小さな棘
グウェンリアンとトウマは、そのあとしばらく歓談してから帰って行った。
といっても話していたのはほぼグウェンリアンだ。トウマは彼女やレグラス、マリーアンに話を振られればこそ返事をしたけれど、基本的に自分から話すということがなかった。雰囲気からなんとなく察していたが、トウマは彼女の護衛役なのだという。だから最初のうちは同じテーブルに着いてすらもらえなかったよな、とレグラスは苦笑していた。
レグラスとの約束で、竜たちはこの家の中でだけは護衛も主人もなく、誰もが平等に過ごすことになっているらしい。だから普段はともかくここでくらいは気にせず話していいのに、とグウェンリアンはため息をついていたけれど、きっととても真面目で、己の職務を忠実に守ろうとする姿勢の表れだろうと、マリーアンはトウマの寡黙さを好意的に受け入れていた。
「グウェンはどうだ? あまり気兼ねなく話せそうか?」
「はい、とてもお優しくて、素敵な方でした! それに、すごく上品でお綺麗で……私、見とれてしまいました。礼儀知らずで、申し訳なかったです」
「気にしなくていいさ。確かに今の彼女はドレスを着て舞踏会で踊るような立場ではあるが、本人はそんなことより川で魚をつかみ取りしてる方が好きなタイプだ」
「かかか川で魚を!?」
あまりにも彼女の外見と差があるレグラスの言葉に目を見開けば、グウェンには言うなよ、と人差し指を立てられる。思わず両手で口を押さえてしまってから、もう近くに彼女がいないことを思い出してマリーアンは恥ずかしくなった。レグラスはそんなマリーアンを見て楽しげに笑うと、作業台に広げていた白い鱗の一枚を取り上げた。
「もしかして、俺はまだマリーに、ここで仕事をしている姿を見せたことはなかったか?」
「あ、はい。初めてです」
「そうか……いや、すまん。別に見せたくなかったわけじゃないんだが、どうも、誰かに見られているのが苦手でな」
申し訳なさそうに頭を下げてくるレグラスに、マリーアンは慌てる。元々そう聞いていたから、自分が仕事場に入れてもらえないことを悪く捉えたことはなかった。しかしもしかしたら、弟子入りしてきた生徒に三ヶ月もなにも見せない――教えない、というのではなく、そもそも何の作業も見せないのだ――というのは、一般の常識からいうと少々厳しいのかも知れない。マリーアンがごく普通の生まれで、本気で彼に弟子入りしていたのなら、不満の一つも抱えたのだろうか。
「わ、私は大丈夫です! その、他人の気配で、作業を邪魔されたくないと……先生が、先にそう言ってくださっていたので、呼ばれなくても気になりませんでした」
「本当に俺は、君の優しさに救われてばかりだな。その……実のところ、俺の仕立ては、他のまっとうな仕立屋からすれば噴飯物だと思うんだ」
「ふんぱんもの、ですか」
「子供の遊びじゃないんだぞと怒られそうなんだよ。まあ、一度見てくれ」
レグラスは苦笑すると、選び取った鱗を両掌で挟むようにする。
白く輝くそれは、グウェンリアンが置いていった中の一枚だ。レグラスはこれから、彼女のためのストールを作るのだという。簡単な作業だから、このままやってしまおうとレグラスに言われ、マリーアンは作業場にとどまっていたのだ。
場所をテーブルから作業台に移したレグラスは、マリーアンと話しながらも持ち込まれた数枚の鱗を検分し、使用するものを決めていたらしい。初めて見る彼の作業に、マリーアンは緊張と興奮が入り交じった視線をその手元に注ぐ。
「さっきも少し話したが、俺達竜はたとえこうして人の姿をしていても、常に身体から漏れる魔力のせいで普通の服を着ることが出来ない。出来ないというか……もっと正確にいうと、大抵の服が一日でボロボロになってしまうんだ」
「そ、そんなに早くですか……!」
「ああ。だから、竜の魔力に耐えうる特別な服が必要になる。そして、その特別な服を作る材料になるのが、竜の鱗だ」
両掌を擦り合わせるようにしたレグラスが、立てていた掌を横にして、上に載せていた手をゆっくりとずらしていく。
マリーアンは目を見開いた。
彼の掌と掌との間に、燐光をまとった白い布が、生まれていたからだ。
「……む、思ったより厚みが出ないな。マリー、すまんが一枚鱗を取ってくれ。一際小さいのがあったはずだ」
「は、はいっ」
空気の流れに合わせるように、たゆん、たゆんと両手の間で揺れている布に目を奪われていたマリーアンは、レグラスの言葉に我に返ると作業台の端に放置されていた白い鱗に近づいた。彼が言うとおり、群を抜いて小さな一枚があったので、それを手に取ると急いでレグラスの元に戻る。差し出された掌に鱗を載せれば、彼はまた両手を合わせ、開き、波打つ布同士を重ねるようにした。二枚の布はしばらく違うリズムで揺れていたが、やがてそれが揃い、ついには一枚の布になって揺れ始める。
魔法のような光景に言葉も出ず、マリーアンはただ、目の前の奇跡を眺めていた。
「こんなところだろう。……ほら、これでストールの完成だ。四角い物は早くて良いな」
「わわ……!」
しばらく布の大きさを調整するように手を動かしていたレグラスが、納得したのか一つ頷いてそれをマリーアンの目の前に出してくる。柔らかく全体を包んでいた燐光が消え、作業台にふわりと落ちた白い布は、マリーアンの目から見てももうただの布だった。布というよりは、毛織物だろうか。グウェンリアンが肩に掛けていたものとほぼ違わぬように見える白いストールが、作業台の上に広がっている。
マリーアンはレグラスの顔を一度見上げてから、恐る恐るそれに手を伸ばした。やはり何かの毛のような、柔らかな感触のストールを取り上げる。原材料となったあの白い鱗のように艶めいて光る純白の織物を感激しきりに眺めていると、レグラスの手がそれを取り、何故かマリーアンの肩に掛けてきた。
「せ、先生! これは、グウェン……の!」
「気にするな、軽く首に当てるだけだ。マリーに触られたくないのなら、そもそも刺繍なんか頼みはしないさ」
その言葉に、多少の罪悪感を抱きながらも好奇心に負けたマリーアンはストールが掛かった肩をそっと両手で押さえてみた。
ふわふわと柔らかな肌触りのストールは羽根のように軽く、それでいてとても温かい。思わず頬ずりしそうになって、自分のものではないのだと我に返った。小さく笑ったレグラスが、なかなかいいだろう、と声を掛けてくるのに全力で頷く。
「とっても素敵です! あったかくて、柔らかくて……それに、すごく軽いです!」
「重さについては、逆にもう少しあった方がいいのかとも思うんだがな。防寒性能は保証付きだ、そのために十年頑張ったぞ」
「じゅ、じゅじゅじゅじゅうねん!?」
ふふんと胸を張ったレグラスに驚いて聞き返せば、
「おう。俺が満足する防寒性能を出せるまで試行錯誤してな、今のようになるまで十年かかった。これができるまでは市販の防寒着に大枚はたいて特殊な魔術加工をして貰ってたんだが、それでも一冬しかモノが保たなくてなぁ。俺たち竜は、君たち人間よりも暑さや寒さにはずっと強いが……耐えられることと、気にしないこととは違うだろう? 俺自身がどうにも寒さは駄目なタチだから、どうしても作りたくてな。最後には半ば意地でやってたよ」
そんな苦労話をされたものだから、マリーアンは心底彼に同情した。
「先生は冬の間、いつも厚着でしたものね」
「正直なところ俺は、寒いより暑い方がずっといい」
「ふふ、私もそうですよ」
時折、「冬はとにかく重ね着をすれば寒さには耐えられる、しかし夏は服を全て脱いでも暑いから夏の方が嫌だ」という意見を聞くこともあるが、あの離れで暮らしていた時代には重ねて着る物すらろくになかったマリーアンである。寒さで指がかじかみ、乾燥で手足がひび割れ、寒さに耐えるため薄っぺらい毛布の上に椅子を乗せる冬よりは、汗で不快な思いをしたり不衛生になったりするものの痛みの少ない夏の方が過ごしやすく思えた。
「もし良ければ、今年の冬はマリー、君の防寒具も作ろうか」
「えっ……!」
思いも寄らない申し出に、マリーアンはついレグラスの顔を見上げてしまった。
「い、いいんですか?」
「ああ。ただ、俺が作るものはどこか古くさいというか、その……君のような若い女性が好むデザインじゃないと思うんだが、構わないだろうか。ああいやもちろん、見て気に入らなければ――」
「大丈夫です!」
服なんて、着られるだけで十分だった。
それがレグラスの元へ来て初めて、マリーアンは服を選ぶ楽しみを知った。きちんと作られた服を、身につける喜びを知った。
そして今、誰かが自分の為に服を作ってくれる。そんな嬉しさまでも、レグラスは自分に与えてくれるのだ。
(しかも、知らない誰かじゃなく、先生が私のために作ってくれるなんて……!)
マリーアンにとって特別な存在である彼が、マリーアンのためだけに作ってくれるなんて。
嬉しくて嬉しくて、踊り出したいほどだ。
「はは、そんなに喜んでくれるとこちらとしてもやりがいがあるな。今年の冬には間に合うように作るから、待っててくれ」
「はい!」
「デザインはいくつか候補を出して、マリーに選んでもらうかな。どうも俺はセンスがないと、グウェンにもよく詰られるし」
「私は、先生にお任せでも構いませんよ?」
「やめてくれ、それで君にまで怒られたら今度こそ再起不能になってしまう」
「お任せなんですもの、怒ったりしません」
苦笑するレグラスに笑い返せば、彼の手がすっと伸びてきて、頭を撫でられる。
「……ありがとうな、マリーアン。俺を、信じると言ってくれて」
丸い眼鏡の奥、金色を帯びた琥珀の瞳がじっと、自分を見つめていた。
「誓って、君を騙そうとしたわけでも、嘘を吐こうとしたわけでもない。だが、改めて謝罪させてくれ。本当のことを話さずにいて、すまなかった」
「せ、先生! もういいんです、そのことは……」
「君が良くても、俺が良くない。なあマリー、俺はグウェンが言った通り、こういうことに関してどうも鈍いらしいんだ。けどな、君を欺こうという気持ちがないことだけは本当だ。だからもし、君がなにか、俺に隠されていると思うようなことがあるなら、その時は遠慮なく聞いて欲しい。嘘偽りなく答えると、約束する」
優しい目だ。いつだってマリーアンを見てくれた目だ。指が動かなくて泣いたときも、無理をして食べ過ぎて吐いたときも、初めて針に糸を通せたときだって、彼はマリーアンをこの金が混じった琥珀の瞳で見守ってくれた。そうしていつだって、大丈夫だ、頑張ったな、と気遣う言葉をかけてくれたのだ。
その目が自分を見てくれるだけで、優しい声が聞こえるだけで、どれほど救われてきただろう。
「……はい。じゃあ、何かあったときには、私の方から質問させてもらいますね!」
だから、聞けなかった。
(ねえ先生、リンさんって、どんなひとですか。先生の、……どんなひと、だったんですか)
グウェンリアンとの会話に出てきた名前。おそらくは彼と関わりの深い女性の名だと察しが付いたそれは、マリーアンが初めて聞く名前だった。そしてそのあとの会話に、一切出てこなかった名前だった。
きっと今それを尋ねたら、レグラスは答えてくれるに違いない。彼自身が言った通り、嘘を吐く気も騙す気もないのだから、ありのままを教えてくれるだろう。
そうわかっていたのに、マリーアンはどうしてか、それを聞けなかった。
(もし、もしも……聞いて。リンさんが、恋人……とか、だったら)
マリーアンはレグラスの弟子だ。彼を先生と呼び慕う、ただの同居人だ。だからリンとレグラスの関係が何であったとしても関係ないし、聞いて問題はないのだと理解している。たとえ恋人であったとしても、そうなんですか、の一言で終わらせれば良いだけの話なのだ。十分にわかっている。
わかっている、のだけれど。
(なのにどうして、それを、聞けないんだろう)
彼女のことを尋ねようと思うと、まるで喉の奥に重く冷たい何かが詰まったようになって、声が出なくなってしまう。本当は聞きたいのに、リンというのが誰で、かつてどんなことで怒られて、今はどこにいて、彼とどんな関係であったのか――その全てを、知りたいのに。
「ああ、そうしてくれ。可愛い教え子の言葉には、いつだって全てを包み隠さず答えると、約束しよう」
何も聞けず、何も聞けない理由さえもわからぬまま、マリーアンは笑って頷いた。
胸の奥の方に小さな棘のようなモノが、刺さった気がした。