第一話2
照川家の玄関を出ると住宅街の細い路地には夕方の光がべったりと張りついていた。アスファルトに残った昼間の熱気がじわじわと立ち上り、運動靴の底を通して足裏に伝わってくる。近所の家の庭先ではまだ水撒きの水が乾ききらずに光っていた。
陽一は竹刀袋を肩に担ぎ、陽菜の手を引いて歩いていた。妹はもう片方の手におもちゃのステッキを握りしめ、アスファルトの上の白線だけを踏んで歩くという自分ルールに夢中になっている。
「おにーちゃん、はやい! 白いとこしか踏んじゃだめなの!」
「早くしないと美月ちゃんに先に着かれるぞ」
「むー・・・」
二つ目の角を曲がったところで見慣れた背中が目に入った。
金澤美月が道場の前の古い自動販売機に寄りかかって待っていた。こちらも竹刀袋を肩にかけ、その下にはスポーツバッグを提げている。学校の制服からジャージに着替え済みで、ポニーテールの黒髪がゴムで高い位置にまとめられていた。
こちらに気づくと、ぱっと顔を上げた。
「遅い。三分遅刻」
「陽菜が白線踏みゲームしてたから・・・」
「言い訳しない。冒険者は時間に正確じゃなきゃダメって、おじいちゃんが言ってた」
美月はそう言いながらもしゃがんで陽菜と目線を合わせた。
「ひなちゃん、今日も見学?」
「うん! 美月ちゃんの必殺技みるの!」
「必殺技ね・・・じゃあ今日は特別にかっこいいの見せてあげる」
美月がにっと笑うと、陽菜はきゃあっと歓声を上げた。
三人で道場の引き戸を開ける。ガラガラと重い音を立てて横にずれる木の戸。その向こうに広がるのが二人の、いや三人の放課後の世界だった。
照川家から歩いて五分ほどの場所にある、古びた剣道場。角を二つ曲がった先に、その道場はあった。
『金澤道場』。
とは言っても看板は何年も前から色褪せ、「金」の字の最後の画がほとんど消えかけている。木造平屋の建物は築六十年を優に超えており、屋根瓦はところどころ苔むして、外壁の板張りには風雨に晒された年輪が浮き出ている。
だが、ひとたびその引き戸を開ければ、磨き込まれた板張りの床が夕方の残照を受けて飴色に光っていた。
古い木と汗と、それから微かな蝋の匂い。
道場に漂う空気は独特だった。何十年分もの稽古の記憶が板の目に染み込んで、それが温められるたびにじわりと立ち上ってくるような、言葉にしがたい匂い。普通の空間にはない、人間の営みの歴史が堆積した匂いだ。
陽一は物心ついた頃からこの匂いを知っていた。美月の祖父がまだ健在だった頃からこの道場は二人の遊び場だった。本来は剣道場だが、「冒険者としての基礎体力と反射神経を鍛えるには剣道が最適だ」という孝三郎の方針で陽一は幼い頃から竹刀を握らされてきた。美月は美月で金澤家に伝わる剣の型を祖父から叩き込まれていた。
結果として、二人の放課後はいつもここで交差した。
「―せいっ!」
竹刀が空を裂く。
陽一の振り下ろしだった。体重を乗せた面打ち。小学四年生の体格にしては重い一撃が、美月の頭上めがけて落ちていく。
竹刀同士がぶつかる甲高い音が、天井の梁に跳ね返って道場全体に響き渡った。バヂッ、という衝撃音。それは木と竹が生み出す音というよりも、何かもっと硬質な、金属を叩いたような鋭い音だった。
「あまいっ、陽一!」
受け止めた美月の声が鋭く返ってくる。
正面からの力比べなら体格で勝る陽一の方が有利だ。だが美月はそれを知っている。受け止めた竹刀を真正面で押し返すのではなく、刃筋を斜めにすらして力の方向を逸らした。陽一の竹刀が重力に引かれて流れる。その一瞬の体勢の崩れを突いて、美月の竹刀がするりと滑り込んできた。
「胴っ!」
乾いた打突音。美月の竹刀が陽一の右胴を捉えていた。
力ではない。角度と、タイミングと、それから何よりも「読み」の勝利だった。
「くっ・・・! もう一本!」
陽一は悔しそうに唇を噛んだが、目は笑っていた。負けるのは嫌いだが、美月に負けるのは嫌いではない。なぜなら、そのたびに自分が次に何をすべきかが見えるからだ。美月はいつだって陽一の一歩先にいて、その背中で「こっちだよ」と道を示してくれる存在だった。
構え直す。足幅を少し広く取り、重心を落とした。さっきは上段に構えすぎた。パワーに頼った打ち下ろしは美月には通じない。
美月もまた正眼に構え直していた。額に薄く汗が滲み、道着の襟元が呼吸に合わせて僅かに上下している。ポニーテールに纏めた黒髪の先から、汗の粒がぽたりと床に落ちた。
「今度は突っ込んでこないんだ?」
美月が薄く笑う。挑発だった。勝気な瞳が陽一を真っ直ぐに見据えている。
「学習したんだよ!」
今度は陽一からは仕掛けなかった。中段の構えを保ったままじりじりと間合いを詰める。一歩、半歩、さらに四分の一歩。板張りの床を素足が擦る微かな音だけが、道場に響く。
先に動いたのは美月だった。
踏み込みからの小手打ち。速い。彼女の得意技だ。手首のスナップだけで竹刀を走らせる技術は、同年代では頭ひとつ抜けている。
だが、陽一は待っていた。
美月の踏み込みの音が鳴った瞬間、陽一は半身をずらしながら竹刀を跳ね上げた。力任せではなく、美月が教えてくれた「最小の動きで最大の効果」を自分なりに解釈した動き。美月の小手打ちが空を叩く。体が流れた美月の横を陽一がすれ違いざまに
「面っ!」
今度は陽一の竹刀が美月の面を捉えた。
美月の目が一瞬見開かれ、それからすぐに悔しそうに、しかしどこか嬉しそうに歪んだ。
「……やるじゃない」
「へへ、一本返した」
「でもまだ一対一よ。次で決める」
構え直す二人の間に心地よい緊張感が張り詰める。
汗の匂い。板張りの床に反射する夕日のオレンジ。竹刀を握る手のひらにじんわりと残る打突の痺れ。道場の隅に掛けられた古い額縁の中で、『剣心一如』の文字が墨の黒々とした筆致で二人を見守っている。
「がんばれー! おにーちゃんがんばれー! 美月ちゃんもがんばれー!」
道場の端、壁際に正座して(正確には正座を試みて三十秒で崩れて体育座りになって)いた陽菜が、両手をぶんぶん振って声援を送っていた。膝の上にはおもちゃのステッキが置いてある。お兄ちゃんと美月ちゃんの稽古を「見学」するのが、陽菜の放課後の日課だった。
もっとも、六歳児に二人の剣技の機微が分かるはずもなく、陽菜が見ているのはもっと単純なものだった。お兄ちゃんと美月ちゃんが一生懸命な姿。それがかっこいいということ。自分もいつかああなりたいということ。ただそれだけの、まっすぐな憧憬。
稽古の後、三人は道場の縁側に腰掛けて茉莉が持たせてくれた麦茶を飲んだ。
保冷バッグから取り出した水筒の麦茶は、汗をかいた体に染み渡るように冷たかった。美月はプラスチックのコップを両手で持ち、ふうっと息を吐いてから一口飲む。陽一はキャップに直接口をつけてごくごくと一気に飲み干す。陽菜は自分専用の小さなストロー付きボトルを、ちゅうちゅうと音を立てて吸っていた。
夕暮れの空はオレンジから薄紫へのグラデーションを描いていた。道場の裏手にある老桜の枝が、まだ葉をつけたままシルエットになって空に溶けている。秋の虫が鳴き始める少し前の空気が急速に冷えていく時間帯。汗に濡れた道着が肌に張りつく感覚が、不思議と心地よかった。
美月が右手を開いて見せた。掌の付け根と指の腹に竹刀を握り続けてできた固いマメがいくつもできている。皮が破れかけているものもあり、赤くなった皮膚がひりひりと痛むはずだった。けれど美月はそれを誇らしげに見つめていた。
「また増えた」
「痛くないの?」
「痛いよ。でも、これが強くなってる証拠だから」
陽一も自分の掌を開いた。同じようにマメができている。美月ほど多くはないが、竹刀を毎日握っている証拠がちゃんとそこにある。
「俺も」
「うん。陽一のマメも立派になったね」
美月がふっと笑った。勝気な稽古中の顔とは違う、年相応の穏やかな表情だった。
「ねえ、陽一。私たち、国立の養成学校に行ったらさ」
「うん」
「パーティー、組むでしょ?」
「当然。約束したじゃん」
陽一は何でもないことのように言った。朝ごはんを食べるのと同じくらい、当たり前の未来として。
「私が前衛。陽一は遊撃。それでいい?」
美月は真剣な目で陽一を見た。彼女にとってそれは遊びの延長ではなかった。一度口にした約束は守る。そういう性格の子だった。
「いいよ。美月が正面の敵を止めて、俺が横から叩く。完璧じゃん」
「完璧って言い切るところが陽一らしいね」
「だって本当のことだし」
美月が口の端を持ち上げて笑った。それから、少しだけ躊躇うように視線を落として手を差し出した。
「じゃあ、約束。指切りして」
「え、指切りって。小学生かよ」
「小学生でしょ、私たち」
至極もっともな返答に、陽一は「そりゃそうだ」と笑って自分の小指を差し出した。
小さな指と指が絡まる。マメだらけの、硬くなった指先同士が触れ合った。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます」
二人の声が重なる。子供の声は高く、澄んでいて、夕暮れの空気の中をどこまでも飛んでいきそうだった。
「指切った!」
ぱっと指が離れる。
その瞬間、横から小さな手がぐいっと割り込んできた。
「ひなも! ひなもやくそくする!」
陽菜が両方の小指を突き出して、兄と美月に交互に見せている。
「いいよ、ひな。おいで」
美月が微笑んで陽菜の小指に自分の小指を絡めた。陽一もそれに続く。三人の小さな指が、夕焼け空の下で結ばれた。
「じゃあ、約束だからね。三人で、最強のパーティーになるの」
美月が言うと、陽菜がうんうんと首を縦に振った。
「ひなはこうえい! おにーちゃんと美月ちゃんに、うしろから魔法かけるの!」
「魔法って、ひなまだ何もできないじゃん」
「これからできるようになるもん!」
陽菜がおもちゃのステッキを振り上げる。先端のハート型のプラスチックが、夕日を受けてきらりと光った。
この日の約束を、陽一は絶対に忘れないだろうと思った。
一生忘れないだろうと。




