アーガの木
志路が目を覚ますと、格子の間から朝日が差し込んでいた。冷たい筵敷の床。腕の中に、あのエルフが収まっていてびっくりした。まだ夢が続いているのか?いつになったら覚めるんだ?
あの後、同室の男はいろんなことを教えてくれた。
この国には4つの領があって、それぞれダイゴン、クラブ、ハルト、スパダという。首都はそれらの領の中央にあって、ガルドという。ダイゴンは男が暮らしていた領で、金髪の人が住む。クラブは今志路たちがいる領で、茶色の髪の人が住む。ハルトは赤毛の人々の場所。スパダの人は髪も肌も黒い。各領への移動は手形がないとできない。
男は手形なしにダイゴンからクラブに入り込んだために、つかまって檻に放り込まれるはめになった。「こんなことしてる場合じゃないんだけどな」と男は言った。保釈金を払うか、裁判を受けて刑を受けるまで出られないらしい。金もないし時間もない。
「出たいの?」
志路が尋ねると、当たり前だろと返ってきた。たしかにこんなところにいつまでもいるわけにいかない。志路は鍵穴を覗いてみた。簡単な錠に見える。でも流石に鍵開けのスキルはない。自分にできることは……。
朝ごはんを持った牢番がやって来た。二人分しかない。そっとまだ眠っているエルフを床に寝かせて牢番に近寄る。
「どうして二人分?」
牢番はちらと志路を見ると、黙って差し入れ口から食事を押し入れた。手を伸ばす。
「なあなあ。どうしてだって」
「うるさいな。エルフは食わないからだよ」
牢番がさっと戻ろうとするのを、志路はまた声を掛けた。
「俺ってどうなんの?」
「知らないよ。今日明日にでも領主様のご判断があるはずだ。黙って待ってろ」
「おーい!何かあったのか」
表から別な男が牢番を呼ぶ声がした。牢番はさっと来た道を戻っていった。志路の手には鍵束が握られている。
「どの鍵かな?」
「お前……」
同室の男はいつのまにか目覚めていて、志路の手の中の鍵を見て驚いていた。
「どうやって?」
「俺の特殊技能だよ。すぐ逃げ出す?食器はいつ下げに来る?」
「昼までそのままだ」
「牢を抜けた後がなあ」
「どこかに俺のアーガの葉と弓矢があるはずなんだ。それもないと困る」
男は真剣な顔で言った。
「協力してくれないか?」
差し入れられた朝食を食べ、そっと牢を抜けて廊下から顔を出すと、詰所と思われるところから男たちが談笑する声が聞こえた。最低二人はいる。詰所を抜けなければ外に出られないつくり。何かで気を引ければ……。
でも何もない。アーガの葉とやらが一枚だけ。手のひらに吸い込んだ状態になっても、何も起こらなかった。力づくでなんとかするしかないのか。試しにもう一度アーガの葉を手に吸い込んで見る。これをリジンというらしい。やはり何も起こらない。
「お前は何かできねえのか?」
目覚めて膝に乗って来たエルフに尋ねる。エルフはただその緑色の目で見返してくるだけだ。身長は伸びたまま。
ふと思いついた。
「この子は牢にきた時は1ヒュー……だっけ?くらいだったのか?」
「そう。お前が来て急にでかくなった」
「じゃあ、牢番たちもびびるかな」
「エルフは俺たちの常識の範囲外だから……少しは驚くかもしれないけど」
「お前さ、今ぱっと詰所に行けるか?」
エルフは志路に話しかけられてもぽかんとしている。言葉が通じないと言っていたが本当らしい。
「だめだよ。エルフは俺たちの言うことなんか聞かない。言っただろ、住んでる世界が違うんだ」
誰かが注意を引いて詰所の男たちをばらばらにできればいいと思ったんだけどな。もう一度詰所のぎりぎりまで歩き回ってみる。と言っても、ほんの数歩。隠れる場所もない。思い切って突撃するしかなさそうだ。でも正直、志路は腕っぷしは強くない。喧嘩はほとんどしなかった。鉄格子のはまった窓を見上げる。ここからは出られないな。
「ナァー!エルフが牢にいるよォー!」
「アアー!知ってるゥー!」
鉄格子の向こうから、おかしな声が聞こえた。甲高いような、掠れたような。
「おかしなニンゲンもダァー!髪が黒いのに肌が白イヨォー!」
「おーい、そこの人」
志路がおかしな声に向かって呼びかけると、二羽のカラスが鉄格子の向こうから顔を出した。
「変なニンゲンだァー!」
「声を掛けて来たゾォー!」
それでわかった。カラスだ。話してるのはカラスだ。志路は混乱した。エルフがいる世界だから、カラスもしゃべるのか?
「ちょ、おい」
同室の男に声をかける。
「この世界だとカラスはしゃべるのか?」
「は?喋らねーよ」
「喋ってんだけど……」
男を鉄格子の下に連れて行く。
「別なやつダー」
「ダイゴンのヤツゥー」
「ほらな、あんたのことダイゴンのやつだって」
「……カーカー鳴いてるだけにしか聞こえないけど……」
「あの変な黒髪ハァー、俺たちの言うことがわかるんだァー」
「変なニンゲン」
どうやらそうらしい。志路だけにカラスの言うことがわかる。
「なあ!頼みたいんだ、この詰所の中の人間を外に出して欲しいんだ、お前らの仲間で詰所の奴らをおどかしてくれないか」
「ハー?できなくはないガァー、俺たちになんの得があるのカァー?」
「……」
志路は言葉に詰まった。カラスにとって得になること?何をすれば。
「何かして欲しいことはあるか?」
「たとえバァー、ごちそうをもらえるとカァー」
「パトの実を割ってくれるのもいいナァー」
「パトの実ってなんだ?」
男は志路を訝しげに見た。
「本当に話してるんだな?パトの実ってのは、でかくてものすごく硬い木の実なんだ。焼いて皮をもろくしないと割れない」
「それは手に入りづらい?」
「いや。今の時期、森に入れば」
「よし、乗った!パトの実を割ってやる」
「約束だゾォー」
二羽のカラスは羽音を残して飛び去った。手のひらからアーガの葉が出てきた。リジンがちょうど終わったらしい。
「もしかしてこれが俺の力?」
「アーガの葉か……こんなの聞いたことがない」
鳥の言葉がわかるんだ。
「俺、鳥語しゃべってた?」
「いや。はたからはカーカー言うカラスに普通に話しかけてるみたいに見える」
しばらくすると、外がざわざわし始めたのがわかった。カラスの鳴き声が何重にも重なる。女の人の悲鳴が聞こえる。詰所の側で聞き耳を立てると、詰めていた男たちも何事かと慌てて外に飛び出ていった。室内に人の気配はない。
「やった!」
「アーガの葉!」
金髪の男は詰所に飛び込むと、壁にかかっていた弓と矢筒を取り、引き出しの中から葉を見つけ出した。そのまま飛び出す。
飛び出してみて足がすくんだ。広場の方向に黒い雲のようにカラスが飛び交っている。男は横目で見て笑った。
「ははっ。何個パトの実を割ってやらないといけないんだか」
「どこに行く?」
「ギムの街に行きたい。交易の街なんだ。余所者がいても目立たない。まず森に行こう。西側の森を抜ければ近くに出るはずなんだ」
二人はとりあえず森の中に走った。
「名乗ってなかった。俺はシュトロウ。シュトロウ・バレンタイン」
「俺は山口志路」
「シロ」
走るのは得意だったが、シュトロウはそれ以上に身軽に駆け抜ける。走って走って、小川が流れる少し開けたところで止まった。
「このくらい走れば、簡単には見つからない……お前よくついてきたな、シロ」
「……」
シロは心臓と肺が爆発しそうで口もきけなかった。こんなに走ったことは最近ではなかった。崩れるように足元の横倒しになった木に腰掛けた。
「少し休もう」
耳元でリリリと何かが鳴ったので目をやると、5センチくらいの妖精が飛んで行った。もう驚く気力もない。そうなんだ。そういう世界なんだ。そしてどうやら目は覚めない。俺は元の世界から離れて、この世界に来てしまったんだ。夢じゃない。
ざくざくっと音がして、誰かが木立の中から飛び出してきた。シュトロウが弓を構える。シロも身を起こして身構えた。
「なんだぁ……こいつついてきたのか」
「……」
今にも倒れそうなくらい息を切らして立っていたのは、一緒に閉じ込められていたエルフだった。
「お前が優しくするからだ。取り憑かれたぞ」
エルフはふらふらとシロの前まで来ると、がくりと腕の中に倒れ込んだ。シュトロウは虫でも見るような目でエルフを見、捨てて行けと言ったが、シロは自分を追ってきたようなこの美しい生き物を置いていく気にはなれなかった。ダークエルフのたぐい?そんなのはもっと悪魔みたいな見た目のやつを想像していた。こいつは悪魔というよりは天使みたいだ。光に溶けそうな。
「パトの実ってどれ?」
「ああ。あれ」
シュトロウが指さす方を見ると、30センチほどもありそうな丸い黄色い実が木の幹からいきなり生えている。
「もう少し奥まで進んでからにしよう。火を焚かないといけないから、なるべく人里から離れたい。それより」
シュトロウは一本の木を指さした。
「あれがアーガの木だ。来てくれないか。確かめたいことがある」
シロがエルフを残してその木に寄ってみる。
「昨日から思ってたんだが、お前右利きだろう?アーガの印は普通は利き手に出るんだ。左手に出るのはおかしい。両手に出るのは召喚者だけだ」
「召喚者」
昨日も言われた。召喚者ってなんだ?わからないことだらけ。
「お前が別の世界から来たなら、アーガの木はもう一枚お前に葉を授けるかもしれない。アーガの木に聞いてみてくれ」
「アーガの木に聞いてみる?」
「そう。木の幹に耳をつけて、アーガの木のいうことを聞いて」
シュトロウは、こんなふうに、と言って幹を抱きしめるように耳をつけて見せた。それに倣う。アーガの木には確かにポケットにあったのと同じ形の葉が緑をなしている。枝に付いている葉には何も模様はない。アーガの木が許せば、手の模様と対になった葉を落としてくれると言うが……。
「目をつぶって。自分がどんな努力をしてきたか、アーガの木に話すんだ。心の中で」
そんな。努力なんて……。
勉強もしてこなかった。友達もいない。習い事もしたことがない。スポーツだって真似事だけ。自慢できるのはスリの腕だけ。これだけは必死だったな。死活問題だったからさ。もしももっと真っ当なことで頑張れたら、別な人生になったんだろうか。
『シシ』
何かが幹の中から聞こえた。
『リム ハ タヌ トーキ』
言葉にならない言葉。声にならない声。
『キ ムルト ネタ アキ』
右手が熱くなる。
『シシ』
音が終わる。ゆっくり目を開ける。右手のひらに、1センチに満たない丸い点が描かれている。
「シロ、ほら」
シュトロウが足元を指さす。一枚の緑の葉が落ちている。拾う。同じような点が黒々と刻まれている。
「お前は召喚者だったんだ」
シュトロウは目を輝かせた。
「まだ育ってないけど、仕方ないな。そのうち育つよ」
「育つって?」
「このシルシがさ。技術が上がるにつれて一回りずつ大きくなって、複雑な模様になるんだ。リジンの時間も伸びる。使ってみたら?」
手のひらに重ねてみる。沈んでいかない。
「まだ鳥と話す方のリジンが終わって間もないからか。すぐに交互に使ったりはできないんだな」
「召喚者って何?」
「外の世界から呼ばれてきた人のことさ。今は国が荒れてるから、誰かが呼び出したのかもしれないな。昔から召喚者は世の中を変える力を持つと言われているから」
世の中を変える力。そんなものはない。俺はちっぽけなコソ泥だもん。学もない。力もない。
でもシュトロウは本当に嬉しそうな顔をしていた。