出会い、そして一歩
店に来客があることは、初めてではない。
この三ヶ月のうちに何度か、レグラスを訪ねてくる者はあったが、いずれも彼が一人で応対していた。
しかし今回はマリーアンが同席しても良い、という。
それがとても嬉しくて、マリーアンは浮き足立ちながらもてなしの準備をしていた。
といっても、先程「踊る小熊」亭で貰ったクッキーと、レグラスから指定された茶を淹れるだけだが。
「こんにちは、レグラス様。グウェンリアンです」
軽やかなノックの音とともに聞こえた女性の声に、マリーアンは背筋を正す。レグラスがドアを開けるのを見ながら、準備していたやかんを火に掛けた。最初に入ってきたのは青いワンピースを身につけた女性で、そのあとを付き従うように男性が入ってくる。軽装ではあるが、腰には剣が吊られていた。女性の方は丸腰であるから、彼女の護衛なのかも知れない。
(大丈夫。落ち着いて、今までの通りにやればいいの)
マリーアンは一つ深呼吸して、ティーポットを温めた。言われたとおりの茶葉を四人分になるよう量って入れ、クッキーを盛り付け済みの皿を横目で眺める。この三ヶ月、レグラスとふたりでなら何度もお茶を飲んだけれど、客人に出すのは初めてだ。緊張して震えそうになる指先を押さえ、大丈夫、ともう一つ深く息を吸う。
「久しぶりだな、グウェン。変わりはないか?」
「ええ、おかげさまで。レグラス様は?」
「俺の方も特に変わりはないよ」
「あら、この間はいなかったはずの、ずいぶん愛らしいお嬢さんが奥に見えますけれど?」
「……いや、うん、ないわけじゃないんだが、そこはまあ言葉の綾だ、あとで話すよ。それで、そっちは順調なのか?」
「まあ、楽しみにしておきますわね。そう、そのことなのですけど……」
二人が近況を話し合っている間に湯が沸いたので、マリーアンは四人分の茶を淹れるとそれを三人のところへ運んでいった。
レグラスの家は、一階に仕立ての作業場と食事場所、そして台所や風呂があり、二階が各自の部屋と物置、という作りである。来客があったときに使うのは普段食事場所として使っている四人がけのテーブルで、作業場と隣接しているから、必要に応じてすぐ作業にかかれるのだ、とレグラスが言っていた。
今も何か確認することがあるのか、レグラスと女性は作業台に出したデザイン画を前に何事か話し込んでいる。なのでその二人よりも先に、少し離れた場所で微動だにせず待機していた男性が、こちらに気づいて手を出してきた。
「よろしければ、私がお運びしましょう」
「ふ、不慣れですみません。でも、大丈夫です。ありがとうございます」
四人分のティーセットともなれば、マリーアンにとっては決して軽いとは言いがたい。茶器が揺れるカチャカチャという音が気になったのだろうか、運搬を申し出てくれた男性に頭を下げながらもこれは自分の仕事なのだと言外に言えば、それに気づいたのかレグラスがこちらを振り向いた。
「ああ、ありがとうマリー。そこに置いて、一緒に座ってくれ。トウマもな」
「いえ、私は……」
「俺の前では皆同列だ。前にも言ったろう? マリーは、俺の隣に」
「は、はいっ」
トウマ、と呼ばれた男性がしぶしぶ椅子の横に立つ。レグラスは女性に椅子を勧め、それからマリーアンに椅子を勧めてくれた。彼に椅子を引かせることが申し訳なく、慌てて席に着けば気にしなくて良いと微笑まれる。その笑顔になんだかほっとして、マリーアンはいつの間にか詰めていた息をそっと吐いた。思ったよりも、大分緊張していたらしい。
マリーアンに次いでレグラスが椅子に掛け、最後にトウマが腰を下ろす。
全員が着席したところで、初めにマリーアンの正面に座った女性が口を開いた。
「自己紹介がまだでしたわね。初めまして、わたくし、グウェンリアンと申します。以後お見知りおきくださいね」
日陰に積もった雪のような、淡い蒼白の長い髪。ぱっちりと大きな瞳は目が覚めるような冬空の青で、その周囲には淡雪のような色合いのまつげが長い影を落としている。肌の色も雪のように白く滑らかで、瞳と同じ澄んだ青のワンピースによく映えていた。
座っていてすらマリーアンよりもはっきりと背が高いのがわかる、美しい彼女の呼びかけに、マリーアンはしどろもどろになりながら答える。
「は、初めまして、マリーアっ……いえ! ま、マリーと申しますっ。その、先生の元で、仕立てなどを勉強させていただいておりますっ」
「ふふ、そうかしこまらないでくださいな、マリーさん。わたくしのことはどうぞお気軽に、グウェン、と呼んでくださいませ」
(綺麗……まるで、雪の妖精みたいな方……)
甘く上品な微笑みと、雪の積もった朝のように全てが丸みを帯びた優しい声音。
マリーアンはその美しさに思わず見とれてしまった。
こほん、と咳払いが聞こえ、慌てて視線をそちらにやればレグラスが何故か少々気まずそうな目でグウェンリアンを見ている。
「なんだか順番が前後した気がするが、一応俺からも紹介しよう。……マリーアン、こちらはグウェンリアン。海向こうのシーフォリアに住んでいる、お得意様だ。グウェン、こちらはマリーアン。いろいろあって住み込みで働いてくれている、刺繍が好きなお嬢さんだ。諸事情あってマリーと名乗っているから、そう呼んでくれると助かる」
海向こう、というレグラスの言葉に、マリーアンは驚いた。
この国、エルドリア王国は一部が海に面しており、海洋貿易も行われている。相手国との地理関係にもよるが、陸路より海路の方が近い場合は積極的に船を用いた移動が行われていた。なので、人や物品が海を隔てた他国から渡ってくることは別に珍しいことではないのだけれど、それにしても一日や二日の話ではない。ましてやここ、王都エテルメルクは内陸にあるのだ。船が着く街からは陸路で数日かかる距離である。
そんな遠いところからわざわざ、レグラスに仕立てを頼みに来る客がいる――それはつまり、レグラスの腕がそれほどまでに良いということだろう。
(ということは、先生はやっぱり、すごい方なんだわ……!)
実のところマリーアンはまだ、レグラスが服を仕立てているところを見たことがない。作業中他者がそばにいるのは苦手だという彼は、この三ヶ月ずっとマリーアンを作業中の作業場へは入れなかった。だから実際の所、彼がどういった服を作っているのかをマリーアンはいまだに知らないでいた。
けれどこうして話し合いの場に立ち会わせてもらえるのだ、ついにマリーアンに作業風景を見せてくれる気になったのかも知れない。表向きだけではあるが、マリーアンとてレグラスの弟子なのだから、多少なりと仕立ての技を学んでおきたかった。それに純粋に、彼が作るものに興味があるのだ。刺繍という手仕事が好きなマリーアンは、基本的に誰かが何かを作り出す瞬間を見るのが好きだった。
「なるほど、マリーと……ではわたくしも、マリーさんと呼んだらいいかしら?」
「いえっ、あの、どうか、私のことはマリーと呼び捨ててください!」
「あら、いいの? じゃあお言葉に甘えるわね、ありがとう、マリー。それならわたくしのことも、グウェンと呼び捨ててくれて構わないわ。敬語もなくていいから、気楽にしてちょうだい」
「そ、そういうわけには……」
見るからに上流階級の気配を漂わせるグウェンリアンに気後れして答えれば、彼女はふと、首を傾げた。
「マリー……マリーアン? ……ちょっと待って、貴女、マリーアンという名前なの? 初めから?」
「は、はい、そうですが……?」
グウェンリアンの青い瞳が、ぱっと輝いた。
「まあ、そうなの! それならほんとうによかったわ! それで刺繍が上手だなんて、とっても素敵!」
「え、ええと……?」
「ねえ、マリー! もしも時間があったら、わたくしのストールに刺繍をしてくれないかしら! あのね、これ、ずっと物寂しいと思っていたのだけれど、ここに、銀糸で竜の翼を入れて、出来たらこんな風に石を――」
「あー……グウェン、一度落ち着いてくれ。マリーが固まってる」
困ったように頭を掻いたレグラスが割って入ってきて、マリーアンは我に返った。あまりにも勢いの良いグウェンリアンの声に驚いて、思考が少し止まってしまっていたらしい。まあごめんなさい、と眉根を寄せつつ立ち上がったグウェンリアンのほっそりした手が、マリーアンのまだ少し骨張った手を取ってくる。
「つい、刺繍をお願いできると思ったら嬉しくなってしまって。本当にごめんなさいね、マリー」
「い、いえ、大丈夫です。私の方こそ、すみません」
握られた手の柔らかさに心臓が跳ねるのを感じながら、マリーアンはなんとか言葉を返した。
マリーアンは一応貴族の家に生まれてこそいるが、その立場にふさわしい生活はしてこなかったし、教育もほとんど受けてこなかった。父親と会ったことは数えるほどしかないから、最も身近にいた貴族といえばあの三人の姉だけれど、彼女たちはマリーアンの前では高貴なる「貴族」としてではなく横暴な「姉」として振る舞うことがほとんどだった。であるから、貴族的な立ち居振る舞いをする人間と接する機会はほぼなかったと言っていい。
そんなマリーアンから見たグウェンリアンという存在は、あまりに美しいものだった。所作の一つ一つに気品がにじみ出て、なのに驕った雰囲気が少しもない。貴族やそれに類するものだと聞いたわけではなかったが、明らかにこんな下町の店で服を仕立てるような女性ではないと見ているだけでも察しが付いた。おつきの男性がいることからも、彼女がただの町娘などではないとわかる。
グウェンリアンは勢いよく肩から外したストールを、改めてテーブルの上に広げた。色柄もなく織り模様もない真っ白なそれは、柔らかく厚めの生地で出来ているらしく、羽織れば暖かそうだが確かに彼女の言うとおり少し物寂しい。
「レグラス様、彼女に刺繍の仕事をお願いしたいのですけど、構いませんか?」
「ふむ……納期は?」
「急ぐ理由もないですし、いつでも構いません」
レグラスの、金色混じりの琥珀の瞳が、マリーアンを見る。
「だ、そうだ。やってみるか、マリー?」
「え……、でも、私……」
白い布の上に銀の糸で描かれる竜の翼。それはさぞや美しいものであるだろう。そうしてグウェンリアンの望み通りに色石などを飾ったら、素敵なストールになるに違いなかった。
けれど。
「わ、私は……その、趣味で刺繍をやってきただけで……、まだとても、他人様のものに手を出せるような腕では……」
確かに、生業として刺繍をやっていこうと思ってはいた。けれど今の自分は、必要最低限の基礎を習っただけ、あとはあの薄暗い離れで自己満足のために針を動かしていたに過ぎない。ましてやつい先頃までは満足に指も動かせない状態だったのだ。今では大分元に戻ってきているとはいえ、完全に元通りだとはまだ言えなかった。
「そうですの?」
「まあ、技術的にはまだまだといったところだろうな。ただ、俺よりは上手い」
「……レグラス様と比べたら、わたくしだって上手だと思いますけど」
「いや、君よりは俺の方が上手いだろう。それと、マリーは君よりも上手い」
「マリーがわたくしより上手いのはわかりました、安心して任せられますわ。ですが、レグラス様とであればどう考えてもわたくしのほうが上手です」
「ははは、冗談も大概にしてくれ。俺のほうが上手いに決まってるだろう」
「あらまあ、そちらこそ悪い冗談にも程がありますわ。わたくしの方が上手ですが何か?」
「……俺だ」
「……わたくしです」
「俺だ」
「わたくしです!」
「……お二人とも、その辺で。マリー様が戸惑っておられます」
ため息交じりのトウマの言葉に、レグラスとグウェンリアンが揃ってこちらを見てくる。すすすすみません、と条件反射で謝って、マリーアンはうつむいた。
すると、こほん、という小さな咳払いが聞こえ、そっと頭に手が置かれる。
「なあ、マリー。心配する気持ちもわからないわけじゃない。だが、刺繍で身を立てる気なら、これほど良い条件の仕事を蹴るのはもったいないぞ? 納期は十分に取れるし、グウェンは無理難題を言わない良客だ。なんなら、素材のストールはいくらでも俺が作れる」
「ああ、それはいい考えですわね。ちょうど、もう一枚ストールをお願いしても良いかなと思っていたんです」
「ならそうするか。今使っているものはそのままで、新しく納品するものに刺繍を入れよう」
「そうしてくださいませ!」
恐る恐る、レグラスの方を見上げる。
この三ヶ月で見慣れた、柔らかな微笑みがそこにあった。
「あとあるとすれば、技術面の心配か。前に、懇意にしている針子がいると言ったと思うんだが……近いうちに、君に刺繍を教えてくれるよう、彼女には話を付けてあるんだ。なにせ俺では教えるどころか、君に教わることになるだろうからな。だからグウェンのストールに取りかかるのは、彼女からみっちり技術を教わってからで構わない。さあどうだマリー、まだ心配の種があるか?」
「……せん、せい」
でも、とマリーアンが言うより早く、
「お、まだいくらでもあるって言いたい顔だな? だがな、そういうものは、探せば探すだけ出てくるものだ。仮に今ここで全てを潰しても、君が納得しない限りそいつはいくらでも沸いてくる。……そう、君が納得しない限り」
レグラスはそう言って、浮かべていた微笑を消し、じっとマリーアンを見つめてきた。
「マリーアン。何を不安に思うことがあっても、俺が解決策を見つけると約束する。だからこの仕事を決めるのは、君の気持ちだけなんだ。下町で生きていくと決め、刺繍で身を立てると決めた。そして今、好条件の仕事が回ってきそうなところにいる。……今、君は、どうしたい?」
マリーアンは正直、まだ迷っていた。
確かにそう決めたのは自分だ。刺繍という素晴らしい技術に出会い、趣味としてそれを続けてきた。指を潰され、針を持つという行為すらも奪われたときには、世界の全てを喪失したような虚無感に襲われた。レグラスに助けてもらい、その腕を認めてもらって、こんな自分が誰かと対等になれるものは唯一それだけなのではないかと思った。そして、ならばそれでなら食べていけるのではないかと思ったのだ。
しかし、そう思っていたとしても、今の自分の技術に自信はない。むしろこの三ヶ月で外の世界のあれこれに触れ、マリーアンは自分の知識や技術がいかに狭く偏ったものであるかを思い知った。レグラスはああ言ってくれたけれど、素晴らしい教師についても素晴らしい技術が身につくかどうかは結局の所己の力量次第だろう。そしてそれは、今のマリーアンには判断が出来ないことだ。
あまりにも自分は未熟だ。それは自分が、一番わかっている。
(でも、もしも私が、刺繍を生きるための術にするのなら)
これから先も、こんなことはきっとたくさんあるに違いない。
仕事に対して己の腕前が足りないと思ったとき、その依頼を断ることはひとつの選択だろう。出来もしないものをできると言って引き受けては、相手方にも迷惑が掛かるし、信用問題にもつながってしまう。
けれど、自分を指名して仕事を任せたいと言ってもらえた。未熟さを知った上で、頼んでも良いと認めてもらえた。その上時間はたくさんあるというし、素材となるストールも一点物というわけではない。
ならば自分に出来ることは、その期待に応えられるよう、誠心誠意努力することだけなのではないだろうか。
「先生、……私」
心は、決まった。
「私……私で、務まるかどうかわかりませんが……、どうか、やらせてください。精一杯頑張ります、お願いします!」
勢いで椅子から立ち上がりながら、マリーアンはそう言って頭を下げた。
期待外れだとがっかりされるかも知れない。最後には、この程度ならいつもの針子に頼むと取り上げられるかも知れない。
それでも、挑戦してみたかった。
なにも期待されず、教えられず、役立たずでいることしかできなかったこれまでの自分から、一歩だけでも抜け出したかった。
それがこの街で生きていくための、第一歩になると思ったのだ。
「大丈夫だ、さっきも言ったが、何かあれば俺がフォローする。……なんといっても、俺は君の先生だからな」
穏やかなレグラスの声に、緊張で震えていた身体がすっと落ち着いていくのを、マリーアンは感じた。
彼の言葉はいつだって、まるで当たり前のように自分を救ってくれる。
その心地よさに頼り切っていてはいけないと思うけれど、顔を向ければこちらを見返している、レンズ越しの琥珀の瞳があんまり優しく笑うから、マリーアンはつい、泣きそうになってしまうのだ。
「ありがとう、ございますっ……!」
震える声でなんとか感謝を伝えれば、気にするな、とまた頭を撫でられた。
こうして子供のように扱われることも、これまでにはなかったことだ。けれど、温かくて大きな手に触れられることは、とても安心するのだとマリーアンはもう知ってしまった。だから今はつい、そうされたいと思ってしまう。
(私にお兄様がいれば、こんな感じだったのかしら……)