爪牙噛合
戦場が、少しずつ遠くなった。
黎明義軍の4400名が前方軍と戦っている。シオンの3万5000が後方を叩いている。アルベルトの本陣が横っ腹を押さえている。
その全てを遠くに感じながら、バロックは馬を進めていた。
1人単騎で…
黒刀隊の側近が後ろについてくる。しかしバロックはそれを気にしない。ただ前を見ていた。
遠くに、男がいた…
大きかった。馬上にいた。戦場全体を見ていた。
しかし気がついた男も今はバロックのみを見ていた。
バロックが近づく…
男が動かない…
近づく…
また近づく…
やがて、2人は声が届く距離になった。
「生きていたか、バロックよ…」と、ブレストが言った。
低い声であった。驚いてはおらず、ただ確認するような声だった。
「お前もな、ブレスト。」とバロックが言った。
2人が向かい合った。
ブレストは大きかった。バロックより頭一つ分は大きかった。傷だらけの顔。不気味に笑う目。腰に……、新しい杯がぶら下がっていて、とても白かった。
バロックの目がその杯を見た。
「相変わらずの趣味だな」とバロックが言った。
「これがわしの流儀だ」とブレストが言った。「お前の眼帯も、似合わんな…」
「これはお前のせいではないぞ」とバロックが言った。
「知っている…」とブレストが言った。
「わしがやったなら、今頃お前は生きていないわ…」
どちらも笑わなかった。
しかしそれは、侮辱ではなかった。
事実のみだった。
「何年ぶりだ?」とブレストが言った。
「30年は経つかの…」とバロックが言った。
「そうか。わしはもっと経った気がするがな…、あまりにお前に会わずでの。」
「お前はその間に…、ずいぶん遠くへ行ったな」
「行かざるを得なかったのだ…」とブレストが言った… 静かに…
「知っているだろうに…」
「噂は聞いたが、わしはお前から聞かんと何ともな…」
「ゆえに、詳しいことは知らん!」
「詳しいことなど、まぁ、今やどうでもいい…」とブレストが言った。
「今は…、お前と語らいたいものよ…」と、剣を持ち直した。
語らい…
その言葉が、戦場の中で浮いていた。剣と槍と血の中で、その言葉だけが、別の温度を持っていた。
「語らいというには、いささか物騒な場所だな…」とバロックが言った。
「わしは、いつもこういう場所でしか、語らいができん…」とブレストが言った。
「静かな場所では眠くなるわ…」
バロックが「相変わらずだ…、やれやれ…」と言った。
「お前は何のために戻って来た?」とブレストが聞いた。
「若い奴に頼まれてな」とバロックが言った。
「若い奴だと?」
「第5王子っていう、10歳の子供での!」
ブレストが「……10歳の子供だ?それが眠って棺桶に半分足を突っ込んでいた泣き虫の、お前を動かしたか?」と言った。
少し間を置き、「で、何をした?」
「ははっ羨ましいか? そうだな505名の名前を覚えてくれたのだ!」とバロックが言った。
ブレストが、黙った…
長い沈黙だった。
「505名…」と繰り返した。
「お前の部下のか…」
「そうだ… 30年も前に死んだ者たちだ…
わしの油断で死んだ者たちだ…」
「それを10歳の子供が覚えたと…」
「全員の名前をな… 忘れないと言ってくれたのだ…」
ブレストが黙った…
長い沈黙であった…
戦場の音が遠くで鳴っていた…
剣の音、叫び声、蹄の音、しかし2人の間では、実に静かであった…
「505名…」とブレストが繰り返した。
「その数を10歳が背負ったか…」
「背負ったのはわしだが、あいつも小さな背中で少しだが寄り添い、背負ってくれた。実に不思議な子供での…」とバロックが言った。
「その重さを共に持とうと言ってくれた子供がなのだ…。 それだけだ…」
「……お前は変わったな、バロック」
「そして、少し羨ましく思うぞ、ほんの少しだがな…」とブレストが言った。
「30年経てば変わる、そうか少し羨ましいか! まぁその点ではわしは幸せだ。」
「わしは変わらんかった」とブレストが言った。静かに…
「誰も信じなかった。誰にも信じられなかった。それだけは、あの時より変わらなかった…一部掘っておける奴らは出来たがな…」
「人は知らんが、お前の身に起きた事は少し知っている…」とバロックが言った。
「しかし、お前は生き残った。それだけで十分であろうが…」
ブレストが「変わった慰め方をするの…」と言った。
「慰めではない。事実だ…その子が教えてくれたのだ、それまでは形は違えど、わしは世捨て人であったからな…」
ブレストが「変わった子供だな…縁があったら会わせろ、まぁ切るかもしれんがな…」と言った。
「ああ」とバロックが言った。「まぁわしがいるから切らせんがな」
ブレストが馬から降りた…
バロックも降りた…
2人が地に立った。
「とりあえず、もう少し遊んでいけ、語らいの続きは… 剣でするか?」とブレストが言った。
「そうしよう」とバロックが言った。
ブレストが剣を抜いた。大きな剣だった。ブレストの手の中では、まるで木の枝のように見えた。
バロックが双剣を抜いた。右剣を構え、左剣も構えた。
「右目がなくて、大丈夫か?」とブレストが言った。
「何をまだまだお前相手に良いハンデだ! 左目だけで十分だ」とバロックが言った。
「そうかでは、もう少し遊ぶとしよう」とブレストが言った。「では、久しぶりに、だな…」
「ああ」とバロックが言った。
「久しぶりだ!!」
最初の一合は、軽かった。
ブレストが横に払う。バロックが受ける。弾いた。ブレストが引く。バロックが追わない。
お互いが、様子を見ていた。
30年のブランクがあったのだ、互いの癖を、体が覚えているかどうか。互いの速さが、変わっているかどうか。その確認であった…
「まだ本気を出していないな?それとも年老いたかお主?」とブレストが言った。
「お互い様だ…クソじじい」とバロックが言った。
ブレストが「そうだな」と言って、また剣を構えた。
2回目の一合。
今度は火花が出るほどに、重かった。
ブレストの一撃が、バロックの右剣を押した。バロックが体ごと受け流す。左剣で返す。ブレストが下がる。また来る。
速かった…
あの体で、あの歳であの速さだった…
「ほう、まだ衰えていないな」とバロックが言った。
「ずいぶん休憩していた割に、お前もな…」とブレストが言った。
「右目がなくても、そのさばきが出来るとは、やるではないか!」
「右目を失った時から、左目だけで戦う練習をしてきた」とバロックが言った。「30年間、木の枝で素振りをしてきたのだ」
「……あいかわらず、真面目な奴だ」とブレストが言った。
「お前こそ」とバロックが言った。
「その体、その剣、まだまだ現役の体だな。30年酒だけかっくらって来たわけではなさそうで…、しっかりやって来た様だな」
「あぁ、戦ってきた…」とブレストが言った。「ずっと…、内でも外でも戦ってきた…」
その言葉に、重さがあった…
バロックが「……そうか」と言った。それだけだった。
3回目の一合…
4回目、5回目…
互いが削り合いを始めていた。
本気が、少しずつ混じり始めていた。
ブレストの剣が重くなった。バロックの双剣が速くなった。2人の動きが、少しずつ、若い頃に近づいていくようだった。
「お前の双剣……」とブレストが言いながら剣を振る。「ほぅ、まだあの動きができるか…」
「どの動きだ? これか?」とバロックが受けながら言う。
「昔、お前が使った。一瞬で3つの方向から来るやつだ…」
「覚えていたか?」とバロックが言った。
「忘れないわ」とブレストが言った。「あれで一度、わしは負けたからの…」
バロックが「あれは若い頃にしかできない」と言った。「今のわしには、無理だ」
「そうか」とブレストが言った。「では…」
重い一撃が来た。
バロックが受けた。体ごと押された。一歩後退した。
「今のわしにも、昔の力はない」とブレストが言った。「しかし体の重さは、増えた」
「……そうだな」とバロックが言った。
「お互い、別の強さになった」
「ああ」とブレストが言った。「死体の山を越えてきた重さだ」
黒刀隊の側近たちが、遠巻きに見ていた。
誰も近づかなかった…
近づける空気ではなかった。2人の間に張り詰めた何かが、周囲に近づく者を拒んでいた。
ルークが丘の上から見ていた。
「……すごい」とラウルが言った。
誰も答えなかった。
ミア姉様が「2人とも…本物ね」と小声で言った。
「ああ…」とルークは言った。
「あれは、止めには入れない」
「止めちゃダメよ、怒るから…」とミア姉様が言った。「あれは、おじじ殿の戦いだもの」
ルークが頷いた。
戦場の中に、2人だけの空間があった。老虎と老狼が、30年ぶりに向かい合っていた。
「人主の患いは、人を信ずることにあり、信ずれば則ち制せられる……」
ーー韓非子ーー
君主の悩みは人を信じすぎることにある。
信じれば制せられる。
ブレストはそれを身をもって知った男だった。
誰も信じなかった。
だからこそ生き残った。
バロックはその重さを、剣を交えながら感じていた。




