兄たちの影
四歳になった頃、俺は兄たちの姿を遠くから観察できるようになった。
第五王子が庭を歩いていても、宮廷の誰も気にしない。廊下の端に座っていても、誰も追い払わない。それが俺の自由だった。
アルベルト兄上を最初に見たのは、中庭だった。
十七歳。金の髪。深い青の目。父王と並んで歩く姿は、完璧だった。周囲の貴族たちが、自然と彼の方を向いていた。
しかし俺は、その目を見た。
父王と話しながら、視線が別のところを向いていた。
計算している目だ。前世で何度も見た。会議室で笑顔を作りながら、頭の中で別の算段をしている人間の目。
アルベルト兄上は、完璧な第一王子を「演じている」
強敵だ。
しかし、完璧すぎる人間は崩れるときに一気に崩れる。
ジュリアン兄上は訓練場で見た。
十五歳。鋭い動き。若い騎士たちを率いて剣を振るう姿に、切迫感があった。古参の貴族がいない。全員、若い。あるいは新興の家の出身だ。
既存の権力構造の外から人を集めている。明確な戦略だ。
しかし、焦りが滲んでいた。
アルベルトを意識しすぎている。
それが今の弱点だ。
オスカー兄上は庭の隅で見た。
十六歳。細い体。ぼんやりとした目。一人で紙に向かっていた。
遠目でも、その絵の精緻さは伝わってきた。王位争いの渦中にあって、この王子だけが別の世界にいる。
今は関係ない。
しかしこの才能が、いつかどこかで力を持つかもしれない。俺はオスカー兄上の名前をノートの片隅に書いた。
シオン兄上は…
見えなかった。
一度だけ、廊下の向こうに影を見た気がした。夕暮れの、光と影の境界線に、誰かが立っていた。
背が高くない。細い。それだけしか見えなかった。
しかしそのとき、俺は足が止まった。
前世で、似たような感覚を覚えたことがある。
病院で、ある医師と廊下ですれ違ったとき。表向きは温和で、物静かで、何も問題のない医師だった。しかし廊下ですれ違った瞬間、何か冷たいものが背筋を走った。その医師は半年後、医薬品の横流しで摘発された。
廊下の向こうの影は、すぐに消えた。
シオン兄上のことは、まだ何もわからない。
しかし
忘れない…
ー 父王の目 ー
四歳と数ヶ月が経った頃、俺は初めて父王と二人になった。
偶然だった。庭を歩いていた俺が、木陰に父王がいるのに気づいた。臣下も侍従も誰もいない。ただ一人、石造りのベンチに腰かけて、空を見上げていた。
父王の横顔を、俺は初めてゆっくりと見た。
五十代
かつては戦場に立ったこともある体格。しかしその目に重さがあった。
疲れではない。
何かを長い間、抱え続けてきた人間の目だ。
俺は思わず立ち止まった。
見覚えがある目だった。
病院の廊下で壁に手をついていたあの夜、きっと自分もああいう目をしていた。
父王が、俺の視線に気づいた。
目が合った。
逃げなかった。逃げる必要を感じなかった。
父王も、逃げなかった。
しばらく、無言だった。庭の風が、木の葉を揺らした。
父王がふいに口を開いた。
「ルーク」
「……はい、父上」
「お前は、怖くないのか」
俺は少し考えた。
「何が、でしょうか」
「この宮廷がだ」
俺はもう一度、考えた。
前世で七年間、魑魅魍魎の渦巻く病院経営の世界で生きてきた。告発文、嫌がらせ、裏切り、派閥争い。怖くなかったと言えば嘘になる。
怖かった。
しかし、もっと怖いことがあった。
「怖いです」
俺は言った。
「しかし、もっと怖いことがあります」
「……何だ」
「何もしないことが、怖いです」
父王の目が、わずかに動いた。
何かを確かめるような目から、何かを認識したような目へ。
父王はしばらく俺を見ていた。それから、静かに言った。
「そうか」
それだけだった。
父王は立ち上がり、庭を歩いていった。
俺はその背中を見送りながら、考えた。
あの目は何だったのか。驚きを隠した目。しかし隠し慣れている人間の隠し方だった。
根拠はない。
しかし、俺の胸の中に、一つの仮説が生まれた。
まだ確かめる術はない。保留にしておく。
その夜、父王は執務室で一人、窓の外を見ていた。侍臣は下がらせた。
田中孝一、と心の中で呟いた。
それが、前世の自分の名前だった。
従業員十二人の町工場。地域に愛された、小さな会社。自分より従業員を、客先を、家族を優先した。そして気がつけば過労で倒れ、目を開けたらこの世界にいた。
あれから三十年が経つ。
王として、人を大切にすることだけは変えなかった。前世と同じように。
そして今日
ルークを見た。
四歳の末の王子が「何もしないことが怖い」と言った。
あの目は、子供の目ではなかった。
何かを長い間、抱え続けてきた人間の目だった。
重さを知っている人間の目だった。
田中孝一は静かに息を吐いた。
「違うかもしれない」
しかしもし、そうなら。
今は、何も言わない。
ただ、見ていよう。
あの子が、どこへ向かうのかを…




