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第二話5

 照川陽菜は、兄の異変に気づいていた。

 小学五年生の秋。十一歳の陽菜は、同年代の子どもたちに比べるとずいぶん大人びた感性を持つ子どもだった。母の茉莉はそれを「よく気がつく子」と評し、父の孝三郎は「目端が利く」と少し困ったように笑った。友達の表情の変化を読み取り、空気を察し、言葉の裏にある感情を嗅ぎ取る。それは幼い頃から無意識に身につけた能力で、陽菜にとっては呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。

 だからこそ、兄の変化を見逃すはずがなかった。

 陽菜にとって、兄の陽一は特別な存在だった。

 小さい頃から兄が好きだった。剣道をしている兄の姿がかっこよかった。道場で汗を流し、大人たちに褒められ、大会で賞状を持って帰ってくる兄。「面あり!」の声とともに竹刀を振り下ろす姿。負けて悔しそうに唇を噛む横顔。それでも翌日には道場に行く背中。幼い陽菜にとって、それは紛れもない「英雄」だった。英雄というのは大げさかもしれないが、他に適切な言葉が見つからない。兄が世界で一番強いと、本気で思っていた時期がある。

 その英雄が、壊れていくのを見ていた。

 最初は些細な変化だった。夕食のとき、兄の箸が止まる時間が長くなった。おかずを口に運ぶペースが落ち、ご飯を半分残すようになった。「美味しい」の一言が減った。食卓での会話が少なくなった。母が「今日どうだった?」と聞いても、「普通」としか返さなくなった。以前は学校であったことを面白おかしく話してくれたのに。

 兄の部屋から夜中に物音が聞こえるようになった。ベッドの上で寝返りを繰り返す音。ときどき、小さくうめく声。成長痛のせいだと思っていた。最初は。

 でも、朝の兄の目の下に薄い隈が浮かぶようになり、食卓に座る姿勢が以前より丸くなり、声にハリがなくなっていくのを見ていると、それだけではないことは陽菜にもわかった。

 決定的だったのは、十月の半ばの夜。

 陽菜が二階の自分の部屋に行こうとして、階段の下を通りかかったときだった。リビングのドアが少しだけ開いていて、中から両親の話し声が漏れていた。テレビの音は消えている。いつもならこの時間、父はニュースを見ているはずだ。

「―陽一、最近おかしいでしょう」

 母の声だった。いつもの明るさがない、低く沈んだ声。家族の前では常に笑顔の母が、こんな声を出すのを聞いたのは初めてだった。陽菜は足を止めた。聞いてはいけないと思いながら、体が動かなかった。背中を壁につけて、息を殺した。

「わかってる」

 父の声。低く、重い。「部活でも・・・長谷川先生から聞いた。稽古に身が入ってない、と。素振りの本数は落ちてないが、目が死んでる、と言われた」

「成長痛だけじゃないわよね」

「ああ。体のバランスが崩れてるのは確かだ。急に十数センチも伸びれば、感覚は狂う。俺も経験がある。だが、それだけじゃない。心が折れかけてる」

 父が長く息を吐く音が聞こえた。湯呑みを置く、ことりという音。

「美月ちゃんが強くなりすぎた。あの子の魔力は・・・正直、異常だ。俺が若い頃に見たやつらの中でも、あのレベルは片手で数えるほどだ。しかもまだ十三だぞ。これから伸びる。陽一が太刀打ちできないのは、努力の問題じゃない。魔力・・・いや、才能の問題だ」

「じゃあ、どうすればいいの。あの子に『諦めろ』って言うの? 比べる相手じゃないって?」

「言えるわけないだろう」

 父の声に、苦い感情が滲んでいた。陽菜はその声のトーンに、父の痛みを聴いた。

「見守るしかない。今は」

「見守るって・・・。あの子、毎日少しずつ小さくなってるのよ。背は伸びてるのに、存在がどんどん小さくなっていってる。食事も減ってるし、笑わなくなった。あの子から笑顔が消えていくの、見てるだけしかできないなんて」

 母の声が震えた。泣いている、と陽菜は思った。泣きそうなのを堪えている声だった。

 沈黙。壁時計の秒針が規則正しく時を刻む音だけが聞こえた。

「・・・俺も辛い」

 父の声は、ほとんど囁きだった。

 陽菜は壁に背中を預けたまま、立ち尽くしていた。

 胸の奥で何かが軋んだ。ガラスに小さなヒビが入るような、微かだけれど確かな音。

 お兄ちゃんが苦しいのは、美月ちゃんがいるからだ。

 その思考は、稲妻のように一瞬で陽菜の心に深く根を下ろした。

 美月のことが嫌いなわけではなかった。いや、むしろ好きだった。きれいで、強くて、優しい。陽菜にとっての美月は、憧れの「お姉さん」のような存在だった。道場に見学に行くたびに美月が「陽菜ちゃん、今日も来てくれたの?」と声をかけてくれるのが、嬉しかった。練習の後に一緒にジュースを飲みながら話すのが、楽しかった。美月の笑顔は太陽のようで、近くにいるだけで気持ちが明るくなった。

 でも。

 あの人がいるから、お兄ちゃんが壊れていく。

 天才の隣にいるから、兄の「普通の努力」がゴミに見える。本当はそんなことないのに。兄は毎日素振りをしていた。雨の日も、膝が痛い日も、庭に出て一人で竹刀を振っていた。走り込みだってしている。誰よりも真面目に稽古をしている。それなのに、美月という規格外の存在の隣に立つだけで、すべてが「凡庸」のレッテルを貼られてしまう。太陽の隣に立つ蝋燭はどれほど必死に燃えても暗く見える。

 その夜、陽菜は自分の部屋で布団にくるまって、長い間天井を見つめていた。隣の部屋から、兄が寝返りを打つ音が聞こえた。

 お兄ちゃんを守りたい。

 でも、どうやって? 十一歳の自分に何ができる?

 答えは見つからなかった。ただ、胸の中で美月の笑顔が反芻されるたびに、かつての眩しい感情に、小さな棘が混じるようになった。


 数日後の日曜日。

 母に頼まれて近所のスーパーに卵とほうれん草を買いに行った帰り道、陽菜は住宅街の角で美月と出くわした。

 美月はジャージ姿で道場に向かうところらしかった。竹刀袋を肩に提げ、髪をポニーテールにまとめている。紺色のジャージの袖を捲っていて、細いけれど引き締まった腕が見えた。十三歳の美月は、陽菜より頭一つ背が高い。十月の午前の光を浴びたその姿は、凛として美しかった。白い肌に秋の陽射しが当たって、まるで発光しているように見えた。

「あ、陽菜ちゃん。久しぶり」

 美月が笑顔で手を振った。いつもの、あの笑顔。屈託なく、まっすぐで、見る者の心を温める笑顔。

 陽菜の胸がきしんだ。

「・・・こんにちは」

 声が固い。自分でもわかるくらいぎこちない返事だった。喉が詰まったようにうまく声が出ない。いつもなら「美月ちゃん!」と駆け寄っていたのに。

 美月は一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻した。

「お兄ちゃん、元気? 最近、部活で全然会えなくて。先に帰っちゃうみたいで」

 美月の声に、微かな寂しさが混じっていた。あるいは、心配の色が。

「お兄ちゃんは」

 陽菜は買い物袋を握る手に力を込めた。ビニール袋がガサリと音を立てた。中で卵のパックが軋んだ。

 ―お兄ちゃんは元気じゃないよ。

 毎晩うめいてる。ご飯を残すようになった。笑わなくなった。お父さんとお母さんが夜中に泣きそうな声で話してるのを、あなたは知らないでしょう。

 言いたかった。全部ぶちまけてしまいたかった。でも、それは陽菜の言葉ではなかった。兄の痛みを勝手に代弁する権利は、陽菜にはない。

「・・・元気です」

 それだけ言って、陽菜はぺこりと頭を下げると、逃げるように歩き去った。美月の顔を見ていられなかった。あの笑顔が今は眩しすぎて、痛い。

 背後で、美月が何か言いかけて口をつぐむ気配がした。「陽菜ちゃん?」と呼ぶ声が聞こえた気がしたが、足は止まらなかった。

 角を曲がって、美月の姿が見えなくなってから陽菜は立ち止まった。

 手が震えていた。買い物袋を持つ指先が、白くなるほど力が入っている。秋風が頬に冷たかった。金木犀の香りが、どこかから漂ってきた。甘くて、少し切ない香り。

 なんで。

 なんで、あの人はあんなに平気な顔でいられるんだろう。

 お兄ちゃんが苦しんでるのに。あの人の隣にいるせいで苦しんでるのに。あの人が強すぎるから苦しんでるのに。

 違う。

 陽菜は首を振った。

 それは理不尽な怒りだと、陽菜のどこかでは理解していた。美月は何も悪いことをしていない。才能があることは罪ではない。強いことは悪いことではない。兄が苦しんでいることを、美月が知らないわけでもないだろう。むしろ、さっきの言葉から察するに、美月は兄のことを気にかけている。会えなくなったことを寂しがっている。

 それでも。

 感情は理屈では制御できない。

 十一歳の陽菜の胸の中で、「憧れ」と「逆恨み」は混ざり合い、名前のつけられない澱となって沈殿していった。その澱は日が経つにつれて底に溜まっていき、やがて陽菜の心の色を少しずつ変えていくことになる。


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