第二話7
翌朝。
目覚まし時計が六時半を告げた。電子音が部屋に響き、陽一は目を開けた。
二段ベッドの上段。天井に貼った蛍光シールの星座が、朝の薄明かりの中でぼんやり光っている。小学校の頃に父と一緒に貼ったものだ。オリオン座と北斗七星。蛍光塗料がだいぶ劣化して、光が弱くなっている。幼い頃は、それを見上げるだけで冒険の気分になれたものだった。宇宙飛行士になりたいと言った日もあった。剣道の日本一になりたいと言った日もあった。何にでもなれると思っていた。でもやっぱり国家探索者になりたかった。
起き上がらなければならない。
制服に着替えて、朝食を食べて、歯を磨いて、靴を履いて、学校に行かなければならない。月曜日。二時間目は数学。三時間目は国語。昼休みには弁当を食べて、五時間目と六時間目を受けて、放課後は剣道部の稽古。そして帰り道。それが日常だ。
わかっている。
頭では、完全にわかっている。
陽一はベッドの梯子を降り、椅子にかけてあるブレザーに手を伸ばした。紺色の生地。左胸に校章の刺繍。何百回と袖を通した、見慣れた制服。少し皺が寄っている。昨日のうちにハンガーにかけておくべきだった。
右腕を袖に通した。
その瞬間だった。
胃の底から、熱いものが一気にせり上がってきた。
唐突で、圧倒的な吐き気。食道を逆流する酸の感覚。口の中に唾液が一気に溢れ、視界がぐにゃりと歪んだ。昨日の体育館の感覚が蘇った。数百人の拍手。ステージの上の美月。遠い。遠い。遠い。
陽一はブレザーを握りしめたまま、床に膝をついた。フローリングの冷たさが膝の骨に沁みた。
えずいたが何も出てこなかった。昨夜の夕食もほとんど食べていなかったから、胃の中は空っぽだった。それでも体は吐こうとし続ける。横隔膜が痙攣するように収縮し、腹筋が引き攣る。ひゅうひゅうと、気管から空気が漏れる音がした。
目から涙が溢れた。吐き気に伴う生理的な涙。あるいは、それだけではない涙。
「・・・っ、は・・・」
荒い呼吸。額に冷や汗が浮かぶ。手足が震えている。指先が白い。
ブレザーを見下ろした。紺色の生地。左胸の校章。この布切れ一枚が、自分を「教室の中の照川陽一」に変える装置だ。
これを着て、あの教室に行く。美月の隣に座る。陰口を聞く。笑い声を聞く。何も言い返せない自分でいる。全中チャンピオンの幼馴染として、「釣り合わない」と囁かれる自分でいる。
無理だ。
体がそう言っていた。頭ではなく、体が。細胞の一つ一つが、全力で拒絶していた。骨が、筋肉が、内臓が、もう行けないと叫んでいた。
「陽一? 起きた? 朝ごはんできてるわよ。今日はフレンチトースト焼いたの」
階下から母の声。いつもの、明るい声。陽一の好物を焼いてくれたらしい。その気遣いが、余計に胸を締め付けた。
陽一は答えられなかった。口を開くと、また吐きそうだった。声を出そうとして、喉が詰まった。
何分経っただろう。五分か、十分か。部屋の中で、壁時計の秒針だけが動いていた。
母の足音が階段を上がってきた。スリッパがフローリングをぱたぱたと叩く、聞き慣れた音。ノックの音。
「陽一? どうしたの、遅いわよ。フレンチトースト冷めちゃうよ」
「・・・」
「陽一?」
ドアが開いた。
母の茉莉が見たのは、床に座り込んだ息子の姿だった。ブレザーを片手に握りしめ、顔面蒼白で、目に涙を浮かべている。パジャマのズボンの膝のあたりが、冷や汗で湿っている。
「陽一・・・!」
茉莉が駆け寄った。息子の肩に手を置く。その手の温かさが、逆に陽一の心をさらに追い詰めた。温かい手。自分のために朝食を作って、自分のために名前を呼んでくれる人の手。その人にすら、今の自分は何も返せない。
「どうしたの。気持ち悪い? 熱は?」
茉莉の手が陽一の額に触れた。体温を確認する、母親の仕草。熱はなかった。体は元気なのだ。壊れているのは、もっと別の場所だった。
「・・・学校」
声が掠れていた。喉から絞り出した音は、自分の声とは思えないほど弱々しかった。
「学校、行けない」
その一言を絞り出すのに、全身の力を使い果たした気がした。
茉莉は一瞬息を呑んだ。目が大きく見開かれた。しかし、彼女は取り乱さなかった。数秒の沈黙の後、陽一の手からブレザーをそっと取り上げた。
「ーわかった。今日は休みましょう」
その声は穏やかだったが、微かに震えていた。唇が薄く動いたのは、何か別の言葉を飲み込んだからだろう。
陽一はパジャマのまま再びベッドに潜り込み、布団を頭まで被った。
暗闇の中で、自分の呼吸だけが聞こえた。心臓の鼓動が枕を通して耳に響く。
階下で、母が電話をかける声がした。学校に欠席の連絡をしているのだろう。「体調が悪くて」と言っているのが微かに聞こえた。嘘ではない。体調は悪い。ただ、その原因が風邪やインフルエンザでないだけだ。
一日が過ぎた。
二日が過ぎた。
三日目の朝も、陽一はブレザーに手を伸ばすことができなかった。
椅子の背にかかったブレザーが、まるで甲冑のように重く見えた。紺色の布が、鉛でできているかのように。あれを着た瞬間、自分は「教室の中の照川陽一」になる。金澤美月の隣に立つ凡人。釣り合わない幼馴染。陰口の対象。
四日目。陽一は制服をクローゼットの奥にしまった。ハンガーから外して、丁寧に畳んで、一番奥の棚に入れた。見えない場所に。目に入るだけで吐き気がした。
不登校の日々が始まった。
朝は昼近くまで眠った。眠ったというより、意識が溶けていた。夢も見ない深い沈みの中に体を沈め、目が覚めても起き上がる理由がなかった。天井の木目を数えた。右上から三番目の節が人の顔に見えることを発見した。七番目の木目の線は、よく見ると途中で枝分かれしている。枝分かれした先がまた合流して、川の中州のような模様を作っている。どうでもいい発見が、空虚な時間を埋めていく。
カーテンを閉め切った部屋に、昼も夜もなかった。時間の感覚が少しずつ溶けていく。腹が減っているのかどうかもわからない。空腹の信号を、体が発することをやめてしまったかのようだった。母が持ってきた食事のトレイに手をつけることもあれば、そのまま冷めるに任せることもあった。味噌汁の表面に薄い膜が張り、白米が乾いてぼそぼそになっていく。それを見ても何も感じなかった。
風呂に入らなくなった。三日に一度、母が「せめてシャワーだけでも」と言いに来る。しぶしぶ浴室に行くが、シャワーの水圧すら肌に痛く感じる日があった。
スマートフォンの通知は、最初の数日は頻繁に鳴っていた。田中からの「大丈夫か? 風邪?」というLINE。クラスのグループからの連絡事項。剣道部の同級生からの「照川、稽古来いよ。長谷川先生も心配してるぞ」というメッセージ。
三日目に、通知をすべてオフにした。
画面を見ると吐き気がした。文字の羅列が、教室の空気を連れてくる。
一週間が経つと、通知はほとんど来なくなった。世界は陽一なしでも普通に回っていた。当然のことだ。自分一人がいなくなっても、何も変わらない。教室の自分の席には誰かのカバンが置かれているだろうし、剣道部の稽古は普通に行われているだろう。昼休みに美月の隣に座る人間が変わっただけだ。
深夜三時に目が覚め、暗い部屋の中でぼんやりと天井を見つめる。階下では冷蔵庫のモーター音だけが低く唸っている。ときどき、給湯器がカチッと音を立てる。家が生きている音。
家という箱の中で、陽一だけが世界から切り離されていた。




