竜王の仕立屋
「いらっしゃい、いつもの席なら空いてるよ! 今日のおすすめは雪熊のステーキとタマネギのスープだけど、どうする?」
「じゃあ俺はそれを。マリーはどうする?」
「えっと、私は……鶏肉の香草焼きと、タマネギのスープをお願いします」
あいよ、という上機嫌な返事と共にペチカが厨房へ姿を消す。マリーは防寒具を脱ぐとレグラスと共にいつもの席についた。室内は暖かいが、外はもう寒いのだ。レグラスが思い出したように声を上げる。
「あ、ペチカさん、ホットワインを一つ追加で」
「あいよ! マリーちゃんはいらないのかい?」
「ここのホットワインは甘口で飲みやすいぞ。試してみるか?」
「じゃ、じゃあ、お願いします!」
「よし来た、初挑戦なら薄めにしとくね! 無理して飲むんじゃないよ、おばちゃんとの約束だ!」
「はいっ!」
季節はもう、冬になりつつある。
第三王子の婚約式から数ヶ月。エルドリア王国は表向き何も変わらず、平穏な日々が続いていた。
けれど、それはあくまでも表向きだけだ。
ストラバル伯爵家はあのあとすぐ取り潰しになることが決まった。伯爵家と伯爵に協力していた件の魔術師宅とを捜査した結果、様々な余罪が明らかになったためだ。レグラスはマリーが望むならその詳細を教えてくれると言ったが、あえて聞くのはやめておいた。もう自分とは関わりのない家の話であるし、貴族間の抗争を聞いてもよくわからないだろう。ただ、どうもかなり位の高い貴族にも毒を盛ろうとしていたり、逆に別の貴族に毒を融通したりしていたらしく、婚約式後しばらくは上を下への大混乱だったと聞いている。
マリーの――否、「マリーアン」の父であるカステロ・ストラバル、その長女カサンドラ、次女パトリシアは死罪を言い渡され、三女のヴァレリアだけが若干軽い刑になったようだが、それが救いとなったのかどうかはわからない。
「春が来れば、ガインヴェストとネリエシュの婚約披露パーティーだな。お呼びがかかっているが、どうする?」
「えっと、私はちょっと……人前に出るのは、あまり……」
「なんだ、婚約式の時は堂々としていたじゃないか」
「あ、あれは別です! あのときは本当に、必死だったので……!」
貴族界はそのようにてんやわんやだったこの数ヶ月だけれど、庶民にとってはなんら変わりのない日々である。
それはマリーとレグラスにとっても同じことだ。
「まあ、無理に出る必要はないな。君を見せびらかしたい気持ちはあるが、同じくらい俺だけのものにしてしまいたい気持ちもあるし」
「……っ。先生は、なんでそういうことを、急に言うんですか……」
「ん、予告した方が良かったか?」
「そういう意味ではなくて!」
「はいよ、ホットワインと肉料理おまちどお! ……あれ、マリーちゃんどうしたんだい、顔が真っ赤だけど」
「これは! なんでも! ないので!」
マリーはあの日国王の許可を得てストラバル伯爵家を離れ、メルローズの娘として「マリー・フランシェル」と名を改めた。それを聞きミスティカが狂喜乱舞したことは言うまでもない。だからといって何が変わる訳でもなかったが、あの家での暗い記憶がつきまとう名前を捨てて優しい人たちが呼んでくれていた「マリー」という名を本名にしたことは、マリーの気持ちを軽くしてくれた。事後承諾という形になってしまい、祖母であるアンヌローザには非難されるかとも思ったが、意外にも彼女はむしろ賛成派だった。曾祖母と同じ名を背負うことが、重荷になってはいけないからという理由で。
だからマリーは今、ただの「マリー」として、レグラスと共にあの家に住んでいる。
これまでと変わらず彼が散らかす部屋を片付け、彼の作る布に刺繍をし、ミスティカの元を訪れて勉強を重ねて、「踊る小熊」亭で食事をして。
そんな変わらぬ日々の中でも変わった数少ないことといえば――そう、レグラスがこんな風に、堂々と恥ずかしいことを言うようになったことだろうか。
「おーい、やっとるかーい」
「ペチカちゃん寒いよぉ! わしホットワイン!」
「わしは普通の! あとチーズ盛り合わせ! ナー坊はなんにする?」
「俺様黒エール! ってあれ師匠にマリーちゃん、おはにちわっすー」
がらんとベルを鳴らして扉が開き、入ってきたのは三人の老人と一人の青年だった。これも変わったことの一つだと、マリーは笑う。あの一件以降すっかり意気投合してしまったらしいギデオンたち三人とナッシュバートは、彼が非番の日などよくここで飲み会を開いているらしい。にこにこと笑った四人はいつもの定位置ではなく、自分たちの隣のテーブルに陣取ってきた。レグラスが眉根を寄せる。
「……おい、なんでわざわざ隣に来たんだ」
「えーいいじゃないっすか、埋まってる訳じゃないしどこに座っても」
「そうじゃそうじゃー。レグラス殿は最近マリーちゃんを独り占めしすぎるぞ!」
「ワシらだって可愛いマリーちゃんと一緒にいたいぞ!」
「いちゃいちゃするのは家の中でやれば良かろう! マリーちゃんはわしらにとっても天使なんじゃぞ!」
「独り占めも何も、マリーは俺の婚約者なんだから当たり前だろう。それに家の中だろうが外だろうが、俺はマリーといちゃいちゃしたい」
「もう包み隠す気配すらない!」
「うおおん、竜には人の心がわからないんじゃ!」
「ははは、何とでも言え。俺とマリーが婚約していることに変わりはないんだからな! マリーの可愛さは俺だけのものだ!」
「……」
「……マリーちゃん、アンタも大変だねぇ……」
タマネギのスープを持ってきたペチカに心から同情され、マリーはこれ以上ないほど赤くなってしまった顔を隠すべくうつむいた。すると、再びドアに付いたベルが鳴る。いらっしゃい、と声を投げたペチカが固まったから、何が起きたのかとマリーはそちらを向いて。
吹いてきた涼しい風に、目を瞬いた。
「……レグラス様? 貴方、またマリーを困らせてますの?」
「グウェン!? な、なんでここに……ミスティカ!?」
「オジサンたちの声、ドアの外まで聞こえてた、よ。……マリー、ごはん、これから、でしょ? ボクたちと、一緒に、食べよ」
「グウェン、ミスティカ、シヤさん……それに、ネリエシュ様まで、どうして」
先陣を切って店内に入ってきたのは目をつり上げたグウェンリアンで、外の冷ややかな風をそのまま持ち込んだかのような彼女はまっすぐこちらのテーブルにやってくるとレグラスに詰め寄った。すかさずマリーのそばに来て料理の皿を取り上げたのはシヤだ。ミスティカはさっさとレグラスたちがいるテーブルの対角線上に当たるテーブルにネリエシュを導き、座らせている。華麗な連係プレーに驚きながらもシヤに促され、マリーは料理と共にそちらのテーブルに移動した。対面に座る形になったネリエシュが、にこりと笑う。
「マリー、ごめんね。私がわがままを言ったの……あれ以来、貴女にきちんとお礼も言えていなかったから」
「そんな、お礼なんて! 私は何も……」
「ううん、貴女のおかげよ。だってレグラス様が私を助けてくれたのだって、元を正せば貴女のおかげだもの。貴女がレグラス様と出会ってくれたから、私はこうして声を取り戻せた。ガインヴェスト様ともやり直せたし、シヤっていうとても素敵な友達までできたわ。本当にありがとう、何度お礼を言っても足りないくらいよ」
「お嬢様、友達だなんてそんな、恐れ多いことを……」
「何を言ってるのシヤ! 何度も言ったでしょう、貴女と私は同じ苦労をした仲間なんだから、もうすっかり友達みたいなものよ!」
シヤは、風の竜の鱗を使った発声の上達がとても早かったので、同じく発声の練習中であったネリエシュの元へナッシュバート同伴で何度か指導に赴いていた。その流れの中で彼女がストラバル伯爵家を首になった下女であると知ったツヴェンダリ家は、このままシヤを雇いたいとレグラスに申し出たのだ。彼女が治療院を出た後の身の振り方は懸念事項だったし、シヤ自身がそうしたいと言ったこともあって、退院後彼女はそのままツヴェンダリ家のメイドになっていた。
「それでね、その……ここでは、私のことは、ネネって呼んで欲しいわ。お忍びで街に降りるときの、名前なの」
「ネネさんは、クレープの美味しい、お店、知ってるんだって。今度、みんなで食べに、行こうねって、話してた、の。マリーも、行こうね」
「はい! 是非!」
今度絶対時間を作るからね、と笑うネリエシュは飾り気のない若草色のワンピース姿で、どこかの商家の娘のように見える。何よりマリーは彼女とシヤが打ち解けていることが嬉しかった。シヤは自分にとっても、母メルローズにとっても大切な人だ。辛い思いをさせてしまった以上に、幸せになって欲しかった。
「ネネさんは、ここ、初めてだもんね。ボクのおすすめ、頼んでいい?」
「ミスティカちゃんの? お願いするわ! シヤはどうする?」
「私はお嬢様と……あ、いえ、マリー様と同じもので、お願いします」
「あ、あのっ……どうせなら、違うものを頼んで、みんなで分けて食べませんか?」
シヤの言葉にふと思いついて提案すれば、三人がぱっと笑顔になる。
「それいい! ペチカさん、注文、お願いします!」
「あいよ、メインを四人分、それぞれ違うものでいいのかい?」
「あとね、キッシュが、欲しいです。この間の、すごく、美味しかった、から」
「そう言ってもらえると作りがいがあるよ! 飲み物はどうする?」
「……あら、グウェンお姉様、向こうはもういいんですか?」
「ええ、そろそろ許してあげましょう。悪い意味で困らせた訳では、なかったみたいだし」
ペチカにいろいろと注文しているミスティカの横へ、グウェンリアンが戻ってくる。マリーはレグラスたちのテーブルを見た。どこかしょげた様子の彼を、周囲の老人たちとナッシュバートが慰めているのが見える。その姿は何だか飼い主に叱られた子犬のようにも見えて、つい笑ってしまった。こちらの視線に気づいてか顔を上げたレグラスの、金色混じりの琥珀の目がマリーを見る。
困ったように笑う顔を、好きだと思った。
――それから春が来て、夏が過ぎ、秋になって、また冬が来ても。
竜王とその花嫁が営む仕立屋は、王都の西の裏路地にひっそりと建っていた。
時折、騎士や刺繍職人や異国の姫君といった賑やかな客人たちを迎えながら、竜の仕立屋は今日もまた服を作り続ける。
まだ見ぬ誰かの笑顔のために。
「竜の仕立屋」これにて完結です。
最後まで読んでくださってありがとうございました!