表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/42

試験

問題は50問だった。

算術、語学、歴史、地理、法律の基礎。

前世のコンサル時代に培った知識と、この世界で四年かけて吸収した情報を組み合わせる。


算術は全問解いた。

計算式を頭の中で展開する速度は、5歳の体でも前世のそれと変わらない。

語学は、この世界の文法規則をすべて記憶している。

難しくない。

歴史は少し慎重になった。

宮廷の侍女たちから聞いた話と、父王の執務室から漏れ聞いた断片を組み合わせる。

地理は問題なかった。

法律の基礎が、一番面白かった。


王国の法体系は、信賞必罰。

法による統治。感情ではなく制度で動かす。

この王国を作った初代国王が、韓非子と同じ考えを持っていたのだろうか。

それとも、誰かが影響を与えたのか。


問題を解きながら、俺は考えた。

父王の転生と、この王国の法体系の類似点。

偶然か、必然か。

まだわからない。しかし、記憶しておく。


試験終了の鐘が鳴った。

俺は最後の問題に答えを書いた直後だった。

手が少し疲れていた。5歳の手は、1時間の筆記でも疲れる。

しかし頭は澄んでいた。


問題用紙が回収される間、俺は周囲を見渡した。

エドの席が見えた。後方の右端。

エドは姿勢を正して、前を向いていた。

手元の問題用紙を、最後まで確認しているように見えた。


白金髪の少年

フォン・クラーゼン家の御曹司は、試験途中で問題用紙を早々に置いて、腕を組んでいた。

余裕なのか。終わったのか。

どちらかはわからない。

しかし、答案用紙を回収する中、その目が一瞬だけ俺の方を向いた。


俺は前を向いた。

目が合ったことを、俺は記憶した。


ー 体力試験 三種競技 ー


学力試験の翌日。

体力試験の会場は、評価院の外だった。

王都の南端、王立競技場と、その脇を流れるセルヴァ川、そして川沿いの厩舎。

三種目が、そこで行われる。


試験監督が告げた。

「本日の体力試験は三種競技だ。第一に走力、第二に水泳、第三に乗馬。いずれも年齢別区分なし。絶対評価とする」


周囲がざわめいた。

隣のエドが小声で言った。

「乗馬もあるのか」

「聞いていなかったか」

「……要項に書いてあったかもしれない」


俺は答えなかった。

書いてあった。

三ヶ月前から、俺はそのために準備していた。


前世の俺は水泳選手だった。

しかし転生後のルークとして、俺は一つのことを早い段階で決めていた。

王族には馬がある。宮廷の厩舎には、第五王子の名義の馬が1頭いる。

誰も乗っていなかった馬に、俺は3歳の頃から毎朝会いに行っていた。

馬丁のオットーが、最初は怪訝な顔をしていた。

しかし毎日来る王子を、次第に受け入れた。

「王子様は馬が好きですな」

「好きだ、オットー」

4歳になった頃から、実際に乗り始めた。5歳になる今日まで、毎朝欠かさなかった。


水泳は、川があると聞いた瞬間から、問題ないとわかっていた。

前世の感覚は筋肉ではなく、動かし方として残っている。


問題は走力だ。

5歳の脚で12歳と走れば、絶対に負ける。

比重20の中でも、三種目で配分がある。走力で落としても、水泳と乗馬で取り返す。

それが俺の計算だった。


しかし、計算は、最初から狂った。


第一種目、走力。

コースは王立競技場の外周を二周、およそ三千メートルだった。


スタートの合図が鳴った。

受験者たちが一斉に動いた。

俺は後方に位置して、ペースを作りながら走った。

5歳で長距離を走る。前半を抑えること。後半に上げること。前世の水泳長距離練習で培った配分の感覚を使う。


外周の第一コーナーを曲がったとき、俺は前方に目を向けた。

先頭集団に、ヴィクター・フォン・クラーゼンがいた。速い。

エドは上位の下あたりだ。体力が得意でないと言っていたが、そう悪くはない。表情は硬いが、足は動いている。


第二コーナーを曲がろうとしたとき、誰かが足に当たった。


俺は転んだ。

石畳の上で、膝をついた。

後ろから来た受験者が、俺の横をすり抜けながら言った。

「悪いな、小さな子は邪魔だ」


笑い声が聞こえた。

昨日インク壺を倒した少年と同じ仲間だ、と俺は思った。

試験あらし。今日は走力試験で来た。


膝を見ると、少し擦れていた。血が滲んでいる。

痛い。

しかし、立ち上がれないほどではない。


俺は立ち上がった。

前を向いた。

後続がまだ続いていた。俺の順位は、最後方に落ちていた。


怒りを感じた。

しかし、怒りで走っても、タイムは上がらない。

俺は呼吸を整えた。前世の50メートルターン前の感覚を思い出した。

一度深く吐く。吸う。体の中心から動かす。


後半の二周目、俺は上げた。

前を走る受験者を、一人ずつ抜いていった。

しかし時間が足りなかった。

ゴールしたとき、俺の順位は後方から数えた方が早い位置だった。


試験官が俺を見た。

5歳の子供が転倒後に追い上げた。その事実が、試験官の記録用紙に何かを残したかもしれない。

しかし走力の順位は変わらない。


エドが近くに来た。

「転んだのを見た」

「見ていたか」

「ああ。あれは故意だ」

「知っている」


エドは俺の膝を見た。

何も言わなかった。

小さな布を取り出して、差し出した。

「拭け」

「ありがとう」


第二種目、水泳。

セルヴァ川の指定区間、百五十メートルを泳いで折り返す往復三百メートルだった。


川岸に立ったとき、俺は水面を見た。

流れは緩やかだ。透明度が高い。川底が見える。

前世のプールとは違う。しかし水は、水だ。


スタートの合図が鳴った。


飛び込んだ瞬間、音が消えた。

世界が青くなった。

自分の呼吸だけが聞こえた。


これだ。

この感覚だ。


前世で水の底が好きだった理由を、俺は水に入るたびに思い出す。

どれだけ外が騒がしくても、水の中だけは静かだった。

誰も追いかけてこない。誰の期待も、誰の視線も、水面の向こうに置いてこられる。


俺は泳いだ。

ストロークのリズムを作る。キックの力を配分する。顔を上げるタイミングを計る。

オリンピック候補の水泳選手が「知っていたこと」が、全部戻ってきた。


折り返しのブイを回った。

戻りながら、前後を確認した。

俺が先頭に立っていた。


12歳の体格を持つ受験者たちが、後ろにいた。

体が小さい分、水の抵抗が少ない。効率が良い。

そして何より前世の記憶や経験が、5歳の体に宿っている。


俺は最後まで抜かれなかった。

ゴールしたとき、俺は川岸に上がって後ろを見た。

次の受験者が上がってきたのは、随分と後だった。


川岸で、試験官が記録を取っていた。

その目が、一瞬止まった。

5歳の王子が水泳で先頭を取った。

その事実は、試験の記録に残る。


エドが川から上がってきた。

順位は上位の中ほどだった。泳ぎは洗練されていないが、体力で押し切った。

「泳げるのか」

エドが俺に言った。

「好きだ」

俺は答えた。

エドが少し黙った。

「……そうか」


ヴィクターは7位だった。剣の腕はあるが、水泳は専門ではないということだ。

ヴィクターが川から上がりながら、俺を見た。

その目に、明確な「何か」があった。

驚きか、警戒か。あるい…


第三種目、乗馬。

厩舎から馬が引き出された。

受験者一人につき一頭、くじ引きで割り当てられる。

コースは川沿いの草地、千五百メートル。


俺のくじは、栗毛の雌馬だった。

3歳くらいの若い馬。落ち着いた目をしている。

俺は馬に近づいた。

首元に手を当てた。

馬が鼻を鳴らした。


「初めましてじゃないかもしれないな」

俺は小声で言った。

馬は動じなかった。

悪くない。


周囲を見渡すと、受験者の多くが馬の扱いに手間取っていた。

12歳の体格を持つ少年でも、初めての馬なら怖い。

特に若い馬は、気が荒れることがある。


俺は鐙に足をかけ、腰を上げて馬に乗った。

スムーズだった。

前世でできなかったことが、この世界ではできる。

毎朝の厩舎通いが、今日のためだったと今、実感した。


スタートの合図が鳴った。


俺は最初から飛ばした。

走力試験で失った分を、ここで取り返す。

計算は、最初からそうなっていた。


馬は俺の脚の合図に素直に応えた。

草地を走る。風が来る。5歳の体で馬に乗っている感覚は、前世では絶対に知れなかったものだ。

それでも体が覚えている。重心の置き方。手綱の引き方。馬と呼吸を合わせること。


コースの中盤で、俺は先頭に立った。

後ろから蹄の音が追ってくる。

ヴィクターだ。貴族の子弟は乗馬が得意だ。当然だ。


俺は手綱を緩めなかった。

ゴールまでの距離を測った。

あと五百メートル。

馬が息を上げている。しかしまだ走れる。


ゴールした。

俺が先頭だった。

ヴィクターがすぐ後に続いた。


馬から降りた。

馬の首をもう一度叩いた。

「よく走った」


試験官たちが記録を取っていた。


体力試験の三種目が終わった。

しかし、順位は発表されなかった。


試験監督が告げた。

「体力試験の結果は、学力・論理力の結果と合算の上、一次試験の総合順位として発表する。個別順位の発表はない」


俺は頭の中で計算した。

走力の転倒がなければ…

水泳も乗馬も先頭で、走力の後半追い上げを合算すれば、体力全体で最上位争いは確実だった。

転倒があった。

しかし水泳と乗馬で取り返した。

実際どの順位にいるか、今は分からない。


エドが馬から降りながら、俺の方を見た。

エドの乗馬の順位は上位の下あたりだった。技術より根性で乗り切った印象だ。しかしエドの表情には、諦めの色がなかった。

「お前、乗馬も得意なのか」

「準備していた」

「……どこまで準備しているんだ」


俺は答えなかった。

必要なことを、やれる範囲でやった。それだけだ。


ヴィクターが馬を厩舎に戻しながら、俺の横を通った。

立ち止まりはしなかった。

しかし、小声で言った。

「走力で転ばされたな」

「ああ」

「水泳と乗馬で取り返したか」

「そのつもりだ。ただ、結果はわからない」

「……そうか」


ヴィクターが、わずかに歩みを遅めた。

それから、また歩き出した。

「……面白い奴だ」

その言葉だけが、背中から届いた。


体力試験が終わった。

俺は川の方を見た。

夕日がセルヴァ川に落ちていた。


悔しいか、と自分に聞いた。


ーー悔しい。

しかし結果はまだ見えない。

見えないまま、明日の論理力試験に向かう。

そこが、俺の本番だ。


ー フォン・クラーゼンの息子 ー


論理力試験の前日、宿舎での夜のことだった。

受験者は近隣の宿舎に二泊する規則になっていた。


俺が廊下を歩いていると、声がした。


「止まれ」


白金髪の少年が、廊下の壁に寄りかかって立っていた。

フォン・クラーゼン家の御曹司。

ヴィクター・フォン・クラーゼンと、たしか試験監督が呼んでいた。


俺は止まった。

逃げる必要はない。


「お前が、昨日インクを浴びせられていた子か」

ヴィクターは言った。

「そうだ」

「それで新しい用紙を要求した。落ち着いていたな」


俺は答えなかった。

褒めているのか、試しているのか、まだわからない。


「名前は」

「ルーク・レギナルド」

「年齢は」

「5歳だ」


ヴィクターが、わずかに眉を動かした。

「5歳で受験するのか」

「そうだ」

「なぜ?」


俺は少し考えた。

正直に言うべきか。しかし何を正直に言うのか。

「王宮学校を出れば、何でもできる」

俺は言った。

「それだけか」

「今はそれだけで十分だ」


ヴィクターが、俺をしばらく見た。

その目に何かが生まれていた。

敵意ではない。

軽蔑でもない。

関心、だった。


「三度目の受験だと聞いた」

俺は言った。

ヴィクターの目が、鋭くなった。

「誰から聞いた」

「宿舎の者から」

「……そうか」


ヴィクターは壁から身を離した。

「俺は最終試験で毎回落ちる」

「知っている」

「兵士に嫌われるからだ。評価をもらえない」

「知っている」


ヴィクターが止まった。

「知っているなら、何かアドバイスはないのか」


俺は考えた。

言うべきことがあるとすれば一つだけだ。


「評価は、もらうものじゃない」

俺は言った。

「与えるものだ」


ヴィクターが、俺を見た。

「……どういう意味だ」

「兵士がお前を評価するのではない。お前が兵士を評価し、認め、動かす。その結果として、評価が返ってくる」


しばらく、沈黙があった。

ヴィクターは何も言わなかった。

しかし、その目が変わった。


「5歳が偉そうなことを言う」

ヴィクターはそう言って、廊下を歩いていった。

足音は荒くなかった。

静かだった。


俺はその背中を見送って、自分の部屋に戻った。


韓非子は言う。

「人は利によって動く。しかし義によって留まる」


ヴィクター・フォン・クラーゼン。

三度落ちた理由と、三度受けた理由が少しだけ、見えた気がした。


ー 父王の間で エドワード三世の視点 ー


試験初日の夜、エドワード三世は執務室にいた。


田中孝一として生きた前世から30年。王として生きることに、今は迷いがない。

しかし今夜は珍しく、手が止まっていた。


試験監督官から、一通の報告書が届いていた。

内容は短かった。


「ルーク・レギナルド受験名義の者、本日の学力・体力試験を問題なく通過。試験あらしの妨害を受けるも、動揺なく対処。特記事項:最年少受験者(5歳)にもかかわらず、持久試験では最後まで完走。試験中の態度は終始冷静かつ礼節あり」


エドワード三世は、その文を三度読んだ。


田中孝一は工場で生きた。

最初の五年、誰も信用しなかった。いや、信用する暇がなかった。毎日が、火事場だった。

転生してこの王国に生まれたとき、最初に思ったのは…

また、一からだ、ということだった。


王族として生まれたが、前の王は強かった。

実力を証明するまで、誰も動かなかった。

制度を作ることで、人を動かせると知ったのは30代の頃だった。


それが今、末の王子に再び重なって見える。

前世の記憶を持つ者が、また生まれてきたのか。

それとも俺の血が、そういう子を作ったのか。


どちらでも、今は関係ない。


エドワード三世は静かに息を吐いた。

ルークに与えた言葉を思い出す。

「誰もお前を監視しない」


あの子は、その言葉の意味を正確に受け取った。

目を見れば、わかった。


田中孝一として生きたとき、誰かにそう言ってもらえる人間がいたら、と何度思っただろうか。

自分だけが知っている孤独の中で、前を向き続けることの疲れ。


この子には、できる限り、遠回りをさせたくない。

しかし、遠回りをさせなければ、身につかないものがある。

それも知っている。


エドワード三世は羽ペンを取り直した。

今夜も、書類は山積みだ。

しかし今夜は少し、手の重さが違った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ