなる。疲れにくくなる。どこかのインタビューでそんなことを言っていた気がする。


 稽古が終わり、子供たちが道場の片付けをしている間に、孝三郎は縁側で一人、煙草に火をつけた。普段は家族の前では吸わないが、今日は手が求めた。

 紫煙が夕暮れの空に溶けていく。


 金澤の家は、橘家と縁があった。

 金澤美月の曾祖母が橘家の傍流の出身であったという今では確かめようのない話。直系ではない。だが「一文字」の血は、たとえ細くなっても、たとえ何代を経ても、時に突然色濃く発現することがある。隔世遺伝のように。予告なく。

 孝三郎はそのことを、美月が生まれた時から知っていた。知っていて、しかし気にしないようにしていた。発現しない者の方が多い。確率で言えば十に一つ、いや百に一つかもしれない。だから、陽一と美月が仲良く剣を振り、同じ夢を語る姿を、ただ微笑ましく見守ることができた。

 だが今日、それを見てしまった。

 美月の足元に、肉眼では捉えられないほど微かな、しかし孝三郎の元冒険者としての感覚には確かに触れた「魔力マナ」の兆候。まだ焔とすら呼べない、種火にすら至らない、本当にかすかな温度の揺らぎ。空気の密度がほんの僅かに変わる、あの感覚。

 ダンジョンの深層で高位の魔物に遭遇した時に全身の産毛が逆立つ、あの感覚と同じ種類のものが、十歳の少女から放たれていた。


 孝三郎は煙草を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。


 元冒険者であった父から見ても、陽一には才能がある。体格に恵まれ、度胸がある。剣の筋もいい。フリーの探索者としてならば、いずれ食っていける程度の実力はつくだろう。息子を誇りに思っているのは嘘ではない。

 だが、すぐ隣に異質に輝き始めた者がいれば・・・その光が強くなればなるほど、隣に立つ者の影は濃くなる。

 「才能がある」と「天才」の間にある溝は、努力では越えられない。それは孝三郎自身が現役時代に痛感したことだった。自分もそこそこ腕は立った。パーティーの中では頼りにされた。だが、ある日出会った橘家の術師が放った魔力の奔流を見た時、自分の十年間の鍛練が何だったのかを思い知らされた。

 あの時の、地面が抜けるような感覚。自分という存在が世界の法則によって定められた上限に頭をぶつけた時の、あの息苦しさ。

 それを息子にも味わわせることになるのか。


 孝三郎は左腕の傷跡を無意識に撫でた。引き攣れた皮膚の感触が、指先に伝わる。この傷は、自分の限界を超えようとして無茶をした結果の勲章だ。あるいは、無謀の代償だ。


「父さん、何してんの? 早く帰ろうよ」


 陽一の声が、物思いを断ち切った。

 振り返れば、竹刀袋を肩に担いだ息子が、美月と陽菜を従えて立っている。夕日を背にした三人のシルエットが、道場の板張りの上に長く伸びている。陽一が真ん中、右に美月、左に陽菜。まるで冒険者パーティーの集合写真のような構図だった。

 孝三郎は煙草を携帯灰皿に押し込み、立ち上がった。


「ああ、帰るか。茉莉がカレー作って待ってるからな」

「やったー! カレー!」


 陽菜が飛び跳ねる。美月が「うちも今日カレーだったりして」と笑う。陽一が「じゃあ美月もうちで食べてけよ」と誘う。子供たちの声が交差し、夕暮れの住宅街に響いていく。


 孝三郎はその後ろ姿を見ながら歩いた。

 三人の影が道路の上で重なったり離れたりする。まだ同じ速度で、同じ地面の上を歩いている。いつまで同じ速度でいられるだろう。



 帰宅後、子供たちが寝静まった後。

 孝三郎は寝室で茉莉に、今日見たことを話した。


「……美月ちゃんが?」


 茉莉の表情が、一瞬だけ強張った。元斥候としての彼女もまた、その意味を即座に理解していた。


「まだ断定はできない。だが、あの動きは普通じゃなかった。金澤の家は、何代か前に橘家と縁があった。もし、あの子にその血が発現しているなら……」


 孝三郎は言葉を切った。続きを言う必要はなかった。茉莉にはわかっている。


 沈黙が落ちた。寝室の窓から差し込む月明かりが、二人の間に白い橋を架けていた。

「……陽一にとっては、酷な未来になるかもしれない」


 孝三郎が、搾り出すように言った。


 茉莉はしばらく何も答えなかった。

 ベッドサイドの小さなライトだけが灯る寝室で、時計の秒針が規則正しく刻む音だけが二人の間を流れていた。それから、茉莉は夫の左腕の傷跡にそっと指先を添えた。引き攣れた皮膚の上を、細い指がなぞる。

 この傷跡の物語を、茉莉は知っている。パーティーを組んでいた頃、第四ダンジョンの二十三階層で、孝三郎が格上の魔物から茉莉を庇った時にできた傷だ。あの日、孝三郎は自分の限界を知りながら、それでも前に出て腕に傷を負った。

 孝三郎が冒険者を引退したのは、それから半年後のことだった。


「あなたは、自分と重ねてるのよ」


 茉莉が静かに言った。


「美月ちゃんに橘の血が発現しているとして。それが陽一にとって残酷だとしても――それはあなた自身の経験を陽一に投影しているだけかもしれない」

「……」

「私はね、陽一を信じてるの。あの子には、才能の差を前にしても折れない何かがある。あなたとは違う道を見つけるかもしれない」


 その言葉に、孝三郎は少し目を見開いた。


「俺とは違う道、か」

「そう。私たちが想像もつかないような道をね。子供って、そういうものでしょう」


 茉莉はそう言って、ふっと微笑んだ。それは母親としての顔でもあり、かつて幾度も死線を潜り抜けた元斥候としての、現実を見据えた上での楽観でもあった。斥候とは、最悪を想定しつつも前に進むことを選ぶ者だ。


「まだ、わからないわ」


 茉莉がもう一度、今度はしっかりと言った。その声は、朝の食卓で子供たちに向けるような明るさではなかったが、確かな芯があった。


「子供たちには子供たちの未来がある。私たちが先回りして決めつけることじゃないわ」

「……そうだな」


 孝三郎はうなずいた。ただ、妻の言葉に救われたような気もしたし、問題を先送りにしているだけのような気もした。


 窓の外で、風が木の枝を揺らす音がした。季節は秋の深まりに向かっており、夜気は日に日に冷たさを増していた。庭先の柿の木が、最後の実を重そうにぶら下げている。やがてそれも落ち、枝は裸になり、冬が来る。そしてまた春が来て子供たちはまた少し大きくなる。

 その成長のどこかで、残酷な現実が牙を剥く。孝三郎にはその時期の見当がついていた。だが今夜のところは、茉莉の言葉を信じることにした。


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