告白
寒い夜だった。
マリーアンは窓の外を見ながら、ゆっくりと記憶を辿る。そう、寒い夜だったのだ。あれからもう四ヶ月が経ち、季節は春を迎えた。草木は美しく芽吹き、至る所で花が咲いている。こんな夜更けに羽織物無しで起きていても、寒くも感じないほど温かくなった。
時は流れた。誰の元にも平等に。
そしてその四ヶ月で、きっと自分は変わってしまったのだろう。
「……マリー、まだ起きてるか?」
「……先生?」
「もし良ければ、一緒にお茶でも飲まないか? 知り合いから、いい茶菓子を貰ったんだが」
少し逡巡してから、薄いストールを肩に掛けてマリーアンは自室の扉を開けた。ありがとう、と言ったレグラスが、木製の盆を持って入ってくる。いつものマグカップが二つと、見慣れない菓子が載った皿が一枚。それをテーブルの上に置いて、彼は椅子を引いた。
「俺の気のせいなら、構わないんだが……なにか、気になることがあるんじゃないか?」
「……」
「彼女の……シヤのことなら、あまり心配しなくていいと思うぞ。ナッシュに聞いたが、あの神父の治癒術はなかなかのものらしい。彼が大丈夫だと言ったのなら、大丈夫だ。声のことなら、そういう加工が上手い知り合いにちょうど風の鱗を何枚か頼んでいた所だったから、あまり間を置かずに来ると思うし」
「……ありがとう、ございます」
驚くべきことに、レグラスはあのあと、シヤの声をどうにかできるかも知れないと言い出したのだ。
はじめマリーアンは自分の手に使ったあの薬――竜の秘薬、というらしい――を使うのかと思ったが、実のところあれには致命的な弱点があった。怪我や病気などで失った機能を何であれ修復してしまうというその薬だが、それは失って二十四時間以内のものにしか効果がないのだ。つまり、潰されて数時間でレグラスの元にたどり着いたマリーアンの手なら治せるが、もう失って十数年経つシヤの声などは取り戻せないというのである。
けれど彼はその代わりに、風の竜の鱗を使うと言った。それは先天的に声を出せない者には使えないが、後天的に声を失った者には使える増幅器のようなものらしい。何年経っていたとしても、かつてシヤが話していたというのなら、きっと彼女の声を取り戻せる、とレグラスは言ったのだ。
それ自体はとても嬉しくて、ありがたい話だったのだけれど。
「何か他に気に掛かることがあるんだな、その様子では」
「……」
「なあ、マリー。俺は、刺繍は下手だし、部屋の片付けはできんし、鱗の整理だって君にいつもやって貰うような有様で、決して頼れる師匠とは言えないだろう。けどな、それでも……できることなら、君の力になりたいと思っているんだ」
金を帯びた琥珀の瞳が、真摯にマリーアンを見つめてくる。
その目の強さに耐えきれなくなって、マリーアンはうつむいた。
「ありがとうございます、でも……私は、先生にそんな風に言ってもらえるような、人間じゃないんです」
「何を言い出すかと思えば……急にどうした? 君はいつだって俺の大事な弟子だ、それとも誰かに何か言われたのか?」
「違います、私……わたし、は……」
なにかが、目から落ちていった。
それが涙だと気づいたのは、レグラスの驚いたような顔を見てからで。
「わたし、ここにきて、ほんとうによわく、なってしまったんです」
あの寒い夜。
自分を助けてくれた彼にだけは迷惑を掛けるまいと、マリーアンはすぐにでもストラバル家に戻る覚悟を決めていた。そしてアンヌローザと出会ったときには、揺らいでいたその覚悟に活を入れたつもりだった。
いつ何時、あの家に連れ戻されることになっても、彼にだけは笑ってありがとうとさようならを言えるように。そう思ったことは、決して嘘ではない。そうできることこそが強さであり、自分はそんな強い人間になりたいと思っていたのだ。それだけが、自分が持ち得る唯一のちっぽけな矜持であると。
けれど、今日。
言葉通りに命をかけて、自分の元へ母の刺繍を運んでくれたシヤの姿を見、マリーアンは恐怖した。
ただの下働きであったはずの彼女さえもこうして平然と命の危機にさらすようなあの家へ、自分は本当に戻るつもりなのか、と。
(戻りたくないと、思ってしまった)
この四ヶ月で自分は変わった。
温かく満ち足りた世界に慣れてしまって、暗く寒々しく飢えたあの生活に戻ることが、何よりも恐ろしくなってしまっている。
四ヶ月前には選べたのだろう道を選ぶことが出来なくなっているという事実は、驚くほどマリーアンを打ちのめした。
(私は、強くなりたかったのに)
命をかけてくれたシヤのように。過去に立ち向かったミスティカのように。
自分も、胸を張ってレグラスの隣に立てるような強さが欲しいのに。
なのに、彼のそばを離れることが、どうしようもなく怖くて仕方のない自分を消すことが出来なくて。
「……話してくれてありがとう、マリー」
マリーアンの訥々とした告白を聞き終えて、レグラスはそう言うと頭を撫でてくれた。その手の大きさに、暖かさに、またすがってしまいそうになって、マリーアンは唇を噛む。
「だけどな、君は自分を弱いと言うが、俺は決してそうは思わないよ。……君はようやく、自分を大事にすることを覚えたばかりなんだ。その気持ちは、大切にした方がいい」
「……自分を、大事に……?」
「あの家に帰ることが強さの証明になると、本当に思うかい?」
「……、それ、は……」
思わず言い淀めば、俺は違うと思う、とレグラスは言った。
「誰だって自分が一番大事なものだ。もちろん、俺だってそうさ。だけどあの家に戻るってことは、その大事な自分を投げ捨てるってことだろう? それは、強さとは言わないと俺は思う」
「でもっ……でも、私がいるせいで、皆さんに迷惑が、かかるとしたら」
「そのために君があの家に戻ると覚悟を決めているなら、それは自己犠牲という行為だ。大事な自分を投げ捨てて、他の人を助けようとする……そのこと自体は、確かに強さに見えるだろう。だけどマリー、考えてみてくれ。君がそうして自分を投げ捨てて俺たちに平穏をくれたとして……それを俺たちは、どんな顔で受け取ればいい? 君の不幸の上にしか成り立たない幸福を、どんな気持ちで受け取ればいいんだ?」
「あ……」
静かなレグラスの言葉が、胸にしみこんでいく。
逆の立場だったら。レグラスやミスティカが、自分を守るためにと辛い思いをしに行くのだとしたら。そんなのはやめてくれと、きっと自分は頼むだろう。どうにか他の手段を探して欲しいと、自分ができることならなんでもするからと、懇願するだろう。
「ミスティカのように強くなりたいと、君は言ったな。シヤのように強くなりたいとも。だが、君が憧れた彼女たちの強さは、安易な自己犠牲の上にあるだろうか? 彼女たちは、強くなるために自分を捨てたのか?」
マリーアンはミスティカの言葉を思い出した。
――マリーと、一緒に歩ける、自分で、いたいって……そう思うと、なんでも、できちゃう気が、するんだ。
一緒に歩ける自分でいたいと、彼女は言った。自分をどこかへ捨てたわけでも、追いやったわけでもない。その瞬間間違いなく、ミスティカはマリーアンの隣にいる自分を思い描いたのだ。そしてそれを実現するために、強さを得た。彼女は決して、自分などどうなってもいいという投げやりな気持ちでマリーアンを守ってくれた訳ではないのだ。
そう、自分が本当に憧れたのは、自分を蔑ろにして他者を救うようなやり方ではない。
かつて傷つけられた自分の心に向かい合い、その痛みを忘れることなく、それでもマリーアンのために立ち上がったミスティカのように。
命の危機に見舞われようとも、マリーアンに会いたいと願い続けて進む足を止めなかったシヤのように。
二人のように、辛い思いをしても諦めず、ひたすらに前を向く心。
傷ついても立ち上がり、己の前にある障害に立ち向かうその姿勢に、自分は憧れたのだ。
「……私、ずっと、諦めてきました」
あの狭く暗い離れで搾取されるばかりの暮らしをして、それも仕方のないことだと諦めてきた。
殴られても、詰られても、奪われても。
自分はそういうものなのだから仕方がないと、そう思うことで自分を守ってきたのだ。
「でも、本当は、悔しかったんです。私だって、お母様に刺繍を教わりたかった。あの人たちみたいにきちんとご飯を食べたかったし、ちゃんとした服を着て、寒くないお布団で寝てみたかった。……今はその頃の夢がたくさん叶って、だから本当に幸せで」
けれど、どこかでずっと考えていた。
いつかまた、すべてを諦めなければならないときが来るのではないかと。
それはとても怖いことで――怖いからこそ、諦めてしまえと声がするのだ。
元のように戻るだけだ、そういうものだと諦めてしまえば、怖さもなくなるぞと声がするのだ。
「幸せだから、ずっと怖かった。手に入ったものを手放さなきゃならないのは、すごく怖かった。だけど、全部全部諦めてしまえば、その怖さもなくなるから……それが強いってことなんだと、思っていたんです」
マリーアンはレグラスを見た。
金色混じりの琥珀の瞳が、丸眼鏡の奥から、優しい光でこちらを見ている。
「強くなりたかったんです。強くなれば、なくすことも怖くなくなると思ったから。だけど、そうじゃないんですね。強くなっても、なくすことは怖いし、怖いと思っていて、いいんですね」
「ああ。誰だって、大事なものを失うのは怖いことだ。だから失わずに済むように努力するし、強くなろうとするんだよ。……それが理解できただけで、君は十分強いと思うぞ、マリー」
「こんなに泣き虫で、ミスティカに腕相撲で勝てないほど非力でもですか?」
「ミスティカと腕相撲なんてするのか!?」
「結構いいところまで粘ったんですけど、駄目でした」
こぼれてしまった涙を拭って笑えば、レグラスも笑ってくれた。
「……なあ、マリー。俺はこれまでいろんな人間を見てきたが、単純に力が強かったり、権力を持っていたりする人間が必ずしも強い訳じゃないと思ってる」
マリーアンは黙って、彼の言葉の続きを待った。一度マグカップに口をつけ喉を湿らせたレグラスが、少し言葉を探すようにしながら口を開く。
「まあ、確かにそれも強さの一つではあるんだろうが……、結局最後に勝敗を分けるのは、戦おうとする意志の有無なんだよ」
「戦おうとする、意志……」
「どんなに負けて、地に這いつくばっても、戦おうとする意志が折れないものがいる。そういうものには、えてしてどこからか手を貸してくれる相手が現れるのさ。人でも、国でも、集団でも……逆に圧倒的優勢にあっても、何らかの理由で戦意を喪失し、そのまま敗れる奴らも見てきた。だから俺は、強くありたいのなら戦う意志を持ち続けることが大事だと思っている」
永い時を生き、いろいろな国を渡り歩いたのだろうレグラスの言葉に、マリーアンはうなずいた。
自分のように、なんら秀でたところのない人間では意味のないことなのかも知れない。
けれど戦う意志を持ち続けることは、誰に迷惑をかける訳でも、何を必要とするでもないことだ。心を強く持つ、自分にできる唯一無二のその戦い方を、マリーアンは深く脳裏に刻み込んだ。
「そうした他者の力を借りた勝利を喜ばないものもいるが、俺は誇っていいと思っているんだ。他者からの援助を得る力だって、本人の立派な力のうちだ。だからマリー、もしも君がこれから理不尽なことに遭遇したら、諦めずに戦う気持ちを持っていてくれ。君にそのつもりがあるのなら、俺はいつだって君の味方だ。精神的なことであればできることはないだろうが……それ以外の勝負となったら、いつでも呼んでくれよ。こう見えて俺は、結構強いぞ」
「結構って、もう、先生ったら……先生は竜なんですから、同じように竜でも呼んでこない限りみんな負けちゃいますよ」
「任せてくれ、生半な竜には後れを取らない自信がある」
「そういうことじゃないですってば」
マリーアンは笑った。
失うことを怖いと思うことが、怖かった。
けれど、今はもうそれを受け入れられる。
今の幸福を失うのは怖い。怖いからこそ、それを奪われそうになるのなら、自分は最後まで抗おう。
たとえその結果負けて全てをなくしたとしても、最初から仕方がないと諦め戦いもせずに放棄するよりはずっといい。
そんな過去の自分よりはずっと、彼の隣に立つのにふさわしい人間であれると思うから。
「先生、私、もう誰に何を言われても、あの場所には戻りません。ずっとここに……先生のそばに、いたいです。駄目ですか?」
「何を言ってるんだ、駄目なはずないだろう? 願ってもないよ、俺からしてみれば。俺だけじゃない、ミスティカもアンヌも、君がここにいて穏やかな日々を送ってくれることを何より喜ぶだろう。そして俺は、そんな君たちの毎日を何があっても守りたいと思っているよ」
レグラスの、金色混じりの琥珀の瞳に、どこか祈るような光がよぎって。
「だからマリー、どうか……どうかこれから先ずっと、俺と一緒に生きて欲しい。ここでなくても、別の場所でも、君が望むならどこでも構わない。ただずっと、俺のそばにいて欲しいんだ……どうだろうか?」
「もちろんです。私も、どこであっても先生のそばを離れる気はないですよ。だから、心配しないでください」
自分がそばにいたいと言った言葉を了承したのに、どういうわけか逆にそばにいて欲しいと願ってくるレグラスに首を傾げながらももちろんだと承諾を返せば、彼は完全に虚を突かれたような顔をして固まった。なにか問題があったかと思い、マリーアンは目を瞬く。レグラスは一つ咳払いをし、なぜか視線を遠くに投げた。
「……あー、その、……マリー。……その、俺は今、君に、ずっと俺と生きて欲しいと、言った訳だが」
「はい」
「その、君も、俺のそばにいたいと、言った訳だよな?」
「? はい、そうです。私、先生のそばにいたいです」
「そうだよな、うん、そうだよな。ええと、だから、……その、……あー!」
突如叫んで机に突っ伏したレグラスに、似た光景をいつか見たことがある気がしてマリーアンは思考を巡らせた。
そう、あれは彼に拾われて最初の夜が明けたあと。
大事な局面になると言葉が上手く出なくなる、と言って、レグラスが呻いていたのだ。
(変わらないことも、ある)
四ヶ月経っても、いや、きっとどれだけの時が経っても。
変わらないことというのは、確かにあるのだろう。
変わってもいいのだ。変わらなくてもいいのだ。自分が、自分であり続けられるのならば。
「駄目だ、どうして俺はいつもいつもこうなんだ……マリー、すまん。いい言葉が思いつかないから、単刀直入に言う」
「はい、大丈夫ですよ。なんですか?」
「君が好きだ。俺と千年を生きて欲しい。駄目か?」
「はい、構いま……えっ?」
ぼんやりとそんなことを考えつつ返事をしていたマリーアンは、予想外の台詞に思わず言葉を止めた。今、自分は一体何を言われたのか。理解が追いつかず呆然とレグラスを見返せば、相手はそれをどう捉えたのか眉を下げ、しゅんと肩を落とした。
「だ、駄目だよな……すまん、今のは忘れてくれ。人間にとって、千年は長すぎるし……あっ、なら百年でどうだろうか!? それでも長いか!? な、なら五十年とか……」
「ままま待ってください先生、そこじゃなくて、そこじゃなくてっ……今、今、な、なんて」
「ん? 君が好きだ。だから、俺と生きて欲しい、と言ったんだ」
マリーアンは目の前がちかちかするのを感じた。
(すき――すきって、すき? あの、……好き?)
好きだと、言われた。
それも、レグラスから。
(どう、しよう)
彼の言葉がぐるぐると頭の中を巡って、砕かれて、大きな流れに乗ってマリーアンの全身へと行き渡る。意味がじわりとしみこんで、しみこんだ先から身体が熱くなった。
どうしよう、と思う。
(どうしよう、どうしよう……私、すごく嬉しいって、思ってる……!!)
ずっと、彼の優しさに包まれてきた。
年上で、仕立ての技術もあって、顔も広いレグラスはマリーアンにとって初めての尊敬できる相手だった。だから初めは憧憬と、そして年上の相手に感じる思慕だけが、彼へ向ける感情のすべてだったのだ。
けれど四ヶ月の間一つ屋根の下で暮らして、彼のいろいろな顔を知った。正体が竜であるということもだが、掃除が苦手だったり、早起きが苦手だったり、辛いものが苦手だったりする、決して「尊敬する年上」の一言では片付けられないいろんな素顔を知ることができた。
だからこそ彼を好きになったのだ、とマリーアンは思う。
レグラスはただの完璧な目上の男性ではなくて、人間くさく優しい竜なのだ。
その大きな翼の元で温かく守られ、大切な弟子だと慈しまれ続けて、どうして彼を慕わずにいられようか。
(……でも)
ふと、胸の奥の棘が痛む。
(リンさんは、……いいのかな)
かつてグウェンリアンとの会話で出てきた、レグラスにとって大切な人なのであろう女性の名。結局いまだに自分は、その人がどんな人なのか聞けずにいた。ならば今しかないと覚悟を決め、マリーアンは口を開く。
「先生、あの」
「う、うん」
「先生がそう言ってくださるの、すごく、嬉しいです。でも、リンさんのことは、その……大丈夫、なんでしょうか?」
「ああ、リンなら大丈夫だろう。まあ、少しにらまれるかもしれないが……君を幸せにすると誓えば、きっと許してくれるはずだ」
(元恋人に新しい恋人を紹介するってこと!? えっ……むしろそれは、怒られたりしないの!? 竜の間では、そういう代替わりみたいなのが常識だったりするのかしら!?)
想定外の返答にマリーアンは混乱したが、続くレグラスの言葉で我に返った。
「今度、二人で墓前に報告しよう。君も一度は行ってみたいだろうし」
(あ……そうか、人の一生と、竜の一生は違うもの。その方は、もう空に還られたんだ。だからそういう発想になるのね)
「どうせならアンヌとミスティカも誘うか?」
「えっ!? そ……その二人をですか?」
「驚くことはないだろう、リンはアンヌからすれば母親なんだし」
「……ええっ!?」
なにか今また、とんでもないことを言われた気がする。
マリーアンは取り落としそうになったマグカップを持ち直し、レグラスを見た。
見られた方は慌てたような顔をしている。
「ど、どうしたんだ!? そんなに驚くことだったか!?」
「……先生、からかわないでください。だって私のひいおばあさまは、私と同じ、マリーアンっていう名前だったって……」
「ああ、リンというのは通称だよ。あだな、というのか? 彼女は小さい頃から周りの友達にそう呼ばれていたらしくてね、俺にもそう呼ぶようにと厳命していたんだよ。この国で君たちの持つ『マリーアン』という名前は、決して珍しいものじゃないから、あだ名もいろいろあるんだが……まあ、リン、と呼ばれるのは彼女くらいかもな」
「……」
なんだか気が抜けてしまって、マリーアンはマグカップからお茶を一口飲むと茶菓子に手を出した。ころんとした形状の、二つのクッキーが合わさったような形のそれは、噛めばさっくりとした歯触りで間に挟まれた甘いペーストがまた美味しい。以前レグラスは知り合いからだと言ってクロッカンという名の美味しいお菓子を持ってきてくれたことがあるが、これもまたその知り合いの人からもらったのだろうか。
「マリー、その……もしかして、俺はその説明を」
「ええ、まったくされてません」
「……誠に申し訳ない……」
再び眉根を寄せしゅんと肩を落としてしまったレグラスがなんだか妙に可愛く見えて、マリーアンは思わず笑ってしまった。
(私が先生を好きなのは、やっぱり、こういうところがあるからなのかも)
世界の何よりも強い竜という生き物で、しかもこの世で唯一の竜のための仕立屋で。
そんなすごい肩書きと、目の前でしょげているレグラスの姿は、どうしてもかみ合わない。
かみ合わないが、そこがいいのだとマリーアンは思う。
それに、少しくらい抜けているところがある方が、自分にだって役立てることがあるかもしれないし。
「いいんですよ、私の勘違いだったって今、わかったんですから」
「……何を勘違いしていたんだ?」
「リンさんって方が、先生の恋人とか……その、大切な人なんじゃないかって、ずっと、気がかりで」
「彼女は確かに俺にとって特別な、大切な存在ではあるが……恋愛感情とは無縁だよ。彼女の夫に誓ってもいい」
軽く笑ったレグラスが、マグカップの中身を一口飲み下す。
そしてどこか緊張した面持ちで、口を開いた。
「ところでその……ということは、色よい返事を期待しても、いいだろうか?」
聞かれて初めて先程の告白の返事をきちんとしていなかったことに気づき、マリーアンは慌ててマグカップをテーブルに置いた。鼓動が早鐘を打ち、緊張と羞恥で指先が震える。体中の血液が顔に集まったかのように熱くて、レグラスの顔が見られない。
「あああの、その、も、ももちろんです。わ、私で良ければ……いつまででも、先生のおそばに、いさせてください」
「それはその、弟子として……ではなくても、いいということだよな? こ、恋人とかそういう間柄でも、いいということだよな? お、俺の誤解なら今のうちに言ってくれ! でないとその、さすがにへこむというか、なんというか」
「ご、誤解ではないです! わ、私も、……私もっ、先生が好き、なので!」
思い切ってそう言うと、マリーアンは両手で顔を覆いうつむいた。恥ずかしすぎてもうどうしたらいいかわからない。全身から火でも噴き出しそうだった。緊張のせいか口の中はからからに乾いていたが、今マグカップを持とうとしたら間違いなく取り落とすかその場で倒して惨事を引き起こす気しかしない。何よりこの真っ赤な顔を覆った手を外す訳にはいかなかった。
少しの沈黙があって、そうか、という小さなつぶやきが聞こえてきた。
マリーアンは指の間から、こっそりとレグラスの顔を盗み見る。
横を向き、片手で口元を押さえた彼の表情はいつもと変わらなかったが、その耳が赤くなっているのが見えて、なんだかほっとしてしまった。
(先生も、恥ずかしいとか、思ったのかな)
だとしたら、ちょっと、――嬉しい。
「その……、なんというか。……こういうのは、言われると、恥ずかしいものなんだな」
「そ、そうですね……」
「いや、……参ったな。これは参ったぞ……どんな顔をすればいいんだ、こんな時……」
あまりに参った参ったと言うレグラスがおかしくて、マリーアンは顔を上げた。事実彼の耳は先程より赤くなり、頬も少しばかり赤みを帯びている。案外照れ屋なのかもしれない、と思い、マリーアンはマグカップを取り上げた。一瞬手を滑らせそうになったが、事なきを得たのでほっとする。
(私の先生は、私よりうんと大人で、とっても優しくて……それからちょっと、可愛い)
「マリー、ちょっと待て、あまり見ないでくれ」
「大丈夫ですよ、私だって似たようなものですし」
「いや、君が顔を赤くしてるのは可愛いからいいんだが、こんなおじさんが顔を赤くしても何も面白くはないぞ」
「私はそんな先生も可愛いと思います!」
「なぜそこを力説するんだ!?」
深呼吸を三つほどして気分を切り替えたらしい、ようやくこちらを向いたレグラスは、こほんと軽く咳払いするとやはりマグカップを取り上げた。
「……ありがとう、マリー……いや、マリーアン。多分俺はいつもこんな調子で、言葉が足りなかったり、頼りなかったりで君を不安にさせるかもしれない。けれど、君を不幸にするようなことだけはしないと、空のリンとメルに誓うよ。……竜の寿命はとても永いが、終わりがない訳じゃない。そのいつか来る終わりの日まで、君と共に在りたいと思う」
「私も、そう思います。でも……」
人間は短命だ。きっと、竜の一生からすれば驚くほどに。
彼がそう願ってくれることは嬉しいが、現実には二人で生きる時間など一瞬で過ぎ去ってしまうだろうと思っていると、レグラスは笑って首を振った。
「その、あー……俺は竜の中でも少し力が強くて、魔力が多い方なんだ、うん。だから、それをどうにかする手段がない訳じゃない。もしも君が、俺と生きることを望んでくれるのなら、やりようはあるのさ。……ただ、人としての時間を捨てることはとても重い決断だ。だから急がないよ。ゆっくりと考えて、決めて欲しい」
「……はい」
自分を好きだと、千年を共に生きたいとまで言ってくれるのに、それでも最後はこちらの意思に任せてくれる彼の優しさに、マリーアンは胸の奥がぎゅうと締め付けられるような気持ちになった。
本当は今すぐにでも諾と答えたいけれど、それでは彼も納得しないだろう。
だからいつかその日が来たら、決断を任せてくれた感謝の言葉とともに、彼のそばにいつまでもいるのだと伝えよう。
最後の一言を口にした瞬間のどこか寂しげなレグラスの顔に、マリーアンはそう決意した。
「……さて、すまんな、大分夜更かしさせてしまった。明日もミスティカの授業が在るんだろう? 今夜はもうお開きにしよう」
「はい。あ、カップ、洗っておきます」
「俺が誘ったんだ、俺にやらせてくれ。君はもう寝たほうがいい……おやすみ、俺の可愛いマリー」
「ぅひゃっ!?」
トレイを持って立ち上がったレグラスにつられて立ち上がれば、突然そんな言葉とともに額に口づけられて、マリーアンは思わず声を上げた。口から出たのが可愛い悲鳴などではなかったことに焦っていると、ドアを開けたレグラスがこちらを振り向いて笑っていた。
「そのうち敬語がとれるといいな。じゃあ、また明日」
ドアが閉まり、マリーアンはベッドに倒れ込む。心臓が口から出てきそう、とは、こういう状況のことを言うのだろう。耳の奥でどこどこと鼓動がうるさくて、ちっとも落ち着けそうにない。やっと引いてきたはずの頬の赤さも、この熱さではきっと元通りだ。むしろ、前より熱いくらいかもしれない。
こんな状態で早く寝ることなんてどう頑張ったって無理なのに、時計を見ればとっくに寝なければならない時間で。
「うう、もう、なんてことするんですか、先生……!」
涙目で思わず吐き出した言葉は、全部枕の中に吸い込まれていった。