【コミカライズ決定】それでは皆さま、ご機嫌よう
11/17 誤字脱字報告ありがとうございました!
「ディアナ・ランベール伯爵令嬢、今日この時をもって君との婚約を破棄させてもらいます」
ケビン・ゴートヒル伯爵令息の丁寧な、しかし冷たい声色が卒業生を見送るために飾り付けられた大広間に響く。
声の主は少年期を脱して大人になりかかった青年で、その胸元につけられている青い布地で作った薔薇の花は最高学年の証。その隣には同じく青い薔薇で髪を飾った可愛らしい少女カリナが寄り添うように立っていた。
剣と魔法の時代、王侯貴族と魔法や祈りの才を認められた子どもたちだけが集う王都の学び舎。子どもたちは領地と才能ある者をつなぐ架け橋でもあり、ある意味では王に対する忠誠の証、ありていに言えば人質としても機能しているのだと、責任ある位を持つ者は承知している場所。
大人の仲間入りをする一歩手前の子どもたちは自分の立ち位置を見誤ってよくよく背伸びをするものだと、わかっているからこそ大広間にいる大人たちは苦笑いをこぼす。しかしそれも、呼びかけられた少女が振り返るまでのこと。
ディアナは淡く光る金髪に、グレーの瞳をした美しい少女だった。フリルもドレープもない、薄い肩のラインから袖が大きく広がり、装飾品は腰に巻かれた飾り紐と薔薇の花だけ。古風な形だが、神秘的な雰囲気の彼女に月光を溶かしたような銀色のドレスがよく似合っていた。
その彼女は、わずかに首をかしげてケビンに問いかける。
「私との契約を今日この時を持って破棄するということでよろしいのかしら?」
「そういうことになります」
いささかの躊躇いもなく答えるケビンに今度は周囲にいた大人たちがどよめく。
ケビン・ゴートヒル伯爵令息は類稀なる精霊魔法の使い手として知られており、古き良き隣人であるランベール伯爵令嬢との婚約を幼少の頃から結んでいるというのもよく知られた話である。
ケビンはちらりと周囲の視線を見まわし、そこに嫌悪感や悪意はなく、驚愕と戸惑いに染められているのを確認すると、彼の隣に立っている蜂蜜色の金髪に、澄んだ青い瞳を持つ少女の腰を抱き寄せる。
彼が見立てた砂糖菓子のように繊細なレースとシルクをふんだんに使った生成りのドレスを着たカリナは妖精のように愛らしい。
「私はこちらにいるカリナ・ミラベル男爵令嬢に求婚したいのですから」
わっと今度は子どもたち、学院の卒業生から歓声があがる。ロマンチックね!やっとだな!と無邪気に言い合い、ディアナに睨むような視線をくれてやる者も多い。
「かしこまりました」
ざわつく周囲の空気に流されることもなく、ピンと伸びた姿勢のままディアナは静かに応える。ケビンと彼女を結ぶ契約はすでに消え失せたのだ。
そんな彼女の淡々とした返事におや?と首をかしげる者もわずかながら存在する。昨日まで、いやケビンが婚約破棄を宣言するまでのディアナ嬢は苛烈と言って良いほどカリナ嬢を敵視していた。婚約者としての諫言とも言えないような直接的な暴言が目立ち、カリナ嬢の持ち物は不審なほどによく無くなる。身分の低さをなじり、立ち居振る舞いをなじり、婚約者を奪われまいと2人の行く先々に現れては声を張り上げる様はまさに舞台に描かれる悪役令嬢であった。
契約主義の貴族社会であればこそ、学院に通う者たちも初めはケビンの浮気に眉をひそめていたり、はしたないと苦言を呈する者もいた。しかし、そのうちに婚約者のディアナがあれでは…、癒しと慰めを求めたくなる気持ちもわかると同情を寄せるようになっていたのだ。
婚約ともなれば、個人間の問題ではなく家同士の契約。婚約破棄を宣言できるということは長らく続いていたのであろう話し合いが終わったということだとディアナも気付いたのかもしれない。騒がしかった学院もこれで落ち着くだろうとホッと息をついたところで今度は別方向から声がかかった。
「それでは、私がディアナ嬢にお声がけをしても許されるということですね?」
キャーッと黄色い歓声をあげたのは、先ほどケビンをロマンチストだと褒めそやしていた少女たちで、彼女たちはケビンの味方というよりは単に色恋沙汰が好きなのかもしれない。
「ダリオ様…」
困ったようにほんの少し眉を下げたディアナは、現れた濃いブラウンの髪をした青年に求められるまま差し出された彼の手に自分の手を重ねる。ダリオは由緒あるシルバーウッド子爵家の令息で、ケビンの従兄弟でもある。
かたや、伯爵家と男爵家という身分差を乗り越え、政略だったろうに悪役令嬢との婚約さえ退けた恋。
そしてもう一方は、美しく身分の高い少女を想いながらも、従兄弟の婚約者ゆえに秘められていた恋・・・そんな物語のような恋を夢見てか、少女たちはうっとりと頬を染める。
「少し、お話をいたしませんか」
長年抱えていた想いを告げる緊張からか、ダリオの頬もまた赤く上気していた。ディアナがこくりと頷くと、嬉しそうに彼女をエスコートして歩きだす。
ふと、思い出してディアナは後ろを振り向くと、ぽかんと口を開けたまま突っ立っているケビンと、みんなハッピーエンドですね!とはしゃぐカリナの姿が見えた。
「それでは皆さま、ご機嫌よう」
一応、別れの挨拶はしたほうが良いのだろうとディアナは声をかける。皮肉なことにディアナに酷い態度を取られていたはずのカリナと、先ほどまでディアナを睨んでいた少女たちだけが小さく手を振ってそれに応えた。
◇◇◇
大広間を横切りながらダリオは使用人に自分の両親に声をかけてくれと伝え、廊下を抜けて南階段を昇ってすぐの応接室に茶の用意を頼む。
三人掛けと一人掛けの布張りの椅子が2組ずつある応接室に入ると、ディアナは迷いなく一人掛けの椅子を選んで腰掛けた。
「ディアナ嬢、私は心からあなたをお慕いしています」
彼女に一番近い三人掛けの椅子に座ってダリオは熱心に言葉を重ねた。
従兄弟の婚約者として紹介された幼い日の淡い初恋と失恋。良き友人であろうと努力しながらも、決して消えることのなかった恋心。
貴女はあんな風に扱われるべきではないと学院の心ない噂に心を痛め、従兄弟の浮気を諌めながら止めることが出来なかったという後悔。
「婚約者を大切にしろと、私たちは殴り合いの喧嘩までしたのですよ」
傷付いたあなたを大広間から連れ去りたかった。つけ込むようなタイミングで卑怯なことは承知しているので、検討だけでもして欲しい。そう笑って言うダリオは爽やかな好青年で、部屋に控えている侍女が淹れてくれる香りの良いお茶を飲みながらディアナはただひたすら困惑しながらそれを聞いていた。
「今から婚約しても半日と持たないと思いますけれど…」
困った末に正直にそう告げた時、賑やかなノックの音がして、扉を開いた侍従を押しのけるようにして大人たちが部屋に入ってきた。
「父上、母上!」
「まだ何も約束はしていないな!?」
立ち上がって両親を迎えたダリオの肩をぐっと掴んだのは、父親のシルバーウッド子爵だろう。指の形に痣ができるのではないかしらとディアナは心配になった。
「やぁ、お邪魔するよ」
騒々しいダリオの両親の後ろからやってきたのは同年の第三王子ユリウス殿下と、真っ青を通り越して燃え尽きた灰のような顔色をしたゴートヒル伯爵夫妻、ケビンの両親であった。
人数分の茶器を並べながら新しいお茶が淹れられ、三人掛けの片方にはダリオとシルバーウッド子爵夫妻、反対側の三人掛けにゴートヒル伯爵夫妻が座り、一人掛けの椅子にディアナが、向かい合うもう一つの一人掛け椅子にユリウス殿下が腰を下ろした。
「いま婚約を結んでも半日も持たないと説明しようとしていたところでしたの」
温かいお茶にホッと一息をつきながらディアナが口火を切った。
「それは、それは。では契約などは何もしていないと思って良いかな?」
軽やかな口調だが少し焦りを滲ませたユリウス殿下の問いに、ディアナは頷き肯定する。
「ええ、誰とも、何も。それにケビン様も、カリナ様も、一晩眠って明日には気付かれるんじゃないかしら?おそらくダリオ様はもう少しで」
真っ直ぐにグレーの瞳で見つめられて、顔色の悪いゴートヒル伯爵夫妻の同席に首をかしげていたダリオは再び頬を染めながら尋ねた。
「私が、何に気付くのでしょう?」
「ランベール伯爵家なんて無いって」
え、とかすかに空気の抜けた声が漏れた。ランベール伯爵家は王国史に名を刻む名家であり、ゴートヒル伯爵家の古き良き隣人で、美貌と才媛の令嬢ディアナの生家ではなかったか。
「ダリオ様も本当はわかっていらっしゃるでしょう?だから大広間でご自分の両親には言付けを頼んでも、私の両親は探そうともしなかった」
そんなものはいませんもの、と混乱するダリオに微笑むディアナはゾッとするほど美しい。
「ディアナ嬢…」
「やはり、やはり、あの子との契約は」
指が白くなるほどの強さで扇を握るゴートヒル伯爵夫人は縋り付くような眼差しをしている。
「すっかり切れてしまったわ。私は、婚約者として喚ばれたから」
躊躇いもなく言い切られて、夫人は口元を、伯爵は目元を両手で覆う。
「喚ばれた、とは…?」
事態を把握していないのは自分だけだと悟ったダリオが小さな声で問うた。
「ディアナ嬢はね、精霊なのさ。ケビンに喚び起こされた古き良き私たちの隣人」
ユリウス殿下は頭を抱えたままのゴートヒル伯爵夫妻を冷ややかに一瞥してからダリオの方を向く。
「類稀なる精霊魔法の使い手として、ケビンがなぜ有名になったか知らなかったかい?彼はわずか6歳の時に、誰に習うでもなく高位精霊を編み出した。自分の婚約者としてね」
それなのに婚約破棄とは恐れ入る、と皮肉な笑みを浮かべた殿下にディアナは苦笑を返す。
「ケビンは忘れてしまったのよ」
艷やかな髪に触れながら、ディアナは当時を懐かしむように瞼を閉じた。
◇◇◇
もう間もなく春が訪れる。冬の最後の満月の夜だった。暖炉の火も小さくなって、夜中に目が覚めた少年はふと寂しくなったのだ。
一人では上がることも大変な高さのベッドから降りて、分厚いカーテンをめくる。高価な透明度の高い硝子のはまった窓の向こうにちょうど満月が見えた。部屋に差し込んだ月光に小さな手をひたして遊ぶ。
昼間、同じ年のユリウス殿下に婚約者が決まったという話を乳母に聞いた。
婚約者とは何かと聞けば、ずっと一緒に人生をすごす相手だと言う。
ずっと帰らないでいてくれる友だちが欲しかった。自分と一緒に食事をとってくれる家族が欲しかった。たまに顔を見せてくれる父や母は高位貴族らしく子育てはしない。まだマナーを覚えていない自分とは一緒に食事もとらない。慣れ親しんだ乳母もそろそろ卒業だと話していた。
それならば、自分もそれ(婚約者)が欲しい、とケビン少年は強烈にそう願った。
願ってしまった。
精霊魔法に適性のある者には時折起こること。けれどほとんどの者は、形ある精霊を喚び寄せたりは出来ない。カラフルな光の珠、こうした「小さなお友達」の存在から適性者が判明することも多いと言う。ケビンもまた小さな光を目で追う少年であった。
しかしその夜は、特別な夜だった。
冬の終わりを告げる夜。死者の季節が生者の季節へ巡る最後の満月。
その光は冷たいように見えて、春がくれば一斉に芽吹く力強さに満ちている。
友人のように何でも話せる相手が良い。この月の光のように美しく、寂しさを忘れられるような温もりをくれる相手。ケビンが月の光に浸していた手を、月に向かって差し出すように伸ばせば、やがてそれを握り返す自分と同じ小さな手が現れた。
小さく温かな手を驚かせないようにそっと引きながら後ろに下がると、桜貝のような爪をもった手からすんなりと伸びる腕が現れ、月光と同じ色の髪と布地に覆われた肩や足が見え始める。やがてケビンと同じ年頃の少女がほんのりと笑みを浮かべて立っていた。
「名前を教えて。そして私にも名前をつけて?」
春を告げる小鳥のように軽やかな声を聞いて、ケビンは嬉しい心のままに笑っていた。くるくると月の光が差し込む部屋は明るくて、もう寂しくなかった。
「彼は、輝かしい月の光を編んだから、ディアナ(月の光)・ランベール(輝く)と私に名付けた」
翌日の大人たちの大騒ぎはすさまじかった。
伯爵家にあれほどの騒動が起きたのは後にも先にもないだろう。大事な跡取りのベッドに見知らぬ女の子が入り込んでいたのだ。
思わず悲鳴をあげたメイドに、駆けつける騎士と従僕、緊急事態だと叩き起こされた夫妻は自分たちの息子と、明らかに精霊が手をつないでいるのを見て絶句していた。
「形ある精霊との契約を結べる者はもうほとんどいない。ケビンのことは私にまで報告が入った。同じ年の子に精霊の契約者が現れた、と」
「大人になれば、人と精霊を見分けることは容易い。むしろ見紛うことの方が難しい」
じっと黙って話を聞いていたダリオの両親が、まだ不思議そうな顔をしている息子に説明している。
「大広間では驚いて声が出ませんでしたの。契約者との間のことに口を挟んではいけないとはいえ、古き良き隣人、精霊との契約を破棄なさるなんて…」
伯爵夫婦にいたわりの眼差しを向けるシルバーウッド夫人の声はなめらかで女性にしては少し低い声が魅力的な人だ。
だから大人たちは何も言わなかったのかと、ダリオは気付いた。途中から黙り込んでしまった大人たちは、皆これがただの色恋沙汰や婚約を巡る騒動だとは思っていなかったのだ。
「ケビンは寂しくて私を喚び起こした。けれど、もう子離れの季節が来たということなのよきっと」
ディアナがそう言えば、大人たちの目には納得の光が浮かぶ。
「でも、それならディアナ嬢は自由だと言うことでしょう?」
「ダリオ、止めなさい」
人ではなかったとはいえ、ディアナはこれまでケビンの婚約者として過ごしてきた。彼女を恋しく見つめてきた自分が気付かないほど、自然に。
父も母も自分を制止するように手を握るけれど、ディアナが自分と婚約することだって出来るはずだと、ダリオの目が切なげに細められる。
「いいえ。私はケビンが編んだ月の光。契約が切れたのなら私はまた月の光に戻るのです」
けれど、言い聞かせるように、なだめるように告げられたのは変えようのないただの事実で。ケビンの心のままに生まれて消されてしまう、彼女がいなくなってしまうのだとわかってダリオは深い菫色の瞳に薄っすらと涙を滲ませた。
ケビンとカリナ嬢が親しげに寄り添うたび、ディアナ嬢は美しい声をかすれさせて悲鳴をあげるように叫んでいた。恋心もあっただろうが、同時に自分の存在がかかっていたのだろうとダリオは思った。自分ならばあんな思いはさせないのにと何度切なく願ったか。
「ディアナ嬢はあんなにもケビンを慕っていたのに、なぜケビンはこんな残酷なことを…」
しかし、ケビンを慕っていた、という言葉に今度はディアナが首を傾げる。
「あ、ああ、そのことなんだが」
何とも歯切れ悪く話し始めたユリウス殿下は、まだ顔色の悪いゴートヒル伯爵夫妻に目を向けた。
「そなたらは、ケビンの恋人であるカリナ・ミラベル男爵令嬢をこちらのディアナ嬢が嫉妬から虐めていたという噂を知っているか」
「は…?」
埒外のことを言われたというように、無遠慮に漏れ出た声は4人分。ダリオの両親も、ケビンの両親も目を見開くようにしてユリウス殿下を見つめた。居心地悪そうに殿下が肩を竦めるのを見て驚いたのはダリオだ。
「父上も母上もご存じなかったのですか?学院ではかなり有名です」
狼狽えたせいか、ダリオの声はやや震えていた。
「精霊の契約者が長年現れなかった弊害だな。生徒たちの大部分と、おそらく教師の一部もこのような認識なのだ」
「まさか、そんな」
言葉が出なくなったケビンの母の言葉に続けるように、ダリオの母が尋ねる。
「精霊について学院では教えないことになりましたの?」
「ケビンの入学に合わせて教師も招いたが、その本人が契約者に聞いたほうが早いと持て囃すばかりでな…」
疲れたようにため息をつくユリウス殿下はやや不貞腐れているようにも見える。
「私自身、きちんとした教師が派遣されるのだからと授業内容まで確認しようとは思わなかった。基礎教育に劣るとはまさか思うまい。が、これは私の失態だ」
またしても話を理解していないのが自分だけだと気付いて固くなったダリオの体を、ぽんぽんと父の分厚い掌が叩いた。
「精霊にはな、人間のような感情というものは無いのだ」
「え…?」
言われた言葉がうまく飲み込めずに、ディアナを見つめた。
「感情が無いわけではありませんけれど、人の在り方とはやはり違うと思いますわ」
が、当の本人にも至極真面目に肯定されてしまう。
「だからややこしいのだ」
行儀悪く肘掛けに立てた手に顎をのせたユリウス殿下はひらりと足を組んで姿勢を崩してしまっている。
「精霊は契約者の願いに応えて変わる存在だ。ケビンの願いによって現れ、婚約に応じた。そしていま婚約どころか契約自体の破棄に応じるのも、ケビンが願ったからだ。しかし我々は学院でカリナ嬢に詰め寄り責め立てるディアナ嬢を知っている。ではそれは、何故だ?」
「ディアナ嬢とケビンの間に恋心はなかったと…?」
まだ混乱しているダリオにディアナは頷いた。
「私たちは契約者の心にある願いに応えるだけですもの」
「そうなると、だ。ケビンは愛するカリナ嬢をわざわざディアナ嬢にいじめさせ、それを自ら救い出して彼女の心を得たことになる」
ヒヤリとしたユリウス殿下の言葉にダリオは身をすくめる。
ゴートヒル伯爵は呻くように声を絞り出した。
「危険すぎます」
ふうっと大きく息を吐き出して、伯爵は両手を膝の上で組み、床をじっと見つめている。
「私は、ディアナ嬢が精霊であることは認識していました。それこそ彼女が現れたその日から…。しかし、彼女と婚約したという息子の言葉に疑問を持ったこともなかった。婚約ともなれば家同士の契約、あの頃いくつかお話もいただいていたというのに私は気にもしなかった。それは、おかしな話です」
伯爵の言葉にディアナも軽く頷きながら応じた。
「ケビンは誰かに反対されたり、別の人が婚約者になるなんて望んでいなかったもの」
「ディアナ嬢は、契約者の、ケビンの望みに応じて周囲の心に影響を与えられるということですの?」
ケビンの母が血の気のない顔色のまま問いかけた
「ええ、そうよ。心をまったく塗り替えたりはしないけれど。そうね、急でないなら明日でいいかしらと思わせたり、元からある好意を増幅させたり、疑問を薄くしたり、こちらの道は何となく良くないと思わせたり、そういうことは出来るわ」
あっけらかんと答えるディアナにユリウス殿下までもが頭を抱えた。
「ケビンはね、ただ毎日一緒に遊んで、一緒にお食事する相手が欲しかった。だから私は毎日伯爵家でケビンとお食事をしたわ。寂しくなれば夜も一緒に眠ったし、どこにも帰らないのに毎日伯爵家にやってくる私を誰も疑問には思わなかったでしょう?侍女もつけずに歩き回る伯爵令嬢などいるはずがないのに。あなたたちはケビン本人のこともあまり気にしていなかったから特別簡単だったのよ」
力なく顔を見合わせてゴートヒル伯爵夫妻は俯いてしまった。
「ケビンは結婚が何かもわからない年だったから、ずっと一緒にいられると聞いて婚約者という存在を作った。でも大きくなるうちに、小さかった冬の最後の夜のことなんて忘れてしまったのね。だんだん私を政略結婚の相手だと思い込んだ」
だから、ディアナは高位貴族らしく振る舞った。幼馴染の婚約者としてではなく、政略結婚の相手であるかのように。優雅で美しい、少し近寄りがたい存在に。
「学院へやってきて、ケビンは初めて同世代の子どもたちとたくさん出会って、そして恋をした。でも自分が領地で扱われるほど大切で特別な存在だと知らない人々の中に埋もれて、少し焦っていたのでしょうね」
領地では誰もがケビンを精霊魔法の使い手として敬う。傍らに誰がどう見ても明らかに高位精霊だとわかる人型のディアナが常にいるのだからそれは当然のことだった。しかし学院にいるような子どもたちにはまだ、ディアナが精霊だとはハッキリわからない。
月の光に自分を守り支える婚約者の役をあてがったように、ケビンは自分にとって有利になる役柄を無意識のうちにディアナに求めたのだ。
「結婚相手として申し分ない高位貴族の身分を持ち、自分に相応しい美しさと教養ある婚約者という立場にいる、カリナさんとの恋のスパイスになるような、政略なのに自分に恋する愚かな女の子、自分たちが誰からも祝福されるために悪役令嬢の役割が必要だった。彼は喜んでいたわ」
にこにこと無邪気に笑うディアナに、恐ろしさが勝つのか、シルバーウッド子爵は息子の肩を抱く力を強める。ディアナ嬢を連れ出したのは確かに息子だが、子爵という身分で聞いて良いとは思えない話ばかりだった。出来れば何も聞かなかったふりをしたいほどだと言うのに、ディアナ嬢は息子ダリオをじっと見つめている。
「そして心の片隅でこうも願った。自分に恋する元婚約者に恨まれては面倒だ、彼女もまた誰かに求婚されれば良いのに、と」
ハッと息を呑む音が静まり返った室内に響く。
「なぜ、ケビンは私を選んだのですか?」
「ケビンはね、ダリオ様は自分よりもすこし下にいると思い込んでいるのよ。自分に逆らうことのない、心優しい従兄弟殿。私を、捨てた婚約者を自分たちよりも上位にはしない相手。自分のために諦めた恋心を取り戻してあげられるとも思っていたわね」
酷いことを言っていると、ディアナは自分の言葉に悲しげに瞼を伏せた。
「私の心は作られたものだと仰るのですか?」
「いいえ、あなたの恋は淡い初恋で終わるはずだったの。私はそれをすこし長持ちさせただけ」
ダリオの瞳からは涙が流れていた。
◇◇◇
「ケビンの精霊魔法は封じざるを得ない」
崩した姿勢をいつの間にか正したユリウス殿下が厳かに告げる。
「幼い頃から厳しい修行を積む聖職者でもなければ人は清廉ではいられない。何をどう望むか、本人さえわかっていないのに、それを高位精霊が見通して先回りして叶えるなど危うすぎる」
ゴートヒル伯爵夫妻も、シルバーウッド子爵夫妻も、ダリオも、ユリウス殿下に同意するように頷いた。
傷心のダリオを抱えるように去っていくシルバーウッド子爵夫妻と、ふらつきながらも互いに支え合うゴートヒル伯爵夫妻を見送って、ユリウス殿下はディアナに声をかけた。
「ディアナ嬢、これから王城に招かれないか?」
「そろそろ薄くなりはじめたのだけれど、それでもよろしければ喜んで」
薄らとドレスの端が透けはじめていた。星と花の意匠の刺繍が布地ではなく、レース編みのように見える。
エスコートするように手を差し出せば、美しい少女も笑顔で彼の腕に手を添える。
「ユリウス殿下とはあまりお話ししたことがないわ」
「契約者のいる精霊に近付いて巻き込まれないよう何度も注意を受けていたからね」
今回の騒動で身にしみたよ、とほろ苦く笑うユリウスにディアナは弾けるように笑った。
「私が精霊だとすぐに気付いていたの?」
「王家や、古い貴族家の持つ目は特別製でね。もっと幼い子どもでもすぐに精霊に気付く」
城の弟や妹たちは精霊であるディアナ嬢に会えば驚き喜ぶだろうと言う。
「もう契約が切れたから危なくないのね」
「そうだ。もう危険はない」
クスクスと笑い合って馬車に乗り込むと、いつになく楽しげな様子に侍女たちが目を見合わせた。
◇◇◇
午後の早い時間から開かれた卒業を祝うパーティーはとっくに終わり、話し合いを経ていまはもう空が夕焼け色に染まり始めている。
晩餐を共にする時間はないということで、急遽王妃の薔薇園で茶と軽食で饗されることになったディアナはふわふわと楽しげに笑っていた。
ユリウスの言う通り、まだ小さい王子や王女は目をキラキラさせてディアナにまとわりついてきた。人の世の身分など、人にしか関係ないことだと陛下や王妃もゆったりと鷹揚な態度でいる。魔道士長や冢宰などは、久しぶりの高位精霊の訪いに喜びを噛みしめるようにしている。警護についた騎士団長までもが子どものように目を輝かせていた。
ディアナは深い幸せを感じていた。かつて、自分たち精霊が傷つくことを厭って古い森を残した王の末裔たち。祝福と共に贈られた精霊を見つける瞳も無事に受け継がれている。
王家が精霊の再訪を強く願っていることはわかっていた。貴族の忠誠を集め、騎士たちを従えて、民を背負う王族の心の強さがあれば、王家に精霊に愛された子が現れても国を乱すことはないだろう。
それでも、あの冬の日にディアナが応えたかったのはケビンの冷えた小さな手だった。飢えることも無く、冷えてはいても凍死することのない部屋、夜間以外は一人で置いておかれることもない。けれど確かにあの子は孤独で、心が凍りつく寸前で。誰か側にいて、捨てないで、寂しいと泣いていた私の愛し子。
「カリナ嬢は、ケビンを本当に愛しているのかい?」
ディアナが呼び寄せた小さな光の精霊たちを追いかけて幼い子どもたちは庭をあちこち走っている。王と王妃はそれを少し離れた席で眺めている。
華奢なティーカップを優雅に口に運びながら、何でもないことのようにユリウスがディアナに聞いた。
「さあ、私にはわからないわ。最初はよくある憧れだったと思う。でもケビンは彼女を望んだから」
「それはそれは…」
「ねぇ、自分を虐めていた相手が、恋しい人に遣わされていたら、人は人を愛さなくなるものなの?」
「人によるとは思うけれど、私だったら嫌になってしまうかもしれない」
公衆の面前で精霊との契約を切ったケビンにも、彼の恋人として知られたカリナにも、他に縁付く可能性はない。2人は結婚するしかないだろう。
「そうなの。難しいのね」
わからないわ、と可憐に小さく首をかしげるディアナ嬢は、いま平気で他人の恋心に手を加えたと話しているのだが。人ならざる者との距離を覚えておこうとユリウスは心に誓う。
彼女の半身はもう透けてしまっていた。
「ケビンは、また高位精霊と契約することもあるだろうか」
「どうかしら。あんなに真摯で激しい祈りは、もう大人になった彼は持てないかもしれないし、でもまだ幼いところのある人だからあり得ないとは言えないと思うの」
「では、私たちはケビンの力を封じたまま、彼の心を鍛えなければならない」
「そうねぇ、国のことを考えるならば、精霊を喚べる可能性は捨てない方が良いもの」
ケビンにそれが出来るとは思えないけれど、と言いかけてディアナは口をつぐむ。人はいつでも精霊の驚くことをしてくれる。絶対はないと教えてくれる。
「ユリウス、あなたと話せて楽しかったわ」
「私もだよディアナ嬢」
ディアナの頭の位置が高くなったので、立ち上がったことが察せられたのだろう。ユリウスもまた席を立って軽く頭を下げた。その様子に小さな王子や王女たちも駆け寄り、王と王妃もまた席を立ってディアナを見つめる。
精霊を希う彼らに応えてあげたい気持ちはあるけれど、ディアナと地上を結ぶケビンの祈りはもう解けてしまう。ディアナはせめて親愛をこめて微笑んだ。
「それでは皆さま、ご機嫌よう!」
明日になれば、彼女の存在の真実に気付いた子どもたちが大騒ぎするだろう。会場にいた者は事態を察しているかもしれないが、弟妹が入学するまでは学院を管轄するユリウスが責任を持たなければならない。今ごろケビンには魔法封じの腕輪がつけられているだろうか、恩寵を失った彼や、傷付いたダリオにアフターフォローは必要だろうかと悩む。カリナ嬢が苦しむようなら、そちらにも救済策が必要かもしれない。とりあえず精霊魔法の教師を更迭するところから始めようとユリウスは決めた。
「またいつか会いましょう」
不意打ちのように伝えられた言葉に王妃の薔薇園に集った人々の時が止まった。
精霊は言葉を違えない。また会おうと言ったなら、また会える。
突如わっと大きな歓声があがり、煌びやかな星空に響いて消えた。
読んでくださってありがとうございます。長編を書きながら思いつきの短編でした。感想、評価などいただければ大変有り難いです