ギム
ギムの街は城壁に囲まれていて、中に入りたい人々は一組ごとに手形を確認されているようだった。もちろん手形はない。
「こんなにびっちり囲われてる町だったのか。まあ、交易の街じゃなあ……」
「手形を手に入れたら入れるのか?」
シロはもちろん誰かからスリ取るつもりで尋ねた。シュトロウは難しい顔をした。
「だめなんだ。手形だけあっても。手形の申請者名簿がこっちにあって、つき合わせるんだ。逆に手形がなくても名簿に名前さえあれば通してくれるって聞いたことはあるけど」
名簿。受付のようなところを見てみる。確かに役人のような男が、巻物のような紙を前にして名札のようなものと突き合わせをしている。手形と申請者の名前を揃えるか、名簿に名前を書き込むか。
「この世界の人は身分証みたいなものを持ち歩いてたりするのか?手形に名前が書いてあったり?」
「しない」
なら、巻物に名前を書いてしまった方が楽だ。じっと役人の男の動向を見る。スリをやっていると、人の隙が見えるようになる。人は自分の認識している以上に油断している。
「シュトロウ、目立たないところに隠れていてくれ。なんとかする」
鳥語を話す葉をリジンして、付かず離れず飛んでいるカラス達を呼ぶ。
「あの役人の気をひけるか?気を引くだけでいい。できれば上を向くように。あと、お前はペンを取ってきて欲しい」
「いいヨォー!」
カラス達はさっそく役人のいる受付の机に留まると、一羽が役人の隣にあったはんこをぱっと掴んで舞い上がった。役人は慌てて席を立つ。もう一羽はその隙にペンを咥えた。素晴らしい。カラスは頭がいいと言うけど、ほんとにそうらしい。
もちろんシロはその間に申請者のリストをすっと失敬する。素知らぬ顔でシュトロウの隠れている物陰に入る。カラス達も付いてきた。
「ほら。俺とお前の名前を書いてくれ」
ペンとリストを渡すと、シュトロウは目を白黒させた。なんで?どうやって?
「お前の名前……苗字が変わりすぎてる。変えてくれ」
「山口?」
「そう。そんなやついない」
「こっちによくあるやつを適当につけてくれよ。わかんねえもん」
シュトロウはしばらく考えて、さらさらと何かを書き加えた。
「お前に渡したらいいのか?」
「うん」
シロはリストを受け取って何食わぬ顔で受付に近づいた。当然だがリストがなくなったと大騒ぎしている。
「あの、これあっちに飛んでましたよ」
リストを渡す。半泣きの役人はありがとうありがとうと頭を下げた。こちらこそありがとう。
通行を求める人々の列は長く伸びていたが、ゆっくりと進み、やがてシュトロウとシロの番になった。
「手形をなくしてしまったんです。でも名前はあると思うんですが。シュトロウ・バレンタインとシロ・イクバヤ」
「シュトロウ・バレンタインとシロ・イクバヤね。あるね、通過!仮の手形を出してあげる」
目と目を合わせてにやりとした。堂々と街に入れる。
「おっと。その子供は?」
「ああ。エルフなんです。気に入られちゃって付いてきて」
シュトロウの答えに、役人の男はジロジロとエルフを見回した。尖った耳。
「そりゃお気の毒。いいよ、人じゃないから」
エルフってそんな扱いなんだ。こんなに人に近く見えるのに、この世界の人たちにとっては、野良犬か幽霊みたいだ。
ギムの街は栄えているようだった。入ったそばから市が所狭しと立っている。色とりどりのテントの屋根。物売りの声が響く。市場の向こうには大きな建物が乱立する一帯があり、個人の住居と思われる家家が並んでいる。どれも大きくて豪華だ。
「さて。入り込んだのはいいけど……金もないしな」
シュトロウは少し困った顔をした。
「大丈夫だよ。それなら」
「いや。まずお前の服をなんとかしないといけないだろ。その服はおかしいよ」
「大丈夫だって。どっかで待っててくれよ」
ふっと人混みに紛れる。確かにこの服は目立つらしい。視線が飛んでくる。少しやりづらいが……。現物を盗むか、金を盗むか。古着屋らしい市が立っている。何枚もの衝立に服が重ねてぶら下がっているから、死角が多い。現物にしよう。
ふらっと入る。するすると通る。何枚かを選ぶふりをして服の中に入れる。この世界の服はシンプルなシャツとサルエルみたいなズボン、カバンがわりなのか、袋になっている帯を締めている人が多い。目立たないようにそんな服装を選ぶ。物陰で着替えてしまえば、街の人にも混ざりやすくなった。ついでに現金も欲しい。何人かの懐から失敬する。簡単なことだ。
シュトロウと別れたあたりに戻ると、シュトロウは不安げな顔のエルフと待っていた。
「お待たせ」
こっちの世界の服装になったシロを見て、目を見開いた。
「え?どうやって?」
「ほら。これも。金だろ?少し稼いできた」
「どうやって?」
シュトロウの顔が少し曇った。盗んできたとは言えない雰囲気。笑って誤魔化した。カラス達が騒ぎ始めた。何か食わせてやらないといけない。
スリの技能は役に立つなと改めて思った。どこででも生きていける。こんな、訳の分からない異世界でさえも。シュトロウは背に腹は変えられないと思ったらしく、シロから受け取った金で少し矢を買い足し、大きめのコロッケに似た食べ物を三つ買って一つをカラス達に渡した。
「カラスに約束したんだろ?」
「そう。よくわかったなあ」
その日は流石に疲れていたので、宿を取ることにした。市の近くの安宿だが、久々にベッドで眠ることができる。全室個室だったので、シュトロウとは食堂で別れた。エルフがついてきた。
宿でもエルフはいないみたいな扱いだった。本当に幽霊みたいだ。シロもだからあまり存在を気にしないようにしていると、いつのまにかまた少し小さくなっていた。
ランプの灯りの中、ベッドの上に今日掏ってきた財布や小物入れを広げる。悪くない稼ぎだったんじゃないか。金はほとんどが丸い硬貨だった。数字が違うので単位も金額もわからない。四角いのが少し混じっている。こればかりはなるべく早く覚えなければならない。明日シュトロウに聞いてみよう。
女物の小物入れを開けると、アーガの葉が出てきた。シュトロウの模様ほどじゃないけど、かなり緻密な模様が入っている。ふーん。ほんとにみんな持っているんだな。昨日財布を掏るときも、財布とは別に小さな袋を首にかけている人がたくさんいた。アーガの葉が入っているんだなと思った。これは本当に大切な持ち物なんだ。
他にももう一枚、アーガの葉が財布の中に入っていた。なんとなく手に持ってみる。自分の手のひらと、自分のアーガの葉と比べる。アーガの葉は当然だが一枚一枚少しずつ違っている。大きさ。形。色合い。模様も違う。女物の小物入れにあった模様は曲線が多い。花?レース?そういう美しい何かを連想させられる。もう一枚は氷の結晶のようだ。これは見とれてしまうくらい大きくて模様が細かい。
ら
自分のは?左手は少し「育って」いる。大きさは3センチくらいで、何かの生き物が向き合っているような。シュトロウのに比べるとかなり小さい。右手を見る。こちらは1センチに満たない、ただの丸だ。いつかシュトロウやこれらの葉のように、複雑になるとは思えない。
ベッドの上を片付けて横になると、エルフも潜り込んできた。銀色の髪。肌はさらさらと白い。
「お前よくついてきたな。何も食ってないのに」
話しかけても何の反応もないのはわかっている。それでもこんなに人によく似て、こんなに自分を、慕ってでもいるかのように追いかけてこられると声を掛けずにはいられなかった。エルフはじっと目を覗き込んで、腕を伸ばし抱きついてきた。不思議な感触。人とは違う。体温を感じない。でもひだまりのような暖かさがある。
「かわいいな、お前。名前でもつけてやるか」
気まぐれだった。何がいいかな。少しエルフは笑ったような顔をする。何か好きなもの。俺は何が好きだっけ?
「ネ……ネリにしようか」
ネネリオの歌が思い浮かんだからだった。
「ネリ」
エルフは微笑んだまま、また体を寄せてきた。柔らかい。変な世界。変な生き物。また一緒に寝る気なのかこいつ……。人間とは違うと言っても、こんなに密着されるとどきどきしてしまう。寝よう。余計なことを考えてしまわないうちに。目を瞑る。疲れているはずだ。昨日は牢屋なんかで寝て、今日もずっと歩き回っていたんだ。きっとすぐに眠れる……そういえば、こいつは本当に何も口にしなかった。食べなくても生きられるんだ。寝るのかな?そこは人間と同じなのか?ふと目を開けて、腕の中のエルフ──ネリの顔を覗き込んだ。
「うわ」
さっきまで小学生くらいだったネリが、どう見ても中学生くらい、2回りほど大きくなっている。
「なっ…なん……」
ネリが目を開けてシロを見る。大きな緑の目。なんでこんなに縮んだり大きくなったりするんだ?元の世界のエルフでこんな設定の話は見たことがない。どうなってんだ……。まあ、それはアーガの葉やらシルシやらも同じか。まだまだわからないことがたくさんある。
召喚されたのはなんで?
なんで俺だったんだ?
元の世界に戻るのか?
この先どうしたらいい?
考えることは山ほどあって、次々に頭に浮かんできたけど、ランプの灯を消すと、いつのまにか眠ってしまった。