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第一話1

 朝の光がレースのカーテン越しにリビングへ差し込んでいた。

 三月も半ばを過ぎたというのにまだ空気には冬の名残がしつこくこびりついている。それでも陽射しだけは一足先に季節を追い越したようで、照川家のダイニングテーブルに並んだ食器のひとつひとつに柔らかな金色の輪郭を与えていた。

 テレビの液晶画面の向こう側では今日もまた華々しい「英雄」たちの活躍が報じられていた。


『-速報です。本日未明、第七ダンジョンにおいて、国立東京養成学校の選抜部隊が深度五十階層の突破に成功しました。これは学生としては過去最年少記録の更新となります。部隊を率いたのは橘本家の息女であり―』


 ニュースキャスターの張りのある声が決して広くはないリビングの壁に反響する。

 画面が切り替わった。薄暗いダンジョンの最奥、巨大な空洞に倒れ伏す小山のような魔物の死骸。その鱗は黒曜石のように光を吸い込み、裂かれた腹からは紫がかった体液がどろりと石畳を濡らしている。異形の牙が折れ、顎は力なく開いたままもう二度と閉じることはない。

 そしてその前に立つのは五人の若者たちだった。

 漆黒の生地に金糸の刺繍が走る特注の戦闘服。胸元には橘家の家紋、橘の実を象った精緻な紋章が淡い燐光を帯びて浮かび上がっている。その紋章自体が魔力を宿した護符であることはこの世界に生きる者なら誰もが知っている常識だった。

 彼らの周囲にはカメラのフラッシュよりも眩い、淡い青紫色の「魔力」の残滓がオーラのように漂っていた。空気中に溶け残った高密度の魔力が光の粒子となって舞い散る様は、まるで深海に降る雪のようで、画面越しにさえその場の空気の重さ、肌を刺すような魔力の圧が伝わってくるかのようだった。

 先頭に立つ少女がカメラに向かって涼しげに微笑んでいる。その瞳の奥に宿る青白い光は彼女自身の魔力がまだ鎮まりきっていない証拠だった。


「すごいなー、国立の選抜部隊って、まだ高校生?」


 食卓の椅子に膝立ちになって身を乗り出しながら、照川陽一はテレビ画面に釘付けになっていた。齧りかけのトーストを片手に握ったまま目を輝かせている。頬にはバターの油が一筋光っているが本人はまったく気にしていない。

 小学二年生。まだ世界の輪郭線がぼんやりとしていて、けれどもその曖昧さの中にこそ無限の可能性が詰まっているような年頃の男の子だった。


「そうだな。だが、画面に映っているのは単なる学生じゃない」


 ダイニングテーブルの対面に座る父、照川孝三郎が、マグカップを口元に運びながら答えた。 広げた新聞の株価欄に目を落としながらも声には自然と重みが乗る。


「橘の直系、『一文字』の血を引くエリート中のエリートだ。俺たちみたいな一般人とは、生まれた時から積んでいるエンジンが違うんだよ」


 その言葉を紡ぐ孝三郎の左腕がコーヒーカップを持ち上げた拍子にシャツの袖口からわずかに覗いた。手首から肘の内側にかけて走る、引き攣れた傷跡。かつて何か鋭利なものに抉られた痕跡が白く変色した皮膚の隆起となって今も残っている。

 陽一はその傷を見慣れていた。物心ついた頃から父の腕にはそれがあって、一度「どうしたの」と訊いた時に「昔ちょっとな」と笑って誤魔化された記憶がある。だから深くは訊かなかった。父の傷跡は父の一部だった。

 孝三郎は『照川商事』という小さな商社を経営している。国家資格を持たないフリーの探索者たちに向けて、防具や武器、薬品といった装備品を卸す仕事だ。しかしそれは「今の」父の顔に過ぎない。かつて陽一が生まれるずっと前に孝三郎自身が剣を握り、ダンジョンの暗闇に身を投じていた時代があった。その頃の記憶が何気ない言葉の端々に時折顔を覗かせる。

 「エンジンが違う」。その比喩の選び方にテレビの向こう側の世界を知る者だけが持つ実感が滲んでいた。


「でも、陽一だって素質あるもんね! いつかあんな風になれるかもよ?」


 台所から明るい声が飛んできた。母・茉莉だ。

 フライパンの上で目玉焼きがぱちぱちと小気味よい音を立てている。白身の縁がほんのり焦げ始めた絶妙なタイミングで彼女はフライ返しを滑り込ませ、一切の無駄なく皿に移した。その動作は台所仕事にしては妙に洗練されている。視線をフライパンに落とすことなく、背中に陽一の声を聞きながらもう片方の手ではサラダの盛り付けを同時に進めている。

 視界の端で動きを捉え、複数の作業を並行してこなすその身のこなしにはかつてパーティーで斥候スカウトを務めていた頃の片鱗がにじみ出ていた。斥候とは先行して罠を見抜き、敵の気配を察知し、仲間に最適な情報を最速で届ける役割だ。常に周囲三百六十度に意識を張り巡らせ、複数の情報を同時に処理する能力が求められる。

 その能力は家事という日常に形を変えて、今も茉莉の中に息づいていた。


「当然だよ!」


 陽一はトーストを掲げるようにして食卓にぱんっと手を叩きつけた。バターナイフがカチャンと跳ねる。


「俺、美月ちゃんと一緒に国立養成学校に行くって約束したんだから!」


 その無邪気な宣言に孝三郎と茉莉が一瞬だけ目を見合わせた。ほんの刹那の、大人だけに通じる視線の交錯。だが陽一はそれに気づかない。八歳の子供が捉えるにはその視線はあまりにも速く、あまりにも静かだった。


「ひなも!」


 横から甲高い声が響いた。

 陽菜の口の周りは見事にイチゴジャムで彩られていた。食パンに塗ったジャムをまず舐め取り、そのあとでパンを食べるという独自の食事法を彼女は開発しており、結果として唇の周囲が赤紫色の勲章のようになっている。


「ひなもいく! おにーちゃんと美月ちゃんに、うしろから魔法かけるの!」


 両手をぐっと突き上げて宣言する陽菜の右手にはまだジャムのついたスプーンが握られていた。

 百均で買ったおもちゃのステッキを振り回す時の仕草そのままに、スプーンを杖に見立てて振っている。近所のお姉ちゃんである金澤美月が稽古で見せる構えを六歳児なりに再現しているつもりらしい。その模倣は的外れもいいところだったが、本人の表情だけは真剣そのものだった。


「ははは、陽菜は後衛キャスターか。そりゃ頼もしいな」


 孝三郎が身を乗り出し、大きな手で陽菜の頭をくしゃりと撫でた。柔らかい髪が指の間からするりと逃げる。陽菜はくすぐったそうに首をすくめたが、満面の笑みを浮かべて「えへへ」と鼻を鳴らした。

 茉莉がティッシュを一枚持ってきて陽菜の口元を拭う。くるくるとねじるようにした紙で唇の端を丁寧になぞる手つきは、斥候の精密さというよりは、ただの母親の慣れた仕草だった。


「もう、ひなちゃん。ジャムはパンにつけて食べるものでしょ?」

「だって、ジャムだけのほうがおいしいんだもん」

「そういう問題じゃないのよ……」


 リビングは温かい笑い声に包まれた。

 窓の外では早咲きの梅が白い花弁をほころばせている。朝の光がカーテン越しに差し込み、食卓の上に淡い格子模様の影を落としている。テレビからはまだダンジョン攻略のニュースが流れ続けていたが、照川家のリビングはそんな華々しい世界からは遠く離れた、穏やかな日常の中にあった。

 当時の陽一にとって「冒険者になること」はテレビの中の遠い夢などではなかった。

 手を伸ばせば届く未来の予定表でしかなかった。

 なぜならば、彼には、隣に金澤美月という幼馴染がいたからだ。


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