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生まれ直す前に

第1部  四十九年という荷物


一 水の底 ー

 水の中にいるのが、一番好きだった。

飛び込んだ瞬間、音が消える。世界が青くなる。

自分の呼吸だけが聞こえる。

どれだけ外が騒がしくても、水の中だけは静かだった。

誰も追いかけてこない。

誰の期待も、誰の視線も、水面の向こうに置いてこられる。


百メートル自由形

タイムが伸びるたびに、コーチが怒鳴った。

「桐島、もう一本!」

怒鳴り声さえも、俺には励ましに聞こえた。

オリンピック候補。その言葉を初めて聞いたとき、俺は十八歳だった。

大学に進学してからも続けた。

もう少し。もう少しだけ続ければ、本当に手が届く気がしていた。


電話が来たのは、大学二年の春だった。

「お父さんが——」

 母の声が震えていた。


 父は町工場を営む、寡黙な男だった。


従業員は十二人。小さな会社だったが、得意先には長年付き合いの深い企業が並んだ。客先の担当者が異動しても、後任が必ず引き継ぎで挨拶に来る。そういう会社だった。


 自慢話をしない。愚痴をこぼさない。毎朝早く出て、毎晩遅く帰る。従業員が困れば休日でも駆けつけ、客先で問題が起きれば自分が頭を下げに行く。

 俺が水泳を続けられたのも、父が朝四時に起きて練習に連れて行ってくれたからだ。


 その父が、過労で倒れた。

 そして、帰らなかった。


 後から聞いたが、父は数年前から体に異常を感じていたらしい。しかし病院に行く時間を、作らなかった。自分より会社を、家族を、客先を優先した。


 葬儀の日、取引先が五十社以上来た。従業員が全員泣いていた。

近所の人たちが花を持ってきた。


 俺はその光景を見ながら、思った…


 こんなにも多くの人に愛された人間が、なぜ自分を一番後回しにしなければならなかったのかと。


 答えは、出なかった。


一 這い上がる ー

 葬儀の後、俺は水着をバッグの底に仕舞った。

 以来、プールには行っていない。

 家には母と、歳の離れた妹の麻衣がいた。麻衣はまだ中学生だった。大学在学中から、俺は働いた。選んだのはコンサルティング会社だった。体力に自信があった。数字に強かった。人の話を聞く忍耐力は、水泳の長距離訓練で鍛えられていた。


 最初の五年は泥の中を這うようだった。しかし、這い続けた。

 成果報酬の世界は残酷だが、公平だった。医師免許も、弁護士資格も、家柄も関係ない。結果だけが物を言う。


 孫子を読んだのは、その頃だった。


「彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず」


 戦略の本質は情報と自己認識にある。敵を知り、自分を知る。それだけで勝率は劇的に上がる。


 韓非子は、もっと後で出会った。


「聖人に頼る政治は滅ぶ。制度に頼る政治は栄える」


 優れた個人に依存する組織は脆い。制度と仕組みで動く組織は強い。どんな業種でも、どんな時代でも、この原則は変わらない。


 二冊の本は、俺の仕事のバイブルになった。


 仕事に没頭するうちに、気がつけば独身のまま四十を過ぎていた。

 後悔はなかった。

 いや——正確には、後悔する暇がなかった。


ー 妹と義弟 ー

 麻衣が結婚したのは、俺が三十八歳のときだった。

 相手は河野康介。地域の中規模病院グループの次男で、事務長をしている男だった。

 初めて会ったとき、俺は好感を持った。

 愛想がよいわけではない。口数も多くない。


しかし話すと、言葉の一つ一つに誠実さがあった。数字に強く、現場をよく見ていた。麻衣を大切にしていることが、所作の端々からわかった。


「兄さん、康介さんはいい人だよ」


 麻衣が言った。

 麻衣は昔から、人を見る目が確かだった。


「そうだな」


 俺は頷いた。

 河野グループの病院は地域に三施設あった。本院と、二つの分院。しかし外から見ても、経営は決して楽ではないとわかった。

 コンサルの目で見れば、問題点はすぐに見えた。設備の老朽化。医師の偏在。診療報酬の取りこぼし。改善の余地は多くある。しかし誰も手をつけていない。


 その理由も、すぐにわかった。

 長男の河野達也がいたからだ。


河野達也。医師で、グループの後継者として育てられてきた長男。


 初めて顔を見たのは、麻衣の結婚式だった。


 愛想のいい笑顔だった。


 しかしその目は笑っていなかった。


 康介を見る目に、隠しきれない何かがあった。弟への軽蔑か。それとも…義妹に頭角を現されることへの警戒か。


 俺は麻衣に何も言わなかった。

 言う必要はなかった。麻衣はもう大人で、自分の選択をする権利がある。


 ただ、頭の片隅に記憶した。

 河野達也という男を、俺は信用しない、と…


ー 三人六脚① ー

 麻衣と康介の七年間を、俺は傍から見ていた。

 義父の河野泰三は、厳しい人だった。しかし公平だった。康介が事務長として懸命に働き、麻衣が経営サポートに回り、二人が並んで病院を支える姿を、義父は黙って見ていた。

 一方で達也は——医師としての仕事はこなすが、経営には無関心だった。いや、正確には「医師である自分が経営を学ぶ必要はない」という態度だった。


 それが義父の目にどう映ったか。

 答えは、義父の遺言に出た。

 義父が他界したのは、麻衣と康介が結婚して七年目の春だった。


 遺言は明確だった。


 病院グループの後継者は、長男の達也ではなく、「次男の康介に委ねる」と。

 達也の顔が、遺言読み上げの最中に、みるみる白くなっていくのを俺は見た。

 しかしそれは怒りではなかった。


 侮蔑だった。


 弟と、その妻と、傍から助言していた義兄への…

 冷たく、じっとした、侮蔑の目だった。


ー 三人六脚② 火の車と妹の死 ー

 康介が引き継いで、初めて全ての帳簿を開いたとき、俺も同席していた。

 三施設、すべて赤字だった。

 本院に至っては火の車だった。


 表向きの決算書は辛うじて体裁を保っていた。しかし内実は、設備の老朽化による修繕費の先送り、実態と乖離した在庫管理、不透明な外注費、そして医療報酬の大量の取りこぼし…


 どれか一つなら対処できる。

 しかし全てが同時に重なっていた。


 康介の顔が青くなった。麻衣は唇を引き結んだ。


「兄さん、助けて」


 麻衣がそう言ったのは、その日の夜だった。

 断る理由はなかった。

 俺はコンサルとして、二人の改革を外から支えた。数字の整理。優先順位の設定。職員との対話の設計。医師への交渉のロジック。

 少しずつ、確実に、数字は動き始めた。

 本院の赤字が縮んだ。分院の一つが黒字に転じた。

 しかし——達也は、黙って見ていなかった。

 会議での妨害。職員への陰口。行政への匿名の訴え。医師仲間を使った嫌がらせ。やることは陰険で、証拠を残さないやり方だった。

 それでも麻衣と康介は前を向いていた。


 麻衣が倒れたのは、再建に本格的な手応えを感じ始めた頃だった。


 心臓発作、と医師は言った。


 しかし、おかしかった。

 麻衣は三十六歳だった。健康診断で異常はなかった。倒れたのは、グループの関係者を招いた夕食会の翌朝だった。

 俺が連絡を受けて駆けつけたとき、麻衣はもう冷たくなっていた。


 不自然だ、と俺は思った。


 しかし証明できなかった。調べようとするたびに、壁があった。


ー 崩れた義弟と汚名 ー

 麻衣を失った後、康介は壊れた。


 最初は悲しみだった。それは誰でもそうなる。しかし康介の場合、悲しみは日を追うごとに別のものに変わっていった。


 自責。混乱。不眠。


 一ヶ月後、康介は会議の場で突然泣き崩れた。

 二ヶ月後、出勤できなくなった。

 三ヶ月後、医師から「重篤な抑うつ状態」と診断が出た。

 康介は、精神的に崩壊していった。


 そのタイミングで、達也が動いた。

 グループの経営が「再建途中で中途半端な状態に放置されている」という話が、外部に流れ始めた。

 コンサルとして関与していた俺の名前が、その「責任者」として語られるようになった。


 「素人のコンサルが口を出したせいで、経営が混乱した」

 「妹を使って病院に食い込んだ」

 「再建に失敗して、逃げた」


 全て嘘だった。しかし嘘は、繰り返されると事実のように聞こえる。

 達也のやり口は巧妙だった。自分では何も言わない。周囲の人間に語らせる。証拠が残らない。


 俺は怒りを感じた。


 しかし同時に、冷静にもなっていた。

 韓非子は言う。


「怒りに任せて動く者は、必ず墓穴を掘る」


 感情で動いてはいけない。しかし、このまま黙っていることもできない。


 選択肢は一つだった。


 引き受ける。


 汚名を着せられたまま逃げるのか。それとも、土俵の上に上がって、数字で証明するのか。

 俺の答えは、決まっていた。

 麻衣が命を削って守ろうとした病院を、俺が潰れるままにしておくことはできない。

 康介が心を壊しながらも前を向いていた仕事を、達也の思い通りにさせることはできない。

 押し付けられようが、汚名を着せられようが、引き受けた以上は、やる。


 父が、そういう人だったから…


ー 七年間の戦争 ー

 医師でない理事長への反発は、最初から激しかった。

 達也は院内に残っていた。医師として。そして——俺を潰すために。


「妹の縁故で乗り込んできた素人が、何をする気ですか」


 達也は面と向かっては言わなかった。しかし場の空気を作るのが巧かった。彼が少し目を細めれば、周囲の医師たちが同じ態度を取った。

 会議で発言するたびに「医師でもないのに」という空気が流れた。改革案を出すたびに壁があった。匿名の投書が行政に届いた。職員が引き抜かれた。外部への情報漏洩が続いた。


 しかし、俺は続けた。


 孫子は言う。

「善く戦う者は、勝ち易きに勝つ」


 感情で戦わない。構造で戦う。数字で示す。制度で動かす。


 韓非子は言う

「賞罰明らかなれば、上下心を一にす」


 評価の仕組みを正しく作れば、人は動く。


 七年かけて、三施設は全て黒字になった。本院の火の車が、地域の基幹病院になった。


 麻衣と康介が残した仕事の、続きを完成させた。

 しかし達也の嫌がらせは、最後まで続いた。


 そして俺は、廊下で倒れた。


 胸が痛かった。最近よくあることだった。

 スマートフォンに着信があった。母からだった。


「誠司、康介くんのことなんだけど——」

 俺は廊下の壁に手をついた。

 康介は今も、精神科の病院にいる。少しずつ回復しているとは聞いていた。しかし麻衣の話になると、今でも崩れることがあると。


「……後で折り返す」

 電話を切った。

 廊下に立ったまま、俺はしばらく天井を見ていた。


 麻衣…


 お前の死は、本当に心臓発作だったのか。俺はまだ、答えを持っていない。

 証明できなかった。許せなかった。しかし証明できなかった。その悔しさだけを胸に、七年間走り続けた。


「桐島理事長?」

 夜勤の看護師が声をかけてきた。

「大丈——」

 言い終える前に、胸に激しい痛みが走った。

 床が傾いた。廊下に崩れた。天井の蛍光灯が、遠くなった。


 麻衣。

 康介。

 母さん。

 汚名は、晴らした。


 しかし、お前の死の真相だけは、晴らせなかった。


 ごめん。

 蛍光灯の光が、白く、白く、広がって…

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