試験
問題は50問だった。
算術、語学、歴史、地理、法律の基礎。
前世のコンサル時代に培った知識と、この世界で四年かけて吸収した情報を組み合わせる。
算術は全問解いた。
計算式を頭の中で展開する速度は、5歳の体でも前世のそれと変わらない。
語学は、この世界の文法規則をすべて記憶している。
難しくない。
歴史は少し慎重になった。
宮廷の侍女たちから聞いた話と、父王の執務室から漏れ聞いた断片を組み合わせる。
地理は問題なかった。
法律の基礎が、一番面白かった。
王国の法体系は、信賞必罰。
法による統治。感情ではなく制度で動かす。
この王国を作った初代国王が、韓非子と同じ考えを持っていたのだろうか。
それとも、誰かが影響を与えたのか。
問題を解きながら、俺は考えた。
父王の転生と、この王国の法体系の類似点。
偶然か、必然か。
まだわからない。しかし、記憶しておく。
試験終了の鐘が鳴った。
俺は最後の問題に答えを書いた直後だった。
手が少し疲れていた。5歳の手は、1時間の筆記でも疲れる。
しかし頭は澄んでいた。
問題用紙が回収される間、俺は周囲を見渡した。
エドの席が見えた。後方の右端。
エドは姿勢を正して、前を向いていた。
手元の問題用紙を、最後まで確認しているように見えた。
白金髪の少年
フォン・クラーゼン家の御曹司は、試験途中で問題用紙を早々に置いて、腕を組んでいた。
余裕なのか。終わったのか。
どちらかはわからない。
しかし、答案用紙を回収する中、その目が一瞬だけ俺の方を向いた。
俺は前を向いた。
目が合ったことを、俺は記憶した。
ー 体力試験 三種競技 ー
学力試験の翌日。
体力試験の会場は、評価院の外だった。
王都の南端、王立競技場と、その脇を流れるセルヴァ川、そして川沿いの厩舎。
三種目が、そこで行われる。
試験監督が告げた。
「本日の体力試験は三種競技だ。第一に走力、第二に水泳、第三に乗馬。いずれも年齢別区分なし。絶対評価とする」
周囲がざわめいた。
隣のエドが小声で言った。
「乗馬もあるのか」
「聞いていなかったか」
「……要項に書いてあったかもしれない」
俺は答えなかった。
書いてあった。
三ヶ月前から、俺はそのために準備していた。
前世の俺は水泳選手だった。
しかし転生後のルークとして、俺は一つのことを早い段階で決めていた。
王族には馬がある。宮廷の厩舎には、第五王子の名義の馬が1頭いる。
誰も乗っていなかった馬に、俺は3歳の頃から毎朝会いに行っていた。
馬丁のオットーが、最初は怪訝な顔をしていた。
しかし毎日来る王子を、次第に受け入れた。
「王子様は馬が好きですな」
「好きだ、オットー」
4歳になった頃から、実際に乗り始めた。5歳になる今日まで、毎朝欠かさなかった。
水泳は、川があると聞いた瞬間から、問題ないとわかっていた。
前世の感覚は筋肉ではなく、動かし方として残っている。
問題は走力だ。
5歳の脚で12歳と走れば、絶対に負ける。
比重20の中でも、三種目で配分がある。走力で落としても、水泳と乗馬で取り返す。
それが俺の計算だった。
しかし、計算は、最初から狂った。
第一種目、走力。
コースは王立競技場の外周を二周、およそ三千メートルだった。
スタートの合図が鳴った。
受験者たちが一斉に動いた。
俺は後方に位置して、ペースを作りながら走った。
5歳で長距離を走る。前半を抑えること。後半に上げること。前世の水泳長距離練習で培った配分の感覚を使う。
外周の第一コーナーを曲がったとき、俺は前方に目を向けた。
先頭集団に、ヴィクター・フォン・クラーゼンがいた。速い。
エドは上位の下あたりだ。体力が得意でないと言っていたが、そう悪くはない。表情は硬いが、足は動いている。
第二コーナーを曲がろうとしたとき、誰かが足に当たった。
俺は転んだ。
石畳の上で、膝をついた。
後ろから来た受験者が、俺の横をすり抜けながら言った。
「悪いな、小さな子は邪魔だ」
笑い声が聞こえた。
昨日インク壺を倒した少年と同じ仲間だ、と俺は思った。
試験あらし。今日は走力試験で来た。
膝を見ると、少し擦れていた。血が滲んでいる。
痛い。
しかし、立ち上がれないほどではない。
俺は立ち上がった。
前を向いた。
後続がまだ続いていた。俺の順位は、最後方に落ちていた。
怒りを感じた。
しかし、怒りで走っても、タイムは上がらない。
俺は呼吸を整えた。前世の50メートルターン前の感覚を思い出した。
一度深く吐く。吸う。体の中心から動かす。
後半の二周目、俺は上げた。
前を走る受験者を、一人ずつ抜いていった。
しかし時間が足りなかった。
ゴールしたとき、俺の順位は後方から数えた方が早い位置だった。
試験官が俺を見た。
5歳の子供が転倒後に追い上げた。その事実が、試験官の記録用紙に何かを残したかもしれない。
しかし走力の順位は変わらない。
エドが近くに来た。
「転んだのを見た」
「見ていたか」
「ああ。あれは故意だ」
「知っている」
エドは俺の膝を見た。
何も言わなかった。
小さな布を取り出して、差し出した。
「拭け」
「ありがとう」
第二種目、水泳。
セルヴァ川の指定区間、百五十メートルを泳いで折り返す往復三百メートルだった。
川岸に立ったとき、俺は水面を見た。
流れは緩やかだ。透明度が高い。川底が見える。
前世のプールとは違う。しかし水は、水だ。
スタートの合図が鳴った。
飛び込んだ瞬間、音が消えた。
世界が青くなった。
自分の呼吸だけが聞こえた。
これだ。
この感覚だ。
前世で水の底が好きだった理由を、俺は水に入るたびに思い出す。
どれだけ外が騒がしくても、水の中だけは静かだった。
誰も追いかけてこない。誰の期待も、誰の視線も、水面の向こうに置いてこられる。
俺は泳いだ。
ストロークのリズムを作る。キックの力を配分する。顔を上げるタイミングを計る。
オリンピック候補の水泳選手が「知っていたこと」が、全部戻ってきた。
折り返しのブイを回った。
戻りながら、前後を確認した。
俺が先頭に立っていた。
12歳の体格を持つ受験者たちが、後ろにいた。
体が小さい分、水の抵抗が少ない。効率が良い。
そして何より前世の記憶や経験が、5歳の体に宿っている。
俺は最後まで抜かれなかった。
ゴールしたとき、俺は川岸に上がって後ろを見た。
次の受験者が上がってきたのは、随分と後だった。
川岸で、試験官が記録を取っていた。
その目が、一瞬止まった。
5歳の王子が水泳で先頭を取った。
その事実は、試験の記録に残る。
エドが川から上がってきた。
順位は上位の中ほどだった。泳ぎは洗練されていないが、体力で押し切った。
「泳げるのか」
エドが俺に言った。
「好きだ」
俺は答えた。
エドが少し黙った。
「……そうか」
ヴィクターは7位だった。剣の腕はあるが、水泳は専門ではないということだ。
ヴィクターが川から上がりながら、俺を見た。
その目に、明確な「何か」があった。
驚きか、警戒か。あるい…
第三種目、乗馬。
厩舎から馬が引き出された。
受験者一人につき一頭、くじ引きで割り当てられる。
コースは川沿いの草地、千五百メートル。
俺のくじは、栗毛の雌馬だった。
3歳くらいの若い馬。落ち着いた目をしている。
俺は馬に近づいた。
首元に手を当てた。
馬が鼻を鳴らした。
「初めましてじゃないかもしれないな」
俺は小声で言った。
馬は動じなかった。
悪くない。
周囲を見渡すと、受験者の多くが馬の扱いに手間取っていた。
12歳の体格を持つ少年でも、初めての馬なら怖い。
特に若い馬は、気が荒れることがある。
俺は鐙に足をかけ、腰を上げて馬に乗った。
スムーズだった。
前世でできなかったことが、この世界ではできる。
毎朝の厩舎通いが、今日のためだったと今、実感した。
スタートの合図が鳴った。
俺は最初から飛ばした。
走力試験で失った分を、ここで取り返す。
計算は、最初からそうなっていた。
馬は俺の脚の合図に素直に応えた。
草地を走る。風が来る。5歳の体で馬に乗っている感覚は、前世では絶対に知れなかったものだ。
それでも体が覚えている。重心の置き方。手綱の引き方。馬と呼吸を合わせること。
コースの中盤で、俺は先頭に立った。
後ろから蹄の音が追ってくる。
ヴィクターだ。貴族の子弟は乗馬が得意だ。当然だ。
俺は手綱を緩めなかった。
ゴールまでの距離を測った。
あと五百メートル。
馬が息を上げている。しかしまだ走れる。
ゴールした。
俺が先頭だった。
ヴィクターがすぐ後に続いた。
馬から降りた。
馬の首をもう一度叩いた。
「よく走った」
試験官たちが記録を取っていた。
体力試験の三種目が終わった。
しかし、順位は発表されなかった。
試験監督が告げた。
「体力試験の結果は、学力・論理力の結果と合算の上、一次試験の総合順位として発表する。個別順位の発表はない」
俺は頭の中で計算した。
走力の転倒がなければ…
水泳も乗馬も先頭で、走力の後半追い上げを合算すれば、体力全体で最上位争いは確実だった。
転倒があった。
しかし水泳と乗馬で取り返した。
実際どの順位にいるか、今は分からない。
エドが馬から降りながら、俺の方を見た。
エドの乗馬の順位は上位の下あたりだった。技術より根性で乗り切った印象だ。しかしエドの表情には、諦めの色がなかった。
「お前、乗馬も得意なのか」
「準備していた」
「……どこまで準備しているんだ」
俺は答えなかった。
必要なことを、やれる範囲でやった。それだけだ。
ヴィクターが馬を厩舎に戻しながら、俺の横を通った。
立ち止まりはしなかった。
しかし、小声で言った。
「走力で転ばされたな」
「ああ」
「水泳と乗馬で取り返したか」
「そのつもりだ。ただ、結果はわからない」
「……そうか」
ヴィクターが、わずかに歩みを遅めた。
それから、また歩き出した。
「……面白い奴だ」
その言葉だけが、背中から届いた。
体力試験が終わった。
俺は川の方を見た。
夕日がセルヴァ川に落ちていた。
悔しいか、と自分に聞いた。
ーー悔しい。
しかし結果はまだ見えない。
見えないまま、明日の論理力試験に向かう。
そこが、俺の本番だ。
ー フォン・クラーゼンの息子 ー
論理力試験の前日、宿舎での夜のことだった。
受験者は近隣の宿舎に二泊する規則になっていた。
俺が廊下を歩いていると、声がした。
「止まれ」
白金髪の少年が、廊下の壁に寄りかかって立っていた。
フォン・クラーゼン家の御曹司。
ヴィクター・フォン・クラーゼンと、たしか試験監督が呼んでいた。
俺は止まった。
逃げる必要はない。
「お前が、昨日インクを浴びせられていた子か」
ヴィクターは言った。
「そうだ」
「それで新しい用紙を要求した。落ち着いていたな」
俺は答えなかった。
褒めているのか、試しているのか、まだわからない。
「名前は」
「ルーク・レギナルド」
「年齢は」
「5歳だ」
ヴィクターが、わずかに眉を動かした。
「5歳で受験するのか」
「そうだ」
「なぜ?」
俺は少し考えた。
正直に言うべきか。しかし何を正直に言うのか。
「王宮学校を出れば、何でもできる」
俺は言った。
「それだけか」
「今はそれだけで十分だ」
ヴィクターが、俺をしばらく見た。
その目に何かが生まれていた。
敵意ではない。
軽蔑でもない。
関心、だった。
「三度目の受験だと聞いた」
俺は言った。
ヴィクターの目が、鋭くなった。
「誰から聞いた」
「宿舎の者から」
「……そうか」
ヴィクターは壁から身を離した。
「俺は最終試験で毎回落ちる」
「知っている」
「兵士に嫌われるからだ。評価をもらえない」
「知っている」
ヴィクターが止まった。
「知っているなら、何かアドバイスはないのか」
俺は考えた。
言うべきことがあるとすれば一つだけだ。
「評価は、もらうものじゃない」
俺は言った。
「与えるものだ」
ヴィクターが、俺を見た。
「……どういう意味だ」
「兵士がお前を評価するのではない。お前が兵士を評価し、認め、動かす。その結果として、評価が返ってくる」
しばらく、沈黙があった。
ヴィクターは何も言わなかった。
しかし、その目が変わった。
「5歳が偉そうなことを言う」
ヴィクターはそう言って、廊下を歩いていった。
足音は荒くなかった。
静かだった。
俺はその背中を見送って、自分の部屋に戻った。
韓非子は言う。
「人は利によって動く。しかし義によって留まる」
ヴィクター・フォン・クラーゼン。
三度落ちた理由と、三度受けた理由が少しだけ、見えた気がした。
ー 父王の間で エドワード三世の視点 ー
試験初日の夜、エドワード三世は執務室にいた。
田中孝一として生きた前世から30年。王として生きることに、今は迷いがない。
しかし今夜は珍しく、手が止まっていた。
試験監督官から、一通の報告書が届いていた。
内容は短かった。
「ルーク・レギナルド受験名義の者、本日の学力・体力試験を問題なく通過。試験あらしの妨害を受けるも、動揺なく対処。特記事項:最年少受験者(5歳)にもかかわらず、持久試験では最後まで完走。試験中の態度は終始冷静かつ礼節あり」
エドワード三世は、その文を三度読んだ。
田中孝一は工場で生きた。
最初の五年、誰も信用しなかった。いや、信用する暇がなかった。毎日が、火事場だった。
転生してこの王国に生まれたとき、最初に思ったのは…
また、一からだ、ということだった。
王族として生まれたが、前の王は強かった。
実力を証明するまで、誰も動かなかった。
制度を作ることで、人を動かせると知ったのは30代の頃だった。
それが今、末の王子に再び重なって見える。
前世の記憶を持つ者が、また生まれてきたのか。
それとも俺の血が、そういう子を作ったのか。
どちらでも、今は関係ない。
エドワード三世は静かに息を吐いた。
ルークに与えた言葉を思い出す。
「誰もお前を監視しない」
あの子は、その言葉の意味を正確に受け取った。
目を見れば、わかった。
田中孝一として生きたとき、誰かにそう言ってもらえる人間がいたら、と何度思っただろうか。
自分だけが知っている孤独の中で、前を向き続けることの疲れ。
この子には、できる限り、遠回りをさせたくない。
しかし、遠回りをさせなければ、身につかないものがある。
それも知っている。
エドワード三世は羽ペンを取り直した。
今夜も、書類は山積みだ。
しかし今夜は少し、手の重さが違った。




