大決断
本当、世の中っていうものは先の読めないよくわからないもので、このどこにでもありそうな僕の人生ですら、少し勇気を出して何かに挑戦してみたり、もしくは外部からの思いもよらない刺激があって、あんなにつまらなかった生活がまるで嘘みたいだと思えるくらいに激変する可能性だってあるのに、実際のところは面倒だの怖いだのヘロヘロ言い訳してばかりで、結局なんにも残せずにいるのが現実世界ってなもので、だから自分はだめなんだとそんな考えに脳のエネルギーを吸われてしまうのも嫌で、なるだけ楽に生きようと決めて寝て起きたらもうそんなことも忘れていて、いつか現れるチャンスなんてものを信じて待っていることしかできないこの頃。けれども俗に言う天才と呼ばれる方々も、万人に一人いるから天才だと言われるのであって、全員が天才になろうものなら今度はそれが普通になってしまい、逆に世界がパンクしてしまうんじゃないかと一人余計な心配なんてして、苦手なことは得意な人に任せておけばいいなんて思っておけば、どうせ僕にはできやしませんよと、やる前から僕は僕のままでいようと動かなくなるから、さらに天才の方々が際立って見えてきて、しかしそれすらもその他大勢の僕らがいるからなんだぞと意地になれば、勝手にウィンウィンの関係になれているなんて変な勘違いをして、まったく自分はなんて弱くて格好悪い人間なのだろうと、考えるほど否定できなくなってしまう。
しかし今日の僕は違う。なんだか悔しくなってきたぞ。弱気なことを考えて、一体何のためになる。今はすごくやってやりたい気分だ。今やらなきゃいつやるっていうんだ。
電車内は、見慣れた平日の朝を乗せている。学校まであと一駅と歩いて五分。それまでに、あの美しいクラスのマドンナ、ミユキさんに話しかけてやるんだ。しかも一番乗りだ。もしそれができたなら、今日ミユキさんと話すのは僕が一番乗りになるんだ。それは胸を張って自慢できることだ。いや、「もし」なんて、「できたなら」なんて、そんな言葉にもう用はないぞ。やってやると決めたんだ。今までの僕とは違うんだ。
思えば昨夜から、この運命の時は迫っていたんだ。もし昨日、夜更かしなんてしていなかったら、今朝は寝坊なんてしていなかっただろう。家を出るのが少し遅れて、おまけに電車も一本遅れて、ミユキさんと通学時間が被ることもなかった。運命というのは、そうやっていくつもの歯車が組み合わさって、決定づけられていくものなんだ。
そもそもミユキさんと出会ったこの高校を選んだのも、僕じゃないか。自分に合う学校を探して、見つけて、そして頑張った受験勉強。掴み取った合格。つい一ヶ月前の入学式の日、席を間違えた僕に優しく微笑みかけてくれたミユキさん。気付けば僕の心臓は、感じたことのない早さで動いていた。ミユキさんと仲良くなろうと、まずは彼女と同じ中学のあいつに話しかけたのも僕。そのうちそいつに誘われて、初めてゲームというものにもハマった。最近出たそいつイチオシの新作ゲーム。早く買いたくて、親に小遣いを前倒しにせがんだ。昨日は買ったばかりのそのゲームに夢中になって、つい夜更かしをしてしまった。そしたら案の定朝寝坊をして、家を出るのが遅れてしまった。
しかし今となっては、どれも奇跡の繋がりのように思えてならない。あのとき、もしこの学校を選ばなかったら、最初の席を間違えていなかったら、あいつと友達にならなかったら、ゲームにハマらなかったら、小遣いを早めに貰わなかったら、夜更かしをしていなかったら、朝寝坊をしなかったら、電車に乗り遅れていなかったら、そして君と同じ車両に乗っていなかったならば……。数多の分岐点を、一度も逸れることなく見事に繋ぎ、僕は今ここにいる。万人から選ばれし一人の男になるんだ。向上心を忘れた愚民共よ、今に見ていろ。
電車を降り、改札を出た。学校まであと歩いて五分。ほんの二〜三歩駆け寄って、肩を叩いて振り向かせれば、明るい笑顔で「おはよう」と言って爽やかな朝の挨拶を済ませられる。いよいよここまできたのだ。やるか、やらないか。今までの何より最も重要な、究極の選択を迫られている。
そのとき、意志がぐらついた。いや、どうしよう。頭ではわかっていても、体は思い通りに動いてくれない。いざとなると、やはり勇気が出ない。
「急に話しかけて大丈夫だろうか」
「彼女の綺麗な制服に、僕の手が触れることは許されるのだろうか」
「僕なんかが。やっぱり無理だ」
一歩、そしてまた一歩と足だけが動く。もう学校に着いてしまう。そうなれば無理だ。周りの奴らがいる。こうしてまたいつものように、絶好のチャンスを逃すのだろうか。そんな考えが脳裏を過ぎる寸前、僕の左手は弱々しく彼女の右肩に触れていた。
「あ」
そう思った瞬間、流れで小さく口が動いた。
「おっ、おは……」
「「ミユキー!!!」」
ドカッ。
後ろから複数の甲高い女の声が聞こえてきたかと思うと、僕はバランスを崩して宙を舞いかけていた。どうやら彼女の友達が元気よく突進してきたらしい。
おっとっと。姿勢を立て直してハッと顔を上げると、彼女は何人かの女友達に連れられてちょうど正門に入っていくところだった。
気付かれていないのなら、気付かせる必要はない。そう思って、僕は僕に戻ることにした。