第三話3
三日目。
地獄の底が抜けた。
三十九度七分。解熱剤が効かない。身体は灼熱と悪寒を交互に繰り返し、汗で濡れたシーツが氷のように冷たく、それでいて肌は燃えるように熱い。
矛盾した感覚が全身を支配していた。
水を飲もうとしたがコップを持つ指が震えてうまく口元に運べない。唇から溢れた水が顎を伝って枕を濡らした。その冷たさすら、遠い世界の出来事のように感じる。
意識が断続的に途切れる。眠っているのか起きているのかわからない。瞼を開けているはずなのに天井が歪み、閉じているはずなのに光が見える。時間の感覚が溶けて、昼と夜の境界が消えた。
廊下から声が聞こえた。
「—治療院に連れて行ったほうがいいんじゃないか」
孝三郎の声だった。低くて、抑えた声。しかし隠しきれない動揺が滲んでいる。
「魔力暴走よ」
茉莉が答える。
「思春期にはよくあることでしょう。身体の成長と魔力の成長がアンバランスになって、熱が出る。あなたも子供の頃にあったんじゃないの」
「四十度近くで停滞するのは普通じゃない」
「あの子の魔力量は私たちよりも多いんだから、そういうこともあるわ。下手に治療院に連れて行って、祈祷で無理やり抑えるほうが危ない。暴走した魔力は、熱として放出するのが一番安全なの」
茉莉の声は冷静だったが、そこには揺るぎない確信があった。
「・・・だが、三日だぞ」
「明日には下がるわ。もし明日も下がらなければ、そのときは私が背負ってでも治療院に連れて行く」
短い沈黙の後、孝三郎の重い足音がドアに近づいてきた。
父が部屋に入ってきたのがわかった。視界がぼやけていて輪郭しか見えないが、大きな影が椅子を引いてベッドの横に座るのが見えた。
「・・・父さん」
「喋らなくていい。水、飲むか?」
太い腕が陽一の背中を持ち上げ、コップを唇に当てた。孝三郎の手も震えていた。かつて重盾を片手で振り回し、壁役として前線を守り続けた男。その手が、息子の発熱一つで震えている。
陽一はその震えを感じながら、ぬるい水をゆっくり飲み下した。
「仕事・・・」
「休んだ。俺が社長なんだからどうとでもなる」
孝三郎の大きな手が、陽一の額に乗せた冷たいタオルを取り替えた。ゴツゴツした指。爪の間に染みついた魔力鉱石の粉。長年ダンジョンに潜り続けた前衛の手。その手つきが、不器用なほどに優しい。
孝三郎が仕事を休んだ。その事実が、陽一の意識の片隅にちくりと刺さった。親にまで心配をかけ続けて、自分は三ヶ月も学校に行かず、ベッドの上で腐っているだけの—。
思考がそこで途切れた。
頭の内側の圧迫が、限界に達していた。
ずきん。
脈動が一際大きくなる。頭蓋骨の内側を、何かが—。
ずきん、ずきん。
痛い。痛いというより、きつい。頭の容量を超える何かが無理やりねじ込まれているような。
脳味噌が沸騰する。比喩ではなく本当にそう感じた。四十度近い高熱が頭蓋の中身をぐつぐつと煮えたぎらせている。
外は完全に暗くなっていた。
階下から両親の小さな話し声が聞こえる。聞き取れない。聞き取る力がない。
孝三郎はまだ椅子に座っていた。眠っているのか起きているのかもわからない。ただ、父の気配がそこにあるという事実だけが、かろうじて陽一を現実につなぎとめていた。
そして—。
深夜。時計の針が午前二時を回った頃。
堰が切れた。
閉じた瞼の裏で、光が弾けた。
白い光ではない。青と緑と紫が渦を巻く、見たことのない色彩の奔流。そしてその奔流の中から、映像が—否、『記憶』が、津波のように押し寄せてきた。
朦朧とする意識の底で、陽一は「夢」を見ていた。
夢と呼ぶにはあまりにも鮮明な、『記憶』を。
最初に見えたのは光だった。
モニターの光。液晶画面から放たれる青白い光が、薄暗い部屋を照らしている。六畳ほどの狭い部屋。壁際にベッド、反対側にデスク。デスクの上にはモニターが二枚並び、その前に一人の青年が座っていた。
二十代半ばだろうか。少し猫背で、伸びかけた黒髪を耳にかけている。目の下に薄い隈。着古したTシャツにスウェットパンツ。コンビニの弁当の空き容器がデスクの隅に積まれている。
その青年がコントローラーを握っていた。
モニターに映っているのはRPGのプレイ画面だった。精緻な3Dグラフィックで描かれた、どこか見覚えのある、いや、見覚えがあるどころではない。
陽一は、自分が見ているものを理解できなかった。
画面の中にダンジョンがあった。
陽一が生まれてからずっと「現実」として認識してきたもの。地下に広がる不可解な空間、魔力を含んだ鉱石、そこに棲む異形の魔物。それが、モニターの中の「ゲーム」として映し出されている。
青年の指がコントローラーのボタンを押す。画面の中のキャラクターが剣を振り、魔物を斬り伏せる。ヒットポイントのゲージが減り、経験値が加算される。
それはただのゲームプレイの光景だった。見知らぬ青年がありふれたRPGを遊んでいるだけの光景。
だが、陽一にとって、それは世界の終わりに等しかった。
記憶の奔流は止まらなかった。
青年がゲームを遊ぶ時間が圧縮されて陽一の脳に叩き込まれる。何十時間、何百時間分ものプレイ体験が、数秒ごとに場面を切り替えながら陽一の意識に焼きつけられていく。
頭が割れる。側頭部を万力で挟まれ、こめかみにドリルをねじ込まれているような圧迫感。文字と映像と音声が同時に流れ込んでくる。テキストウィンドウに表示される膨大なセリフ、カットシーン、設定資料、攻略サイトの文字列—そのすべてが一度に、脳の処理能力を遥かに超えた速度で押し寄せてくる。
叫びたかった。だが声が出ない。身体を動かす感覚すらない。ただ意識だけが情報の濁流に飲まれて翻弄されている。
ゲームのタイトル画面が見えた。
流麗なフォントで描かれた文字。タイトルの横に、煌めく花弁が舞い散るアニメーション。
『煌華のフローレス』。
文字を認識した瞬間、陽一の意識に稲妻が走った。
煌華—煌めく華。
五大華族。
橘、皇、扇、澄、冑。
陽一が生まれたときから「当たり前」として受け入れてきた、この世界の支配構造。それがゲームのフレーバーテキストとして、設定画面の中に整然と並んでいる。
情報の奔流の中で陽一の意識は悲鳴を上げていた。理解が追いつかない。処理が追いつかない。だが流入は止まらない。蛇口を全開にされた水道管のように、記憶は際限なく溢れ続ける。
ゲームのオープニングムービーが再生される。壮大なオーケストラのBGM。空撮で描かれた広大な大地に、巨大なダンジョンの入り口が穿たれている。カメラがダンジョンの内部に潜り込み、暗闇の中を下降していく。魔力を含んだ鉱石が壁面で青白く発光し、異形の影が蠢く。
陽一は「見て」いるのではなかった。「体験して」いた。青年の視覚を借り、モニター越しにゲームの世界を覗き込んでいる。その感覚が、あまりにも生々しかった。
場面が切り替わる。
青年が攻略サイトを閲覧している。ウィキ形式のページ。ダンジョンの階層構造が図解されている。浅層、中層、深層、最深部。各層のモンスター配置、ドロップアイテム、ボスの行動パターン。
陽一が父や母の会話から断片的に知っていた情報、ダンジョンの構造、魔物の生態系、覚醒者のランク制度。そのすべてがこのウィキに記載されていた。現実とゲームの情報が寸分の狂いなく一致している。
一致しているのではない。
現実がゲームに「合わせて」作られているのだ。
さらに記憶が加速する。
青年がストーリーを進めていく。主人公は十六歳の少年。養成学校に入学し、仲間と出会い、ダンジョンに潜り、強敵と戦い、やがて世界の真実に近づいていく。そんな王道中の王道のRPGシナリオ。
その主人公のまわりに、ヒロインがいた。
その右端に―美月。
心臓が跳ねた。存在しないはずの肉体が、それでも反応した。
幼馴染の顔が、脳裏にフラッシュバックする。まだ幼さの残る顔立ちだが、銀色がかった髪と、宝石のような碧い瞳。あの、圧倒的な才能の塊。自分が追いつけないと思い知らされた、あの少女。
美月は―ゲームのキャラクターだった。
ネームドキャラクター。ストーリーに名前が刻まれ、役割が与えられ、物語を動かすために存在する者。
では、照川陽一とは何だ。
攻略サイトのキャラクター一覧を、青年がスクロールしていく。
メインキャラクター。サブキャラクター。NPC一覧。敵キャラクター一覧。
どこにも「照川陽一」の名前はなかった。
モブですらない。存在すらしていない。ゲームの設計者が、一度も想定しなかった存在。名前のない、番号すらない、画面の端にすら映らない。
ゲームの世界観において、覚醒者はランクで格付けされる。S級、A級、B級・・・。NPC名鑑にはB級以上のキャラクターが登録されている。モブの冒険者でさえ、背景に描画される程度の存在感はある。
だが照川陽一は、そのモブの一覧にすら載っていない。
無。
記憶の濁流が一瞬途切れ、暗闇が陽一を包んだ。
だがすぐに次の波が来る。
青年がゲームの二周目を始めている。今度は攻略情報を駆使した効率プレイ。隠し要素の開放、裏ルートの探索、やり込みコンテンツの消化。
その中に、一つの情報があった。
陽一の意識が、その情報に釘付けになる。
攻略サイトの検証レポート。
『ソロプレイがしたいやつには必須。自己再生の入手条件は—』
記憶が途切れた。
そこで、青年のプレイ記憶は終わった。
暗闇の中で陽一は浮遊していた。
身体の感覚がない。目も耳もない。ただ「意識」だけが、真っ暗な空間に漂っている。
膨大な情報が脳の中で整理されていく感覚があった。散乱したジグソーパズルのピースが、一枚ずつ正しい位置に嵌まっていくような。
その過程は苦痛を伴った。こめかみの奥で白い火花が散り、後頭部が鈍く脈打つ。脳が物理的に再構築されているのではないかという錯覚に陥る。
どれくらいの時間が経ったのかわからない。
数分か、数時間か、あるいは数日か。
気がつくと、暗闘の中に一つだけ、光が見えた。




