望まぬ再会
「まあまあ、綺麗に直ったこと! 急な仕事でごめんなさいね、どうしてもこのドレスを着ていきたかったのよ。しかもうちまで届けてもらえるなんて……本当にありがとうねぇ」
「大丈夫、です。何かありましたら、また、ご連絡、ください」
「よろしくお願いね、ミスティカちゃん。……ねえ、そのお洋服、とても似合ってるわよ。なんだか、マリーちゃんと姉妹みたい」
「ふふ。実は、ボクが、お姉さん、です」
「あらあら! でもそうだと思ったわ、ミスティカちゃんの方がちょっぴり背が高いし、ちょっぴりお姉さんっぽいものねぇ」
ふふん、と嬉しそうに笑う今日のミスティカは、淡い紫色のワンピース姿だ。黒く艶のある髪も肩を越えるくらいで整えられており、緩くウェーブがかかったそれをハーフアップにして、ワンピースと同色のリボンを結んでいる。その姿はまるで人形のように愛らしく、ここに来るまでも何度か知らない男性に声をかけられたことをマリーアンは知っていた。
(というか、私にまでこんな可愛いお洋服を仕立てていただいて……なんだか、申し訳ないなぁ)
そしてマリーアンが着ているのはミスティカのワンピースと色違いの、爽やかな青色のものだ。髪はいつも通り三つ編みにしたあとバレッタで上げており、ミスティカには下ろして同じようにハーフアップにしようと誘われたが、一度試したところどうにも落ち着かないので慣れ親しんだ形にさせてもらった。
二人の服装は、言うまでもなくどちらもフランシェル縫製工房が仕立てたものだ。ミスティカ曰く、こういう服が着てみたいと希望を出したら父ロデリックが泣いて喜び即座に型紙を切って二人分仕立ててくれたのだという。どうして泣いたのか意味がわからないとミスティカはぼやいていたが、可愛い愛娘、しかも縫製工房の主の娘である彼女が身なりに気を遣わず男物ばかり着ていたことにロデリックとしては複雑な思いがあったのだろう。そうなってしまった経緯も知っているからこそ止めろというわけにもいかず、歯噛みしてしていたことは想像に難くない。
本当はずっと可愛いワンピースが着てみたかったのだと、できたら一緒に着て欲しいと、仮縫い段階のワンピースを着て見せてくれたミスティカに言われてしまっては、断るわけにもいかず。
「では、ボクたちは、これで。今後とも、ごひいきに」
「ええ、期待してるわよ、未来の工房長さん」
君がミスティカの友達になってくれて本当に良かった、これからも娘をよろしく、などという身に余る言葉とともに渡された完成品のワンピースを着て、今日のマリーアンはミスティカのお供をしている。正確には、フランシェル縫製工房の手伝いだろうか。
工房を興したのはロデリックだが、遡れば曾祖母マリーアンの頃からこの地で縫製に携わってきたフランシェル家の人脈は広い。そしてロデリックはそうした昔からの付き合いを大切にする人間だった。いわゆる「お得意様」である彼らに対し、ロデリックは自分たちが作った衣服であってもなくても、かけはぎやサイズ調整といった「お直し」の仕事を無償で引き受けているのだ。普段使いの服なら自分で直してしまうか、あるいは買い換えるような人でも、一張羅や気合いを入れて買った服となればちゃんと手を入れて長く着たいと思うのだろう。それに、いろいろな事情で自分では直せない人もいる。
だからこそロデリックはそれを引き受け、そして結果的にそのことがフランシェル縫製工房の株を上げてもいるのだった。
「お待たせ、マリー。次が、最後だよ」
「お疲れさま、ミスティカ。教会だったよね、確か」
「そう。治療院が併設の、教会。演壇に掛けるクロス、これは、新しいのを、頼まれてた、ヤツ」
「そういう納品もするんだ」
「教会の人は、なかなか、離れられない、から。あと、クロスは体型に合わせたり、しないし」
工房で直しを終えた品は、いつもならミュリエルとミスティカが配って回っていたそうだが、今日はミスティカとマリーアンの仕事になった。おかげで事務仕事に専念できるとミュリエルは喜んでいて、少しでも役に立てたのなら良かったとほっとしたマリーアンである。
先日の嵐の中、風の竜を見るのだと窓に張り付いて動かなかった自分たちに呆れながら、何度も温かいお茶やお菓子を差し入れてくれて、竜が見えたと大はしゃぎし迂闊にも窓を開けた結果屋内にいるのにびしょ濡れになってしまった時にはすぐタオルと着替えを用意してくれて風呂にまで入らせてくれた。もう迷惑のかけ通しで、いくら頭を下げても足りないくらいだとマリーアンは思っているのだ。
当のミュリエルは「娘が増えたみたいで楽しくっていいわ」と笑っているけれど、その言葉に甘えてはいけないとも思う。
そう言ってもらえることは、もちろん、とても嬉しいのだけれど。
「教会って初めてなんだけど、私みたいに、その……神っていうのを信じてない人が行っても、いい場所なの?」
「うん、大丈夫。ボクも、信じてない、し」
「ミスティカも?」
「ていうか、うちは、誰も信じて、ないよ。でも、信じてる人をどうこう言う気も、ない。あの教会の人たちは、いいひと、だしね」
ドレスを納品した女性の家から教会まではそう遠くない。すっかり軽くなったバスケットを手に、二人は談笑しながら歩みを進めた。やがて立派な石造りの建物が見えてきて、あれが目的地だよ、とミスティカが教えてくれる。大きく開け放たれた門に、今もちょうど、一人の男性が入っていくところだった。
その後ろ姿に見覚えがあるような気がして、マリーアンは首を傾げる。
「マリー? どうしたの?」
「あ、ううん……今の人、なんだかちょっと、見たことがあるような……」
「――ねえねえ、君たち。そのワンピース、すごく可愛いね」
突如として目の前に立ち塞がったのは、まったく知らない男だった。
またこれか、とマリーアンは心中で嘆息する。
最初こそもしかしたらミスティカの知り合いか、あるいはフランシェル工房に関わりのある人間かと思って彼女の顔色をうかがったりしていたが、本日五度目となればもう慣れたものだ。ミスティカも、紫色の瞳を半分閉じたようにして、冷え切った視線を目の前の男に投げている。
「ややや、そんな怖い顔しないでよ! 俺さ、ちょっと服飾の勉強始めたところでさ。君たちのワンピースがあんまり可愛いから、ちょっと話だけ聞かせて欲しいなって思って」
「すみませんが、先を急いでますので。失礼します」
「あーそんな時間取らせないよ! それにタダとも言わないし、ほら、そこにある店知ってる? 東区の菓子屋の一番弟子が、最近開いた店でさ、ビスコッティが美味いって評判で――」
返事をしたマリーアンの方が与し易いと思ったのか、男はなおも言い募り腕を掴んでくる。振り払おうとしたが、その力は思いのほか強くうまくいかない。やめてください、とマリーアンが声を上げるより早く、
「おい」
「んあ?」
地の底を這うかのごとき低音に、男の手から力が抜けた。
その目は驚いたように見開かれ、マリーアンの隣を見つめている。
「ボクの、マリーに、許可なく、触るな」
ミスティカが、紫の瞳を怒りで燃やしつつ、男の腕に爪を立てていた。
普段よりもずっと低い、おどろおどろしい低音が、彼女の綺麗な唇から漏れてくる。
「っな……テメェ、男かよっ……!?」
「だったら、なんだ。この手を、離せ。でなきゃ、警備隊でも、呼んでやろうか」
「呼ばれなくたって離すっての! クソッ、女物の服なんぞ着やがって、気色悪い真似すんじゃねぇよ! このオカマ野郎が、覚えてやがれ!」
男はマリーアンの腕を放すと脱兎のごとく逃げていった。周囲の人々が好奇の視線を向けてくる中、ミスティカは涼しい顔でマリーアンの手を握る。
だから、その手が震えていることに気づけたのは直接触れあった自分だけだっただろう。
「女の子がボクって言っちゃいけない決まりなんて、どこにあるんですか!! いきなり人の腕を掴んできて、気色悪いのはどっちですか!! あなたの顔なんて、私、三歩歩いたら忘れますから!! だからもう、二度と目の前に、出てこないでくださいねーっ!!」
「……マリー、どうどう。落ち着いて」
ミスティカに背を撫でられ、何度か深呼吸を繰り返す。思い切り叫ぶというのは案外大変なものなのだと初めて知った。男の背中はもう道の向こうに消えていて、あたりを見回してもこちらを見ている人間は誰もいない。最後に一つふうと息を吐き、マリーアンは逆にミスティカの手を握った。
「ミスティカ、ごめんね。私が捕まっちゃったから……」
「なに、言ってるの。ボクこそ、ごめんね。最初から、ああやって、うなってやれば、良かったよ」
「だめよ、無理しないで。私、ミスティカに嫌な思い、させたくない」
彼女は初対面の人間の前では基本的に話さない。かつてその声が嘲笑された経験が、いまだその心に根深く残っているからだ。自分だってそれを知っていたし、そんなことをしてきた相手に憤慨した。
なのに、マリーアンがうまく立ち回れなかったから、ミスティカは傷つくこともいとわず、自ら前に出てくれた。
その優しさと強さが、まぶしくて、嬉しくて。
「大丈夫、だよ。……ボクが、マリーを守れた、なら。それで、大丈夫な気持ちに、なれる」
「ミスティカ……」
「不思議、だね。マリーを、守ろうと思うと、ボク、人の目も、怖くなくなる、んだ。マリーと、一緒に歩ける、自分で、いたいって……そう思うと、なんでも、できちゃう気が、するんだ」
まだ少し手を震わせたまま、少しだけ恥ずかしそうに笑うミスティカに、マリーアンは答える言葉を思いつけずに抱きついた。わあ、と嬉しそうに声を上げた彼女が、ぎゅっと抱きしめ返してくれる。
(……私も、ミスティカみたいに強くなりたい。大事な人の隣にいても、恥ずかしくない自分になりたい)
脳裏に浮かぶのは、レグラスの顔だ。
今は教え子として彼のそばにいられるけれど、いつか、その関係が――師弟という関係が終わったとき、自分は彼のそばにいられるのだろうか。いられるようにするためには、どうすればいいのだろうか。
刺繍の腕を磨き、彼にとって有用な人間になることはもちろんだけれど、それだけでは胸を張れない気がして。
「大体にして、ビスコッティが、美味しいって、言われても……ねぇ?」
「ビスコッティなら、ミリィさんの焼いてくれるのがすっごく美味しいものね」
「そう。お母さんのが、美味しいから、別に、興味ない……でも、チェリーパイは、マリーの持ってきて、くれるのが、好き」
「『踊る小熊』亭で焼いてもらうあれね! 私もあのチェリーパイ、大好き! また今度、焼いてもらうね!」
歩き出すまでもなく無礼な男のことなどすっかり忘れ、二人は先ほどまでと同じく談笑しながら教会の中へと入っていった。
「こんにちは。フランシェル縫製工房、です。クロスのお届けに、上がりました」
「はいっ!? あ、ありがとうございますっ! えっと、しょ、少々お待ちくださいっ」
教会の中は、どこかざわついていた。
演壇に人の姿はなく、並んだ椅子には一人だけ、手を組みうつむいている老人の姿があった。他にいるのは掃除中らしくぞうきんを持った小柄な少女と、今入ってきた自分たちだけだ。これだけ人が少ないのならばもっと深閑とした空気があっていいはずなのだが、どこかから気ぜわしい足音や人の声が聞こえる気がして、落ち着かない。
不思議そうな顔をしたミスティカが、まるでこちらの視線を避けるように隅で掃除をしていた少女に声をかけると、彼女は飛び上がらんばかりに驚いて慌てて奥へと走って行ってしまった。マリーアンはミスティカと顔を見合わせる。あまりにも、他人と対峙することに慣れていない反応に思えたからだ。
「ねえ、ミスティカ……教会って、いつもこんな感じなの?」
「ううん。いつもは、もっと、静か。大体、神父様が、そこに立ってて……シスターが、掃除とか、してるけど」
教会、というものが世の中にはあるのだと、マリーアンが知ったのはつい最近のことだ。それは神という存在を崇める人々が集まる場所で、この国で一般的なのはイスラディルという名前の神らしい。
神というのは人知を越えたすごい力を持っていて、その存在を信じ祈りを捧げていれば困った時には助けてくれるものなのだと聞いて、なるほど、という以外の感想を持てなかったマリーアンである。
(祈らなければ助けてくれないなんて、神っていうのも案外現金なのね)
祈ることが神に助けられるための条件ならば、マリーアンのようにその存在すら知らずにいた人間は一生助けられることなどないのだろう。ミスティカやアンヌローザに聞いたところでは、市井で普通に生まれ育った人間ならば大抵一度は神の名を聞いたことがあるそうだが、自分のように特殊な環境で育った人間は生涯その名も知らずに過ごしたところでおかしくはない。
そしてきっと、人知を越えた存在による救済をより強く求めるのは、そうした人間なのではないだろうか。
(でも、私には、先生がいてくれたから)
レグラスは、彼のことなど知らず、たまたま遭遇しただけの自分を救ってくれた。竜である彼は人知を越えた力を持っているだろうが、それを振るうことに見返りを求めたりはしなかった。
マリーアンは神を信じない。
けれど、レグラスのことは何よりも信じていた。
(あっ、ひょっとしたら……イスラディルという方は、優柔不断な方なのかも知れないわ)
自分だけでは決められないから、祈りの多寡などで優先順位をつけて人を救うのかも知れない。マリーアンには想像も付かないが、この世界のほとんどの人がイスラディルという神に対して祈るのならば、その声は途方もない数になるだろう。だとしたらその願いを叶える順番を決めるのに、祈りというわかりやすい指標を使うのかも知れない。
などと考えていると奥に続くドアが開き、先ほどの少女を伴って、白と黒の二色しか使われていない服を着た男性が現れた。あれが神父様、というミスティカの囁きに、マリーアンはうなずいてバスケットから依頼のクロスを取り出す。
「ああ、ミスティカ。ありがとう、クロスの納品に来てくれたんだね?」
「そう、です。こちら、ご確認、いただけます、か」
マリーアンが差し出したクロスを広げた神父は、その出来映えに目を細めると何度かうなずいた。納得してもらえたらしい。
「とてもいい出来だ。特にこの中央の刺繍が素晴らしいね、本当に君は毎年腕を上げるなぁ」
「光栄、です」
「来年もまた、よろしく頼むよ。支払いだが、今少し立て込んでいてね、後日そちらに届けよう。かまわないかな?」
「はい、大丈夫、ですが……なにか、ありました?」
「うん……実は今から、怪我人が運ばれてくる予定なんだ。街の南で行商人が行き倒れの人を見つけたらしくてね、南の治療院に空きがなくて、ベッドが空いているなら受け入れて欲しいと警備隊から連絡があって。かなり酷い怪我らしくてね、一刻を争うというから、我々も準備をしていたところなんだよ」
怪我をしたり病気を患ったりした人は、治療院と呼ばれる場所で治療を受ける。治療院は大抵教会と併設されており、ここもそんな場所の一つなのだ。どことなく教会内がざわついており、神父やシスターが表に出ていなかったのはそのせいだったのかと納得する。ミスティカがうなずいて、一歩下がった。
「じゃあ、私たちは、帰ります、ね。お邪魔に、ならないように」
「すまないね、ばたついていて……そちらのお嬢さんも、また機会があれば二人で、顔を見せに来てほしいな。シスター・メニオラが今、カヌレを焼くのにはまってしまって……お茶菓子には困らないから」
「ふふ。ありがとう、ございます」
「また、お邪魔させていただきますね」
二人そろって頭を下げて、出入り口に向かう。カヌレというのはどんな菓子なのだろう、とマリーアンは思った。いまだかつて名前を聞いたことがないし、名前から形状の想像もつかない。ここを出たらミスティカに聞いてみよう、と考えていると、どかどかと複数人の足音が近づいてくる。どうやらこちらが退散する前に、怪我人が着いてしまったようだ。
「悪い、どいてくれ! 急ぎの怪我人なんだ!」
「あっ……ナッシュさん!?」
先頭に立って担架を担ぎ走ってきたのは、誰あろうナッシュバートだった。深緑の瞳が大きく見開かれ、開いた口から声が飛び出す。
「うえっマリーちゃんじゃん!? なんちゅうタイミングでここに……いやごめん今ちょっとそれどころじゃ」
「――シヤ、さん?」
けれど。
ここでナッシュバートに出会ったことよりも。
マリーアンの心臓をぎゅうと握ったのは、その担架に寝かされていた女性の顔だった。
泥にまみれ、所々血の跡がある服を着ている彼女は、マリーアンの記憶に間違いがなければ、ここにいるはずのない人で。
そうしてその青白い頬からはもう、生きているものの気配が薄らいでいて。
「うそ……うそ、シヤさん! こんな、どうしてっ……どうして!?」
「マリー、待って、落ち着いて」
「シヤさんがっ……だって、ミスティカ! シヤさんは、あの家に……あの家にいるはずなのに! なんでっ……なんでこんな怪我、なんて……どうしてっ……!!」
忘れていてほしいと、思っていた。
あの夜、泣きながら、震えながらマリーアンを押さえつけていた彼女。きっと声が出せたら、何度もごめんなさいと言ったのだろう彼女。けれどあれは仕方のないことだったのだと、マリーアンは思っている。誰だって自分と他人を天秤にかけたら自分が重たいのは当たり前のことなのだと、あの境遇から抜け出した今の自分なら理解できる。だからマリーアンが憤るのはあの三姉妹に対してであり、シヤに対してではなかった。むしろ、これまで親切にしてくれた彼女を、巻き込んで申し訳なかったとさえ思っていたのだ。
三姉妹の口ぶりでは、おそらくあのあと罰を与えられることは免れなかっただろうけれど、それが少しでも軽ければいいと、そしてあの晩のことで心を淀ませることが少しでも少なければいいと、そう思っていたのに。
「待ってくれマリーちゃん、あの家ってまさか伯爵の――」
「グランシェットさん! 怪我人を早くこちらへ! 受け入れの準備はできています、急いで!」
「な、ナッシュさぁん! 冒険者ギルドから緊急連絡、西区の治療院に空きがあればもう一人受け入れて欲しいとのことですぅ! どうしましょう!?」
「ええっ!? いや、うちはこれ以上は無理です、ベッドはあっても癒やし手が足りません! ですが、多分ニスラ神父のところにならまだ空きがあるはず!」
「ニスラ神父のところってどこですか! 具体的な場所を言ってもらえないと困ります! それか地図を……」
「ちょっと、あなた方警備隊なら治療院の場所くらいは把握しておいて下さいよ!」
「自分たちは南区の警備隊ですよ!? 西区の事情まで知ってるわけないでしょうが! そういうのは同じ区内の人が」
「な、ナッシュさぁん、自分、返事持って帰らないとっ、どうしましょぉお」
「ああっクソ、もう何が何だか! 今日は厄日かこんちきしょーやったらぁ!」
赤茶色の髪をがしがしとかきむしったナッシュバートの、苛立ち混じりに叫ぶ声が遠く聞こえる。すべての音が、景色が、まるで水の幕でも隔てた向こうにあるかのように遠かった。そんな中で、支えるように手を握ってくれているミスティカの体温だけが、やけに温かく感じられた。
「まずモートン神父、荒っぽい言葉を使って申し訳ない。怪我人の受け入れ、感謝します。もう一名はこちらでニスラ神父のところへ受け入れ要請をしますので、今はこの患者にだけ集中して下さい」
「わ、わかりました!」
「ビート、俺の代わりに担架を持て。チャールズと一緒に、神父様の指示に従うように。デイヴィス、冒険者ギルドに西区でもう一人受け入れると伝えろ。ギルドの中に西区に詳しい奴が一人くらいはいるはずだ、ニスラ神父の教会の場所はそいつに聞け」
「了解!」
指示を受けた警備兵たちがそれぞれに動き出す。
マリーアンはぼんやりとそれを目で追った。
担架に乗せられたシヤが、神父や警備兵と一緒に開かれた扉の向こうへと消えていって。
ナッシュバートが、こちらを向いた。
「マリーちゃん。……あの人は、君と同じ家にいた人、なんだね?」
「……は、い」
「わかった。俺はこれからニスラ神父のところへ行ってくる。そのあと、師匠のところへ行って、ここに来るよう伝えるよ。詳しい話は、それから聞かせてほしい」
「わかり、ました」
「大丈夫。モートン神父は西区の癒やし手の中でも一番の腕利きだ、心配しなくていいよ。……ミスティカちゃん、俺が戻ってくるまで、マリーちゃんを頼める?」
「……名前、なんで、知ってる、の?」
紫の瞳を見開いて、ミスティカが不思議そうに声を上げる。ナッシュバートは苦笑した。
「ありゃ、覚えてない? 俺様、師匠の紹介で一度、ミスティカちゃんに会ったことあるんだよねぇ」
「……全然、覚えて、ない」
「たはー、切ない。まあ、その話はあとでゆっくりとね。じゃ、行ってきます」
言うなり駆けだした彼の背中が、見る間に小さくなっていく。
濃藍の瞳をのろりと動かして、マリーアンはただ、それを見送った。