第二話8
不登校が三週間を超えた頃だった。
十一月も終わり、冬の気配が色濃くなったある日の午後。街路樹の銀杏はすっかり葉を落とし、裸の枝が灰色の空に向かって伸びていた。風が冷たくなり、窓ガラスの外に見える空の色が日に日に低く、重くなっていた。
陽一は二階の自分の部屋で布団にくるまっていた。暖房はつけていない。窓の隙間から忍び込む冷気が頬に触れている。それすらもどうでもよかった。寒いという感覚はあるが、暖房をつけるために腕を伸ばすことすら億劫だった。エアコンのリモコンは枕元にあるのに。
パジャマは三日前から同じものを着ている。母が毎日着替えを持ってくるが、受け取って枕元に置いたまま手をつけていない。
階下で玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン、という間の抜けた電子音。陽一は目を開けた。
母が応対する声が、くぐもって聞こえてくる。来客だろうか。宅配か、近所の挨拶か。最近は担任の村瀬が何度か家庭訪問に来ている。そのたびに母が玄関先で対応し、「もう少し様子を見させてください」と頭を下げている。
しかし、今日の玄関の会話は長い。そして声のトーンが違う。母の声にいつもの疲れた丁重さではなく、戸惑いのようなものが混じっている。二分、三分と会話が続いている。
それから、階段を上がってくる足音が二つ。母のスリッパの音ともう一つ。靴下の軽い足音。母のスリッパの規則的なぱたぱたとは違う、静かだが芯のある歩き方。
陽一の心臓がぎくりと跳ねた。
その足音を聞き覚えがあった。道場の板張りの上で何千回も聞いた、あの静かなすり足の延長線上にある足音。
陽一の部屋のドアの前で、足音が止まった。
「陽一」
母の少し緊張した声色。申し訳なさと、どこかほっとしたような複雑な色が混じっている。
「美月ちゃんが来てくれたわよ。プリントと学校のお知らせ持ってきてくれたの」
心臓が跳ねた。二度目。今度は強く。
体中の血が一瞬で冷え、次の瞬間に沸騰した。布団の中で指先が痺れるように強張った。汗が背中を伝い落ちた。寒いのに、汗が出る。
「―っ、・・・」
返事ができなかった。声帯が凍りついたように動かない。
ドアの向こうに母の気配。そしてもう一つ、美月の気配がある。ドアの薄い板一枚を隔ててあの澄んだ目を持つ少女が立っている。誰からも将来を期待される存在が、将来が見えない引きこもりの部屋の前に立っている。その光景の不条理さに、陽一は吐き気すら覚えた。
沈黙が数秒続いた。ドアの向こうで誰かが唾を飲み込む音がした。美月か、母か。
それから―。
「陽一」
美月の声だった。
低く、静かな声。道場で気合をかける時の鋭さはなく、かといって普段の明るさもない。ただ丁寧に言葉を一つずつ選ぶような声。声が空気を通して壁を抜け、陽一の鼓膜を震わせる。聞きたくなかった。その声だけは。
「プリント、お母さんに渡しておくね。数学の小テストの範囲と、英語の宿題のプリントと、それから来月の三者面談のお知らせ」
事務的な内容を淡々と伝える声。まるで事務連絡を読み上げるかのような口調。けれどその淡々さの裏に、何かを必死に抑えているような震えがあった。言葉を選んでいるのだ。何を言えばいいのかわからなくて、とりあえず事務的なことだけを伝えようとしている。
ドアの向こうで小さく息を吸う音が聞こえた。意を決するように。
「・・・早く元気になってねって、伝えてください」
その言葉は、母に向けて言われたものだった。敬語。他人行儀な言い回し。美月と陽一の間にあった距離感とは違う、よそよそしい言葉遣い。ドアという壁が、二人の間の本当の壁を可視化していた。
だが次の瞬間、美月の声のトーンが変わった。
「私・・・待ってるから」
その五文字は、明らかにドアの向こうの陽一に向けて発されていた。敬語でもなく、事務連絡でもなく、ただのむき出しの感情だった。
声が少しだけ震えていた。美月の声が震えるのを聞くのは初めてだった。何百人の観客の前に立っても揺るがなかったはずのあの声が。全日本で敗退した後ですら崩れなかったはずの声が。今、薄い板一枚を隔てた向こう側で、震えている。
陽一は布団の中で、自分の呼吸が荒くなっていくのを感じた。
待ってる。
何を? どこで? どれくらい? 俺が学校に戻るまで? 俺が剣道に戻るまで? 俺がお前の隣に立てるようになるまで? それは永遠に来ないかもしれないのに?
向こう側に行くべき人間が不登校の凡人を待っている。そのことの意味を陽一の頭は正しく処理できなかった。思考がぐるぐると回転し、同じ場所に戻ってくる。
ありがたい。
そう思うべきだった。幼馴染が心配してくれている。わざわざプリントを持って、家まで来てくれている。それはどう考えても善意であり、美月の優しさだ。感謝すべきだ。ドアを開けて、「ありがとう」と言うべきだ。笑顔で。せめて、笑顔で。
しかし。
今の陽一にはその優しさが刃物だった。
お前のことを見捨てない、という美月の姿勢そのものが陽一と美月の間にある絶望的な差を際立たせている。日本一の剣士が、剣道すらできなくなった「元」幼馴染の面倒を見ている。強者が弱者を気遣っている。その構図が、陽一の最後の矜持を粉々に砕く。
対等だった二人は、もうどこにもいない。
そこにあるのは手を差し伸べる側と差し伸べられる側。上と下。光と影。
助けを求めるべき相手が、助けてほしい理由そのものである、という地獄。
足音が遠ざかっていった。美月と母が階段を降り、玄関で何か話している。美月の声はもう聞き取れなかった。ただ、「ありがとうね、美月ちゃん。わざわざ来てくれて」という母の声だけが、微かに響いた。
申し訳なさそうな母の声。「本当にごめんね、わざわざ・・・」という母の声。その声が、陽一の胸をさらに深く抉った。
母に謝らせている。自分のせいで。息子が部屋から出られなくなったせいで;
玄関のドアが閉まる音。美月が去った気配。
静寂が戻った。
冬の午後の冷たく澄んだ静寂。
陽一は布団から顔を出し、枕に顔を押し当てた。
声が漏れた。自分でもどうにもならない、喉の奥から絞り出されるような嗚咽。枕の布地が涙で濡れていく。こめかみから耳にかけて、涙が伝い落ちる感触。温かい。涙は温かいのだと、どうでもいいことに気づいた。
泣いている。
情けない。情けなくて、惨めで、どうしようもない。小学校の頃の自分が見たら、軽蔑するだろうか。「英雄」と呼んでくれた妹が知ったら、失望するだろうか。
でも涙は止まらなかった。一度決壊した堤防は、もう元には戻らない。夏の帰り道で美月の手を振り払ってから、教室で陰口を聞くたびに、体育館の拍手の中で目眩がしたあの瞬間から、ブレザーに袖を通して吐き気に襲われたあの朝から、少しずつ溜まっていった水が、今一気に溢れ出していた。
―待ってるから。
美月の声が頭の中で何度も繰り返された。壊れたレコードのように。
その声が優しければ優しいほど、自分の心がひび割れていく音がした。びき、と。細い亀裂が走る音。
陽一は枕に顔を埋めたまま長い間泣いた。声を殺して。肩を震わせて。暖房もつけていない冷えた部屋で、十三歳の少年は、自分が何に泣いているのかすらわからなくなるまで泣き続けた。美月が憎いのか。自分が憎いのか。世界が憎いのか。全部なのか。何もなのか。
やがて涙が枯れた。
目が腫れて痛い。鼻が詰まって、口でしか呼吸ができない。枕が冷たく湿っている。裏返して、乾いた面を頬に当てた。
カーテンの隙間から傾いた冬の陽が細く差し込んでいた。
オレンジ色の光が部屋の壁に一本の線を描いている。あの帰り道の夕焼けと同じ色。二人で歩いた川沿いの遊歩道の色。紫陽花が咲いていた七月の道。蝉が鳴いていた。カレーの匂いがした。美月の声は弾んでいて、「社会人を含めた一般大会に出てみないか」という言葉をまるで宝物を見つけた子どものように話していた。
その光はやがて壁を這うようにゆっくりと移動し、陽一が動かないうちに夕闇に飲み込まれて消えた。
部屋が暗くなった。
スマートフォンの画面が枕元で一度だけ光った。通知はオフにしてあるが、画面だけは時刻を映す。
午後四時四十三分。
あと何時間かすれば母が夕食を持ってくるだろう。陽菜が学校から帰ってきて、隣の部屋でランドセルを下ろす音が聞こえるだろう。父が仕事から帰ってきて、階下でテレビをつけるだろう。
家族の日常はこの薄い壁一枚の向こうで普通に流れている。
朝が来て、昼が来て、夜が来る。月曜から金曜まで家族はそれぞれの場所に出かけていき、夕方に帰ってくる。夕食を食べて、風呂に入って、眠る。世界は規則正しく回転している。
陽一だけが、止まっていた。
回転する歯車から外れた一つの歯。それは他の歯車には影響しない。機械は回り続ける。ただ一つだけ床に転がった歯が錆びていく。
もう一度天井を見上げた。暗がりの中、蛍光シールの星座がぼんやりと光っている。オリオン座の三つ星。北斗七星の柄杓。父と貼ったあの日、陽一は七歳で、世界は限りなく広くて、自分はなんにでもなれると思っていた。
今は、天井の木目を数えることしかできない。
右上から三番目の節はやっぱり人の顔に見える。
笑っているのか泣いているのか判別できない顔。
その顔に向かって陽一は声にならない言葉を呟いた。
俺は、これからどうすればいいんだ。
答えは返ってこなかった。木目の顔はただ笑うでも泣くでもない表情で、陽一を見下ろしていた。
夜が来た。
冬の夜は長い。五時を過ぎれば外は真っ暗で、窓の外には向かいの家の明かりと街灯だけが光っている。十三歳の陽一は、暗闇の中で膝を抱えて朝が来るのをただ待っていた。朝が来ても何も変わらないと知りながら。ブレザーはクローゼットの奥に畳まれたまま。道場の防具は玄関の隅で埃を被り始めている。面紐が乾燥してぱりぱりになっているだろう。竹刀は手入れをしなければ割れるが、手入れをする気力がない。
金澤美月は、世代を代表する剣士になった。
照川陽一は、自分の部屋から出られなくなった。
かつて紙一重だった二人の間に開いた亀裂は、もう、手を伸ばしても届かないほど深く、広がっていた。
そしてその亀裂の底には、冬の闇のように冷たい水が満ちて、音もなく流れている。




