踊る男
翌朝は気分爽快だった。昨日あれだけ無理に体を使ったのに、筋肉痛もどこかに行ってしまっている。
腕の中のネリを見る。まるで抱き枕だ。こいつのおかげ?わからない。ダークエルフだとシュトロウは言った。でも特に何か起こるでもない。生気を吸い取ったり、不幸にするのがダークエルフ……。
人形のような顔。ネリはすやすやとなんの警戒もなく眠っている。まあいい。とにかくなぜか俺に懐いているんだ。悪い気はしない。やばいと思ってからでもいいだろう。今のところ、何も悪いことは起こっていないんだから。
「さて」
ネリを起こさないようにそっとベッドに横たえ、シュトロウの部屋に行くと、すでに出かけた後だった。弓矢の練習に行ったのか……。シロも街に出ることにした。広場に行くとトランが歌っていた。昨日は楽器の演奏だけだったから、トランの歌声を初めて聴く。
……その時外国より二人のエイダンが現れ
アーガの恵みを両の手に受け賜りし
ひとりのエイダンは、国を救い
残るエイダンは、悪しき心を人の心に刻みしこと
時は流れ 流れ
今は記憶の彼方
白き印持つ光のエイダン
黒き印持つ闇のエイダン
その恵 いずれも人を動かす
不思議な旋律。不思議な声。エイダンてなんだろう。一人で歌っているのに、声が重なっているような厚みがある。
「すごい」
思わず拍手した。多くの人が投銭をしていく。シロもこの間掏って、シュトロウに断られた金を少し入れた。確かにこれは払う価値のある歌だ。トランは顔を上げて笑った。
「よう。ありがとな」
「すごいな、あんたの歌。なんの歌だったんだ?」
「俺たちの歌う歌は伝承さ。この国が昔滅びかけたことと、エイダンがそれを救ったことを歌っているよ」
「エイダンて何?」
「召喚者のことだよ。国が荒れると誰かが呼ぶんだ。必ず外の世界から対になる二人がやって来て、片方が国を救い、片方が人を惑わすと言われている」
ぎくっとした。シュトロウは俺が召喚者だと言った。俺がエイダンの一人……。
「どうした?踊るんだろ?今日も昨日のやつでいい?」
「頼む」
前奏が始まる。さっきの歌のおかげで、もう人垣ができている。今日はあまり緊張しない。リジンしてあの葉さえ入れておけば、踊れることがわかったからだ。踊っていると頭が空っぽになる。音と自分しかいないみたいだ。4分?5分?これが自分の意思でいつでもできれば、俺の世界も違ったのかもしれない。曲が終わる。ざらざらと小銭が投げられる。
「もう一曲?」
「いや。だめなんだ」
おそらくリジンが切れると思われた。昨日気がついたが、この葉の方が刺繍の葉より早くリジンが解ける。育っている葉はあまり長い間盗めないのかもしれない。シロの右手の模様が育ったら少しは伸びるだろうが……。
ふと、投銭を拾っている自分をじっと見ている人がいることに気がついた。細身の男だ。長い赤い髪。40歳か、50歳か。腕を組んでいる。姿勢がとても良い。かすかに見覚えがある……。
「あなた……が」
「一緒に踊っていただけませんか」
男はまるで女性をダンスに誘うようにシロに恭しくお辞儀をした。まるでそれが合図みたいに、トランが弾むような曲を奏で始める。男はトトンと軽いステップを踏んだ。呼応するように自分の足も勝手に動き出す。人々が足を止める。まずい。
男はまるで体重が無いようだ。リジンしている?そんなはずはない……。だって思い出した。俺が掏ったのはこの男の財布だった……。この赤毛。この姿勢。たぶん間違いない。今間違いなく俺の手のひらに、その葉は入ったままになっている。
ぴたりとシロの足が止まる。手のひらから2枚のアーガの葉が剥がれて手の中に出てきた。リジンが切れたら俺はもう踊れない。呆然と男が先程の自分そっくりに、いや、それ以上に素晴らしく踊るのを見ていた。
曲が終わる。割れんばかりの拍手喝采と、散らばるコイン。男は始まりの時と同じように、美しい所作で人々に頭を下げ、シロにウインクした。
「……あの……あなたのアーガの葉を」
「あなたが持っているんですか?」
「はい……拾って」
「財布に入れていたんですよね。財布の方は見ませんでしたか?」
「いや……とにかく、返します」
アーガの葉を差し出す。男は受け取らない。どうして?
「なぜ私のだと思うんですか?」
「えーと……」
あんたから盗ったから。思い出したから。踊りが同じだから。リジンした時の自分と。
何も言えない。
「とにかく模様を……シルシか。印を比べてみてください」
男はちょっと笑って、いいんです、確かに私のものですと言った。
「それはもう単なるお守りだったんですよ。見たでしょう、私にはそれはもう必要ないんです。なぜ今あなたの手にあって、どうしてあなたが私の葉でリジンできるのかはわかりませんが、何かの縁なのでしょう。もしもあなたが役立てられるのなら、差し上げます」
「え?……え?大切な……ものじゃないんですか?」
「大切でした。今でもそうです。私の全てです。でもね、それはもう私の手のひらにありますから」
男はそう言って、金を拾うこともなく、ただ微笑んでまたお辞儀をし、人混みの中に消えて行った。