知らない温もり
レグラスとふたりで暮らし始めてから、三ヶ月の時が過ぎた。
痩せぎすだったマリーアンの身体は少しばかり肉付きが良くなって、震えていた指先もほとんど元通り動くようになった。今は練習として、空いた時間にはレグラスがくれる端切れに刺繍をして過ごしている。
当初散らかり放題だったレグラスの作業部屋は、すっかり綺麗になっていた。といっても、少し目を離すとすぐに散らかってしまうから、マリーアンは日々確認を怠らない。それが今の自分にとって、唯一彼の役に立てることだと思うからだ。
(うん。なかなか、良い出来だわ)
レグラスは作業中に他者が部屋に入ることを好まないので、彼が仕立ての仕事をしている間マリーアンは自室で刺繍をするのが常だった。今もまた、昨日貰ったばかりの白い布に青い糸で竜の刺繍をしていたところだ。以前母の形見のハンカチに刺した、巨躯の全体像ではなく、造形に少々手を加え可愛らしくした横顔である。
刺繍といえば鳥や花といった自然物、あるいは家紋やイニシャルなどを刺すのが一般的なのであろうが、マリーアンは竜を刺すのが好きだった。言わずもがな、母の遺してくれた件の絵本の影響である。手があのような状態だったので、住んでいた離れからはなにひとつ持ち出すことが出来なかったけれど、緻密な針目で描かれた幾多の絵ははっきりと思い出すことができた。
良ければ刺繍に使ってくれとレグラスがくれる布は、どれもとても扱いやすい布だった。目が適度に詰まっていて、伸びが少なく、けれども微かな光沢を帯びていて手触りが良い。針通りも良く、いつまでだって縫っていたいと思わせるほどだ。あわせて渡された糸も、艶がある上等なもので、しかもきちんと長さがある。そこがまず素晴らしい。
これまでマリーアンは姉たちが授業に使った残りの布や糸を貰って使っていたため、刺繍糸が長いものだとは知らなかったのだが、糸とは長いものであるのが普通らしい。指を動かす練習を始めてすぐにレグラスが十色ほどの刺繍糸をプレゼントしてくれたのだが、初めて手渡されたその長さに驚いた自分を見て、逆に彼が驚いていたのはちょっと面白かった。
練習用だから好きなだけ使って良いという彼の言葉に、最初こそ嬉しいより申し訳なさが勝ったけれど、結局の所なにより刺繍が好きだったマリーアンはすぐ、その色とりどりの糸で自分が夢見ていた図柄を刺すことが楽しくて仕方なくなってしまった。
(それに、少しでも多く練習して、ちゃんとした刺繍ができるようにならなくちゃ)
レグラスが治してくれた指は、やはり最初はまったく思うように動いてくれなかった。針に糸を通すのですら一人では出来ず、レグラスの手を借りるような始末だったのだが、三ヶ月練習を続けた結果、今ではそこそこ納得のいくものを刺せる程度にまで戻ってきている。このまま鍛錬を続ければ、以前のように戻るに違いない。
「マリーアン、いいか?」
「あ、はい、大丈夫です」
軽いノックの音とともに、レグラスの声がした。マリーアンは刺したばかりの布をテーブルに置くと、急いで部屋の戸を開ける。
少し疲れたような顔のレグラスが、そこに立っていた。
「区切りがいいから、昼飯に行こうと思うんだが。そっちはどうだ?」
「私も今、終わったところです」
「今日は何を刺してたんだ?」
「えと、あの、竜を……」
いつもいつも同じ受け答えになってしまうことが少しばかり恥ずかしくなり、マリーアンは小声で答える。するとレグラスはくすりと笑った。
「いいじゃないか、竜。俺は大歓迎だぞ?」
「でも、いつも竜ばかり刺しているなぁと、自分で思っていたところなんです」
マリーアンだって竜は好きだ。
最初は絵本の中だけの生き物かと思っていたが、貴族としての最低限の教養として教わった常識の中に、突然竜の話が出てきて驚いたことを思い出す。
竜、という種族はとても強く、総じて長命で、かつてはそれこそ世界の覇権を握るような存在だったこと。
けれども彼ら自身がそれをよしとせず、今では国を持たずに各個がそれぞれ気に入った場所に住んでいること。
竜に気に入られ、住み処と定められた国は、その身に宿る膨大な魔力の恩恵を受けられること。
だからどこの国も、繁栄のために竜の定住を願うが、それはあくまでも竜の自由意志によるものであること。
そうしてこの国にも定住している竜が数匹おり、そのうちの一匹はとても強い、竜王と呼ばれる竜であるということ――。
今や庶民の子供でも知っているこの世界の常識。
しかし、寝物語にそれを語ってくれる親すらなかったマリーアンは、授業として教わるまではなにも知らなかった。
他にもいくつか、将来的に知っておかなくてはいくら何でもまずいと思われるような常識を、教師たちはマリーアンに教えてくれた。それは決して教え育てるという本来の教育らしいものではなかったけれど――なにせ、彼らがマリーアンと接触できたのは姉たちの授業を行った後の余り時間だけだったので――、それでも今こうして役に立っていることは素直にありがたい。
「別に気にすることはない、竜が好きなら好きなだけ刺したらいいさ。とりあえず刺繍糸を全色試すのはどうだ?」
「手持ちの色では全部刺し終わりましたし……」
「おっ、それは良いことを聞いたな。じゃあ今度は違う色を用意しておこう」
「あ、いえ、そういう意味ではなくて……!」
まるで違う色の刺繍糸をねだってしまったようで、マリーアンは慌てる。決して、まったく、そういう意図ではなかったのだ。しかし楽しげに笑ったレグラスが、気にするなと言って踵を返すから、マリーアンも慌てて部屋を出た。
「せ、先生! 本当に、そういう意味ではないんです!」
暮らし始めに一番困ったのは、レグラスをなんと呼ぶかだった。
マリーアンは最初、レグラスの家名を聞いてそこに様を付けようと思っていたのだけれど、彼が「自分には名乗る家名がない」と言い張るのだ。今や庶民でも大抵の場合は家名を持っている。しかし断固としてレグラスがそれを名乗らないので、仕方なく「レグラス様」と呼んでみたが、それはなんだかしっくりこないと嫌がられてしまった。
そこでマリーアンが苦悩に苦悩を重ねた結果、刺繍や裁縫のことを教わる相手、ということで「先生」という呼称に落ち着いたのである。
対外的には、マリーアンはあくまでも「レグラスの仕立ての腕に惚れ込み、突如転がり込んできた押しかけ弟子」という体で紹介しているというのもあって、「先生」という呼び方はなかなか上手いのではないかとマリーアンは思っている。もっとも当のレグラスは、それすらなんとなく面映ゆそうにしているが。
「わかってるさ。だけどなマリーアン、先生というのは得てして、可愛い生徒には色々してやりたくなるものなんだよ」
「でも、そんな……」
「それにな、君の刺繍の腕は本物だぞ? それをこんなところで飼い殺して潰そうものなら、俺は君の曾祖母になんと言われるかわからない」
肩をすくめたレグラスに、マリーアンは思わず笑ってしまう。どうしてそこで、わざわざ曾祖母を出してくるのか。
(ああ、でも)
普通は両親あたりを出してくるものなのでは、と思ったところで、両親を引き合いに出されても自分自身が困ってしまうことに気づく。
とうに鬼籍に入った母のことはよく知らないし、存命ではあるが自分と距離を置く父のことなどもっとわからない。だとすればいっそのこと、曾祖母あたりがいいのかもしれない。
「君は遠慮が過ぎる。あまり気にせず、好きなものを好きなように刺して構わないんだよ」
「……はい。ありがとうございます」
優しい彼の言葉に頷くと、連れ立って家を出る。
行く先は近くの食堂、「踊る小熊」亭だ。レグラスが長いこと行きつけにしているのだというその店は、二人の住む家がある裏路地を抜けて表通りに出、顔を上げればすぐ看板が見える、というほど近くにある店だった。
下働きに混じって料理の下処理はやっていたマリーアンだが、料理自体をしたことはなく、指がうまく動かなかったことも相まってレグラスの元で暮らすようになってからもまともに料理をしたことは一度もない。レグラスの方も、マリーアンが来るまでは三食とも外食、あるいは買ってきたもので済ませていたのだそうで、料理という言葉からは縁遠いらしかった。それ故今も、朝食は「踊る小熊」亭から前夜に購入しておいたパンとスープを温めるだけ、昼と夜はほぼ「踊る小熊」亭で食べる、という生活が続いているのだ。
料理に興味もなく、仕立ての仕事が忙しいときは食事自体すら疎かになりがちなレグラスが一人でいたときならともかく、暇も時間もたっぷりあって料理に興味がないわけでもない自分が同居するようになったのだから、三食全てを店に頼り切るのはいささか考えものだろう。そろそろ「踊る小熊」亭の主人に頼み込んで、簡単な料理くらいは覚えたいと思っているマリーアンである。
「……そういえば、君が刺繍を始めたきっかけはなんなんだ?」
意外なことに寒さが大の苦手らしい、今日も防寒着にもふもふと包まったレグラスからふと尋ねられて、少しだけ言い淀む。
「その……私の母が、刺繍がとても上手な人だったらしいんです」
実の母のことでも、伝聞でしか伝えられないことが悲しくて、悔しかった。
「……らしい、ということは」
「はい。母は私が物心つく前に亡くなったそうで……私には、母の記憶はありません。周囲の方が言っていたので、そうなのだろう、と思っていますが、本当のところはなにも、わからないんです」
母の名はメルローズ。
刺繍が得意で、平民でありながら王妃に気に入られ、召し上げられた王宮で伯爵である父に見初められて、側室になりマリーアンを産んだ。
マリーアンが知っている母の情報はその程度だ。若くして空に迎えられてしまった彼女は、マリーアンに優しい声も、微笑んだ顔も、暖かな体温すらも残していってはくれなかった。更にいうならば、その母の代わりとなってマリーアンにそれらを与えてくれた人もいなかったので、母の愛、あるいは家族の愛と呼ばれるものを残念ながら自分は知らない。
その言葉を受けたレグラスは、少し何かを考えるようなそぶりを見せた後、
「もし、……これは、仮定の話だが。もしも、母親の血縁が見つかったら……君は、会ってみたいと思うか?」
問いかけとともに、じっとこちらを見てきた。
(そうだ……お母様が平民だというのなら、この街にはお母様を知っている人がいたっておかしくないんだ)
母メルローズがこの街で暮らしていたのなら、母の血縁や、母を知っている人間がこの街にはいるはずなのだ。その人に会えば、自分が知らない母のことを、もっとよく知れるのかもしれない。悪意混じりの伝聞ではなく、真実の母の姿を、知れるのかもしれない。
しかしそんな思いと同時に、今更母を知ってどうなるのだ、という気持ちもわき上がってくる。母がどんな人間であったとしても、今はもう遠い空に昇ってしまっていることに変わりはないのだ。マリーアンとの再会を喜んでくれるわけでも、頑張ったわねと頭を撫でてくれるわけでもない。だとすれば、これ以上母のことを知っても、何の意味もないのではないだろうか。
(……でも)
たとえ、その行為に意味がないのだとしても。
「もしも、母のことを知る人がいるのなら……血縁でなくても、私はその方に、会ってみたいと思います。そして会えたなら、母のことを聞いてみたい。あんな悪口じゃなく、普通の言葉で、母のことを語って欲しい。どんな人が私を……産んでくれたのかを、知りたいんです」
自分をこの世に産んでくれたひと。
顔も知らぬそのひとがどんな人であったのか、知りたいと願うのはおかしなことではないだろう。
「ですけど、先生。わざわざ探したりしないでくださいね? その、探してまで会いたい、というわけではないんです。こんな広い街で、名前しかわからない母の血縁を探すなんて大変でしょうから」
レグラスは自分に甘いところがある。自分が会いたいと言ったら、無理に探してしまうかもしれない。それだけは止めさせようと言葉を継げば、彼は苦笑した。
「わかったよ、頑張って探し出したりはしないさ。ただ、君がそういう気持ちでいるのなら……もしかするとそう遠くないうちに、君のお母さんを知る人に会えるかもしれないな」
「ふふ、楽しみにしておきますね」
「お、信じてないだろう? 俺の未来予測は当たるんだぞ、楽しみにしておきなさい」
そう言ったレグラスの手が、マリーアンの頭を撫でてくる。
この三ヶ月、彼は何かと自分の頭を撫でてきた。大きな、けれど柔らかくほんの少し冷たい手に触れられることを、最初こそ怖いと思ったけれど――これまで頭に手を伸ばされるのは、叩かれるときくらいだったので――、今ではとても、心地よく感じてしまう。
(お父様に優しくされるのって、こんな感じなのかしら。それともお兄様?)
なんだか嬉しくなって彼を見上げれば、こちらを見下ろしていた金色混じりの琥珀の瞳とばっちり目が合った。
自分を慈しむ気持ちが満ちあふれた柔らかな眼差しが、急に恥ずかしくなって目を逸らす。
どういうわけか、鼓動が早くなったような気がした。
「ん? どうした?」
「な、なんでもないです! 着きましたよ、先生!」
わけもわからず慌てながら、マリーアンは古びた木製のドアに手を掛けた。