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竜の仕立屋  作者: 翠乃ねぎ
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今だけの平穏

「いらっしゃい! いつもの席なら空いてるよ! あと今日のオススメは鹿肉のシチューだ!」


 鈍色のベルが掛かった扉を勢いよく開けると、がららん、と音がして香辛料の匂いが外へ流れ出す。

 来客に気づいてかこちらを見た、恰幅のいい女性がにかっと笑って声を投げてきたのに、レグラスが相好を崩した。


「おお、そりゃあいいな、暖まりそうだ。俺はそれにするが、マリーはどうする?」

「あ、えと、じゃあ私もそれを、少なめにお願いします」

「だそうだ、ペチカさん。よろしく頼む」


 レグラスは基本的に、マリーアンのことを「マリー」と略称で呼ぶ。

 マリーアン、という名前は、この三ヶ月でも数回耳にしたことがあるくらい、この国では一般的な名前だ。だから偽名を使うほどではないのだろうが、やはりそのまま呼ぶには多少なりとも気になる部分があるのだろうとマリーアンは理解していた。この店に初めて来たときの紹介もレグラスがしてくれたから、マリーアンはここではただの「マリー」として通っているし、それを訂正するつもりもない。それになにより、姉たちに憎しみを込めて呼ばれていた「マリーアン」という名前よりも、レグラスやこの店の人々が温かく呼んでくれる「マリー」という名前の方が気に入っていたのだ。

 呼び名を変えるのにあわせて髪を切り多少の変装でもするべきかと思ったが、レグラスから女性は髪型と服を変えれば大分印象が変わるから大丈夫だろうと言われ、結局今はそれで落ち着いている。家ではいつも適当に括っていた濃藍の髪を三つ編みにしてから上げてバレッタで止めるようにし、裁ちっぱなしで裾がほつれた生成りの麻のワンピースではなく青いエプロンドレスを身につければ、確かにレグラスが言うとおり元の自分とはかけ離れた外見の人間が鏡の中にいた。多少なりと肉付きが良くなったせいもあるのか、すっかり以前の自分の面影はないから、少々見たくらいでは同一人物だとはわかるまい。


「マリーちゃん、おはよう! うむうむ、今日もかわええのう!」

「おはようございます、おじいちゃんたち。昼間からあんまりお酒を飲み過ぎちゃいけませんよ」

「なぁに大丈夫じゃ、このくらい水みたいなもんじゃて……ういっく」

「完全に酔ってるじゃないか……」


 気さくに声を掛けてきたのは店の常連客である三人の老人たちだ。それぞれギデオン、ジェフリー、ゲルハルトという名の彼らは、昔は名うての冒険者グループだったとかで、酔うと披露してくれるかつての冒険譚がマリーアンは好きだった。中でも一番は、隣国の山に住みついた昆虫型の魔物、大百足を倒しに向かったときの話だ。幾多の冒険者を屠ったという大百足の巨体をちぎっては投げちぎっては投げの大立ち回りを演じた彼らは、辛くもその魔物を討ち取るが満身創痍、大百足の毒にやられ下山中に倒れてしまう。しかしそんな三人を空から舞い降りた美しい黒竜が救ってくれた――という話なのだが、もっぱら冒険譚を披露する係であるジェフリーの語り口がまた上手く、何度聞いてもマリーアンは手に汗握り最後には拍手してしまうのだ。

 もっとも店主や他の常連客からは、あんなもの全部酔っ払いの戯言なんだから信じちゃいけないよ、と釘を刺されているのだけれど、レグラスだけはいつも苦笑しながら一緒に聞いてくれるから、きっと本当のことなのだろうとマリーアンは思っている。


「違うもんわし酔ってないもん! しゃっくりしただけじゃもん!」

「やめいゲルハルト! おんしがもんとか言っても何も可愛くないわ!」

「なんじゃと、三人組の可愛い担当であるわしに向かって何を言うか!」

「そっちこそ何を言っとるんじゃ! 可愛い担当はこのワシ、ギデオンじゃ!」

「わわわ、おじいちゃんたち、落ち着いてください……!」


 なぜか突然謎の言い合いを始めてしまった彼らに慌てていると、店の奥からシチューの皿とバスケットを抱えたペチカが出てきて呆れたような声を出す。


「ちょいと爺さんたち、うちは昼酒は止めないが、喧嘩するなら出てってもらうよ!」

「ああんごめんよペチカちゃん! わしら仲良し三人組じゃ!」

「そうじゃそうじゃ! そしてもっと仲良くなるために追加のワインを所望する!」

「老い先短い老人の数少ない楽しみなんじゃよぉ、奪わないでおくれよぉ」

「わかったわかった、わかったから酒臭い息をマリーちゃんに掛けるんじゃないよ! 酔っ払っちまうだろう!」


 促されるままいつもの席に着けば、注文したシチューが二つとパンが山盛り入ったバスケット、そして小袋がテーブルに置かれる。口をリボンで止めてあるその小さな袋は何なのだろうと思っていると、


「はいよ、シチュー普通と控えめ。こっちはサービスのクッキーだ。マリーちゃんが食べるんだよ、間違ってもレグラスさんや爺さんたちに食われないようにね!」

「おいおい、俺はこの店のシチューとパンを食べて、更にクッキーまで欲しがるような胃袋はしてないぞ」

「なんだい、アンタだってそんなに恰幅がいい方でもないんだ、うちの食事じゃ足りないってくらいの男気があってもいいんだよ?」


 勘弁してくれ、と言って降参のポーズを取るレグラスに、ペチカが豪快に笑う。マリーアンは自分の皿を見た。少なめで、と頼んだはずだが、どう見てもレグラスのものと同じ皿で、少々量が少ない気がする、程度の減らし方である。


「ぺ、ペチカさん! あの、私、そんなにたくさん」

「マリーちゃん、アンタいつまで経っても肉が付かないねぇ! うちに来ないときは何食べてるんだい!? ちゃんとたくさん食べさせて貰ってるんだろうね!?」

「えっ!? は、はいっ、食べてます! たくさん食べてますっ!」

「そうかい? ならいいんだけど、何か困ったことがあったらすぐに言いなよ? おばさん、いつでも力になるからね!」


 そんなに沢山は食べられないと言いたかったのだが、ペチカは言いたいことだけ言うとさっさと厨房に引っ込んでしまった。消化不良になってしまった言葉をやむなく飲み込んで、マリーアンは勢いで浮かせてしまった腰を元通り椅子に落ち着ける。

 ペチカはこの「踊る小熊」亭の三代目なのだという。今は彼女の夫で、婿入りしてきたのだという調理担当のダストンと二人で店を切り盛りしていた。いわゆる下町の食堂だから、価格の割に量は多いが料理の種類は少ないし味だって素晴らしく良いというわけではない。けれどマリーアンは、この店で食べる食事が好きだった。

 どこか懐かしささえ感じる、素朴で優しい味の料理と、十年来の知り合いのように話しかけてくれる店主や常連客。

 レグラスと、そして彼らに囲まれての食事は、マリーアンにこれまで感じたことのない温かさをもたらしてくれた。


(そ、それにしても、この量……食べきれるかしら……!)


 初めてこの店で食事をしたときはその日のお勧めだった鶏肉の煮込みを四分の三も残してしまって、ペチカに大層心配されたことを思い出す。なにせマリーアンはいつも、ジャガイモの皮やタマネギの端っこを煮込んだスープと残り物のパンくらいしか食べていなかったのだ。だから、しっかりとした味付けの肉を食べたのも初めてなら、柔らかいパンを食べたのも初めてだった。お腹がびっくりしてしまって、たくさんは食べられなかったのだ。


「マリー、もし食べきれないようなら、クッキーは持って帰っておやつに回そう。シチューが多ければ、俺が少しもらうし……残さず食べようとする気持ちは偉いが、無理をするんじゃないぞ」

「あ、ありがとうございます、先生……」


 マリーアンが戸惑っているのを察して小声で提案してくれたレグラスにこちらも小さく感謝を述べる。実は一度無理をして食べ過ぎてしまい、家に戻ってから吐いたことがあるのだ。作ってくれたペチカやダストンに失礼なことをしてしまったという罪悪感と、食べ物を粗末にした後悔で泣くばかりだったマリーアンを、レグラスは優しく慰めてくれた。そして、無理をしてまで食べることはないのだと、教えてくれた。

 食事を残せば殴られるか詰られることが当たり前だったマリーアンは、その時初めて、出されたものを食べきることが義務ではないと知ったのだった。


「爺さんたちはなにか追加は?」

「マリーちゃんと同じシチュー!」

「ワシは干し魚の辛味焼き! 辛味増し増しで!」

「わしは羊チーズがええのう、あとは……」

「あの爺さんたち本当によく食うな、胃袋が世界の果てにでもつながってるんじゃないか?」

「聞こえとるぞー、レグラスさん」

「わしらは昔から大食漢だったからの、その癖が抜けないんじゃよ。じゃがその分頑張って運動しとるぞ!」

「いうておんし最近腹の肉がヤバいじゃろ、ほれ」

「つ、摘まむな! 違うんじゃ、わしは頭脳労働じゃからしょうがないんじゃ!」

「……。さあ、俺たちもいただこうか、マリー」


 やいやい言いながらもまだ飲み食いを続けるつもりらしい老人たちを横目に、レグラスが手を組む。それにならって、マリーアンも食前の祈りを捧げた。これはレグラスの元に来て初めて覚えた習わしだ。己の血肉となって命をつないでくれる食材に感謝するという意味があるらしい。伯爵家では見かけなかった気がするが、素敵な習慣だと思う。

 湯気を立てるシチューをひとさじすくって口に運べば、よく煮込まれた鹿肉と根菜の豊かな味わいが感じられた。香草を練り込んで焼かれたこの店自慢のパンをちぎり、シチューに付けて食べる。こっくりとした味わいに香草の爽やかさが追加され、これまた美味しい。この三月でマリーアンも大分、普通の食事を取ることに慣れてきたから、なんとか残さずに食べきれるだろう。もちろん、クッキーのことを考慮に入れなければ、だが。


「美味しいです……!」

「だろう? うちの旦那のシチューはこの国一番だからね!」


 自慢げに笑ったペチカの後ろ、いつの間にか表に出てこちらを見ていた夫のダストンがすっと調理場に戻っていくのが見えて、マリーアンは微笑ましい気持ちになった。無口で無愛想なダストンだけれど、ただ照れ屋なだけなのだとペチカからはよく聞いていた。きっと本当の事なのだろうと、こんな夫婦の姿を見るたび思う。


(……お母様は、お父様と、どんな夫婦だったのかしら)


 母は側室だというから、きっとこうした普通の夫婦のような交流はなかっただろう。それでも、少しは仲睦まじい会話があったりしたのだろうか。貴族の婚姻は庶民の婚姻とは違うものだと、教師から少しだけ聞いた覚えがあるけれど、元は庶民であった母はそんな生活を苦に思わなかったのだろうか。

 マリーアンにはわからない。

 わからないが、もしも選ぶことができるのならば自分は今のような――ごく普通の庶民としての生活を選びたいと思った。


(……選ぶことができるのなら、だけど)


 不意にじわじわと忍び寄る冷気を足先に感じて、マリーアンは身震いする。

 この三ヶ月、不安に思いながら過ごしたものの伯爵家からの追っ手は今のところない。だが、この生活が果たしていつまで続くだろうか。彼らが本気で自分を連れ戻そうとすれば、きっとすぐに居場所などわかってしまうだろう。そうしたら、自分はまたあの離れに押し込められるのだ。


(諦めなさい、マリーアン……だって私は、『マリーアン』なんだから。『マリー』でいられるのは、ここにいる間だけなんだから)


 この穏やかな生活を、心の底から愛おしく思うけれど。

 それはあくまでも「マリー」としての自分に与えられたものでしかない。

 いつか、彼らの手がここまで伸びて、「マリーアン」に戻らなければならない時が来たら、その時は。

 全てを諦めてしまうしか、自分に取れる手段なんて、ないのだから。


「マリー、そういえば、午後の予定なんだが……」


 シチューを口に運びながら言ったレグラスの言葉が、不自然に切れた。自分の態度がおかしかったことに気づかれたのかと、マリーアンは思わず身を固くする。けれどそうではなかったらしく、レグラスは何かを追うように視線を宙に投げていた。不思議に思って彼の視線を追ってみるが、そこには何もない。ただ、いつもの天井があるだけだ。


「……午後は来客がありそうだ。これを食べたら、早めに家に戻ろう」

「あ、はいっ」


 何事もなかったかのように続けたレグラスに自身の思考を気取られなかったことに安堵しながら、マリーアンは目の前の皿を片付けることに注力した。

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