第5王子、試験場へ
ー 試験の朝 ー
試験当日の朝、俺は鏡の前に立っていた。
映っているのは、五歳の子供だ。
金の髪。青い目。小さな手。王宮の仕立て屋が誂えた、深紺の上着。
しかしその目の奥にいるのは…
四十九年分の経験を持つ、桐島誠司だ。
今日から、俺は「ルーク・ヴァルト・レギナルド」ではない。
受験票には、「ルーク・レギナルド」と書いてある。
父王からの勅命だった。
試験監督官を除き、受験者に王子であることを知らせてはならない、と。
理由は言われなかった。しかし理由は分かった。
王子が受けると知れれば、周囲の態度が変わる。
忖度が生まれる。
あるいは敵意が生まれる。
どちらも、俺が本当に欲しいものを遠ざける。
俺が欲しいのは、正確な情報と、公正な評価だ。
「ルーク様、お支度が整っております」
マリアの声がした。
俺は鏡から目を離した。
「行こう」
試験会場は、王都の南区にある「王立評価院」だった。
普段は行政文書の審査に使われる施設らしい。
今日だけ、試験会場として開放される。
馬車で向かう間、俺は窓の外を見ていた。
王都の朝は早い。
市場の商人が荷を運ぶ。パン屋の煙が路地に流れる。
子供たちが石畳を走る。
前世の東京とは違う。
しかし人が動く朝の空気は、どこでも同じだ。
孫子は言う。
「始計篇──まず算せよ」
戦う前に、まず数を揃える。
情報を揃える。
条件を揃える。
俺はすでに、頭の中に試験の構造を描いていた。
受験者総数は200名。
加えて、国王特権者が40名。
学力50、体力20、論理力30の比重。
一次を通過した後、最終試験は1000人の兵士を使った模擬戦。
合格率は受験者総数の5パーセント。
240名中、12名と国王特権者の入学希望者
その中で王権特権者が上位5%を取ると、合格者は0
俺の不利は明白だ。
五歳。最年少受験者。
体力では成長した十二歳には絶対に勝てない。
しかし、勝たなくてもいい。
体力は比重20だ。
学力50と論理力30の合計80で、体力の不利を埋める。
そういう計算を、俺はすでに三ヶ月前に終えていた。
ー 評価院 ー
王立評価院の前に着いたとき、俺は人の多さに少し驚いた。
試験開始は午前8時。俺が到着したのは7時半だった。しかしすでに、正門の前に列ができていた。
見渡せば、様々な年齢の子供がいる。
12歳と思しき少年が、腕を組んで正門を睨んでいる。
鎧のような上着。
使い込まれた革の靴。
従者を二人連れている。
少女が、書物を胸に抱いて静かに立っている。
10歳前後の男児が3人、固まって何かを話している。
声が大きい。
笑い声が聞こえる。
そして、俺の隣に、誰かが立った気配がした。
振り向くと、男の子がいた。
7歳か、8歳か。小柄だが目が鋭い。
着ているものが違う。
深紺の上着を着た俺とは対照的に、その子の服は薄く、何度も洗われた布地だった。靴は泥が乾いている。
手に何かを持っていた。
木の板だった。薄い板の上に、削った炭で何かが書いてある。
俺が見ていると、その子が目を合わせた。
逃げなかった。怯まなかった。ただ、まっすぐに俺を見た。
「受験か?」
俺は言った。
その子は少し間を置いて、頷いた。
「そうだ」
声は低かった。
見た目の年齢のわりに、落ち着いた声だった。
「名前は?」
「エド。エド・ラルフ」
苗字がある。平民でも苗字を持つ者はいる。しかし服の質と、その目の奥にある何かが、俺の中で一致しなかった。
「俺はルーク・レギナルドだ」
俺は言った。王子の名は出さない。それが今日のルールだ。
エドは少し俺を見てから、また前を向いた。
「レギナルドか。聞いたことがある名だな」
「よくある名前だ」
俺は言った。
エドは何も言わなかった。
しかし、その口元が、わずかに動いた。
笑ったのか。それとも別の何かか…
木の板に書かれた文字が、見えた。
計算式だった。
複利の計算。借金の返済計画。数字が整然と並んでいた。
俺は黙って、その式を目で追った。
間違いはなかった。
しかし、この計算式を書いた理由が、わからなかった。
試験に出るのか?
それとも、ただの習慣か?
「学力はどこで身につけた」
俺は聞いた。
エドはしばらく黙っていた。
「働きながら、見て覚えた」
それだけ言って、また黙った。
下働き、と俺は頭の中で書いた。
見て覚えた、という言葉の重さを、俺は知っている。
前世でも、独学で這い上がってきた人間は、確かな目をしていた。
エド・ラルフ。
7歳か8歳。
下働きの出身。
計算が速い。
目が鋭い。
俺はノートの見えない欄に、その名前を書いた。
ー 試験あらし ー
正門が開いたのは、8時ちょうどだった。
受験者が列をなして中に入る。
俺とエドは、自然に並んで歩いていた。
評価院の中は広かった。
石畳の廊下。高い天井。壁に王国の紋章が刻まれている。
奥の大広間に、長机が並んでいた。
席は番号で決まっている。
俺の席は中央列の前から三番目だった。
エドの席を確認すると、後方の右端だった。
俺たちは頷いて、それぞれの席に向かった。
席に着いて、俺は周囲を素早く見渡した。
前列の右端に、その少年がいた。
年齢は12歳。身長は子供のそれではない。
すでに成人に近い体格を持っていた。
白金の髪。灰色の目。整った顔立ち。
しかしその目に温度がなかった。
従者を4人連れてきていた。
試験会場の入り口で従者は待機させられているはずだが、交渉して一人を中まで連れ込んでいる。
周囲の子供たちが、その少年から距離を取っていた。
意識して避けているのではない。
自然に、重力のように、人が遠ざかっていた。
「フォン・クラーゼン家の御曹司だ」
隣の席の少年が、小声で俺に言った。
「東部三侯の一角。今年で三度目の受験だ」
三度目。
つまり、最後の受験だ。
俺は少し考えた。
三度目で、なぜまだ試験を受けているのか。
国王特権を使えば、試験なしで入学できる。
フォン・クラーゼン家ほどの東部侯なら、その資格は十分にある。
それを使わない理由が、あるということだ。
隣の少年が続けた。
「一次は毎回通過している。しかし最終試験で落ちる。1000人の兵士から、評価をもらえない」
「なぜだ」
「兵士に嫌われているからだ」
その言葉の意味を、俺は考えた。
最終試験の構造上、1000人の兵士から1ポイントずつの評価で合否が決まる。
つまり、将軍として、あるいは軍師として、実際に兵士たちが「この人物に従いたい」と思うかどうかが問われる。
嫌われていれば、落ちる。
東部侯の御曹司が三度落ちている理由が、そこにある。
試験監督が入ってきた。
ざわめきが静まった。
試験開始の合図と同時に、俺は問題用紙をめくった。
その瞬間、机が揺れた。
後ろから、誰かがぶつかった。
俺の問題用紙が、床に落ちた。
インク壺が倒れた。問題用紙に、黒い染みが広がった。
「あ、すまないな」
声がした。
振り返ると、10歳ほどの少年が立っていた。申し訳なさそうな顔をしていた。しかし目が笑っていなかった。
後ろの席の子だ。
周囲が静まり返っていた。
試験監督が気づいていた。しかし動かなかった。
俺は床から問題用紙を拾い上げた。
染みは、最初の問題の一部にかかっていた。
読めないわけではない。
しかし、汚れた状態で試験を受けるのは、気分がいいものではない。
「監督官」
俺は静かに手を挙げた。
「問題用紙の交換をお願いしたい。インクで汚染されました」
監督官が近づいてきた。
問題用紙を確認した。
「……交換します」
新しい用紙が渡された。
後ろの少年は、すでに自分の席に戻っていた。
試験あらし。
それだった。
国王特権者の中に、素質ある者の数を減らすために受験者を妨害する者がいる。
俺は前を向いた。
感情を動かさない。
これは想定の範囲内だ。
孫子は言う。
「乱を治むること方の如し 混乱の中でも、整然と動け」
問題用紙を開いた。
学力試験、開始。




