4歳11ヶ月
ー 春の終わり ー
誕生日まで、あと一ヶ月だった。
五歳になれば、王子としての正式な教育が始まる。マリアからそれを聞いたのは、まだ四歳になったばかりの頃だった。
王宮学校
兄たちが全員通った場所。貴族の子弟も通う場所。礼法、語学、歴史、算術、剣術。王族として生きるために必要なことを、体系的に学ぶ場所。
そして.魑魅魍魎が最初に顔を合わせる場所でもある。
俺は前世で似たようなものを知っていた。
コンサル会社に入社した初日、先輩社員に言われた言葉を覚えている。
「ここは友達を作る場所じゃない。使える駒を見つける場所だ」
あの言葉は正しかった。
そして間違ってもいた。
使える駒は必要だ。
しかし、人は駒だけではない。
韓非子は言う。
「君主は術を持て。しかし仁を忘れるな」
制度と人心は、どちらか一方では足りない。両方が揃って、初めて組織は動く。
俺は窓の外を見た。春の庭に、花が咲いていた。
あと一ヶ月。準備する時間は、まだある。
ー ノートの中身 ー
四歳の間に、俺が集めた情報をまとめると、こうなる。
アルベルト兄上
完璧を演じる第一王子。
東の貴族三家を取り込み、盤石に見える。
しかし内側で何かを計算している。
感情が読めない分、崩れたときの反動が読めない。
オスカー兄上
政治に無関心。
しかし才能は本物。
今は関係ないが、将来の変数になりうる。
ジュリアン兄上
焦りが弱点。
西の商業ギルドと繋がりを持ち始めた。
資金力で勝負しようとしている可能性がある。
しかしお金で買った忠誠心は、より高い値段が出れば消える。
シオン兄上
不明。
これだけが、俺のノートに「不明」と書いてある唯一の項目だ。
父王
何かを知っている。
確信はないが、俺の目を見たときの反応が、普通ではなかった。
そして、宮廷全体の財政と派閥の構造。
ヴァルト王国の財政は表面上は安定しているが、構造に複数の問題を抱えている。税制が古い。軍事費が肥大化している。地方の報告と中央の数字が合っていない。
前世で三施設の火の車を立て直したとき、最初にやったことと同じだ。
現実を数字で把握する。感情を排して構造を見る。
そこから始める。
王国でも、同じだ。
ー シオンの気配 ー
王宮学校の開始を二週間後に控えた夜のことだった。
眠れなかった。
三歳の頃から、この宮廷で眠れない夜が何度かあった。
前世の記憶が夢に出てくることがあったからだ。麻衣の笑顔。康介の泣き崩れる姿。達也の冷たい目。病院の廊下と蛍光灯。
その夜もそうだった。
俺は起き上がり、水を飲んで、窓の外を見た。
宮廷は静かだった。深夜の石畳に、月の光が落ちていた。
そのとき、気配があった。
廊下だ。
ルークの部屋の外、廊下に何かがいる。
足音はない。息の音もない。しかし確かに、何かがいた。
俺は動かなかった。
扉の前で立ち止まり、そして、通り過ぎた…
足音もなく。気配だけが、すうっと消えた。
俺はしばらく、扉を見つめた。
夜警の騎士ではない。あの気配は、騎士の重い足音とは全く違った。
シオン兄上か…
確信はない。しかし、そう思った。
何かを確かめに来たのか。あるいは、ただ通り過ぎただけなのか。
俺にはわからなかった。
ただ、あの気配が俺の扉の前で一瞬、止まったことは、確かだった。
気のせいかもしれない。
しかし、気のせいにしておくことは、できなかった。
俺はノートを取り出して、一行書いた。
シオン兄上が、俺を認識した可能性がある。
ー 父王からの言葉 ー
王宮学校の開始を三日後に控えた朝、父王から呼ばれた。
今度は謁見の間ではなかった。執務室だった。
侍臣が二人いたが、父王が目で示すと、二人は静かに部屋を出た。
父王と、二人きりになった。
父王は机の前に立っていた。俺は部屋の中央で、父王を見上げた。
しばらく、沈黙があった。
父王が口を開いた。
「三日後から、お前の教育が始まる」
「はい、父上」
「王宮学校は、優しい場所ではない」
俺は頷いた。
知っている。
「貴族の子弟が集まる。それぞれに、後ろ盾がある。それぞれに、思惑がある」
「はい」
「お前は第五王子だ。誰もお前に期待しない。誰もお前を恐れない」
俺は黙って聞いた。
「それは…弱さでもある。しかし」
父王が、少し間を置いた。
「使い方によっては、強さにもなる」
俺は、父王の目を見た。
あの重さのある目が、俺をまっすぐに見ていた。
これは、経験者の言葉だ。
誰にも期待されない場所から始めた人間の言葉だ。
前世の俺と、同じだ。
医師でもない、コネもない、業界の経験もない人間が、病院の理事長として魑魅魍魎の世界に飛び込んだときの感覚と…
同じだ…
「……父上」
俺は言った。
「誰もお前に期待しないということは…」
「誰もお前を監視しないということでもある」
父王が、静かに言った。
それだけだった。
父王は視線を外し、窓の外を見た。
俺は深く礼をして、執務室を出た。
廊下に出て、俺はしばらく歩いた。
父王の言葉が、頭の中に残っていた。
「誰もお前を監視しない」
それは、まるで、同じ経験をした人間が、後輩に贈る言葉のようだった。
俺の中の仮説が、少しだけ、形を持ち始めた。
まだ確かめられない。
しかし、いつか確かめる日が来る。
俺は前を向いて歩いた。
三日後、王宮学校が始まる。
魑魅魍魎の坩堝に、第五王子ルークが飛び込む。
誰にも期待されない。
誰にも監視されない。
後ろ盾もない。
派閥もない。
実績もない。
あるのは、四十九年分の経験と、二冊の本の知恵と、麻衣への誓いだけだ。
汚名を晴らした。
しかし、まだ終わっていない。
麻衣の死の真相は、まだ闇の中にある。
前世でできなかったことを、この世界でやる。
前世で守れなかったものの分まで、この世界で誰かを守る。
孫子は言う。
「始めは処女の如く、後は脱兎の如し」
今は、まだ処女の時だ。
しかし、その時は、もうすぐ終わる。
廊下の突き当たりで、俺は足を止めた。
宮廷の奥、シオン兄上の部屋がある方角に、昼間だというのに灯りが一つ灯っていた。
窓の向こうで、その灯りは揺れもせず、ただそこにあった。
誰かが…こちらを見ている気がした。
俺は、その窓を三秒だけ見た。
それから、目を逸らした。
今日は、まだその方向に歩く必要はない。
歩くべき日は、来る。
三日後、俺は王宮学校へ行く。
エピローグ 完
今後、王宮学校編にと考えています。
異世界転生といえば、魔法が使えたり、チートありきですが、主人公の武器は経験と知恵と2冊の本だけです。
今後も、しっかり書きますので、宜しくお願い致します。




