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最終試験 丘陵地の軍師

試験当日の朝は、薄曇りだった。


試験会場は王都の西、丘陵地帯の演習場だった。

広さは、王宮の外周を軽く超える。緩やかな丘が連なり、小さな森と川がある。


1000人の兵士が、二手に分かれていた。

緋色軍クリムゾン1000人と、蒼天軍アズール1000人。完全な対等戦だ。

ただし地形は蒼天軍に有利。

蒼天軍は丘の高地を抑え、川を背にしている。


そして俺が知らされたのは、開始30分前のことだった。


「軍師部門受験者ルーク・レギナルド。蒼天軍の中核部隊に、部隊隊長エド・ラルフが配置されている」


俺は一瞬、その言葉を飲み込んだ。

エドが敵側にいる。

部隊隊長として、蒼天軍の中核にいる。


想定していなかった。

しかし想定していなかったことを、想定内に引き込む。それが戦略家の仕事だ。


孫子は言う。

「彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず」


エドのことは知っている。三日間、隣で見てきた。

判断が速い。

動きに無駄がない。

負けを認めるのが早い。

だから損害を最小化する。


それが今日は敵の強みになる。


演習場を見下ろす丘の上に、観覧台が設けられていた。

最終試験には、王族が出席する慣例がある。

エドワード三世。そして第一王子アルベルト、第三王子ジュリアン。

俺はその事実を、試験前の告知で初めて知った。

第二王子オスカーも来ていた。

慣例では政治に無関心の第二王子は欠席することが多いと聞いていた。

しかし今日は、観覧台の端に一人、静かに立っていた。


アルベルト兄上とジュリアン兄上が、俺の偽名を知っていることは察していた。

王宮の情報網は広い。

「ルーク・レギナルド」という受験名が第5王子の偽名であることを、あの二人が知らないはずがない。

しかし今日は、それは関係ない。

俺は今日、軍師だ。


俺は軍師として、将軍役の受験者の隣に立った。

将軍役はヴィクター・フォン・クラーゼンだった。


「また会ったな」

ヴィクターが言った。

「そうだな」

「軍師か」

「そうだ。お前は将軍か」

「当然だ」


俺はヴィクターを見た。

この三日間で、ヴィクターの目が少し変わっていた。

「評価は与えるものではなく、返ってくるものだ」という俺の言葉が、何かに触れたのかもしれない。


「一つ聞いていいか」

俺は言った。

「何だ」

「なぜ三度とも将軍を選んだ」

ヴィクターが少し黙った。

「フォン・クラーゼン家の者は、将軍でなければならないからだ」

「誰が決めた」

ヴィクターが俺を見た。


今度は、俺が静かに続けた。

「今日は俺が軍師をやる。お前は将軍として指揮する。ただし兵士への指示を出す前に、必ず一度俺に確認してくれ」

「なぜ俺がお前に従わなければならない」

「従わなくていい。ただ、確認するだけでいい。それでお前が将軍として動く」


ヴィクターはしばらく考えた。

「……わかった」


試験開始の合図が鳴った。


1000対1000

これだけの規模になると、一人の人間が見渡せる範囲など、全体のほんの一部だ。

伝令の速さが命運を決める。

俺はまず、その仕組みを作ることから始めた。


各部隊長に判断基準を渡す。

「こうなったらこう動け」という条件を、あらかじめ伝えておく。

将軍に確認を取らずとも動ける状況を作る。これが指揮の速度を生む。

孫子の「善く戦う者は、其の勢いに求めて人に責めず」だ。

人の判断ではなく、仕組みで動く軍を作る。


ヴィクターは想定以上に動いた。

俺の戦略を確認し、理解し、兵士に伝えるとき、ヴィクターは初めて兵士に「説明」をした。

「なぜこう動くのか」を、言葉で伝えた。

兵士の目が、変わった。


開戦から30分。

戦況は一進一退だった。


蒼天軍には、優秀な部隊長がいた。

エドだ。

中央の稜線から全体を見渡し、こちらが動くたびに的確に対応してくる。

損害を最小に抑えながら守り、俺の手を一手ずつ潰していく。

向こうは軍師は機能していない。


三日間、隣にいた男だ。

俺の考え方を知っている。

手を打てば読まれる。読まれれば対応される。

消耗は、ほぼ五分五分だった。


そのとき俺は、視界の端に何かを感じた。


演習場の外縁。観覧台から遠く離れた、岩陰。

人がいた。観覧台の王族でも、試験監督でも、兵士でもない。

影のように、立っていた。


細い体。背が高くない。

俺はその輪郭を、一瞬だけ目に焼き付けた。


シオン兄上か。


その影の目が、こちらを向いていた。

距離がある。表情は見えない。


しかし、冷たかった。


距離を超えて、その冷たさだけが伝わってきた。


俺はその方向を見たまま、次の指示を出した。

「左翼、後退を装え。右翼は現状維持」

伝令が走った。


もう一度、岩陰を見た。


いなかった。


気配が消えていた。

岩陰には、誰もいなかった。

まるで最初から、誰もいなかったかのように。


俺は前を向いた。今は試験中だ。考えるのは後でいい。

戦況が動いたのは、それから間もなくのことだった。


蒼天軍の右翼に、異変が起きた。


伝令が走ってきた。

「蒼天軍右翼、突出しています。単独で前進、こちらの左翼に突撃を開始」


俺は一瞬、その報告の意味を処理した。

突出。単独で。


エドの命令ではない。

エドなら、単独突出などという損害を垂れ流す動きはしない。

蒼天軍の中に、エドの命令が届いていない部隊長がいる。

功を焦ったか、戦況が膠着していた分、暴発した。


俺はすぐに動いた。

「左翼、受けるな。横に開いて通せ。右翼、今すぐ前進。蒼天軍の中央を割れ」

「突出した部隊は」

「放置でいい。孤立すれば自滅する」


ヴィクターが俺を見た。

「確かか?!」

「突出した部隊は本陣から切り離されれば戦力にならない」

「……わかった」


ヴィクターが兵士に告げた。

「右翼、前進。理由は軍師が言った。それで十分だ」


右翼が動いた。

孤立した突出部隊を無視して、蒼天軍の手薄になった中央に楔を打ち込む。

中央が割れた。蒼天軍が分断された。


戦況が、一気に傾いた。


しかしエドは、その瞬間を見逃さなかった。


伝令が来た。

「蒼天軍の一部、戦線を離脱。西側に大きく迂回中。規模は約20名」


俺は地図を見た。

西側から迂回すれば、俺の本陣に到達できる。

エドだ。

戦線が崩れたと判断したエドが、捨て身の本陣奇襲を選んだ。


エドらしい。

「損を確定させて、次を取る」。

本陣を落とせば試験は終わる。

20人で賭けに出た。


俺はヴィクターに告げた。

「今すぐ蒼天軍の将軍を探せ。将軍を落とせば試験は終わる。時間がない」

「将軍の位置は」

「中央が割れた今、本陣に下がっているはずだ。右翼をそのまま押し込め」


同時に、俺は本陣の守備隊に命じた。

「西側からおよそ20名が来る。到着まで計算できる。迎えに出るな。正面に布陣して待て。鉄壁で受けろ」


あとは、どちらが先かだ。


ヴィクターが動いた。

押し込んだ右翼が、蒼天軍の本陣に迫った。

蒼天軍の将軍が、最後の抵抗をした。

しかし数で押し切られた。


「蒼天軍将軍、判定倒れ」


試験終了の合図が鳴った。


俺は西側を見た。


エドが、来ていた。

20名を率いて、本陣の正面に現れた。

しかし、そこには、俺の守備隊が正面に布陣して待ち構えていた。

100名。鉄壁の陣形で、微動だにしない。


試験終了の合図はすでに鳴っている。

エドは立ち止まり、その布陣を見た。

しばらく動かなかった。


模擬戦の結果は、こちら側の勝利だった。

損害は、こちら側が112名、蒼天軍が650名。

1000対1000の戦いとしては、圧倒的な差だった。


ー 観覧台 王と王子たちが見たもの ー


演習場を見下ろす観覧台で、エドワード三世は腕を組んで立っていた。


1000対1000の戦いが、始まってから30分が過ぎていた。

試験監督官が傍に控えている。

しかし王は何も聞かなかった。

目が、演習場の一点に釘付けになっていた。


中央だ。

軍師の位置に立つ、最も小さな受験者。

その影が動くたびに、伝令が走り、部隊が動く。


お前か。


左翼の囮が、蒼天軍の目を引きつけている。

しかし蒼天軍の中央指揮が、5分でそれを看破した。

蒼天軍の動きが速い。隊長が優秀だ。


それでも、小さな影は動じない。

看破されることを、見越していたかのように、次の手を既に打っていた。


エドワード三世の口元が、かすかに動いた。

誰にも見えない角度で。


隣でアルベルトが言った。

「ルークのですね、父上。あの子が軍師で受験しているとは」

ルーク・レギナルドという偽名の正体を、アルベルトは当然知っていた。

声は穏やかだった。しかし関心があるような口調の裏で、既に別の計算をしていた。

弟を評価しているのではない。弟を、どう利用するか、あるいはどう潰すかを計算していた。


ジュリアンが続けた。

「なかなかやりますね。1000対1000ですから、軍師一人の動きで変わるかどうか」

偽名が弟のものだと知りながら、その采配の意味を理解していなかった。

戦略を読む目が、ジュリアンにはない。


エドワード三世は二人の言葉を聞きながら、演習場を見続けた。


観覧台の端で、オスカーが静かに演習場を見ていた。

絵筆も、紙も、持っていない。

ただ見ていた。

その目に、いつも絵を描くときと同じ集中があった。


オスカーの目が、演習場の中央の小さな影に向いた。

そのまま、動かなかった。

長い時間、その影だけを見続けた。


やがてオスカーは、小さく息を吐いた。

それから、視線を父王に向けた。


父王も同じ影を見ていた。


二人の視線が、一瞬だけ交差した。

父王は何も言わなかった。

オスカーも何も言わなかった。

ただ目が合った。


オスカーは静かに視線を戻した。

演習場の中央を、また見た。

その目は、先ほどより深くなっていた。


アルベルトとジュリアンは、そのやりとりに気づかなかった。


そのとき。


エドワード三世の目が、ふと演習場の外縁に向いた。

観覧台から遠い、岩陰。

何かが、あった。


しかし見えなかった。

岩陰には、何もない。


エドワード三世は視線を戻した。

気のせいか。


オスカーも、同じ瞬間に、同じ方向を見ていた。

しかし同じく何も見えなかった。

二人は、互いが同じ方向を見たことに、気づいていなかった。


アルベルトとジュリアンは、演習場しか見ていなかった。


ー 試験終了後 観覧台を去る者 ー


試験終了の合図が鳴った。

観覧台に、試験監督官が結果の速報を持ってきた。


「緋色軍側の勝利。損害は緋色軍側112名、蒼天軍650名。なお、軍師部門受験者ルーク・レギナルドが戦略立案の全指揮を担ったと兵士の証言多数あり」


アルベルトが、口元を緩めた。

「ルークか。1000対1000でこの損害差は……なかなかですね」

偽名の正体を知っているアルベルトは、驚きを表に出さなかった。

しかしその目が、一瞬だけ演習場の中央を見た。計算している目だった。


ジュリアンが続けた。

「5歳の末弟にしては上出来ですね。ただ、合格順位は別の話だ。一次の体力がBでは、総合上位は難しいでしょう」

ジュリアンもまた、偽名を知っていた。しかし戦略の深さを読む目がなかった。

体力BというランクだけをみてAになり得ない評価だと、安心していた。


体力の真の評価がAであること、王命でBに変えたことは、試験管のみが知る秘密だ。

アルベルトにも、ジュリアンにも、伝わっていない。

それはエドワード三世が、意図してそうしていた。


エドワード三世は黙っていた。

演習場をまだ見ていた。


兵士の評価集計には半日かかる。

結果が出るのは夕刻だ。


しかしエドワード三世には、すでに答えが見えていた。

軍師部門でルークが1位を取る。最終試験も、事実上の最高評価だ。

総合では3位にする。


首位では、目立ちすぎる。

アルベルトとジュリアンに、末の弟を「脅威」として認識させる必要はない。

3位であれば「優秀だが自分たちには遠い」という印象に留まる。

苦笑される程度の存在として、しばらく泳がせる。


エドワード三世は試験監督官を手招きした。

耳元に、短く、静かに告げた。

監督官の顔が一瞬強張り、それから深く頭を下げ、去った。

アルベルトにもジュリアンにも、その会話は聞こえなかった。


隣でオスカーが、それを見ていた。


やがて夕刻、合格者の総合順位が発表された。


「第1位──」

アルベルトの推薦した受験者の名が呼ばれた。

「第2位──」

ジュリアンが手を回した受験者の名が呼ばれた。

「第3位──ルーク・レギナルド」


アルベルトが、小さく苦笑した。

「3位か。まあ、5歳にしてはよくやりました」

ジュリアンも口元を緩めた。

「体力がBでしたね。軍師の才があっても、体が追いつかない。子供ですから仕方ない」


二人が試験を挑んだ際の「1位」は、試験前に王族と身分を明かして場を制圧し、金で口止めして公表を伏せた結果だった。

世間には知られていない。しかし二人は、それが「正当な1位」だと信じていた。

だから末弟が3位と聞いて、本心から安堵していた。


演習場で何が起きたか、彼らには見えていなかった。

112対650という損害差の意味を、彼らは理解していなかった。


エドワード三世は二人の反応を横目で見て、静かに息を吐いた。

計算通りだ。


そのとき、オスカーが動いた。


他の王族や臣下に一言も告げず、観覧台を離れた。

足早ではなかった。しかし迷いのない歩き方だった。


エドワード三世がオスカーの背中を目で追った。

オスカーが、去り際に一度だけ振り返った。

父王と目が合った。


言葉はなかった。

しかしその目に、すべてがあった。

「わかっています」という目だった。

「あの子の本当の実力も。父上が何をしたかも」という目だった。


エドワード三世は、わずかに頷いた。

オスカーは、それ以上何も言わず、歩き出した。


アルベルトとジュリアンは、オスカーの退席にすら気づいていなかった。


王都への道を歩くオスカーの顔を、観覧台の誰も見ていなかった。


オスカーは歩きながら、その顔に笑みを浮かべていた。

愛想ではない。

社交でもない。

久しぶりに、心底美しいものを見たときに出る顔だった。

絵師が、生涯に一度の風景と出会ったときの顔だった。


あの5歳の弟は本物だ。


オスカーはそれだけを、胸の中で繰り返しながら、王都への道を歩いていった。


試験終了後、兵士の評価集計が始まった。


ー 評価と結果 ー


兵士の評価集計には、半日かかった。


俺は演習場の端に座って、待っていた。

しばらくして、エドが歩いてきた。

泥だらけだった。鎧の隙間にも、土が入っている。

しかし傷はない。

当然だ。

エドはたどり着けなかった。


エドは俺の前に立った。

しばらく、黙っていた。

それから口を開いた。

「間に合わなかった」

「知っている」


エドが、地面に視線を落とした。

「戦線が崩れた。うちの右翼が単独突出した。俺の制御が届かなかった」

「見ていた」

「あの時点で勝負は決まっていたか」

「ほぼな。ただお前が迂回を選んだのは、正しかった」


エドが顔を上げた。

「正しかった、と言うのか。負けたのに」

「お前の迂回は俺の本陣を脅かした。俺は将軍に『時間がない、今すぐ動け』と告げた。それがなければ、もう少し手間取っていた」


エドが少し黙った。

「……お前の本陣に、着いた」

「知っている」

「布陣していた。百人。正面に」

「読んでいた。西側から迂回すれば、何分かかるか。到着までに何人守備に回せるか。全部計算した」


エドが静かに言った。

「間に合っていたとしても、負けていたな」

「20人では無理だ。鉄壁に正面から当たれば全滅する」


エドは、しばらくその言葉を反芻するように黙っていた。

それから小さく息を吐いた。

「……読まれていた、か」

「迂回を選んだ時点から、俺は待っていた」


エドが、わずかに口元を動かした。

悔しさか。それとも別の何かか。

「……お前は変な奴だ」

それだけ言って、エドは隣に座った。

1000人の中で、エドの隊の損害は最小だった。

戦線が崩れる中で、20人を率いて本陣まで迫った。

敵として戦って、なおエドは際立っていた。


ヴィクターが歩いてきた。

鎧に土がついていたが、傷はなかった。

その顔には今まで見たことのない表情があった。


「兵士が動いた」

ヴィクターはそう言った。

「当然だ。お前が説明したからだ」

俺は言った。


「……俺はいつも命令していた」

「知っている」

「命令は動かさない。説明が動かす、ということか」


俺は頷いた。

「『人は利によって動く。しかし義によって留まる』。兵士は命令で動く。しかし次も動こうとするのは、意味を理解したときだ」


ヴィクターが、黙って空を見た。


評価集計の結果が発表されたのは、夕刻だった。


軍師部門の評価1位

ルーク・レギナルド。732ポイント。


将軍部門の評価1位

ヴィクター・フォン・クラーゼン。594ポイント。


部隊隊長部門の評価上位

エド・ラルフ(第2位)、401ポイント。


最終合格者12名の総合順位が読み上げられた。

1位、2位──別の受験者の名が呼ばれた。

「第3位──ルーク・レギナルド」

ヴィクターの名前が、4番目に呼ばれた。

エドの名前が、8番目に呼ばれた。


三人とも、合格した。


しかし。


俺は、自分の総合順位を聞いたとき、一瞬だけ数字を頭の中で計算し直した。

軍師部門1位。最終試験の損害差は112対650。

一次試験の学力A

論理力S

体力は公式にはBだが、実際の手応えはそれ以上のはずだ。

どう計算しても、3位にはならない。


首位のはずだ。


俺は周囲を見渡した。

まず演習場の外縁、あの岩陰を見た。

誰もいなかった。

しかし、試験の最中に感じたあの冷たい気配は、確かにあった。

シオン兄上か。あるいは別の誰かか。

まだわからない。

しかしあの目は、シオン兄上の廊下での気配と同じ質だった。


次に観覧台があった方向を見た。

王族の姿はもうなかった。しかし誰かがそこにいたことの気配は、まだ残っていた。


父王か。


俺は静かに、その可能性を飲み込んだ。

悔しいとは思わなかった。

そういうことか、と思った。

体力をBに変えた父王が、今度は総合を3位にした。


目立たせない。脅威と思わせない。今はまだ、潜む時だ。


孫子は言う。

「善く守る者は、九地の下に隠れる」


父王も、同じことを言っている。違う形で。


ヴィクターが俺を見た。

何か言おうとして、やめた。

そして頷いた。

俺も頷いた。


エドは結果を聞いて、しばらく動かなかった。

それから、静かに息を吐いた。

「……立身出世、か」

エドは小さく言った。

その声に、何かがあった。

安堵か。もっと別の何かか。

俺はまだ、エド・ラルフのことをすべては知らない。


ー 合格通知と父王の言葉 ー


王宮に戻ったのは、試験から三日後だった。


マリアが出迎えた。涙目だった。

「ルーク様、御合格、おめでとうございます」

「ありがとう、マリア」


父王に呼ばれたのは、その夜だった。

執務室に入ると、父王は窓の外を見ていた。


「合格したか」

「はい、父上」

「軍師として最高評価を得た、と報告を受けた」

「はい」


父王が振り返った。

その目に俺は前に見た「重さ」とは別の何かを見た。

温度があった。


「フォン・クラーゼン家の息子が、今回初めて合格した」

「はい。ヴィクターは今回、初めて兵士に説明をしました」

「それだけで変わったのか」

「それだけで変わりました」


父王はしばらく俺を見た。

「エド・ラルフという受験者がいた。調べたが、身元がはっきりしない」


俺は静かに聞いた。


「下働きの出身、ということだけはわかった。親はいない。施設で育ったらしい。どこで学力を身につけたか、誰も知らない」

父王が続けた。

「お前は彼とどこで出会った」

「試験の朝、正門の前で」

「それだけか」

「それだけです。しかし──価値のある人間だと、最初に思いました」


父王が、静かに言った。

「人を見る目があるな」

「前世で鍛えました」


言ってから、俺は口を閉じた。

前世。

その言葉が、空気の中に残った。


父王が、俺を見た。

長い沈黙があった。


「……そうか」

父王はそれだけ言った。

否定しなかった。

追及しなかった。

ただ──「そうか」と言った。


俺の中の仮説が、形を持った。

確信には、まだ一歩足りない。

しかし、この人は、知っている。


「王宮学校は、来月から始まる」

父王が言った。

「はい」

「行ってこい」

「はい、父上」


俺は深く礼をして、執務室を出た。


廊下に出て、俺は歩いた。

月明かりが石畳に落ちている。


孫子は言う。

「処女の如く、後は脱兎の如し」


処女の時、それが、今日で終わった。


王宮学校が始まる。

ヴィクター・フォン・クラーゼンと、エド・ラルフと、同じ場所で学ぶ。

そしてその先に、まだ名も顔も知らない、多くの人間がいる。


前世で信じてきたことがある。

人は宝だ。

駒ではない。

どんな場所でも、どんな時代でも、それだけは変わらない。


俺は廊下の突き当たりで立ち止まった。

シオン兄上の部屋がある方向に、今夜も灯りがあった。

揺れない灯り。

俺を見ているような、あの灯り。


今日は、見返した。

3秒、見た。それから前を向いた。


脱兎の時が、来る。


①入学編 了


─── ②入学式とクラス分け試験 へ続く ───

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