逆鱗
王都に来て、5ヶ月と3週間が経っていた。
修行の終わりまで、あと1週間だった。
ミア姉様の顔が、この3日で変わっていた。
完全に笑顔が消えていた…
ミア姉様は、どんな状況でも、どこかで最後の糸は…顔に残っていた人だった。
唯一は学院のあの時のみ…
しかし今は、何もなかった…
始まりは、1週間前だった。
ヴォルフ卿がミア姉様に、「北部と東部の税収の最終報告書をまとめてほしい」と言った。
5ヶ月分の調査の集大成だった。ミア姉様が3日かけてまとめ、数字は完璧だった。
矛盾の連鎖が、全部一本の線で繋がっていた。
提出した翌日、ランツ伯爵が来た。
「……ミア嬢。この報告書ですが。数字の出典が一部不明確です。書き直してください。」
出典は全部明示してあった。
全員がそれを知っていた。
しかしミア姉様は、「……わかりました」と言って書き直した。
翌日、ベルナー卿が来た。
「書式が法務省の規定と合っていない部分があります。統一して下さい。」
無論、書式は合っていた。
しかしミア姉様は、「……わかりました」と言って書き直した。
その翌日、クラウス卿が来て、報告書をミア姉様の机から持ち上げた。
「北部の軍の配置に関する記述は軍務省の許可なく含めることができません。該当箇所を削除して下さい。」
「……削除すると、繋がりが見えなくなります!」
「規定ですので…」
「……ヴォルフ卿に確認を致します。」
「……既に確認済みです。」
クラウス卿が、笑顔で言った。
持ち上げた報告書を無造作に、机に叩き戻した…
その夜、ミア姉様が俺に言った。
「消されるよ。全部消されたら、無意味な数字の羅列しか残らない…」
「……バックアップはありますか?」
「全部、頭に入ってる…」
「…消させてください。消された事実ごと、別の形で残します。」
ミア姉様が「……証拠にするの?」と言った。
そして「わかった」と言った。
しかし、声が明らかに疲れていた…
翌朝、ミア姉様が財務省に向かった。入り口でランツ伯爵が待っていた。
「……今日から執務室が変わります。別館の3階です。」
別館の3階は現在使われていない執務室だった。
窓が1つ…
机が1つ…
隣には誰もいない…
「…なぜ変わるのですか?」
「申し訳ございません。どこからかの手違いで、本館に余分な方が入っておりまして…」
笑顔で、丁寧だった…
その日、ミア姉様がいる別館の3階には、誰も来なかった…
書類も来なかった…
課題も来なかった…
呼ばれもしなかった…
隔離されたのだ…
夕方に宿に帰ってきたミア姉様が言った。「……今日1日中、誰にも会わなかった…」
その言葉が、部屋に落ちた。
「書類も来なかった…、課題も来なかった…、ただ静寂と窓が1つある部屋に、1日いた…」
エドが窓の外を見た。
「……ミア姉様の存在を消そうとしている」と俺は言った。
「……わかってる」とミア姉様が言った。
「でも……」
拳を握り、「腹が立つ……」と…
その声が、とても低かった…
これまでの怒りより、もっと深いところから来ていた…
翌日、ミア姉様が動いた。
ヴォルフ卿への面談を申し込んだ。
しかし取り次ぎの者に「代わりに副大臣たちが対応する」と言われた。
3人が揃って会議室に来た。
ランツ伯爵、ベルナー卿、クラウス卿…
ミア姉様が、3人と向かい合った。
「……5ヶ月分の記録が全部あります。ヴォルフ卿の指示の日付・時間・内容、誰が同席していたか、帳簿の矛盾、報告書が消された経緯、別館への移動。全部です!」
3人がその威圧に、少し固まった…
「これを……今日、話します。ヴォルフ卿を呼んでください。3人だけでは済みません!」
ランツ伯爵が、「ミ、ミア嬢…、見習いの方が独断で報告書をまとめるのは…」と言い始めた。
「……ヴォルフ卿の指示でまとめました。」
「……ヴォルフ卿はそのような指示を出した覚えがないとおっしゃっています…」
ミア姉様が、止まった…
「そんなはずは…」
「……ミア嬢。あなたはこの5ヶ月で規定を何度も逸脱されています。書式の不備、出典の不明確さ、軍事情報の無断記述…」
ベルナー卿が続けた。
「……ハイルベルク家のご令嬢ということで、これまで寛大に対応してきましたが…」
クラウス卿が、「……お嬢様には少し難しい案件だったようですね。」と言った。
笑顔の声だった。
失笑である…
蔑みの心無い笑い…
ミア姉様が、少し黙った。
それから「……もう一度、言ってみて下さい。」と言った。
声が、低かった…
静かで、低かった…
「……何でございましょうか?」とランツ伯爵が言った。
「ヴォルフ卿が指示を出した覚えがない、と言ったのですか?
」
「はい。ですから…」
「……嘘をついているのは、あなたたちです。」
会議室が、静まり返った。
「……私はこの5ヶ月で、王都の財務省の腐った部分を全部見つけました。北部の税収の操作。ハルト商会との繋がり。帳簿の誤差が小さすぎる理由…全部です。」
3人の顔色が、変わった…
「……その数字と証拠を今すぐここで出すことができます。ヴォルフ卿を呼ばないなら、別の場所に持っていきます。エルゼ卿のところでも、ハーゲン卿のところでも、ハイルベルク侯爵のところでも」
ランツ伯爵が「……ミア嬢、少し落ち着いて…」と言った。
「落ち着いています…。」
「……そのような態度は…」
「落ち着いていますと言っています。」
静かだった。
しかし声の奥に、炎があった。
冷たい炎だった…
ランツ伯爵が、少し間を置いて、言った。
「……では、その証拠とやらを提出していただきましょう。正式な手続きで。書式に従って。審査委員会を経て」
「……審査委員会の委員長は誰ですか?」
「ヴォルフ卿です…。」
ミア姉様が止まった…
3人が、笑顔になった。
ランツ伯爵が「……お嬢様のご努力は、大変すばらしいものでした。が、手続きというものがございまして…」と言った。
また有耶無耶にされる。
全部、わかっていた。
わかっていても、動けなかった。
ベルナー卿が「……ハイルベルク家のご令嬢が、このような場所で無駄な時間を使われるのは、ご家門の恥にもなりかねません。」と言った。
クラウス卿が「……第5王子殿下の見習いとして来られたのでしょうが、殿下も、このようなことに巻き込まれて、さぞお困りでしょうね…」と言った。
ミア姉様が…、ぴくりと動いた。
「……ルーク殿下は…、まだお年もお若い。ご自分ではわかっておられないのかもしれませんが、このような調査ごっこに関わらせることは、将来の殿下のご評判にも関わりますな…」
「調査ごっこ…」とミア姉様が言った。
声が、変わった。
「……そして、あの、なんでしたっけ、護衛の少年も…、施設出身とか?殿下のお側に置くには、少々素性が知れないというか…」
その瞬間だった。
ミア姉様が、動いた!
懐から短剣を抜いた。
素早く走った。
ランツ伯爵が目を剥いた。
短剣が、会議室の机に、深々と突き立てられた…
ランツ伯爵の手の、すぐ横に…
3人が「ひぃっ」と固まった。
ミア姉様が、短剣の柄から手を離さずに、ランツ伯爵を見た。
「貴様、もう一度言ってみろ!」
声が、氷の様に冷たかった。
笑顔もなかった。
怒りで震えてもいなかった。
ただ……、冷たかった。
「エドのことを、貴様もう一度言ってみろ…、ルークのことを、もう一度、その汚い口先で言ってみろ…」
ランツ伯爵が、何も言えなかった。
扉が開いて、フリッツが入ってきた。
俺とエドが後ろにいた。
報告を受けて走ってきた…
フリッツが部屋全体を一瞬で見渡した…
「ミアお嬢様…」と静かに言った。
ミア姉様が、フリッツを見たが、目に光が全くなかった…
「お嬢様…、短剣を…、収めてください。」
ミア姉様が、しばらく動かなかった。
それから、短剣を机から引き抜いた。
鞘に収めた。
ランツ伯爵が「……暴力行為です。謹慎処分を……」と震えながら言った。
フリッツが「承ります…。が、命があっただけ良かったですね…」と言った。
俺を見た。俺は頷いた。
「其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」
ーー孫子ーー
嵐のように速く、静かな時は森のように、攻める時は火のように。
ミア姉様の怒りが……初めて、形になって出た夜だった。
机に突き立てられた短剣は、3人の副大臣たちの心に、深く刺さったのだろうか…




