三年生への進級 ヴィクターの夜
その夜、ヴィクターは一人だった。
部屋の机の上に、1通の手紙があった。
家紋入りの封蝋。フォン・クラーゼン家の印だ。
進級発表の日に合わせて届くよう、父が手を回していた。
ヴィクターは封を切った。
父の筆跡だった。几帳面で、一字一句に無駄がない。
手紙には三つのことが書かれていた。
一つ目。
「同期の中に、国王陛下のご子息がおられると聞き及んでいる。詳細は伏せられているが、フォン・クラーゼン家として把握している。お前はそのご子息に寄り添い、信頼を勝ち取ることに注力せよ。これは家の将来に直結する命である」
ヴィクターは一度、手紙から目を離した。
国王のご子息。
同期に…
わかっていた。
2年間、俺を見てきた。
態度の端々。言葉の選び方。視野の広さ。
何よりあの入学式の挨拶…
5歳が持つにしては、あまりにも重い言葉だった。
しかし確信はなかった。
父の手紙が、それを確定させた。
ヴィクターは続きを読んだ。
二つ目。
「兄、ライナートが西方の戦地にて負傷した。詳細は軍の通達によるが、右腕の損傷が深く、剣を握れなくなる可能性がある。フォン・クラーゼン家は軍人の家柄である。剣を持てぬ者が家督を継ぐことは、家の威信に関わる。もしライナートが家督を継げぬとなった場合、お前がその責を担う覚悟を持て」
ヴィクターは手紙を持つ手を、静止させた。
兄が、負傷した。
ライナートは、ヴィクターの4歳上だ。
兄は軍人学校に入り、早くから家の為に戦争に出ていた。
幼い頃から背中を見てきた。剣の稽古をつけてもらった。
口数は少ないが、いつも的確だった。
その兄が…
右腕を…
感情を、押し込んだ…
今は感情を出す場面ではない。
フォン・クラーゼンの男は、感情を顔に出さない。
それが家訓だ。幼い頃から叩き込まれてきた。
しかし胸の中で、何かが重くなった。
ヴィクターは三つ目を読んだ。
三つ目。
「祖母より、くれぐれも体に気をつけるようにと伝言がある。学院でのことは何も心配しておらぬが、食事と睡眠だけは怠るなと、それだけを言っておった」
ヴィクターは、そこで初めて手紙から顔を上げた。
祖母は72歳だ。
ヴィクターが学院に入る前夜、祖母は台所で粥を作って待っていた。
「男は腹が減っては戦えぬ」と言いながら、椀を二杯よそった。
戦略も家訓も何もない、ただそれだけの夜だった。
手紙を三つ折りにして、机の引き出しに仕舞った。
窓の外に夜が広がっていた。
遠くの棟で、笑い声がした。
中庭に集まっている同級生たちの声だ。
ヴィクターは立ち上がり、窓に近づいた。
灯りが中庭に揺れていた。
仲間の影が、ランプの周りに集まっていた。
国王のご子息の影が、その中にあった。
ヴィクターはしばらく、その光景を見ていた。
信頼を勝ち取れ、と父は言った。
しかし、2年間、俺はあの男を観てきた。
あの男に、「勝ち取られる」側に回るつもりはない。
あれは、対等でなければ意味がない相手だ。
ヴィクターは窓から離れた。
机に戻り、剣術の記録ノートを開いた。
明日から本番だ。
感傷に使う時間はない。
ただ、引き出しの中の手紙が、一晩中、重さを持ち続けた。




