痛みと恐怖
※姉からのイジメと境遇の説明回です。
暴力描写・胸糞展開が駄目な方は以下のあらすじだけ読んだら次に進んでしまってください。大体これでオッケーのはずです!
あらすじ:伯爵と、刺繍職人であるメルローズの娘として生まれたマリーアンには三人の姉がいた。上からカサンドラ、パトリシア、ヴァレリアである。刺繍が苦手なカサンドラはマリーアンが刺繍した「マントを纏った竜」のハンカチを見てその出来映えに怒り、マリーアンの手を二度と使えないようにするべく人に命じて両手を潰させる。三姉妹からそれを命じられたのは、マリーアンと親交のあったメイドのシヤだった。マリーアンは痛みと恐怖の中、狂ったように笑うカサンドラの声を聞くのであった。
マリーアンは妾腹の娘であった。
この国では、貴族階級ともなれば妾を持つのは珍しいことではない。マリーアンの父も伯爵で、正妻の他にマリーアンの母ともう一人、平民の踊り子を囲っていた。
マリーアンの母は、元は王宮で刺繍職人として働いていた女性だったという。そもそもは市中で働いていたが、王妃が母の刺繍に惚れ込んで自分の専属として王宮に召し上げ、数年後王妃が流行病で亡くなったあと、出入りしていた父が国王に願いこの家に連れてきたのだと聞いていた。だから、立場としてはただの平民だ。
悪いことに彼女は自分を産んで数年で亡くなったのだそうで、父はマリーアンを追い出しこそしなかったが、敷地の隅にあった小さな小屋を離れとして己に与え、母屋への出入りを禁じてそこでの生活を命じたのだった。軟禁といえる状態だが、それがおかしなことだと教えてくれる者はなかったので、マリーアンはなんの疑問も抱かず不便な日々を送っていた。
金髪碧眼の父に似ず、母にばかり外見が似たマリーアンは濃藍の髪と瞳の持ち主だった。その相違がまた父や正妻の不興を買い、それが伝播して正妻の娘である三人の姉たちもマリーアンを嫌悪した。
だから母の過去については誰からもはっきりとは教えてもらえなかったものの、両親や姉たちの悪口雑言、そして時折聞こえてくる下働きたちの雑談からマリーアンは自分なりに推察していたのだった。
三人の姉は皆美しかった。
全員が父譲りの金髪碧眼で容姿に優れ、一番上の姉がカサンドラ、二番目の姉がパトリシア、三番目の姉がヴァレリアといった。
彼女たちは時折庭の片隅で茶会を開いてはマリーアンを招き、断る術を持たないマリーアンはそれに毎回参加せざるを得なかった。
「マリーアンさぁ、それ、ナニ? アンタ、お茶の飲み方も知らないの? まがりなりにも貴族の家に生まれたくせに?」
「姉様、駄目よ、可哀想でしょう? マリーアンは、お母様を殺して生まれてきたも同然の子なのよ。教えてくれるはずのお母様がいないのだもの、無知で無学で無作法なのも当たり前じゃない」
「ちぃ姉様の言うとおりだよ! マリーアンは私たちと違って、平民の子供なんだもの! 馬鹿で不細工でできなくて当たり前だよ!」
「そうよねぇ、なにせあんなおんぼろの、廃墟みたいな小屋に住んでるんだもの。あれなら犬小屋の方がまだマシだわ」
「でも、あんな小屋でも住ませてもらえるだけありがたいと思いなさいな? あなたみたいな役立たずのみなしごなんて、外へ出たら野垂れ死ぬしかないんですのよ? お父様とお母様と、わたくしたちの厚意で、生活できているんですからね」
「アンタより犬の方が可愛いからしょうがないよねぇ! 生きててもなんの役にも立たないけど、頑張って生きたらいいんじゃない? 勝手に死なれると迷惑だしね!」
マリーアンは姉たちと違い、貴族として基本的な教養さえもほとんど教えられていない。将来的に手紙などの代筆を頼むこともあるかも知れないと、読み書きや一般常識を含めた多少の学問は教わっていたが、社交的な面ではまったく期待されていなかった。
当然ながら茶会の作法も知らないマリーアンは、毎回姉たちから侮蔑されながら一杯のお茶だけを飲み、嘲笑されながら離れへと戻るのが常だった。
彼女たちは父から何不自由なく物を与えられていたが、何故かマリーアンの持ち物を目の敵にした。父に愛されなかったマリーアンの持ち物など、ほとんどが母が使っていた遺品に過ぎない。それでも姉たちは、マリーアンから母のドレスを奪い麻の服を、絨毯を奪い筵を、宝飾品を奪い石ころを与えて寄越した。
しかし、同じく母の遺品であった裁縫道具と布の絵本だけは、それがごく粗末な物であったからなのか、それとも興味がなかったのか、幸運にも奪われることなくマリーアンの手元に残っていた。
貴族の女性にとって、刺繍は一般的な趣味の一つだ。繕い物などは使用人がやることも多いが、暇に飽かせて新しい布に様々な刺繍を施すことを趣味とする者は少なくない。茶会などでも話題に上ることはあるだろう。だから、貴族女性は大抵の場合、針仕事については最低限の技術を学ばされている。
自分には、おそらく繕い物の方を命ずるつもりであったのだろう。姉たちに裁縫や刺繍を教える教師が、残り物の素材を使って片手間にマリーアンにもそれを教えてくれたのだ。
そして、マリーアンはそれにのめり込んだ。下働きのものたちと共に芋の皮を剥く合間に、足りぬ食事に鳴く腹を慰めるために、母の残した針でせっせと刺繍を続けた。教師が寄越してくれる布や糸は余り物であったが、自由に素材を手に入れられないマリーアンにとっては大切な材料だった。それでも糸がなくなれば、布をほどきもした。髪の毛を抜いて使ったこともある。あまり良いものではなかったが、練習には十分だった。
やがて刺繍に傾倒していると気づいた下働きの一人がこっそりと糸を差し入れてくれるようになって、マリーアンは泣いて喜んだ。年かさの、口のきけない下女であったが、他の下働きによればかつては母メルローズの専属メイドであり、幼いマリーアンの世話をしてくれていた女性でもあるのだという。名はシヤというのだと、これも密かに教えてもらった。
物心ついた頃には離れで一人暮らすように言われていたし、時折様子を見に来るメイドがいても日替わりだったから、それより前の自分の面倒を見てくれていた人がいたのだということさえ、マリーアンはその時初めて知ったのだった。言葉は話せずとも耳は聞こえているようだったので、マリーアンはシヤへ感謝の言葉を惜しみなく贈り、彼女が返す身振り手振りを懸命に読み解いて意思の疎通を図った。
共にいられる時間は少なくとも、いつしかまるで本当の家族のように気安い時間を過ごせるようになった彼女から差し入れられる布と糸で刺繍を続け、ようやく満足いくものが刺せるようになったとき。
マリーアンは満を持して、部屋の隅に隠していた母の形見のハンカチに、刺繍を施すことにしたのだった。
図案は、母が遺したのだろう布絵本に出てくる、マントをまとった竜の姿を写すことにした。
マリーアンは紙の絵本を読んだことがない。姉たちからこれ見よがしに見せつけられたことはあるけれど、自分でページをめくったことは一度もなかった。しかし、離れに遺されていた布絵本は、そんなマリーアンの心を十分に慰めてくれるものであった。
――売れない人間の仕立屋が、ある日巨大な黒い竜と出会う。身体が大きく力が強すぎて、誰にも服を作って貰えないと嘆く竜のために、仕立屋は苦心して美しい刺繍を施したマントを作ってやる。竜はとても喜んで、仕立屋を生涯守ると誓う。そして仕立屋は人間相手ではなく、竜を相手にして仕事を始めることにする――
そんなあたたかくやさしい物語の中、仕立屋が仕上げた白地に銀糸が輝くマントと、それを身につけた黒く艶光る竜の刺繍があまりに美しくて、マリーアンはいつもその一ページだけを呆れるほど長く眺めてしまうのだった。
絵も文字も全てが刺繍で描かれた布絵本は、どこを開いても整った針目のステッチが並んでいた。最初は物語を追うばかりでなんとも思わなかったけれど、教師から針仕事を習うようになって初めて、マリーアンはそれがとても繊細な、丁寧な仕事の塊なのだと理解した。それと同時に、誰かの手仕事の集大成であるその本が何よりの宝物になったのだ。
母がこの本を作ったという確証はどこにもない。けれど、この部屋にあったのだから少なくとも母が大切にしていたものなのだろうという確信はあった。誰が作ったにしても、母がこれを生まれてくる自分にも見せようとしていたことは間違いないだろう。だってここは、始めから終わりまで、母と自分だけの城なのだ。
母と自分、二人をつなぐための、針と糸。
件の竜と仕立屋のような優しい物語を紡ぐことは出来なくても、亡き母の面影を追うことくらいはできるから。
「あー! おぉ姉様! 見て! マリーアンが刺繍入りのハンカチなんか持ってる!」
けれど、何日もかかってそれを刺し終え、自分なりに納得のいく出来映えに満足していたときに――悲劇は起きた。
「や、やめてください……っ!」
「あらまぁ、竜にマントだなんて……子供の落書きみたいな図柄の刺繍ですこと。これじゃ恥ずかしくて、どこにも持って行けませんわね。ご覧になりますか、姉様?」
なんの前触れもなしに来訪した姉たちに、それを見られてしまったのだ。
慌てて隠そうとするマリーアンの手から、三女のヴァレリアがハンカチを奪い取る。勢い余ってマリーアンは床に転がったが、ヴァレリアは平然としていた。必要最低限の食事しか与えられず、やせっぽちで小さなマリーアンでは、三姉妹の中でもっとも肉付きのいいヴァレリアに勝てる道理がない。
ヴァレリアの手から、次女パトリシアの手に渡ったハンカチが、扉の外で立っている長女、カサンドラの手に渡される。
暗い緑の瞳が、ハンカチを見て。
「……マリーアン、これ、アンタが刺したのね?」
ぞっとするほど冷たい声が、確認するようにゆっくりと、聞こえてきた。
「アンタが刺したのね。そうなのね。アンタがこれを。ふぅん」
「……おぉ姉様?」
「ヴァレリア」
「はぁい」
どこかのんきな声で、ヴァレリアが返事をした。
「そいつの指を潰して」
ひゅ、と自分の喉が鳴ったのがわかった。
彼女ならやる、という確信が、マリーアンの全身を恐怖で固まらせていく。カサンドラはそういう女性だった。というより、彼女たち三姉妹はそういう女性なのだった。自分には権力があると理解し、それを自分の為だけに使うことをためらわない。貴族として生まれ、貴族として育ったから、というだけではないだろう。おそらくは、間近に虐げてしかるべき存在がいたことが、彼女たちをそうさせたのだ。
そうして、その「虐げてしかるべき存在」というのが、自分なのだ――。
「ええー? やだよぅ、血とか出るじゃん、汚れたくない」
「姉様、やめましょう。わたくしたちがマリーアンに何かしては、あとで問題になるかも知れません」
パトリシアの声に、カサンドラが眉を上げる。
彼女が何か言う前に、パトリシアは優雅に笑って言った。
「いいですか? 『わたくしたちがしては』いけないのですわ、姉様。……グレッグ、シヤ、中にお入り」
歌うような軽やかさから一転、最後の冷酷な命令に二人の人間が屋内へと入ってくる。マリーアンは目を見開いた。ひとりは見かけたことがある程度の男性だったが、その後から入ってきた年かさの女性は間違いなく、マリーアンに糸や布を差し入れてくれたあのシヤだったからだ。
「何をするべきか、わかっていますわね?」
「へ、へい。おいシヤ、やるぞ」
「……っ」
「馬鹿野郎、いいからお嬢様方の言うとおりにしろ!」
シヤを叱咤した男性の背に、ぴしりと鞭が当たる。
「ひっ」
「言葉に気をつけなさいよね。あたしたちが何を言ったっていうの?」
「あ、い、いえ、なんでもねぇっす! お、俺の言うとおりにしろシヤ! 早く石持って来い!」
涙目で首を横に振るシヤに、鞭が当たった。
一回、二回、三回。
繰り返されるたび服が裂け、やがては血が飛び散る。
ついに膝を突いたシヤに、マリーアンは耐えきれなくなって叫んだ。
「シヤさん! シヤさんっ! もういいの、私のことはいいの! だから……っ!」
「うるさいよ、偽善者。気色悪い」
ヴァレリアに蹴り転がされて、背に足を乗せられた。靴の踵が、背骨を軋ませる。
カサンドラが、ゆっくりと近づいてきた。
「ねえ、シヤ? アンタ、何考えてるんだか知らないけど……」
「うぐっ」
鞭がマリーアンを打つ。
シヤが目を見開いた。
「このあたしが指を潰すくらいで済ませてやるって言ってんだから、素直にやんなさいよ。……手違いで、この小汚い頭に石がぶち当たってもいいんなら、別だけどね」
「っ……!?」
「相も変わらずお馬鹿なシヤ、よく考えてごらんなさいな。アンタの大事な大事な、メルローズの忘れ形見を、こんなところで終わらせていいの? それとも、アンタが代わりにでもなるつもりかしら? それなら今度アンタに訪れるのは、真っ暗闇の静かな静かな世界だけれど……目も耳も口もなくしたら、ヒトってどこまで耐えられるのかしらね?」
二人の言葉を受けたシヤが、がたがたと震え始めた。顔色は青を通り越して、もう紙のように白くなっている。痩せた手が喉元を押さえるのを見て、マリーアンは直感的に理解した。
きっと彼女の声は、元々なかったのではなく、奪われたのだ。
今ここにいる、三姉妹の手によって。
「あたしは気が長い方だから、十秒待ってあげるわ。それが過ぎたらどうなるかは知らない。パティはああ言ったけど、うちのパパはあたしたちには甘いから。明日アンタら三人の首がそこに並んでても、せいぜい三日のお菓子抜きで済むわよ」
「えー、三日もお菓子抜きなのやだー」
「ヴァレリアは少し痩せた方がいいんじゃなくて? またドレスを新調しないとって、メイドがため息ついてましたわよ」
頬を膨らませるヴァレリアに、口元を扇子で隠しころころと笑うパトリシア。
彼女たちは本気なのだ。
この三人にとって、マリーアンの命も、下働きたちの命も、共に虫けら以下の価値しかないのだから。
「それはこのおっぱいのせいですぅー。っていうかそのメイド誰」
「背が低くて、栗色の三つ編みの娘でしたわ」
「誰だろ三人くらい浮かぶけど……いいや面倒くさい、みんなクビにしよ」
グレッグが顔を青くして外へ出て行く。戻ってきたその手には、こぶし大の石が握られていた。それを見たシヤの目から、ぼろぼろと涙が零れてくる。カサンドラの唇が緩やかに笑んだ。
「ねえ、マリーアン。アンタに一つ教えておいてあげる。あたしはね、メルローズに刺繍を習ったことがあるのよ。……昔からあたしはレッスンの中で一番刺繍が嫌いだった。何度やっても上手くいかなかった。それでお父様が、王宮でも評判の刺繍職人だっていうメルローズを連れてきて、あたしに刺繍を教えさせたけど……それでも上手くならなかったわ。だってアイツ、上手くなるためには練習しろとか言うんだもの。そんな面倒なこと、したくないに決まってるじゃない。刺繍が上手いっていうんなら、練習なんかしなくたって一発で上手くなるように教えられて当然でしょ?」
命ぜられたシヤの手が、可哀想なほどに震えながら、マリーアンの腕を押さえつける。
「だからあたしは刺繍が大っ嫌いだし、アンタの母親も大っ嫌い。それでもって、ロクにレッスンも受けてないのにその母親みたいに刺繍が上手いアンタも、死ぬほど嫌いよ。だけど――」
グレッグの握った石が、高く上げられて。
振り下ろされる。
「フフ、アハハ、だけどそれも今日でおしまいだわ! アンタの手はもう二度と、まっとうには動かない! あたしが嫌いな刺繍をする手は、これで全部この世から消えてなくなるんだからね!」
肉の潰れる音がする。
骨の砕ける音がする。
何度も、何度も、何度も――。
「可哀想ねぇ、マリーアン? 大好きなお母様みたいになれなくて、悲しいわねぇ? 刺繍どころの騒ぎじゃないわ、アンタの手は、これでもう二度と針を持つことすらできやしない! アハハハハ、いい気味よ! 平民のくせにあたしを馬鹿にしたアンタたちには、お似合いの最後だわ!! 一生後悔しながら、動かない手を眺めて泣けば良いのよ!! アハハハハ!!」
狂気をまとったカサンドラの哄笑は、痛みと恐怖で薄れゆくマリーアンの意識に、最後の最後までこびりついていた。