ひとつの提案
柔らかな湯気が、話し続けたせいかわずかに痛む喉を優しく潤してくれる。
甘い香りを吸い込んで、マリーアンはそっとカップに手を伸ばした。
持ち手を持とうとしたが指が震えて上手くいかず、どうしようかと迷っていると、向かいに座る男性が苦笑する。
「両手で抱えて持つといい。まだ指先がうまく使えないだろう?」
「で、も」
「君が家に戻りたいなら貴族的なマナーを気にする必要もあるだろうが、そうでないなら、なんだってやりやすいようにやればいいんだ。残念ながら、ここじゃ所作の美しさでメシは食えんしな」
言うなり男性はカップを掌で包むように持ち、中身をぐいと飲んだ。彼のやり方に倣って、マリーアンも恐る恐る、カップに手を伸ばす。そして震える両手でカップを包んで持つと、ゆっくり口に運んだ。
少し強めの苦さと渋みが、とろりとした甘さで包まれ舌の上を転がっていく。これまでにも何度か口にしたことのある、茶というものに似た味だが、こんなに味が濃いものを飲んだのは初めてだった。最初に飲んだときはとにかく喉が渇いていて味や香りなどは二の次だったけれど、ある程度落ち着いた今はその豊かな味わいをとても美味しく感じる。
ほどよく冷めてきたそれを続けてもう一口飲み下せば、男性が口元を緩めた。
「俺はこういうものにはとんと疎くてな、淹れ方も適当で申し訳ない。君の口に合ったなら良いんだが」
「あ……その……おいしい、です……」
「そりゃあよかった。この間知り合いから貰った、外つ国のお茶なんだ」
「あまい、んですね……」
「ん? ああ、少し蜂蜜を入れてある。滋養があるし、喉にも良いからな」
「すみません……」
「……? よくわからないんだが、今、どこに謝る必要があったんだ?」
少し困ったような顔で聞き返してきた男性の名は、レグラスと言った。鳶色の髪に若干金色めいた琥珀の瞳、丸い眼鏡を掛けた長身の男性だ。もうじき四十になる、と自己紹介の際に申告があったので、今の年齢は三十代後半ということだろう。
昨晩、どういう手段でかマリーアンの手を治療してくれた彼は、どうやらそのまま気絶してしまったマリーアンを自宅に運び込み、看病してくれたらしい。マリーアンが目覚めたのは昼過ぎだったようで、最初は食事を勧められたが、あまり物を食べたいような気分ではなかった。すると食欲がないと知ったレグラスが、まだ指も動かないだろうと言って、温かいお茶を手ずから飲ませてくれたのだ。
本当に優しい人だと、マリーアンは思う。冬の夜中に着の身着のまま、しかも血まみれの両手をぶら下げて放浪していた女を助けた上ここまでしてくれるなんて、親切という言葉では到底足りない。といっても、それ以上を表す言葉をマリーアンは知らないのだけれど。
あの恐ろしい暴力の嵐が過ぎた後、気絶したマリーアンはそのまま離れに放置されたらしく、目を覚ましたときにはすでに深夜であった。目を覚ました途端に襲ってきた痛みもだが、嫌がらせなのか気まぐれか、手に掛けられたあのハンカチが変色し乾いた血で染まっていたことが、なによりマリーアンに己の無力を思い知らせた。
姉たちから虐げられることは、それが精神的なものであっても肉体的なものであっても日常茶飯事だったが、ここまで強烈な暴力を受けるのは初めてだった。一番上の姉、カサンドラの狂ったような笑い声は、まだ耳に残っている。何が彼女の気に障ったのか、今ひとつマリーアンにはわからないが、あの様子ではおそらく相当に気分を害してしまったのだろう。このままではひょっとすると、命すら危ないかもしれない。そう判断したマリーアンは、夜陰に乗じて伯爵家を逃げ出そうと決意した。
ストラバル伯爵家の周りには高い塀があり、表の門も裏の通用口も、武装した男性が守っていることは知っていた。しかし、母屋から離れたこの小屋の近くの塀は手入れもあまりされていないのか一部が崩れかけ、ギリギリ人が通れるかどうかという隙間があるのだ。マリーアンは離れの周辺だけなら散策することが許されていたから、時折この塀の向こうに行くことが出来たなら、などと妄想しながら逃げ道を探して散歩していたのが功を奏した。
外に逃げたからといって何かあてがあるわけでもなかったが――だからこそ、外に出られたら、という妄想だけで終わっていたのだ――、このまま彼女たちの手に掛かってこの家の中で死ぬことだけは嫌だった。もはやなりふり構ってはいられないと、マリーアンは衣服や髪が泥まみれになるのも構わず強引に塀の隙間を押し通り、そのまま人目に付かないように裏通りを逃げ続けた。そうしてたどり着いたのがこの、レグラスの家だったわけである。
優しい彼に迷惑を掛けるのは心苦しかったが、こうして助けられた以上事情を説明する必要はあると思い、マリーアンは問われるがままに己の身に起きた出来事を彼に話したのだった。
「その……、私なんかのために……気を遣わせてしまって、すみません……」
「ああ、そういうことか」
納得したように苦笑したレグラスが、立ち上がり自分のカップに二杯目の茶を注ぐ。いるか、と聞かれたが、まだ中身が沢山あるので辞退した。大きな彼の手に持たれると、自分が持つものと同じはずのカップがなんだか小さく見えて、マリーアンは不思議な気持ちになる。
昨日、初めて見たときは防寒具にしっかり包まっていたからよくわからなかったが、こうして改めて部屋着の状態で見るとレグラスはかなりしっかりとした体つきをしている。上背もあるから、黙って立っていられると圧迫感がすごいのだ。剣の一本も持たせればそのまま、マリーアンが囲われていた屋敷の門番程度は十分に務められそうな気がするほどの体躯である。
窓から覗いたこの家の中は、布や糸といった裁縫に関わる材料でいっぱいだった。だからなんとはなしに女性か、あるいは線の細い男性が住んでいるものだとばかり思っていたのだけれど、ここにはレグラスが独りで住んでいるのだという。マリーアンは先入観で勝手な想像をしてしまったことを恥じて詫びたが、彼は気にするなと笑ってくれた。
「気にしなくていい、と言っても気になるか。ただ、蜂蜜も茶葉も貰い物で、俺一人ではいつも持て余すんだ。だから、一緒に消費してくれる相手がいるときは見逃さないことにしてるのさ」
自分が遠慮しなくていいように言葉を選んでくれるレグラスの優しさに、マリーアンはなんだか泣きそうになってしまった。ありがとうございます、とかろうじて声を絞り出せば、柔らかいハンカチが差し出される。洗って返そうと心に決めて、マリーアンは結局溢れてしまった涙を不器用に拭った。
「さて、君の事情は大体わかった……改めて、これからの話をしようか」
ため息交じりのレグラスの声に、姿勢を正す。
「今、君が取れる選択肢は二つある。ひとつは、果てしなく馬鹿な姉三人とろくでもない両親が待つ、スラムのゴミためをかき集めて十年発酵させたような腐れ外道の巣窟に戻ること。もちろん俺としては、万に一つも勧められない。天地がひっくり返っても、やめた方がいいと思う」
「……はい」
マリーアンにも、さすがにその気はなかった。自発的に戻るくらいの気持ちがあるのなら、そもそも逃げ出してなんて来なかっただろう。
ただもしかして家の誰かが――おそらくは、「遊び相手」がいなくなった姉たちだろうが――、マリーアンを探しているのならば話は別だ。彼らは平民の命などなんとも思っていない。マリーアンを助けたことでレグラスが彼女たちから酷い目に遭わされるくらいならば、マリーアンはあの地獄へ戻るしかないと心を決めていた。
(全部全部諦めてしまえば、それで大丈夫……何も変わらないわ、元に戻るだけだもの)
自分の為に関係のない他者を傷つけさせない――それが、何一つ持つことを許されなかったマリーアンに残った、ちっぽけな矜持だった。
「そしてもうひとつは、このままこの下町で暮らすことだ。ただ、それだって容易なことじゃないぞ。ここでは、黙っていても食事は出てこない。日々の糧を稼がなければ生きていけないし、君の身元を保証する人間がいなければ、住む場所にすら困るかも知れない。食べ物にも、服にも、住み処にも、何を得るにも金が要る。そしてそれは、君がその手で稼ぐしかないんだ」
両手を見る。
昨晩、レグラスがどういう手段でか、治してくれたマリーアンの手。
彼にはたまたま手持ちにあった特別な薬を使ったのだと言われたけれど、あの指の惨状が薬でどうにかなるようなものだったとは、いくら世間知らずの自分でも思えない。けれど、現実にこうして己の指は治っているのだ。だとすればあの薬は、きっととても特別なものだったに違いない。金銭でどうにかなるような代物ではない可能性だって、十分にある。
なんの関わりもない、突然目の前に現れただけの自分にそれを使ってくれた彼の優しさに、ただ甘えているわけにはいかない。どんなに時間がかかっても、どれほど大変な思いをしても、その対価を返したいとマリーアンは思った。
(だって、もう、二度と)
動かないと言われた指が、こうして動くのだから。
(私には、お金なんてまったくない。だから、まずは働き口を見つけなくちゃ。この下町というところにどういったお仕事があるのかわからないけれど……あの家でお手伝いさんたちがしていたようなお仕事は、ここにもあるのかな。芋の皮むきやお皿洗い、お掃除なんかは手が動けば私にもきっとできるはず。どうにか、彼女たちのように住み込みで働かせて貰えたら……)
下働きに混じって普段からやっていたことを思いだし、ふと、シヤの事を思い出して胸が痛んだ。
泣きながら、震えながら、自分の腕を押さえつけていた彼女。
他の下働きたちがマリーアンと距離を置こうとする中で、彼女だけが自分から近づいてきてくれて。
その優しさが、とても嬉しかったのに。
(シヤさん……あのあと、酷い目に遭ったり、しなかったかな……)
自分を傷つけるのにためらったことを、あの三姉妹は見逃さなかっただろう。何かしらの罰を受けることになったのだとしても、せめて自分のために胸を痛めていなければいいと思い、マリーアンは膝の上で祈るように両手を組んだ。
「さて……そこでひとつ、俺から提案があるんだが、いいか?」
「はい」
カップの中身を一口含み、レグラスが一瞬、琥珀の瞳をさまよわせた。
どこか言い淀むような間の取り方に、マリーアンは不安を覚える。話の流れからして、マリーアンが働ける場所を紹介してくれるのかと思ったのだが、違うのだろうか。それともそこが、とても厳しいところだったりするのだろうか。
「君は多分、働ける場所が知りたい。違うか?」
「はい、そうです」
「そうだな。それで、俺はそれに、心当たりがある」
「はい、あの……教えていただけたら、とても助かります」
「そうだな、うん、そうだな。あー、……俺は、実は、仕立屋をしているんだ」
「まあ、そうなんですか!」
「うん、そうだ。それで、仕立屋をしていて、その、……少し、困っていることがあって、……あー!」
突然頭を抱えて叫んだレグラスに、マリーアンはびっくりして目を見開いた。思わず椅子から少し身体が浮いたくらいだ。いやすまない、と慌てたように言った彼が、片手で額を押さえてこちらを見てくる。
「その、なんだ。どういう風に言えばいいか、考えながら話していたらわけがわからなくなってきて……」
「そ、そうだったんですね」
「どうも俺は、駄目だな、こういうときはうまく言葉が操れなくなってしまう。……その、つまりな。ここで働かないか、と、聞きたかったんだ」
「……えっ?」
思いもかけないレグラスの言葉に、マリーアンは声を上げた。
やや遠回しな彼の言葉を整理すれば、レグラスは仕立屋をしていて、少し困っていることがあり、そのためにマリーアンを雇ってもいいと考えてくれている、ということになる。
(でもそれって、あまりにも私にとって、都合が良すぎるんじゃ……)
レグラスに雇われたなら、自分が彼に返そうと思っている対価さえ、そもそも彼の懐から出てくることになる。それでは何の意味もないのではないか。だがマリーアンが何か言う前に、レグラスが口を開いた。
「実は、俺は刺繍が壊滅的にできないんだ」
「……はっ?」
「しかし仕立屋である以上、時には刺繍が必要になることもあるわけで、そういうときはいつも、懇意にしている店の針子に頼んでいるんだが……その、これは、君が刺したものなんだろう?」
レグラスが出してきたのは、昨日の夜マリーアンの両手を覆っていた、あのマントをまとった竜を刺繍したハンカチだ。血で染まっていた色彩豊かな布は、彼が綺麗に洗ってくれたのか、元通りの色合いを取り戻している。テーブルの上に置かれたそれに手を伸ばし、マリーアンは竜の頭を指先で撫でた。
「正直に言って、技術的には未熟な面もある。だが、長さが足りない糸を逆に生かした配色や、一刺しごとに色を変えることになっても諦めない根気強さは、ただの手慰みで生み出せるものじゃない。丁寧で、正確で、なにより刺繍が好きだという気持ちに溢れた仕事だ。これを見ただけでも、君の人柄がある程度はわかる」
だから、とレグラスは続けた。
「君さえ良ければ、ここで働かないか。二階は部屋が余っているから、俺のようなおじさんと同じ屋根の下でもいいなら、住み処にも困らんし……刺繍の仕事はいつもあるわけじゃないが、普段はその、部屋の片付けでもしてくれれば、助かるというか」
恥ずかしながら、整理整頓もわりと壊滅的に苦手で、と付け足しながら眉を下げるレグラスに、マリーアンは笑った。
笑って、それから、自分が泣いていることに気がついた。
(見てくれる人がいた)
薄暗い、狭い部屋で一人、夢を綴るように糸を刺してきた。
あの古い絵本のように、今は見てくれる者さえなかったとしても、努力し続ければきっと誰かがそれを見つけて認めてくれる。
そんな日が来るはずがないと諦めたつもりでいたけれど、心の奥底には諦めきれずに燻っていた思いがあったのだ。
それを掬い上げてくれたのは、彼の言葉で。
(私を、認めてくれる人がいた)
誰かに認めてもらうことがこんなにも嬉しいだなんて、知らなかったから。
「……ど、どうだろうか、マリーアン」
恐る恐る、といった調子で尋ねてくるレグラスがとても不安そうだったので、マリーアンは濃藍の瞳からぽろぽろと涙をこぼしながら慌てて頭を下げた。
ここで生きていきたい、と思う。
いつまでここにいられるかはわからない。そしてどれほど自分が役に立てるかもわからない。けれど、今できる限りの精一杯で、彼のために尽くしていきたい。
それが、己の全てを救ってもらった自分にできる、せめてもの恩返しなのだから。
「レグラス様さえ良ければ、是非、お願いしたいです」
「そうか! 良かった……!」
ぱっと顔を輝かせたレグラスが、それから少しだけ眉を下げて。
「――これでやっと君の役に立てるな、マリーアン」
そう呟いた声は小さすぎて、マリーアンの耳には届かないまま、カップから立ち上る最後の湯気とともに消えていった。