急転
複雑な紋様が描かれた白く輝く鱗には紐が通され、その紐はビーズで飾られている。一見すればただの首飾りに見えるそれを、マリーアンはしげしげと眺めた。隣で同じように目をこらしているシヤに気づき、彼女がよく見えるよう手に乗せて目の前に差し出す。
「すまんな、思ったより時間がかかってしまった。とりあえず一度、首に掛けてみてくれ。使えるかどうか確認しよう」
レグラスの声にうなずいて、シヤがその首飾りを手に取ると、そっと首に掛ける。
風の竜の鱗がレグラスの知人から届いたのは、三日前の夜だった。夜更けに突然の訪問者があったのだ。荷物を運んできたのはまだ幼い少年で、彼がレグラスの言っていた知人かと思ったのだが、あくまでも荷物を持ってきただけらしい。彼はマリーアンの入れたお茶を一杯飲み、茶菓子を少しだけ食べるとすぐに去って行った。まだ別の配達があるのだという。幼い子供に見えたが、レグラス曰く人間で言えば五十歳は超えた竜であるらしい。つくづく、竜というのは見た目で年齢がわからないものだと思う。
時間がかかったとレグラスは言っていたが、その分シヤの体調が回復したからそれはそれで悪くはないらしい。彼曰く竜の鱗を用いた道具は効果こそ高いが、使う人間に掛ける負担も決して軽くはないのだそうだ。魔力を用いて使う道具は発動に慣れればそれこそ息をするように自然に使えるというけれど、それまでの間はやはり大変なものらしい。
首飾りを掛けたシヤが、不思議そうに白い鱗を指で撫でる。すると、それがぼんやりと光った。
「あれっ、シヤさん、もしかして風の加護持ちかなにかでは? 珍しい、こんなに反応が早いなんて」
「ほう、これは案外簡単に使いこなすようになるかもしれんぞ。シヤ、そのまま鱗に触れて、声を出すような感じに口を開いてくれ」
驚いたようなナッシュバートの声に続き、レグラスが指示を出す。シヤは言われるまま口を開けた。マリーアンはそんな彼女の様子を、祈るような思いで見つめる。
「そうだ、そのまま話していたときのように、声を出して……大丈夫だ、ゆっくりでいい。息を吐くようなイメージで……」
「……、……、……ぁ」
「!」
何度かの挑戦のあと、シヤの口からかすかな音が漏れた。
マリーアンははっとしてレグラスを見る。
彼は頷き、シヤの肩に手を置いた。
「その調子だ。もう少し大きな声を出せるか?」
「ぁ……、ぁ、……あー」
「出た!」
「出ました!!」
「出たよマリーちゃん! すごい! 良かったねぇ!」
「出ましたよナッシュさん!! すごい!! ありがとうございます!! シヤさん、良かったぁ!!」
「待て待て、落ち着け二人とも。シヤ、次は言葉だ。声を出したのと同じ要領で、なにか言葉を発してみてくれ」
手を取り合ってキャアキャアと喜ぶマリーアンとナッシュバートに苦笑して、レグラスは再びシヤに指示を出した。うなずいた彼女が、一度口を閉じ、再び開く。
「ぁ、……ぃ、ぁ……」
一同が固唾をのんで見守る中、シヤは何度かの挑戦のあとに。
「ま……り、あ、ん……お、じょ、さぁま……」
「……っ、……シヤ、さんっ……!」
マリーアンは感極まってシヤに抱きついた。
彼女が声をなくして、何年経っているのかマリーアンにはわからない。けれど少なくとも、自分が物心ついた歳にはもう彼女は話せなかったのだから、十年以上は不自由な暮らしを強いられていたのだ。その彼女が声を取り戻して、最初に呼んでくれたのが自分の名前だということが、あんまり嬉しくて。
「シヤさん、シヤさんっ……良かった、本当に! 私っ、シヤさんに謝りたいことが、たくさんあって……!」
「おじょ、さま……なにも、わる、くない、ですよ」
「そんなことない! あのときだって、私がもっと強ければよかったし、この本のことだって……!」
マリーアンは鞄から布絵本を取り出した。シヤが命をかけて届けてくれた絵本は、丁寧に泥を落とし洗って綺麗な状態に戻っている。ミスティカに会うたび、マリーアンはこれを持って行くのだ。そしてお互い練習のあと、二人で曾祖母の刺繍を眺めながら、いろいろな話をするのが今の一番の楽しみだった。
けれど、シヤは困ったように首を横に振った。でも、と言い募ろうとするマリーアンの肩を、レグラスがそっと叩く。
「マリー。そういう場合は、謝るよりも適切な言葉があるんじゃないか?」
「適切な……」
「君が彼女に謝っても、彼女が君に謝っても、お互いに謝罪を繰り返すだけだろう。それよりは、もっとお互いに言って気分の良くなる言葉があると思うぞ」
シヤがにこりと笑って、ゆっくりと、言葉を紡いだ。
「おじょ、うさま。……わたしの、こえ。もどして、くれて、ありが、とござい、ます」
「声を戻してくれたのは先生よ、シヤさん。それに私の方こそ、ありがとう。……あのとき、シヤさんが止めようとしてくれたこと、本当はすごく、嬉しかったの」
理不尽な暴力の嵐を前にしても、自分の味方がいてくれたことは、マリーアンにとって何よりも嬉しいことだったのだ。しかし今度はシヤが再び首を横に振った。
「わたし、おじょうさまを、たすけられ、なかた。くやし、かた。だから、ほん、とどけたかた。……おじょうさま、いきててくれて、うれしい」
「私もよ、シヤさん。シヤさんが生きていてくれて嬉しい。……だから、謝るのはお互い、これで終わりにしましょう? じゃないと、先生が言ったとおり、私たちずっと謝ることになる気がするもの。ね?」
話せば話すほど安定してくるシヤの発語にほっとしながら、マリーアンは彼女に笑いかける。シヤは頷き、指を一本立てた。ひとつ、といういつもの意思表示だ。
「めるろず、さま。……おじょうさまの、こと、とても、あいしてた。さいご、そばにいて、まもれなくて、ごめんなさい、て……いって、た」
「……お母様が……」
そばにいて、守れなくて、ごめんなさい。
十六年越しに聞いた空に還りゆく母の言葉に、マリーアンの目からぽろりと、涙がこぼれる。レグラスがそっと、肩を抱いてくれた。大丈夫です、と答えながら、マリーアンはそっとハンカチで涙を拭う。竜の刺繍のものではないが、自分で刺した鳥のモチーフのハンカチだ。
「おじょうさま、まだ、ししゅう、してます?」
「……ええ、もちろん! 今はとても素敵な先生について教わっているから、あの頃よりうんと上手になったのよ! ほら見て、これも自分で刺したの!」
シヤの目の前にそのハンカチを差し出せば、彼女は嬉しそうに笑った。よかた、とこぼれ落ちてきた言葉に、彼女が本当に言葉を取り戻したのだとマリーアンは嬉しくなる。そんな些細なつぶやきさえも、意識せずにできるようになったのだから。
「……お、マリー、そろそろミスティカ先生との約束の時間じゃないか?」
「あっ、本当だ! ごめんねシヤさん、私、また明日来るから! えっと、先生とナッシュさんはどうします?」
「俺たちはもう少しここで、彼女の練習を見守ってるよ。帰りは迎えに行くから、そのまま待っていてくれ」
「わかりました! じゃあ、シヤさん、また明日ね!」
レグラスの言葉に壁に掛けられた時計を見れば、確かにそろそろ約束の時間だ。マリーアンは慌てて立ち上がった。シヤに手を振り、部屋を出ようと扉の前に立てばレグラスに呼び止められる。何か忘れ物でもしたかと振り向いたマリーアンの目に、映ったのはごく間近な彼の顔で。
「気をつけてな。道草を食うと、悪いオオカミに捕まるぞ?」
「っ、だ、大丈夫ですっ!」
笑みを含んだ囁きと共に額に柔らかな感触があって、マリーアンは急いで彼に背を向けるとドアを開け早足で治療院を出た。走ることが許されていたのなら、きっと全力で走って逃げただろう。
(先生の、先生の、意地悪……!)
ミスティカに会う前に、この頬の熱が引いてくれればいいのだが。
せめて少しでも時間をかけて行こうと、赤い顔のまま教会を出たマリーアンはため息を吐いたのだった。
「……さて、シヤ。思ったより君の内在魔力には余裕がありそうだから、いくつか聞きたいことがあるんだが、構わないか?」
「っつーか、いつの間に本当に夫婦になってたんっすか、師匠。俺様、ご祝儀も包んでませんけど」
「それはあとにしてくれ、残念ながらまだ夫婦じゃないもんでな」
半眼で問いかけてくるナッシュバートにさらりと答え、レグラスはシヤの元へと戻る。先程とは違いどこか警戒した目を向けてくる彼女になんと言ったものかと思っていると、
「おじょうさまの、こと、なかせたら、ゆるさない」
「ああ、そっちの警戒か。それなら心配しないでくれ、俺は絶対に彼女を幸せにするよ。……信用できなければ、君がお目付役として監視してくれてもいい。その方が、俺も安心できる」
「……。……わか、った。……それで、なにを、ききたい?」
しぶしぶと言った調子ながらも引き下がってくれたシヤにありがとうと声を掛け、レグラスはナッシュバートを呼び寄せる。
「彼はナッシュバート・グランシェット。国王からの密命を受けて、ストラバル伯爵の裏を探っている騎士だ」
「うら……?」
「どうもお姉さん、よろしくお願いします。俺の名前長いんで、ナッシュって呼んでください。でね実は、マリーちゃんが伯爵の娘だってこと、正式な報告がなされてなくて、上の方は誰も知らなかったんです。それでどうも、伯爵には後ろ暗いところがありそうだって話になりましてね……俺が色々と調べて回ってるって話なんです。お姉さんの身元はこちらで責任持って保護しますんで、良ければ伯爵家のことで知ってることを、教えてもらえませんかね?」
いつものようによく回る舌でナッシュバートが事情を説明すると、シヤは眉根を寄せて唸った。
「そんな……おじょうさま、たしかに、はくしゃくの、むすめ! ひどい!」
「そうなんですよ、いやホントに。だから他の悪行と合わせて、伯爵家まるごととっちめてやろうって話になってるんですが、いかんせん証拠が足りなくて」
「あくぎょう……あくぎょう。めいどたち、ころさせる、のは、あくぎょう?」
レグラスとナッシュバートは顔を見合わせた。
これはまた、思ったよりも大きな魚が釣れたかもしれない。
「……とんでもない悪行ですねぇ。ちょっと、詳しくお願いできます?」
そこから休み休み、シヤが語ってくれたのはやはり想定以上の悪行だった。
伯爵はシヤのように不始末を起こしたり、三姉妹の怒りに触れたりして用済みとなったメイドたちを自らの領内に住む魔術師のもとへ送り込み、実験台にしているというのだ。そうやって行方不明になってもいいように、伯爵家では孤児院から多くの少女を引き取り、メイドにしていたのだろう。身寄りのない少女であれば、ある日いきなりいなくなっても探す家族はいない。同僚たちには、伯爵家の別荘で働くことになったと言っておけばいいのだ。
その魔術師が何をしているのか詳しくはわからないが、シヤを運んでいた男たちの言によれば、なにかしらの毒や薬を扱っているらしい。だからこそ死人を送られるのでは駄目で、生きた実験台が必要なのだという。
ダンクレストから聞いていた、伯爵家でメイドが時折いなくなる件、そして孤児院から少女を引き取る件がひとつにつながって、レグラスは拳を握りしめた。隣では、ナッシュバートが同じくらい険しい顔をしている。
「これだけの悪事が明るみに出れば、ストラバル伯爵家も無事では済まんな」
「いやもうふっとぶんじゃないっすか? あの王様ならふっとばしそうですけど」
「とにかく報告して判断を仰ごう。いつもの手順で頼む……今日はまだ大丈夫だよな?」
「ええ、明日が三日前になるんで、今日はまだ大丈夫です」
「みっか……まえ? なんの?」
不思議そうに首をかしげたシヤに、ナッシュバートが笑いかける。
「うんとね、この国の第三王子の婚約式があるんですよ。まあ、どうなるかわかんないけど」
「?」
「広く婚約が発表されるのはまだ先だから、今は気にしないで。発表されたら、お祭り騒ぎ……とまでは行かないかもだけど、多分お披露目とかあって、屋台が出たり、店の売り物が安くなったりするから、ちょっと楽しいかも」
ダンクレストが懸念していた、ストラバル家長女カサンドラと第三王子ガインヴェストの婚約式まではあと四日だ。
明日になればカサンドラとその両親、そして妹たちが婚約式に備えて王宮に寝泊まりするようになる。そうすれば、レグラスがあの庭に出入りするのも、少々気を遣わねばならなくなるだろう。
「ストラバル領まではどのくらいで行き来できる?」
「馬を潰してかっ飛ばしても往復で一週間。人を運んだり隊列を組んだりすればもっとかかりますよ。残念ながら、婚約式には間に合わなさそうですねえ」
「ダニーは、きちんとした証拠さえ押さえられればあとで相手の有責で婚約を解消できる、って言ってたからな。無理に式を潰せばなにかと面倒そうだし、一度婚約が成立してしまうのはやむを得ないか……」
ここん、と癖のあるノックの音が響いたのはそのときだった。
レグラスはシヤを見、ナッシュバートを見て、彼女を守るように動きながら入室の許可を出す。ここに彼女がいることは秘匿されているはずだが、万一伯爵の手の者が知ったとなれば何を仕掛けてくるかわからない。
しかし、予想に反して顔を出したのは見慣れた少女だった。
「こんにちわ。……マリー、いる?」
「やあ、ミスティカ。マリーなら、君の家に行ったが……?」
「うそ。まだ、来てない、けど」
きょとんと目を見開いて言ったミスティカに、レグラスは背筋を冷たいものが伝うのを感じた。
本能の部分で、なにかまずいことが起きているのを察知する。
「まだ……来ていない?」
「うん。約束、してたから、うちで待ってた、けど……マリー、来ないから。どしたかなって、見に来た、の」
「……師匠、まさか」
ナッシュバートの声が遠い。
レグラスはぎりりと歯がみした。