献身
治療室、と書かれた部屋の扉が開いてやや憔悴した様子の神父が出てくると、マリーアンは急いで椅子から立ち上がった。両側についてくれていたレグラスとミスティカが、それにあわせて立ち上がる。
「神父さんっ、あの、シヤさんは……っ!?」
期待と不安が入り交じり、うわずってしまった自分の声に、相手は皺の目立つ顔を柔らかい笑みの形にした。
「大丈夫、彼女は無事だよ。何カ所か骨は折れていたけど、思ったよりも酷くはなかったから、うまくすれば今日中に目を覚ますかもしれない。今は眠っているから、シスターに見てもらっている。顔を見に行ってもいいけれど、自然に目覚めるまでは起こさないように気をつけてね」
「は……はいっ! ありがとうございます!!」
私は少し奥で休むから、何かあったらシスターに、と言い置いて神父は休憩室と書かれた扉の奥へ消えていった。張り詰めていたなにかがぷつりと切れて、マリーアンは思わずその場にへたり込む。慌てたようにレグラスが手を貸してくれた。
「大丈夫か、マリー?」
「は、はい、すみません……なんだか、ほっとしたら、力が抜けちゃって」
「無理もないさ。なんにせよ、君の大事な人が無事で良かったな」
「はい……!」
優しく笑ってくれるレグラスに笑みを返し、マリーアンは立ち上がった。すると、ミスティカが教会の方を見て首をかしげる。
「……誰か、来た、みたい」
治療院は教会の奥にあり、演壇の斜め後ろにある入り口の扉は普段閉ざされているが、今は先程シヤを運び入れた関係で開いている。開け放たれた扉からは教会の入り口までが見通せて、すべての人々に広く門戸を開くこの教会ではめったに正面扉を閉めないから、さらに向こうの通りまでもが見通せた。
その道を、ものすごい勢いで駆けてくる警備隊の制服が、見えたと思ったら。
「うおおっしゃ最速記録! 着いた! 俺様めっちゃ足早い! お待たせしました皆の衆、今どういう状況で――」
「静かに」
「静かにしてください」
「うるさい」
「――あれっなんかみんなすごい冷たい!?」
走る速度も声の大きさも全く加減することなく全力で教会を駆け抜け治療院まで飛び込んできたナッシュバートに、一同は口をそろえて静かにするよう促す。驚いたように目を見開いたナッシュバートだったが、レグラスから無言で治療室の扉を示されると事態を察したらしく、すんません、と小さく言って頭を下げた。
「治療は終わったんすか?」
「今さっきな。命に別状はないそうだ」
「そりゃあよかった。その様子じゃ今は眠って?」
「目を覚ますまで、起こすな、って」
「なるほどなるほど。んー……じゃあ、このままここで少し、話しましょうか」
言うとナッシュバートは教会に通じる扉を閉めた。治療院の廊下には、今はマリーアンたち四人の姿しかない。マリーアンはミスティカと共に少し前からこの廊下にいたが、布を運ぶシスターを時折見かけたくらいだから、元々あまり人の行き来する場所ではないのだろう。
静まりかえった廊下の端で、ナッシュバートがそっと、懐から泥にまみれたなにかを取り出す。
それがなんなのか理解した瞬間、マリーアンは声を上げそうになった。
「これは、さっきの怪我人が持っていたものです。意識をなくして倒れていてもなお、強く握りしめていたんだと、彼女を助けた行商人から聞きました」
泥にまみれ、元の色などわからないほど汚れたそれは、それでも間違いなく。
「お母様の……竜の仕立屋!」
「これが……ひいおばあちゃんの……!?」
ナッシュバートが手渡してくれた布絵本を、マリーアンはそっと開いた。乾いた泥が指先を汚し、ばらばらと床に落ちる。それをもいとわずページをめくれば、やがてあの、マントをまとった竜が現れた。
そこもまた泥で汚れてしまっていたけれど、部分部分が見えるだけで、マリーアンにはわかるのだ。
だって、ずっと、これだけを支えに生きてきたのだから。
「間違いないわ! この竜のページ……お母様の持っていた竜の仕立屋! ほら、見てミスティカ……おばあさまが持っているのとは、竜が逆を向いているの」
「……! ほんとう、だ! それに、マントの感じも……おばあちゃんのとは、違う……!」
「そうなの! こっちはベースが白で銀糸が入っているんだけど、おばあさまのは確か白と金糸で刺してあったよね!」
「そう! それに、おばあちゃんのは確か、太陽の図案で……こっちは竜の翼、だ……!」
「それに見て、この端の所……小さく三角の模様が入ってるでしょ? これがすごく細かくて、でも綺麗で……ほら、ここのところなんだけど」
「んんーあーあーあー、ごほんげっほん。お嬢さん方、ちょっと、俺様話してもいいかしらん」
「だめ」
「にべもない!」
容赦なくナッシュバートの言葉を切り捨てるミスティカに、マリーアンは慌てて彼の方へと向き直った。
「ご、ごめんなさいナッシュさん! あの、もう二度と見られると思っていなかったので、嬉しくてつい……!」
「ははは、いいのいいの。いやしかし、マリーちゃんは、本当に刺繍が好きなんだねぇ」
「はい!」
もう二度と見ることができないと思っていた物が戻ってきた嬉しさに、マリーアンは満面の笑みを浮かべて答えた。うおまぶしっ、となぜか目を眇めたナッシュバートが、隣のレグラスをちらりと見やる。マリーアンもつられて、彼を見上げた。
丸眼鏡の奥の瞳は、今日も優しくマリーアンを見下ろしている。
ただ、その金色混じりの琥珀が、どうしてかいつもよりも甘く見えて。
「……可愛い弟子でよかったっすねえ、師匠」
「ああ、そうだな。マリーは可愛い」
「俺様のことも可愛いって言ってくださいよ」
「お前はちっとも可愛くないが?」
「みんな冷たい! 世界が俺様に優しくない!」
(せ、先生が私のこと、可愛いって言ってくれた……)
鼓動が高鳴る。動悸が速まる。
レグラスの言葉を嬉しく思うと同時に、なぜだかとても恥ずかしくなってしまい、マリーアンは彼から目をそらす。
これまでにも可愛いと言われたことはあるが、それはすべて「可愛い弟子」や「可愛い教え子」といった表現だったのだ。
しかし今回のレグラスの言葉は、マリーアンそのものに向けた一言で。
(すごく嬉しい……けど、どうしてこんなに恥ずかしいの……!?)
いつだってレグラスに褒められたときは嬉しくて、少しだけ気恥ずかしいものなのだけれど、今回ばかりはどうしてだか妙に恥ずかしさが勝っている。ただ「可愛い」と言われただけなのに、どうしてこんなに恥ずかしくなるのだろう。自分の頭の中がわからなくなってしまって、マリーアンは困惑する。
(可愛い弟子、って言われることと、違いなんて、そんなに、ないはずなのに……)
弟子、の一言が、ないだけなのに。
なのに、どうしてこんなに恥ずかしくて、嬉しくなってしまうのだろう。
「……それより、なにか、言おうとしてた、の?」
「あ、そうそう、ありがとうミスティカちゃん……ええと、マリーちゃん。さっきの人は、伯爵家にいた頃の知り合いだって、言ってたよね」
「……はい」
「そうか……マリー、話せる範囲でいいんだが、彼女がどういった立場にいて、君とどういう関わりがあったか、教えてはくれないか?」
ミスティカが頭を撫でて慰めたのが良かったのか、ナッシュバートがすぐさま泣き真似から復帰する。続くレグラスの言葉に、マリーアンはうなずくと口を開いた。
「あの方は、シヤさんと言って……その、実は、言葉を話せない方なんです」
「……それは、口がきけない、という意味か? 例えば異国の言葉ならわかる、とかではなく?」
「口がきけない、のほうです。生まれつきではないそうなんですが、私が関わるようになったときには、もう話せなくなっていて……。そういう事情なので、私もシヤさんのことを詳しくは知らないんですが、昔、母の専属メイドをしていた人らしいんです。それで一時期、私の面倒も見てくれていたと聞いています」
「メルローズの? なるほど、彼女が亡くなってからはそのまま君の面倒を見ていたという訳か」
「はい。……、それで、……あの……」
自分の勝手な推論を言うべきかどうか、マリーアンは逡巡した。
けれど、あの夜。
マリーアンの手を潰すことを彼女に迫った三姉妹の発言と、それに酷くおびえていたシヤの姿は、この推測がおそらく正しいものであるとマリーアンに思わせるには十分だった。
「マリー、教えてくれ。どんな情報でもいい、話せるようなら話してくれないか」
「……はい。その、これは、私の想像なんですが。……シヤさんの声を奪ったのは、あの人たちだと、思います」
「というと……伯爵家の三姉妹か?」
「はい。先生が助けてくれたあの晩、私の手を潰すように命じられたのは、シヤさんと、もう一人の男の人だったんです」
初めて聞く話だからだろう、ミスティカとナッシュバートが目を見開いているのを視界の端で捉えながら、マリーアンはレグラスを見上げて言葉を続ける。
「そのとき、あの人たちは、嫌がるシヤさんに言っていました……あなたが代わりになるつもりなら、今度は真っ暗闇の静かな世界になる。目も耳も口もなくしたら、人はどこまで耐えられるのか……って。それを聞いたシヤさんは、喉を押さえてすごく震えて……だから、私は……」
――相も変わらずお馬鹿なシヤ、よく考えてごらんなさいな。アンタの大事な大事な、メルローズの忘れ形見を、こんなところで終わらせていいの? それとも、アンタが代わりにでもなるつもりかしら? それなら今度アンタに訪れるのは、真っ暗闇の静かな静かな世界だけれど……目も耳も口もなくしたら、ヒトってどこまで耐えられるのかしらね?
カサンドラの嘲笑混じりの声が耳の奥で響き、あのときの痛みが指先から這い上がってくるような錯覚を覚えて、マリーアンは両手を胸に当てきつく目を閉じた。手の先からじんわりと身体が冷えて、まるで末端から凍っていくかのようだ。
寒くて、怖くて、苦しくて。
だけどもう、今は。
「もういい、大丈夫だ。ありがとう、マリー……つらいことを思い出させて、すまなかったな」
ふわりと温かいものが自分を包む。広い胸に抱き寄せられて、マリーアンは素直に額を寄せた。レグラスの腕の中は温かくて、なにか不思議な、雨上がりの森のような匂いがした。指先から冷えていた身体が熱を取り戻し、凍っていたものがほどけていく。
ああ、ここならば、なにも怖くない。
そんな確信が、マリーアンの震えを鎮めていく。
(先生は、あたたかくて、やさしい)
このまま離れたくないと、思ってしまうほどに。
(わたしは――もしかして、わたしは、せんせいの、ことを)
「――ああ、良かった! グランシェットさん、来ていらしたんですね!」
治療室のドアが開き、シスターが顔を出したのはそのときだった。慌てたような声に全員がそちらを振り向く。ナッシュバート以外もいたことに驚いたのか、シスターは一瞬目を丸くしたが、すぐさまナッシュバートに向き直った。
「先程の方が目を覚まされたのですけど、とても取り乱してしまっていて……でも、何を聞いても答えてもらえないのです。それで、どうしようかと……」
部屋の中からは、落ち着いて、まだ怪我が、と諫める声が響いてくる。マリーアンはレグラスの腕の中を飛び出した。ナッシュバートと目が合う。彼はうなずいた。
「マリーちゃん、頼む。おそらく君が一番、彼女の言いたいことを理解できるはずだ」
ナッシュバートの声に応える形で飛び込んだ治療室には、左右に二台ずつ、四台のベッドが並んでいた。シヤはそのうち、右手の手前側に寝かされており、起き上がろうとする彼女を年かさのシスターが懸命に押さえ込んでいる。
唸るような音を発しながら、泥こそ落とされているもののくすんだ色の髪を振り乱し、暴れに暴れていたシヤの目が、近づいていったマリーアンを見る。
見て。
その動きが、ピタリと止まった。
「ああ、よかった。ね、落ち着いてちょうだい、私たちは貴女を傷つけたりしないわ……あら、貴女は?」
「あ、あの……そちらの方のことを、少しだけ、知っている者、です」
「まあ、そうなの。こちらの方、今少し興奮してしまっていて……お名前を聞けていないのだけど、貴女、ご存知?」
「はい」
数ヶ月見なかっただけで、なんだかとても懐かしいものに感じる黒茶の瞳を見返して。
マリーアンは精一杯の笑みを作った。
「シヤさん……シヤさん。生きていてくれて、本当に、良かった……!」
「っ……、ぅぅ……!」
シヤの目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。シスターが場所を譲ってくれたので、マリーアンは彼女の枕元へ移動すると彼女を抱きしめた。しばらく泣きじゃくっていたシヤは、やがて手振りで服の中に入れていた物がなくなった、というようなことをマリーアンに伝えてきた。それを渡したかった、とも理解できたので、マリーアンは様子をうかがいつつ部屋に入ってきたミスティカから先程の布絵本を受け取るとシヤに手渡す。
「シヤさんが言っていたのは、これのこと?」
「!」
「だったら、大丈夫。シヤさんを見つけた人が、警備兵さんに預けてくれたんだって。……お母様の絵本、大事にしてくれて、ありがとう。これはもう、シヤさんのものよ」
シヤがあの屋敷を出て一体どんな目に遭ったのか、マリーアンにはわからない。けれど、こんな大怪我をして、街に着く前に行き倒れて、それでも懸命に生き延びようとした彼女の力になったのがこの布絵本ならば、これを彼女に託してもいいかと思ったのだ。
しかしシヤは渡されたそれを逆にマリーアンへと押しつける。受け取れと言わんばかりにぐいぐい押され、マリーアンはやむなくそれを受け取った。満足げな笑みを浮かべるシヤに、思わず問いかける。
「シヤさんは、もしかして……私に渡すために、この本を、持っていてくれたの?」
首が一度、縦に振られた。
マリーアンは何も言えず、ただ、本を抱きしめながら彼女を見返すことしかできなかった。
シヤは微笑んで、それから緩やかにベッドに倒れ込んだ。シスターがすぐ彼女に近づいて状態を確認する。
「……大丈夫、眠ってしまったみたい。治癒魔術で表向きの傷は癒えても、無くした血や体力は戻らないわ。彼女……シヤさんには、もう少し休養が必要よ。積もる話があるのでしょうけど、今日はもう、休ませてあげて」
「わかった。なら、明日また見舞いに来よう。俺はレグラス、彼女はマリーだ。シヤは、なんというか、マリーの……」
「ふふ、構いませんよ、レグラスさん。ここは教会、私たちは神の僕。彼女が誰であろうとも、そしてあなた方がどういった人であろうとも、神に愛された命ある者ならば、皆等しく救うべき相手です。……教会側の入り口前には、大抵シスターが控えております。シヤさんに会いに来たと伝えて、扉を開けてもらって下さい」
「……助かる。ありがとう、シスター」
どういたしまして、と微笑むシスターに軽く頭を下げる。レグラスにそっと背を押されたので、マリーアンはぼんやりとしたまま彼に従い部屋を出た。
腕の中の本が、なぜだか酷く重たく感じられた。