桃色の悪魔
※2話で出てきたメイドのシヤと、メルローズとの過去回です。
暴力描写・胸糞展開が駄目な方は以下のあらすじだけ読んだら次に進んでしまってください。大体これでオッケーのはずです!
あらすじ:三姉妹の不興を買ったシヤは、同じ境遇のメイドたちとともに嵐の中移送されていた。シヤはかつて、マリーアンを身ごもっていたメルローズのメイドであったが、カサンドラの不興を買い毒薬によって喉を潰されてしまう。メルローズはそんなシヤを庇い、面倒を見てくれた恩人だった。彼女の娘であるマリーアンに、なんとか遺品の布絵本を届けたいと願い屋敷からそれを持ち出したシヤだが、御者たち曰くここにいるメイドは皆魔術師に人体実験の道具として送られるのだという。逃げる手段を模索するシヤ。しかしその時近くを流れる川が氾濫、馬車ごと全てが濁流に呑まれてしまうのだった。
その晩も、雨が吹き付けていた。
もはや嵐といっていいほどだ。
本来ならこんな日は、馬車で移動などするものではない。しかもこの馬車は決して仕立ての良いものではないのだ。幌は所々穴が空いているし、強い風が出入り口を覆う布をまくり上げて容赦なく雨粒を車内へと叩き込んでくる。けれど降り始めてもう三日にもなるものだから、これ以上の日程の遅れを嫌った男たちが荒天でも構うものかとばかりに馬を走らせているのだった。
濡れた荷台の上、震える身体をぎゅうと小さくして、シヤは同じように周囲で震えている少女たちを見た。
あの夜。
ずっと守りたいと思っていた少女を、己の手で傷つけた、あの悪夢のような夜。
シヤは痛みに気を失った少女の手に、泣きながらハンカチを被せて離れを後にした。すでに三人の悪魔と一人の臆病な男は姿を消していて、離れには涙の後も痛々しい、両手の自由を失った少女と、なにもできなかった役立たずで無力な己とだけが、吐き気を催す血臭の中に残っていた。
(マリーアンお嬢様……お願いだから、生きていてください……)
少女――マリーアンは知らなかっただろうが、シヤはずっと彼女を見守ってきた。
シヤが伯爵家に勤めだしたのは、十四になったばかりの頃だ。元々孤児院育ちだったシヤは、読み書きができない上器量も物覚えもいい方でなかったからかなかなかもらい手がつかなくて、ようやく決まった奉公先がストラバル伯爵家の下働きだった。お前なんかが貴族様の屋敷に奉公に上がるなんて信じられない、と周囲からは驚かれたが、シヤ自身にはそのすごささえ良くはわからなかったのだ。普通貴族の家に奉公に上がるのは商家の娘などで、孤児院から人を取るにしてももっと良いところから拾うものだ、ということは屋敷で働き出して初めて、周囲の噂話から知った。なにせシヤがいた孤児院は日々の食事だって時折怪しいようなところで、孤児院というよりは運営が孤児たちの物乞いの上前をはねているような有様だったのだから、そう言われるのも無理はないだろう。
そんな生まれのシヤには当然メイドのような仕事は当てられず、炊事場の下働きとして芋の皮むきや食器洗いなどの雑用を日々こなしていたある日、転機が訪れた。
「いいかい、シヤ。お前は今日からこの人の専属メイドだ。身の回りの世話と食事の用意は、お前がするんだよ。……何か必要な物があればあたしに言いな。決して、他の誰かに言ったり、勝手によそのものを持っていったりするんじゃない。わかったね」
そうして紹介されたのは綺麗な濃藍の髪と紫色の瞳の女性で、彼女の腕には生まれたばかりの赤ん坊が抱かれていた。着ている物は地味なドレスで、血色もあまり良いとは言いがたい。高貴な方のお世話などしたことがないとシヤは訴えたが、高貴な方じゃないからいいんだよ、と苦い顔で返されて、三人あわせて離れとは名ばかりのぼろ小屋に押し込まれた。
「……シヤ、というのね。ごめんなさい、巻き込んでしまって。私はメルローズ、メルローズ・フランシェルよ。そして、この子は娘のマリーアン」
メルローズ、という名には聞き覚えがあった。しばらく前に、とても刺繍が上手なお針子が奥様とお嬢様の専属の職人としてやって来るのだと聞いた、その職人の名がメルローズだったはずだ。けれど、何故その彼女が赤子を抱いているのか。何が何だかわからずにいたシヤに、メルローズはゆっくりと噛んで含めるように自身の状況を説明してくれた。
刺繍職人としてここへ来たが、男の子が欲しかった伯爵の要求を断れずお手つきになり、子供が生まれるまでは母屋で過ごしていたこと。
いざ生まれてみれば結局女の子で、伯爵はすぐに興味をなくしたこと。
子供にも自分にも用がないなら実家に返して欲しいと願い出たが、それは出来ないと逆にこの離れに軟禁されることになったこと。
全てを語り終えたメルローズは悲しげに笑って、面倒をかけるけれどどうかよろしくね、と頭を下げてきた。
「あ、あたしに頭なんて下げないでください! あたしはその、何もわからない馬鹿ですけど、でも、今日からメルローズさまのために尽くしますから!」
「尽くしたりなんてしなくて良いのよ、ただ、最低限この子と私が生き延びられたら良いだけで……」
「産後に無理したらいけないんですよ! 赤ちゃん、産んですぐに無理すると、お母さんが駄目になっちゃうんです! あたし、孤児院育ちなんで、そういう子も見たことあるんです!」
シヤは、母に捨てられたのではない。父に捨てられた子供だ。
しかし父がシヤを捨てたのは、愛情面ではなく金銭面での事情なのだと聞いている。
母は産後の肥立ちが悪く、病にかかって命を落とした。当時、冒険者という職業だった父は、男手一つでシヤを育てることができずに彼女を孤児院に預けたのだ。
冒険者の仕事は命の危険と常に隣り合わせだ。腕の良い冒険者なら一度の冒険でかなりの額を稼いでくるのだろうが、シヤを手放したことから察するに父はあまり腕の良くない方だったのだろう。どこかに預けて一山当てて帰って来る、という暮らしも出来ないほどだったのなら、冒険者が向いていたとも思えないが、さりとて他の仕事に就けるわけでもなかったのかもしれない。
なんにせよ、産後の母親は無理をすると簡単に他界する、という事実はシヤの心にトラウマのようになって刻み込まれていて、だからこそ自分はこの親子をなんとかして守ろう、とシヤは心に決めたのだった。
「ふふ、そうね、ありがとう。……あなたみたいな優しい子がついてくれて、本当に良かったわ。これからよろしくね、シヤ」
幼子を抱えた母親の専属になるならば、本当は子育ての経験があったり、今乳が出て乳母になれたりするようなメイドの方がよっぽど有用だったろう。けれどメルローズは自分で良かったと喜んでくれた。それがシヤにはなにより嬉しくて、一層のこと彼女のために尽くそう、と思った原点であった。
不慣れながらも彼女の身の回りの世話をし、ふたりで共に赤子の成長を喜び、夜泣きに右往左往して、一年と少し経った頃。
それは、ほんの出来心だった。
「おい、お嬢様方のお菓子はどうした?」
「もう支度してトレイに並べてあるよ。あれだけ用意すれば足りるだろう、いくらなんでも」
「そうは言うけどな、少しでも足りないとまた俺達が鞭で叩かれるんだよ! ちょっと多目に盛っておいてくれ!」
「はいはい、わかったわかった」
メルローズの食事を受け取りに厨房へ行ったシヤは、伯爵の娘たちのお茶会用として準備されていたお菓子を見つけてしまった。三人でこんなに食べるのか、と思うほどたくさんの、しかも色々な種類のお菓子が盛られた銀の盆。確か三女のヴァレリアは、マリーアンとひとつくらいしか変わらないはずだ。だから実質食べるのは二人だけで、なのにこの量はいくら何でも多すぎる。
(……少しだけなら、いいよね)
三度の食事は質素ながらもきちんと用意されてはいるメルローズだが、菓子や酒といった嗜好品の類はまったく支給されていない。近頃のマリーアンは離乳食が始まったが、まだメルローズの乳をよく飲んでいることもあって、メルローズはいささかやつれ気味だ。甘い菓子でもあれば、少しは英気を養えるだろう。これだけたくさんあるのだし、ひとつやふたつなくなっても、きっと誰も気づかないに違いない。
(こんなにあるんだもん、わからないよね)
そう思ってシヤは、手を出した。
用意されていた菓子に。
二つだけそれを盗み取って、ポケットに入れて。
そうして厨房を出たところで、呼び止められた。
「ねえ、アンタ、いまなにをかくしたの?」
悪魔の声だ、と瞬時に理解した。
ここに来る前、まだシヤが孤児としてさまよっていた頃。薄暗い路地裏で、埃っぽい倉庫の隅で、何度も聞いたことのある、自分から何かを奪おうとする悪魔の声だ。
金色の髪をふわふわと波打たせて、碧の瞳をきらきらと輝かせて。
甘い桃色のドレスを着た悪魔が、廊下の向こうでにいと笑ってシヤを見上げていた。
「ねえ、ポケット、みせてごらんなさいよ。なにをかくしたの?」
「わ……わた、わたしは、なにも」
「みせてごらんなさいっていってるの。あたしをだれだとおもってるの? それとも、アンタはひとのことばがわからないわけ?」
悪魔に微笑まれたまま呆然としていたシヤは、すぐさまやってきた彼女の専属メイドに別室へ連れて行かれた。それから鞭で百打たれて、二度とこのような真似はしないと約束させられた。炊事場の下女を取りまとめている年かさの女性――シヤを、メルローズの専属にと告げたあの女性だ――が、シヤを迎えに来てくれて、血がにじみ破れたお仕着せの上からストールを掛けてくれた。
「アンタは……! だから、決してよその物に手を出すんじゃないって言っただろうに!」
「う……、ごめ、なさ、い……」
「……気持ちはわかるよ、メルローズ様に食べさせてやりたかったんだろう? 最近顔色があまり良くないものね。だけど、それならそれでもう少し上手いやり方があるんだ。いいかい、もう二度とこんなことしちゃいけないよ。じゃないと、あたしだってアンタを守れなくなっちまう」
「あたし、あたしのことは、いいんです……メルローズさま、を」
「だから! アンタが倒れたり、余所へ飛ばされたりしたら、誰がそのメルローズ様を守るのかって言ってんだよ! あたしたちはメルローズ様に手を出すことを禁じられてるんだ、アンタが頼りなんだよ、シヤ!」
周囲を気にしつつ、押し殺した声でなされた叱責にシヤは泣いた。自分の浅慮のせいで、メルローズを、引いてはマリーアンさえも危険な目に遭わせるところだったのだと理解したのだ。そしてまた、ここに自分とメルローズの味方がいたことに気づかなかった己の愚かさにも涙が出た。周囲が敵だらけだった孤児院時代の名残で、自分に味方などいないと思い込んでいたけれど、よく話を聞いていれば少なくとも彼女が敵ではないとわかったはずなのだ。
(ああ、あたしは、本当に馬鹿だ)
下女頭は気をつけて戻りなよ、と炊事場の裏口からシヤを送り出してくれて、そのときに小さな砂糖菓子をみっつ、こっそりポケットに入れてくれた。これで少しはメルローズの気も晴れるだろうか、破れたお仕着せを見たら、傷だらけの背中を見たらメルローズはどんな顔をするだろうか、そんなことを考えつつ、シヤは重たい足を引きずるようにして離れへと向かった。
夕餉の時刻も近い薄闇の中、ふと、何かの気配を感じて顔を上げる。
見覚えのある金色が、そこにいた。
「ねえ、アンタ、メルローズのメイドなんですってね。どうりでずいぶんうすぎたないのが、メイドふくなんてきてるはずだわ。あたしたちのメイドなら、アンタみたいなブサイク、ぜったいゆるさないもの」
金の髪と、桃色のドレスの悪魔が、薄暗がりの中で笑っている。
ざっと血の気が引いて、シヤは両手を握りしめふらつく足に力を込めた。そうでもしないと、彼女の毒気に当てられて倒れてしまいそうだったのだ。
「あたしね、あのおんながだいっきらいなの。だって、レッスンがおわったとおもったら、つぎのレッスンまでにこれをれんしゅうしておいてくださいね、とかいって、ちっともかわいくないはっぱとか、へんなもようとかをさせっていうのよ。なんで、あたしがそんなことしなきゃならないのよ。せんせいだっていうなら、れんしゅうなんてしなくったって、うまくできるようにおしえてくれればいいのに。これだからへいみんは、いやなのよ」
メルローズが彼女に指導していたのだとしたら、それは刺繍か、裁縫だろう。
最初から天才的な才能でも発揮したならともかく、そうでないのなら手仕事の上達には練習あるのみだ。シヤはメルローズに裁縫の腕を褒められたことがあるが、それは孤児院に居た頃から自分の服は自分で繕い、なんなら年下の服まで面倒を見させられていたからに他ならない。才能があるわけでも、裁縫が好きというわけでもない自分だって、場数を踏めばそれなりのことは出来るようになるのだ。逆に言えば、今決して上手ではない人間が、数をこなさずにいきなり上手くなる方法など、ないと言ってもいい。
だからシヤからすればまったくお門違いの文句を吐き散らした桃色の悪魔は、それで少しは溜飲が下がったのか息を吐くと、
「だからあたしは、アンタもきらい。それで、きらいなアンタがあたしのおかしをぬすんだんだから、あたしはアンタにとくべつなばつをあたえてもいいわよね? いいでしょう?」
そう言って、大事そうに握っていた小瓶をこちらに見せつけてきた。
飾り気のない小さな瓶で、口にはコルクが押し込まれている。非力な彼女では開けにくいのか、んん、と少し難しい顔をして栓を抜いて、楽しげに笑った悪魔はシヤに一歩近づいてきた。
「これをね、のんでちょうだい。のんだひとがどうなるか、しりたいの。だいじょうぶ、しにはしないって、いってたわ」
「……」
「あら、いやなの? べつにいいわよ、アンタがのまなくても。……あのおんながうんだ、きたないこどもに、のませるだけだもの」
「やめ――やめてくださいっ!!」
恐ろしいことを言い出した悪魔の手から小瓶をひったくる。シヤが飲まなければ、彼女は間違いなくマリーアンにこの液体を飲ませるだろう。ためらいも、容赦もなく、何の感慨も持たずにやるだろうとシヤには想像がついた。はたしてこれがなんなのかまったくわからないが、とにかくマリーアンに被害が及ぶことだけは避けねばならない。その一心で、シヤは小瓶の中身を一息に飲み干した。
「ん、ぐ……!?」
喉が焼ける。
息が詰まる。
「ぐ……ぐえ、うぐ……ぅ」
「あら、もうきいてきたの? おかしいわね、おとうさまはねつがでてからって……」
「カサンドラ! やはりお前か!」
母屋の方から幾人かの重い足音が聞こえてきた。シヤは涙にかすんだ目でそちらを見る。上等な衣服に身を包み、綺麗な金髪をなでつけた男――この屋敷の主、ストラバル伯爵だ。彼の後ろに控えているのは執事が一人とメイドが二人、うち一人はシヤを先ほど鞭で叩いたあのメイドである。
ストラバル伯爵はため息を吐きながら、まるで悪びれもしない娘の手から小瓶を取り上げた。
「カサンドラや……どうして勝手にこれを持ちだしたんだい?」
「だって、つかってみたかったんだもの。それに、ちょうどいいあいてがいたのよ。おとうさまもきいてるでしょ? このメイド、あたしとパティのおかしにてをつけたのよ。おとうさま、これはわるいことをしたひとをこらしめるおくすり、っていっていたじゃない。だから、ちょうどいいなとおもったの」
「それにしたって、お父様の部屋のものを勝手に持ち出したらいけないよ。お前が触ったら怪我をするような危ないものだって、たくさんあるんだからね」
「はぁい、もうしません。……でもざんねんだわ、おとうさまがいったみたいに、おねつがでたりはしないのかも。だってこのメイド、もうしゃべれないみたいだもの」
「なんだと? お前、なにか話してみろ。声を出すだけでもかまわん」
そこで初めて、ストラバル伯爵の目がシヤを見た。
(ああ、こいつも、悪魔なんだ)
シヤにはわかる。
この男は娘と同じ悪魔だ。自分のようなものから搾取し、それを罪とも、悪とも思わぬ側の人間だ。
娘と同じ緑の瞳は、まるで道ばたの草でも見るような目でシヤを見ている。彼らにとって自分など、もはや人間という扱いですらないのだろう。あくまでも自分たちが必要に応じて使い、いらなくなれば処分する。そういうモノだと、思っているのだ。
なにか言い返してやりたかったが、シヤの喉は相変わらずひきつれたように痛んで、唾液を飲み込むのすら一苦労だった。苦いような、酸っぱいような、とにかく気色の悪い味が喉の奥から上がってきて、変な青臭さが息をするたび鼻に抜けた。気持ちが悪くて、シヤは何度もつばを地面に吐く。できるものなら胃袋をひっくり返して、中身を全部ここに出したいほどだ。伯爵に着いてきたメイドたちが眉をひそめてこちらを見ていたが、文句があるなら自分も同じ目に遭えばいいと思う。絶対、こうしたくなるに決まっているのだから。
「――シヤ、どうしたの、ずいぶん遅く……」
そのときだった。
離れのドアが開いて、マリーアンを抱いたメルローズが顔を出したのは。
紫の瞳が大きく見開かれ、かさついた唇がわななくのをシヤは見た。
猛然とこちらに走ってきた彼女が、シヤと、それ以外の人々との間に立つ。
シヤを、守ろうとするかのように。
(やめて、やめてください、メルローズ様!)
「ストラバル伯爵、これは一体何の騒ぎですか。どうしてシヤがこんな姿に?」
「ああ、メルローズか。なに、お前付きのメイドがな、カサンドラとパトリシアの菓子を盗もうとしたらしくてなぁ。今、その罰を与えていたところだ」
「……本当ですか、シヤ」
シヤは情けなく震えながらうなずいた。うなずくしかなかった。悔しくて悲しくて、ひたすらに申し訳なかった。自分のせいでメルローズにまで、ひいてはマリーアンにまで何かがあったらどうしようと、そればかりが頭にあった。そうなるくらいならもういっそ、この場でお前などクビだと言って虐げて欲しい。そのくらいしか、シヤには彼女たちを守る術が思いつかなかったのだ。
しかしメルローズはシヤの隣に膝をつき、大丈夫よ、と小さく囁いてくれた。
「伯爵、私のメイドがご迷惑をおかけしました。その点については謝罪いたします。ですが、彼女の背には鞭打ちの痕がありますね。それも今し方ではなく、少し前の。先ほど私の食事を取りに行くまで、彼女は鞭で打たれてなどいませんでした。菓子を盗んだことの罰は、鞭打ちとしてすでに受けていたのではありませんか?」
「む……」
苦いものを飲み込んだような顔になる伯爵と、その横で苛立ったように爪を噛むカサンドラを一瞥し、メルローズは淡々と言葉を紡ぐ。
「確かに悪事を働いた者に対して相応の罰はあるべきでしょう。それがあなた方の役目のひとつであることも理解できます。ですが、行き過ぎればそれはただの私刑です。あなた方貴族は我々平民の手本となるべきお方、どうか、私のような者に言われずとも、ご自分を律してくださることを祈っております」
誰もが黙して彼女から視線を逸らす中、カサンドラだけが憎悪を宿した緑の瞳でこちらを見ていたのに、シヤは言いようのない恐怖を覚えた。
けれどメルローズはそれすら気にした様子もなく、すっと立ち上がりシヤに手を差し出してくる。
「さあ、行きましょう、シヤ」
着ているものは薄汚れたワンピースで、艶をなくした濃藍の髪は適当にまとめただけで、化粧も何もしていなくて。
けれどその瞬間のメルローズは、何よりも美しかった。
片腕に幼子を抱き、もう片方の手を微笑みながらシヤに差し出してくれる彼女の姿は、きっと神様なんてものがいるのならこんな姿をしているのだろうと思うほどに輝いていて。
シヤは泣きながら、その手を取ることしかできなかったのだ。
「おい、てめぇら、しっかり掴まってろよ! 荷台から落ちたら、そのままここに置いてくからな!」
荒々しい男の声に我に返る。相変わらず風は強く、雨はひどく、荷台にこもる空気は陰鬱だ。道が悪くなったのか、ごとんごとんと大きな揺れが何度も来て、シヤは荷台の端をつかみ身体が浮きそうになるのを懸命にこらえる。周囲の少女たちも、同じようにして耐えていた。
あの薬のせいで、結局シヤは声を失った。喉の痛みは三日続き、それから楽になったけれど、声を出すことはどんなに頑張っても二度とできなかった。そしてメルローズはマリーアンが二歳の誕生日を迎えてすぐ、それまでの疲労がたたったのか寝込んでしまい、ついに帰らぬ人となってしまった。彼女の遺体は男たちによって運ばれていったが、どうなったのかシヤには伝えられなかった。伯爵の様子からして、生家に戻ることはきっとできなかったろう。死んでからまで自由を奪われるメルローズがあまりに哀れだったが、シヤにはどうすることもできなかった。
それと同時に、シヤは調理場の下働きへと戻された。マリーアンにはまた別の、あまり彼女に好意的ではないメイドがついて、しかもそれは頻繁に入れ替わっているのだと噂で聞いた。母を亡くした幼い子供に、せめて代わりと慕う相手すら与えないとは、なんとひどい仕打ちであろうと憤る者もいないではなかったが、伯爵がそれを命じている以上、誰も逆らえないのが現実だった。マリーアンに手を差し伸べた者は、どんなに隠れてやっても大抵の場合見つかり、鞭打ちか食事抜きの刑にされたのだ。それが繰り返されるうち、使用人たちはマリーアンについて見て見ぬふりをするようになっていった。マリーアン自身もそれに気づいていたのだろう、下働きと同じような仕事をさせられても、いつからか彼らと交流を持とうとはしなくなった。
けれどシヤだけは彼女を見捨てられず、何度鞭打たれても諦めなかったので、マリーアンもシヤには懐いてくれていた、と思う。
こればかりは、マリーアンから聞いたわけでもないので、シヤの希望でしかないのだけれど。
「し……シヤさん、手を、掴んでもいい?」
隣に座っていた栗色の髪の小柄な少女がそう言って、震える手を差し出してくる。シヤはうなずいて彼女の手を握ってやった。ありがとう、と泣きながらつぶやいた少女は、元々ヴァレリアのメイドだったはずだ。何かしらの粗相をしたものか、あるいは単なる気まぐれで追い出されたのか。詳しいことはわからないが、ここにいる全員がつい数日前までストラバル家で働いていたことは事実である。
あの夜、マリーアンをかばったシヤは、すぐさま鞭打ちなどの罰を受けるのだと思っていた。けれど意外なことにその晩はただ部屋にいるよう言われただけで終わり、翌日には母屋へと呼び出された。そして母屋の一室、他の部屋から比べればずいぶんと質素な、しかしシヤの感覚からいけば相当に豪華な一室へと閉じ込められたのだ。
そこにはすでに今隣にいる小柄な少女や、他にも数人の少女――すべてこの家で働いていた者たちだと、会話を聞いていてわかった――が集められていた。一体何が始まるのかと思っていれば、やがて薄笑いを浮かべた執事が現れて、喜ぶがいい、お前たちはこれからストラバル伯爵の別荘で働くことが決まったのだ、と言ってきた。
移送のための馬車は明日来る、必要な物は向こうにそろっているから、空身で行けばいい。これまでの働きに感謝する、私物は出発前に取りに行けるようにするから、馬車が来るまではこの部屋でゆっくりしているように……そんなことを回りくどく言われて、シヤたちは皆どこか不気味なものを感じていた。ここが本邸ではなく別邸であり、しかも更に別荘があるのだということすら、シヤは初めて知ったのだが、そうだとしても素直に転属を喜べるほど単純な脳みそはしていなかった。それは他の少女たちも同じようで、なんとかして逃げ出せないかという相談は夜を徹して行われたが、結局良い方法が見つからぬまま迎えの馬車が来てしまったのだ。
(でも、あの家を出られたのは、良かった。こんなことがなければ、きっと出ることも出来ずに死んでいたもの)
そっと、空いている手で己の腹を撫でる。
そこには密かに隠してきた、メルローズの遺品である布絵本があるのだ。
(これから先、どんな目に遭うかわからないけど……生きてさえいれば、これをマリーアンお嬢様に渡すチャンスが、来るかも知れない)
仕立屋と竜との優しい物語は、かつてメルローズがマリーアンに読み聞かせていたものである。きっとマリーアンにはその記憶はないだろう。けれど、これはもう唯一といっていいメルローズの遺品なのだ。どうにかして、マリーアンの手にこれを届けたい。
それが、あの夜彼女を守れなかった自分にできる、唯一の罪滅ぼしだと思うから。
「クソッタレ、これじゃ渡れねぇ! 迂回するしかねぇか……」
「アニキ、迂回するっつっても、いいルートがあるんですかい?」
「それをこれから考えるんだよ馬鹿野郎! 地図出せ地図!」
御者台にいた男たちが悪態を吐きながら荷台に載ってきたので、少女たちは彼らから距離を取るように荷台の後方へと固まった。シヤも手をつないでいる少女と一緒にそちらへ向かう。地図を覗いていた男が、それを見て鼻を鳴らした。
「おーおー、せいぜい仲良くやってな。そうやっておててつないでいけば、死ぬときも一人じゃないかも知れないぜ?」
「どういう……こと……ですか?」
震えながら尋ねたのはもっとも後方にいた三つ編みの少女だ。男は再び視線を地図に落とし、何かの流れを辿るように指を動かす。
そして、何かのついでのように言った。
「お前らはな、残らず死ぬんだよ。伯爵様の別荘へ行くなんてのは、真っ赤な嘘さ。本当は伯爵様の領地に住んでる、性悪な魔法使いの元に送られてな、そこで毒だか薬だかなんだかの実験台になるんだとよ。生きたまんま、いろんな毒だのなんだの飲まされて、死ぬか生きるか調べられるんだそうだ。それで死んだら、慰み者にされておしまいだとよ。これ、手を出す順番が変だと思うだろ? ところがなぁ、その魔法使いってのが変わり者でよ、死にたての女にしかおったたねぇんだと!」
誰かの息を呑む音が、聞こえた気がした。
「ったく、俺ならいくら不細工でも生きてる女がいいと思うが、森の奥に住んでるような魔術師なんてのはやっぱりどっか違うもんなのかねぇ。大体にして『人知らずの森』なんて、そもそも不気味で近寄りたくねえ場所だってのに、よくもまああんなところに引きこもって生きてられるぜ」
「あ、アニキぃ、それ、喋っちゃっていいんですかい」
「うるせぇな、どうせこいつらとはこの先でお別れだ、川さえ渡れりゃこっちのもんだってのに……」
シヤは言葉の意味を考える。つまり、このまま馬車に揺られていって、目的地へとついたのなら、それはもうおしまいなのだ。自分が生きてマリーアンの元へたどり着くには、どこかで逃げ出さなくてはならない。しかし、どこで逃げれば良いのか。
(それにあたしが逃げたら、この子たちは、どうなるの……?)
生きている人間を実験台にする、と男は言った。ということは、目的地へ着くまで殺されることはないということでもある。けれど逆に言えば、死にさえしなければなにをしても良いということなのかもしれない。だとしたら自分が逃げた責を、あるいは苛立ちを、残った少女たちが暴力という形で受けることは十分に想像できた。
(どうしよう……どうしたら、どうしたらマリーアンお嬢様のところへ行ける?)
ごうごうと轟く風の音、ばつばつと幌を叩く雨の音、どどうどどうと響く川らしき水音、そして少女たちのすすり泣く声。
それらの音の中に異質なものを感じたのは、この状況に絶望していなかったシヤが最初だったのかも知れない。
(水の……音? なんだか、大きくなってきてる……?)
降り続いた雨で相当に水量が増えていたのだろう、そもそもがあまり川の音らしくない轟音が、徐々に大きくなっているような気がする。シヤは首を巡らせたが、その場にいる誰もが何も気づいてはいないようだった。そしてシヤ自身も、気づいたからといってどうすればいいのかもわからず、ただ懐に忍ばせた布絵本を握りしめることしかできなかった。
「ん……? なんか、変な音が……」
次に気づいたのは、二人の男のうち兄貴分らしい方だった。
彼は顔を上げ、そしてはっとしたように地図をしまうと、口を大きく開いて声を張り上げた。
「おい、気をつけろ、水が来る――」
次の瞬間。
どおんという音と共に、シヤたちの乗った馬車は濁流に呑まれていた。