第三話4
四日目の朝。
最初に感じたのは、光の温度だった。
カーテンの隙間から差し込む冬の陽光。十二月の朝日は力が弱く、白っぽい光がベッドの上に細い帯を作っている。その帯が陽一の左手の甲を照らしていた。微かな温もり。ほんの少しだけ肌がぬくい。
次に感じたのは汗だった。
パジャマが絞れるほど濡れている。シーツも枕も湿っていて、身体の下に水溜まりができたように冷たい。三日間の高熱が搾り出した汗が、寝具を完全に浸していた。
そして—頭痛がなかった。
三日間ずっと頭蓋の内側を圧迫し続けていた、あの脈動。それが嘘のように消えている。代わりに残っているのは、奇妙な静けさだった。嵐が過ぎ去った後のような、澄み切った空白。
身体を起こした。
腕に力を入れると、三日間の病臥で筋肉が削げ落ちたように頼りない。だが、起き上がることはできた。ベッドの縁に座り足を床につける。フローリングの冷たさが足裏に染みて、鮮明な覚醒をもたらした。
体温計を手に取る。脇に挟んで十秒。
電子音。三十六度八分。平熱だった。
身体は軽い。四十度近い高熱が三日間続いた後とは思えないほどすっきりしている。魔力暴走の嵐が過ぎ去り、体内の魔力が新たな均衡点に落ち着いたのだろう。茉莉の見立て通りだった。
だが、頭の中は軽くなかった。
いや、正確に言えば「軽い」のだ。思考は驚くほどクリアで、視界は鮮明で、五感のすべてが研ぎ澄まされている。問題は、そのクリアな頭脳の中にあり得ないはずの情報がぎっしりと詰まっていることだった。
夢の内容を、陽一は一字一句覚えていた。
あれは夢ではない。
モニターの光。コントローラーを握る青年。RPGのプレイ画面。攻略サイトの文字列。キャラクター一覧。隠し要素のデータ。
すべてが、写真のように鮮明に脳裏に刻まれている。
陽一は窓の外を見た。
冬枯れの街並み。灰色の曇天の下、向かいの家の屋根に霜が降りている。電柱の上にカラスが一羽止まっている。遠くでサイレンの音が聞こえる。いつもの、何の変哲もない朝の風景。
だがその風景が、今は違って見えた。
すべてが「設計されたもの」に見える。
電柱の配置も、家々の並びも、空の色も。誰かがパラメータを設定し、テクスチャを貼り、ライティングを調整した、そんな馬鹿げた感覚。
(・・・嘘だろ)
感情が追いつかなかった。恐怖でもなく、驚きでもなく、ただ「理解が追いつかない」という空白が胸の中に広がっている。
陽一はスマホを片手にベッドから立ち上がり、勉強机に向かった。引き出しを開けて、長いこと使っていなかったノートとペンを取り出し、椅子に座る。ペンのキャップを外す手が震えていた。
まず、五大華族。
橘、皇、扇、澄、冑。
ゲームの設定画面に表示されていた五つの名。それぞれの役割ー武の橘、智の皇、雅の扇、命の澄、地の冑。
陽一はペンを止め、記憶を探った。父がかつて食卓で話していた内容。テレビのニュースで見た報道。学校の教科書に載っていた歴史。
橘家。最大の戦闘系覚醒者を輩出する武門の名家。ダンジョン攻略の最前線を担う。
皇家。覚醒者の育成と学術研究を統括する一族。国立養成学校の設立にも深く関与している。
扇家。芸能と情報を司り、メディアと政界に強い影響力を持つ。
澄家。回復魔法と医療を一手に引き受ける一族。ポーション市場の七割を掌握。
冑家。ダンジョン管理と資源採掘を統括。覚醒者ギルドの運営母体。
書いた情報とネット検索で出てきた情報を照らし合わせる。・・・一致。
すべて、一致している。
次に、ダンジョン。
ゲームの中で描かれていたダンジョンの階層構造。浅層は低ランクの魔物が徘徊し、覚醒者の訓練場として利用される。中層から危険度が跳ね上がり、深層は国家規模の攻略チームでなければ踏破できない。最深部に至ってはー。
その構造も、ゲームの設定と完全に一致していた。
陽一のペンが止まった。
額に冷や汗が浮かぶ。
一つや二つの一致なら、偶然で片付けられる。だが、これだけの要素がすべて噛み合うのは—。
スマホをスワイプしてニュースサイトに移動した。
『橘家の当主、橘征一郎氏来年度の深層攻略計画について明かす」
橘征一郎。
ゲームの序盤に登場する名前だった。主人公の前に立ちはだかる壁として描かれる、橘家当主の息子の父親。
別の記事。
『厚労省、澄メディカルグループの新型ポーションを正式認可』
澄。メディカル。ポーション。
ゲームの中で、プレイヤーが序盤から終盤まで世話になる回復アイテムの供給元。
スマホをベッドに放り投げた。その手は小刻みに震えていた。
恐怖ではなかった。
少なくとも、純粋な恐怖ではなかった。陽一の中で渦巻いていたのは、もっと複雑で、もっと冷たい感情だった。
高熱に浮かされた三日間の前から、陽一はすでに絶望の底にいた。才能の壁にぶつかり、学校に行けなくなり、自室に閉じこもる日々。自分は何者にもなれないという無力感。その暗闇の中で、さらに深い深淵が口を開けた。
この世界はゲームだ。
自分はそのゲームのモブですらない、「存在しないキャラクター」だ。
物語に名前がない。役割がない。出番がない。ストーリーのどの分岐にも、「照川陽一」という存在は組み込まれていない。
三ヶ月の不登校で摩耗した精神が、この情報の重さに耐えられるはずがない。悲嘆に暮れるか、現実逃避するか、あるいは狂気に飲まれるか。どれでもおかしくなかった。
だが、陽一の頭脳は、違う方向に動いた。
不登校の三ヶ月間、陽一は何もしていなかったわけではない。
布団の中で天井を見つめながらひたすら考えていた。自分には才能がない。努力では埋められない壁がある。それでも生きていかなければならない。ならば、どうすれば。
答えは出なかった。だが、「考える」という行為だけは止めなかった。三ヶ月間、毎日十何時間も、ただ思考だけを回し続けた。その経験が、陽一の脳に一つの習性を刻み込んでいた。
感情を切り離して、事実だけを見る。
事実を分析して、選択肢を洗い出す。
選択肢の中から、最も生存確率の高いものを選ぶ。
陽一はノートの新しいページを開き、ペンを握る。震えは、まだ止まっていない。
・この世界はゲームの世界と酷似している(同一である可能性が高い)。
・自分(照川陽一)はゲームに登場しないキャラクターである。
・美月はゲームのメインキャラクター(ネームド)である。
・ゲームには「主人公」が存在し、養成学校編から物語が始まる。
・主人公が養成学校に入学するのは高校一年の春。現在から猶予は約二年。
猶予。何の猶予か。
ゲームのストーリーが進行すれば、世界は動き出す。主人公を中心に事件が起き、ダンジョンの深層で異変が生じ、やがて世界規模の危機が訪れる。ゲームの中ではプレイヤーが主人公を操作して危機を乗り越える。だがこの世界では、いや現実ではだれしもが生身の人間で、プレイヤーは存在しない。
ゲームのストーリーがそのまま再現されるのか、それとも現実の人間の意志で分岐するのか。それはわからない。
だが一つだけ確かなことがある。
ゲームの世界には「戦い」がある。ダンジョンがあり、魔物がおり、覚醒者が命を懸ける局面が何度も訪れる。その世界で戦う力を持たない者は・・・。
(死ぬ)
シンプルな結論だった。
引きこもっていた三ヶ月間の絶望とは質が違う。あの頃は「自分は何者にもなれない」という絶望だった。だが今は違う。
これは生死の問題だ。
力のないモブキャラクターが、ストーリーの激流に巻き込まれたらどうなるか。答えは一つしかない。踏み潰される。名前のない犠牲者の一人として、テキストにすら残らない死を迎える。
家族も同じだ。孝三郎も、茉莉も、陽菜も、ゲームに名前のない人間は、全員がその運命に曝されている。
陽一の目が変わった。
ベッドの上で腐っていた少年の目ではなかった。感傷を削ぎ落とし、事実だけを見据える、冷たく透き通った目。
ノートの次のページを開いた。ペンを握り直す。震えはまだ止まっていない。だが、文字は書ける。
ゲームの記憶をすべて吐き出す前に、まず軸を定める。
自分は「存在しない」キャラクターだ。ストーリーの外にいる。だがそれは同時に、ストーリーの制約を受けないということでもある。主人公にはイベントフラグがあり、ヒロインには役割があり、敵には行動パターンがある。だが陽一には何もない。何もないからこそ、何をしてもいい。
その自由を、生存のために使う。
今度は迷いなく、ペンを走らせた。
『生き残る』
それだけ書いて、ペンを置いた。
計画の詳細を文字にする必要はなかった。頭の中ではすでに、パズルのピースが凄まじい速度で嵌まり始めていた。
—自己再生。
ゲームの記憶が導き出した、たった一つの突破口。
澄家の祈祷術とも白魔導士の技術とも異なる、失われた原初の回復術式。触媒も儀式も不要。術者の魔力を直接変換し、自分自身の肉体を再生する。自己再生のみ。他者は治せない。
なぜ失われたのか。澄家が消したか、独占体制の中で自然に淘汰されたか。どちらにせよ、現代では誰も知らない技術だ。
だが陽一は知っている。入手方法も。
脳内で、構想が一気に組み上がる。
回復術を手に入れる。自分の肉体を壊す。治す。また壊す。超回復のサイクルを一日に何十回も回す。普通の人間が何年もかけて到達する地点を、数ヶ月で駆け抜ける。
狂気だ。人体がそのサイクルに耐えられる保証はない。
だが他に道がない。才能のない人間が才能の壁を越える、たった一つの方法。
手が震えた。恐怖ではない。高揚だった。
問題は、何を隠して何を見せるかだ。
陽一は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。思考が加速する。
この世界では、ごく稀に先天的な自己再生能力を持つ人間が生まれる。職業的な訓練ではなく、生まれつきの適性。魔力暴走がトリガーで開花することもある。頻度は極めて低いが前例はある。
つい三日前、自分は魔力暴走で倒れた。家族全員がそれを知っている。
そして古代の回復術は自己再生のみ—他者を治癒する力はない。澄家の利権とは競合しない。
つまり、万が一自己再生を使っているところを見られても、「魔力暴走で覚醒した先天的な能力」で通る。前例があり、利権も脅かさない。誰も深掘りしない。
だが—それはあくまで保険だ。
モブとして透明でいたいなら、能力があること自体を見せてはならない。「稀な覚醒者」として注目された瞬間、モブではいられなくなる。
絶対に秘匿すべきは魔法書の存在。皇家が知れば没収に来る。澄家も調査対象にする。能力そのものではなく、「術式の出所」が危険なのだ。
頭の中で、次の歯車が回り始めた。
実戦経験を積む場所がいる。正規の覚醒者チームに入れば管理下に置かれる。中学生がフリーランスの資格を得ることもできない。
・・・スカベンジャー。
ゲームの記憶が次の答えを差し出した。通称「泥」。ダンジョンの浅層で残骸を拾い集める清掃員。「戦闘行為を行わない」建前で年齢制限の対象外。保証人がいれば十三歳から登録できる。
保証人は・・・。
父は反対するだろう。母は理由次第で動くかもしれないが、回復術のことは話せない。
陽一は両手を広げて見た。
十三歳の、細い手。
この手で、自分の骨を折り、筋を断ち、また繋ぎ直す。それを毎日繰り返す。想像するだけで吐き気がする。
正気の沙汰ではない。
だが—正気でなければ、モブは生き残れない。
選択肢は二つしかない。何もせずに死ぬか、足掻いて生き延びるか。
「・・・冗談じゃない」
声に出していた。
低い声。掠れているが、芯がある。三ヶ月間、ほとんど声を発していなかった喉が、その言葉だけは明瞭に吐き出した。
死んでたまるか。
モブだと? 存在しないキャラクターだと? ふざけるな。
ゲームの設計者が陽一を想定しなかったのなら、想定外の存在として勝手に生き延びてやる。
陽一は椅子から立ち上がった。
ふらつく足で窓に歩み寄り、カーテンを両手で引き開けた。
冬の灰色の空が広がっていた。低い雲が垂れ込め、太陽は薄い雲の向こうにぼんやりと滲んでいる。街並みは霜に覆われ、吐く息が白い。何もかもが灰色で、冷たくて沈んでいる。電線に止まったスズメが、寒さに羽を膨らませている。この世界は、冬だった。
だが、陽一の目には別のものが見えていた。
やるべきことが見えていた。
一歩目は何か。二歩目は何か。三歩目は何か。その先に何があるか。二年という時間の中で、何を、どの順番で、どこまでやるか。
生まれて初めて、道が見えていた。
才能という名の壁は消えていない。この世界がゲームだという事実は変わらない。自分がモブ以下の存在だという現実も—。
だが、陽一はそれでいいと思った。
誰にも期待されていない。誰の目にも留まらない。物語の中心から最も遠い場所にいる。
それこそが、最大の武器だ。
底辺に潜伏し、誰にも気づかれず、ゲームの知識を使って力をつける。それが可能なのは、名前のない存在だからだ。ネームドキャラクターには決してできない戦略。注目されず、警戒されず、その存在自体が透明であるからこそ成立する—。
「条件は揃ってる」
窓の外の灰色の空に向かって、陽一は呟いた。
この約二年で、国立養成学校の入試を自力で突破する。
その先にある戦場で生き延びる。
家族を、守る。
孝三郎も、茉莉も、陽菜も。ゲームに名前のないこの家族を、物語の犠牲者にはさせない。枕元で震えていた父の手。テキパキと看病してくれた母の手。おかゆを持ってきた妹の手。
その手を、失いたくない。
冬の冷気がカーテンの隙間から忍び込み、汗で濡れたパジャマを冷やした。身体が小さく震えた。だがそれは寒さのせいだけではなかった。
恐怖と高揚が入り混じった、名前のない感情。
これから自分がやろうとしていることの途方もなさを理解しているからこそ湧き上がる、本能的な震え。
陽一はその震えを受け入れた。
震えながら前に進む。それでいい。
まだ何も始まっていない。ダンジョンを踏破する武器もなければ、回復術を行使する技術もない。身体は衰え、経験は皆無で、味方は一人もいない。
だが、頭の中には計画がある。そしてゲームの記憶という、誰も持っていないカードが一枚だけ、手の中にある。
ドアの外で、足音がした。茉莉の足音だ。
「陽一、起きてるの? 熱は—」
ドアが開く。パジャマ姿でカーテンの前に立つ息子を見て、茉莉の目が丸くなった。三日間、高熱に呻いていた少年が、窓の前に立っている。顔色はまだ悪い。だが、その目は・・・。
「・・・熱は下がった。もう大丈夫」
陽一の声は静かだった。
茉莉は何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。それ以上は踏み込まず、代わりに小さく頷いて、こう言った。
「朝ごはん、食べられる?」
「食べる」
その二文字に、茉莉は目を見開いた。三ヶ月間、食事を部屋に運んでも手をつけないことすらあった息子が、自分から「食べる」と言った。
陽一は自室を出て、階段を降りた。一段一段、病み上がりの足で、しかし確かな足取りで。
リビングには朝の光が差し込んでいた。テーブルの上には茉莉が準備した朝食。味噌汁の湯気が白く立ち昇っている。椅子に座ると、階段の音を聞きつけたらしい陽菜が、キッチンの入り口から顔を覗かせた。
「—あ」
目が合った。陽菜はぱっと顔を背けたが、その耳が赤いのが見えた。
「おはよう」
陽一が言った。声が掠れている。三ヶ月間ろくに使わなかった声帯が、日常の挨拶すら危うくする。
陽菜は返事をしなかった。ただ、そっぽを向いたまま自分の椅子に座った。味噌汁の椀を手に取る仕草が、少しだけ乱暴だった。
三ヶ月ぶりに、陽一は家族の食卓についた。味噌汁を一口啜る。出汁の香りが鼻腔に広がり、温かさが喉を通って胃に落ちていく。五感が鮮明だった。高熱が脳を焼き尽くした後に残った研ぎ澄まされた感覚。
テレビのニュースが流れている。政治、経済、ダンジョン関連のトピック。陽一はそのすべてを、ゲームの知識というフィルターを通して聞いていた。アナウンサーの一言一言が、ゲームの設定と照合される。一致。一致。一致。
不気味なほどの精度で、この世界は「煌華のフローレス」をなぞっている。
だが陽一は表情を変えなかった。味噌汁を啜り、ごはんを噛み、漬物をつまむ。普通の朝食。普通の食卓。何も変わらない日常の風景の中で、ただ陽一の内側だけが決定的に変わっていた。




