王と王
夏になれば薔薇が美しく咲き乱れるだろう庭園は、まだひっそりと眠っていた。
今夜は満月だ。
皓々と輝く銀の光に照らされて、花はなくとも美しい姿を見せている緑たちを、エルドリア国王、ダンクレスト・セタ・エルドリアは、やや緊張した面持ちで眺めていた。
(一体、どういった話だろうか……)
今宵、月の昇る頃、黒の四阿にてお会いしたい――その一文だけが書かれた封書がダンクレストの元へ届けられたのはつい三時間ほど前のことだ。
しかも、正式な書簡としてではない。政務を終え、自室に戻ろうと廊下を歩いていたダンクレストの耳に、「レグラス様からお手紙です」とまるでそよ風の音のような儚さで呼びかける声があったのだ。何事かと足を止め周囲を見回せば、ダンクレストが歩んできた廊下、その数歩前に踏んだばかりの絨毯に、一通の封書が落ちているではないか。
当然護衛の騎士が急いで中身を改めようとしたが、驚くべきことにその封書は何をどうしても開かず、業を煮やした騎士が切り裂こうとしたがそれすらも退けられた。しかしダンクレストが封蝋に触れ、開こうとすれば嘘のように簡単に開いたのである。
そして中に入っていた一文に、ダンクレストはすぐさま執事に命じ四阿に酒宴の準備をさせたのだった。
(『あの方』がこれまで王宮へ来たのは、即位や婚姻、誕生や逝去などの大きな節目だけだった……もしや、何かが起きる前触れなのか? それとも……)
薔薇園から少し離れた場所にあるこの四阿を「黒の四阿」と呼んでいたのは、今は亡き己の父、先代の王とその家族だけだ。この四阿は立地が悪くいつも日陰になってしまうため、先代が冗談で「黒の四阿」という通称をつけたのである。薔薇園を見渡せる場所ではあるものの、見るだけなら薔薇園の中心に日当たりも良く立派な四阿が新しく建てられていて――そちらは「白の四阿」と呼ばれていた――、この四阿を使うことは通常ほとんどない。夏の暑い盛りなどは、涼を求めて誰かが来ていることもあるが。
だからその呼び方一つにしてもあの手紙がただの悪戯ではないことは明白で、ましてや「レグラス様から」と囁かれたのであれば、かの人の到来を信じるほかないだろう。
「……!」
その瞬間、ざあと風が吹いた。
ダンクレストは立ち上がる。
先程まで夜の柔らかな湿気を含んだ空気が漂っていた薔薇園は、なにか目に見えぬ大きな力に取り込まれたかのごとくその雰囲気を一変させていた。まるで全ての植物が彼の方を向いて伸び始めたかのような、大気までもが彼を中心にうねりだしたような、そんな錯覚を起こさせるほど圧倒的な存在感をまとった男性が一人、ゆっくりと薔薇園の中心に降り立つところであった。
艶やかな黒髪は緩く編まれ、金と琥珀の混じった瞳は夜闇の中に光を残す。色黒な肌で覆われた身体は筋骨隆々としており、背の高い方であるダンクレストよりもなお上背があった。この国では見かけることのない外つ国の服装は、かつてまみえたときと変わらない。いや、彼のすべてが、十数年前のあの日と比べても何一つ、変わらぬままだ。
音もなくその場に舞い降りた――そう、まさしく彼は空から舞い降りてきたのだ――男性は、そのまま静かにこちらへと歩いてきた。ダンクレストは、先手を打つように口を開く。
「……レグラス様、お久しゅうございます」
「ああ、久しぶりだ。……大きくなったな、ダンクレスト」
彼の名は、レグラス。家名はない。
何故なら、竜の一族に家名は存在しないから。
「老け込んだ、と言うのですよ、レグラス様……お元気そうで、何よりです」
彼こそはこの地に住まい、この国の民全てに加護を与える、偉大なる竜の王。
そして、ダンクレストの数少ない、友であった。
「お前が善政を敷いてくれているおかげでな。日々のんびりと趣味を満喫させてもらっているよ」
「ご謙遜を。先日シーフォリアにお住まいの姫君とお会いしましたが、とても美しいドレスを着ておられましたよ」
「……なあダニー、毎度のことだが、俺とお前の間でそういう話し方はやめてくれ。この国の主はあくまでもお前で、俺は間借り人みたいなものだ。それに……」
レグラスは周囲を見回し、少しだけ声を潜めて続けた。
「俺たちは、一緒に木登りをして噴水に落ち、ゼファーに雷を落とされた仲だろう?」
ああ、変わらないのだ。
彼は本当に、あの日から何も、変わっていない。
「……っふ、ははは、そうそう! あのときの親父の顔ったら、なかったな!」
「お前も相当酷い顔だったぞ」
「そういうレグだって相当酷かったじゃないか。それにズボンのケツが破けてた」
「バカを言え、ケツが破けてたのはお前の方だ! 俺が破いたのは袖の方で……」
言い返しながら、周囲に控える護衛やメイドの唖然とした表情に気づいたらしいレグラスが、ごほんと今更のように咳払いをする。
「……一応言っておくが、俺はお前の威厳を地に落としたいわけじゃないんだぞ、ダニー」
「俺だってお前のプライドをズタボロにしたいわけじゃないさ。心配いらん、今ここに呼んであるのは皆、俺の腹心の部下ばかりだ。……テルジン、酒の用意を頼む」
「かしこまりました」
こうした事態に遭遇するのが初めてではない、ダンクレストが全幅の信頼を置く執事のテルジンは、すぐさまメイドたちに指示を出し四阿のテーブルに酒宴の支度を調えた。時間が時間なので、酒の肴はみな軽く摘まんで食べられる程度のものだ。それでも厨房が腕を振るってくれたので、見た目も味も彼に出して十分恥ずかしくないものばかりである。
「……すまんな、ここまでして貰うつもりはなかったんだが」
「何を言う、めったに会えない友人が自分から会いにきてくれたんだ、酒の準備くらいはさせてくれ」
「お前のそういうところが俺は好きだよ、ダニー」
「おお、愛せ愛せ。俺は国民全ての父だからな、お前も息子として愛してやろう」
鷹揚に構えて笑ってやれば、レグラスもまた笑った。
不思議なものだ、とダンクレストは思う。
出会ったばかりの頃、レグラスは自分よりずっと年上の男性だった。第一王子という身分であったダンクレストにはその頃気さくに話せる友達がおらず、先代の元を訪れていたレグラスに友達になってくれとわがままを言ったのだ。それが、どれほど身の程知らずな言い草なのかもわからずに。
顔を青くする周囲とは裏腹に、レグラスは楽しげに笑って構わないと答えてくれた。だからそれからダンクレストは彼をレグと、そして彼はダンクレストをダニーと呼んで、顔を合わせれば木登りをしたり、厨房でつまみ食いをしたり、勝手に馬で駆け出したりして遊んでいたのだ。
そのレグラスが今はもう、自分の息子と言って通るほど年下に見えるなんて。
(竜の時間と、人の時間は違う……か)
かつてレグラスに言われたことを思い出す。種族として長命で頑健な生き物である竜は、基本的に寿命が来るまで死ぬことはない。不老不死ではないけれど、彼らの命の時間は余りに長く、それこそ人間の時間とは全く違う流れ方をしているのだと言っていた。
だからこそ君たちを見守れるが、だからこそ寂しいときもある、と。
(レグはまだ、寂しい竜のままなのだろうか……)
酒宴の準備を整えたメイドたちが下がり、幾人かの護衛も四阿から距離を置いたところで、ダンクレストは互いのグラスに酒を注いだ。以前彼に出して気に入られた、異国の無色透明な酒だ。ランプの明かりの下、グラスを上げて乾杯する。お互い喉を湿らせた後、先に口を開いたのはレグラスの方だった。
「……あまり面白い内容ではないんだが、お前の耳に入れておきたい話があってな」
「ほう?」
「一応聞くが、メルローズを覚えているか?」
「お前……、俺が彼女の名を忘れると思ってるのか? 覚えてるさ、シシリアの愛した刺繍職人だろう?」
ダンクレストの最初の妻であったシシリアは、刺繍を愛する淑やかな女性だった。風に揺れる野の花のように、華やかではないが誰の心をも和ませる笑顔を持った人で、優しげに見えながらも芯の通った強さを持っていた。
その彼女が贔屓にしていた仕立屋に、とても腕のいい刺繍職人の女性がいるのだという。彼女を是非とも王宮に迎えたいのだと相談されて、ダンクレストに断る理由など一つもない。ただ、民には民の暮らしがあり、大切なものがあるのだから、無理に連れてくるようなことだけはしないように、と釘を刺すにとどめておいた。
するとシシリアは彼女――メルローズと直接交渉しはじめ、それからしばらくして首尾良く彼女を自分付きの刺繍職人として迎え入れたのだ。
メルローズと作ったの、と嬉しそうにベッドカバーやテーブルクロス、ハンカチなどを見せてくれたときのシシリアの笑顔は、それはそれは愛おしいもので。
あの頃のきらきらした感情とともに、メルローズの名は、今もダンクレストの中にしっかりと刻まれている。
「そう、その刺繍職人だ。彼女はここを出たあと、ストラバル伯爵家に身を寄せていたらしいな」
「そうだ。シシリアが空に還ってしばらくの間、俺は彼女に話し相手になってもらっていたんだ。彼女は、俺の知らないシシリアをいろいろと知っていたからな……」
「ああ、ちらりと聞いた。メルローズが手紙で母親に報告していたよ」
「すまん。それに関して問題があり、彼女の血縁が俺を責めているようなら、できる形で謝罪しよう」
市井で暮らすレグラスだからこそ、平民であったメルローズの血縁者と遭遇した可能性はある。その件に関しては自分に非があると、ダンクレストは素直に認めた。一国を背負う立場の王としては軽々に民草に対して謝罪などできないが、今のダンクレストはただの「ダニー」である。だが、レグラスは首を横に振った。
「いや、そうじゃないんだ。そうじゃないが、……いや、そうじゃないとも言い切れないか?」
「どういうことだ?」
「メルローズに実は娘がいたと言ったら、驚くか?」
「……」
ダンクレストは無言でグラスを空にした。そばに控える執事のテルジンが、すかさず二杯目を注いでくる。視線で続きを促せば、レグラスはまっすぐにこちらを見て言った。
「ストラバル伯爵が、メルローズに産ませた娘だ。メルローズの死後、ずっと伯爵家に幽閉されていて、三ヶ月ほど前俺のところへ逃げこんできたんだ」
「……なんとまあ、幸運な娘だな。名はなんと?」
よりにもよって逃げた先がこの国で一番頼りになる男の元だとは、間違いなく幸運な娘と言えるだろう。
その名を聞けば、レグラスはふわりと表情を緩めた。
「マリーアンという。夜空の色をした髪と瞳の、華奢だが気丈で、思いやりのある素直ないい子だよ」
(……おや?)
ダンクレストは首をかしげた。
名前を聞いただけなのに、ずいぶん語ってくるではないか。
「歳は?」
「生んでから割とすぐにメルローズが死んだと言っていたから、おそらく十六くらいじゃないか?」
「お前はその話、信じるんだな?」
「ああ。彼女はメルが若い頃にそっくりだし、アンヌも……メルの母親だが、彼女も孫だと確信していた。竜としての目線で言うなら、アンヌとの間ではっきりと魔力の干渉が起きた。マリーは間違いなくアンヌの血縁で、状況からしてメルの娘なのはほぼ確定だ」
「そうか……」
レグラスのグラスが空になったので、テルジンが二杯目を注いだ。その動作が終わるのを待って、ダンクレストは彼に数枚の書面を取り出させる。
「……実はな。ちょうど三ヶ月ほど前、ストラバル伯爵から、メルローズの娘を騙る不審者が出ているという報告があった」
「お前のところにまでそんなことを言っていたのか……」
「メルローズが一時期城にいたことを知っているようだったから、こちらにも来るかもしれないとのことでな……もっとも、特にそういった者は現れなかったが」
そのときの報告書を手渡せば、レグラスは眉間に皺を寄せてそれを読んでいた。ダンクレストはため息を吐いて背もたれに倒れる。嫌な話だ。
「……伯爵からメルローズを側室にしたいという提案は?」
「あったらそんなことになってない」
「マリーアンが生まれたことも?」
「知ってたらそんなことになってない」
「真っ黒じゃないか」
「真っ黒だよ。参ったな。いやしかし、今聞けて良かったと捉えるべきか」
「なにかあったのか?」
じっとこちらを見るレグラスに、ダンクレストは彼の持つ書類を指さす。
「二枚目を見てくれ」
「……婚約? ガインヴェスト……ああ、ガインか? お前の一番下の息子だよな、この間までぴよぴよしていたと思ったのに……なんだ、めでたい話じゃないか」
「そこじゃない、その、相手の名だよ」
「相手……ネリエシュ・ツヴェンダリが、病を理由に婚約を辞退……したため、王子の希望により、カサンドラ・ストラバルを……新しい婚約者、に……」
ひとときの沈黙があった。
ダンクレストとレグラスはお互い何も言わず、一杯ずつ酒を空けた。
もう一度双方のグラスが満たされてから、レグラスが口を開く。
「ガインの希望、というのは事実なのか? その……俺がマリーから聞いた限りでは、どうもあの家の娘たちは相当に、性格に難があるようなんだが」
「残念ながら、事実だ。事実だが……実は少々、腑に落ちないところがあるんだよ」
もう一枚めくれ、と手で示せば、レグラスが最後の書面に目を通す。
それを見ながら、ダンクレストは言った。
「ネリエシュ嬢とガインは、正式な婚約こそしてこなかったが、ここ数年ほぼ婚約者として内定した状態だった。彼女の方が実は三つ年上なんだが、ここだけの話、ガインの初恋はネリエシュ嬢らしくてな。俺としては極力、二人を添わせてやりたかったのさ。上二人が上手いところで収まってくれたから、家格や派閥もそこまで気にしなくてよかったし」
「その割に、すぐ婚約とはならなかったんだな?」
「ああ。その、教育が少々難航してな。ネリは……ああ、ネリエシュ嬢のことだが、努力家ではあったんだが、人にはほら、向き不向きというものがあるだろう? 彼女はどちらかというと活発な質で、座っておとなしくしているのが苦手なんだ。実家にいるときはそれでも良かっただろうが、第三王子の妻ともなればそうもいくまい。けれどまあ、それも何とかなりそうだ、という話になって、正式に婚約の手続きを進めていたんだが」
問題が起きたのは、ひと月ほど前のことだ。
ネリエシュが突如高熱を出し、それが落ち着くと、声を出せなくなっていたのだという。
「さっきも言ったが、彼女はとても元気な子でな。両親に聞いても、こちらの調査でも、健康面にまったく問題はなかった。本人も、熱を出した当日ですら、ここで礼儀作法の勉強に励んでいたんだ。なのにその晩突然高熱を出して、三日三晩苦しんだ挙げ句、声が出せなくなった」
「……」
「熱以外に症状はない。熱が下がれば、本人もけろっとしていたそうだ。だが、……こういう言い方をしたくはないが、声が出せないものに外交をさせるのは難しい」
難しいが不可能ではない、とダンクレストは考える。書面のやりとりだろうが、筆談だろうが、やろうと思えば声を無くしてもやりようはあるのだ。しかし、そこには大きな困難が待ち受けるだろう。だからダンクレストは、ガインヴェストと、なによりネリエシュ本人がそれに立ち向かうつもりであるなら、応援しようと思ってさえいたのだけれど。
「その後、ツヴェンダリ家から内々に、辞退の申し出があった。ネリエシュが、こんな自分では王子にふさわしくないと言って、辞退して欲しいと父親に訴えたそうだ」
「ガインは?」
「何度か説得に行ったが、不発だったよ。本人は、なんとか婚約式までに説得すると言っていたが、それほどネリエシュの意志は固かったらしい。それからしばらくあいつも落ち込んでいて……だが、婚約式を中止にしようとしていた矢先、ガインが急に新しい婚約者を決めたから、予定通り婚約式をやりたいと言ってきたんだ」
「……それが、カサンドラだったと」
ダンクレストは頷く。
ストラバル伯爵の長女、カサンドラ。
ネリエシュから辞退の申し出があって以降、ガインヴェストは何度か舞踏会に参加していた。婚約を表向きにする以前での破棄だったので、傷心であろうとも未婚の第三王子であるガインヴェストはそうした集まりに出なくてはならなかったのだ。その中のいくつかに、カサンドラの名前があったのをダンクレストも知っている。そして表向き婚約者がいないことになっているガインヴェストに、彼女が言い寄ったとしてもおかしくはない。
「しかしな、ガインはずっとネリを思っていた。これは間違いないんだ。なのにそんな簡単に、心変わりするものか? 俺にはどうもその辺が解せんのだ、だがガインに何を聞いても彼女に決めたの一点張り。表立って拒否する理由もないし、どうしたものかと思っていたところにこの話だ……どうにも、ネリのこと自体がきな臭く思えてしまってな」
「カサンドラが……ストラバル伯爵が、ネリエシュ嬢が婚約者に内定していると知っていた可能性はあるのか?」
「ないとはいえない。完全なる箝口令を敷いていたわけではないからな」
「ということは、それを知った上で何か仕掛けた可能性もないわけじゃないってことか……」
「事実ツヴェンダリ家が言うには、カサンドラが時々ネリとお茶会をしていたらしいんだ。しかしそれは貴族令嬢なら誰でもすることだし、どうにも決め手に欠けている。それにその……万が一、ガインが本当にカサンドラに恋をしているのなら、親としてそれを実らせてやりたいとも思ってしまうんだよな……」
恋に落ちるのに時間はいらないと吟遊詩人は歌うけれど、現実にそうした突然の熱情に目覚める人間はそう多くないだろう。ましてやガインヴェストは初恋の相手であるネリエシュをずっと思ってきたような一途な男だ。だが、人間の気持ちなど実の親子であっても完全に理解しているとは言えないものである。ガインヴェストの真意がわからない以上、彼の希望を無碍にすることもできずダンクレストは悩んでいたのだった。
レグラスはなにか考え込むように腕を組んでいたが、その金色の瞳をゆっくりと一度瞬いた。
「……ネリエシュ嬢のことだが、策がないわけでもない」
「と、いうと?」
「風の竜の鱗に特別な加工を施すと、人の声を増幅させることができる。それを応用して、彼女の身のうちにある声を引き出すんだ。いつだったか……喉をやられた人間に、二度ほど使ったことがある手段だ。現物が手元にないから、少し時間をもらうが」
「それはその……彼女の身体になにか、悪影響を与えたりはしないか?」
「大丈夫だ。ただ、声を引き出すのに魔力を使うから、慣れないうちはとても疲れる。それと、彼女の内在魔力の特性によっては、そりが合わなくて使えないこともある」
「そりが合わないなんて、魔力にあるのか」
「魔術師だって得意な属性があるだろう? あれと一緒さ。火と水、土と風、光と闇は反発し合う。土属性が強い人間は、風の竜とは相性が悪い。そのあたりは調べたのか?」
「ああ、一応。ただ、彼女の家系には魔術師もいないし、彼女自身の魔力も決して強くはなかったと聞いている。突出したものはなかったはずだ」
「それなら問題はないな。……しかし、ダニー」
強めの酒を一息にあおったレグラスの目が、ダンクレストをにらみつける。
耐性のないものならそれだけで震え上がるような眼光を、しかしダンクレストはひるまず見返した。
「なんだ、レグ」
「……忘れたのか? 何かあれば二十四時間以内に俺を呼べと、以前言っただろう。竜の秘薬は二十四時間しか時を遡れない。ネリエシュ嬢が失声して、すぐわかればどうにかできたかもしれんのに」
「お前の方こそ、さっき言ったことをもう忘れたのか? ネリは三日三晩高熱で苦しんで、それから声をなくしたんだ。その時点でお前を呼んで、一日遡れたとしてどうなる。高熱のさなかにネリを戻して、結果どうなるというんだ」
「ああ……、……すまん。そうだったな……やはり俺は、役立たずか」
「なんでそうなる」
嘆息し椅子の背に凭れた彼に、ダンクレストは呆れてしまった。どうにもこの竜は、物事を面倒くさく捉えがちだ。
「別にいいだろう、お前は別のやり方でネリを助けてくれるんだ。それで十分じゃないか」
「……彼女が声を失ったことを、なくせるわけじゃない」
「だとしても、だ。失ったものを取り戻せるんだから、十二分に喜ばしいことだぞ」
「万が一を考えて、成功するまでガインヴェストには言うなよ。ぬか喜びさせたら可哀想だ」
「わかったわかった。とりあえずお前はこれでも食って気分転換しろ」
ダンクレストはレグラスの口に無理矢理菓子を一つ突っ込んだ。最近茶会などでもよく出てくるもので、泡立てた卵白に砂糖と砕いた木の実を混ぜ込み焼き上げた、クロッカンという名の菓子である。甘い物はさほど得意でないダンクレストだが、甘すぎず食感のいいこの菓子は気に入っていた。がりがりといい音を立てて咀嚼を繰り返していたレグラスの表情が少し緩む。どうやら気に入ったらしい。
「……うまいな、これ。なんて菓子だ?」
「クロッカンだよ。日持ちもするし、土産に包んでやろうか?」
「ああ、頼む。マリーが喜びそうだ」
「マリー……マリーアンといったか、そのメルローズの娘。やはり甘い物が好きなのか? 良ければ、他にもなにか持たせるぞ。どんな物が好みだ?」
「彼女は菓子自体、俺のところに来て初めて食べたようなものらしい。だからあまり何が好きだとかは言わないんだが、甘いものを食べるときはこう、なんというか、幸せそうにするんだ。彼女はとにかく遠慮がちでな、俺はもっとわがままを言っていいといつも言っているんだが、今こうして俺と暮らせているだけでも幸せだからなんて言って、大体いつもうやむやにされて終わってしまって……」
ダンクレストはテルジンに視線を投げた。
何も言わずとも察しのいい執事はすぐ頷き、すっと四阿を離れていく。「慎み深い少女が深い訳を言われずにもらってもあまり負担に思わない程度の菓子折り」を用意しに行ったのだろう。
酒が少々回っているのか、なんとも幸せそうにマリーアンという少女の話を続けているレグラスの姿に、感慨に近いものを覚えながらダンクレストは思わずつぶやいた。
「レグは、本当にその、マリーアンという子が好きなんだなぁ」
「……好き、だって?」
なぜか驚いたような顔で聞き返してくるレグラスに、こちらが驚いてしまう。
「いや、好きだろう? お前、そんなに嬉しそうな顔で話しておいて、何を今更」
「いやいや、やめてくれダニー。俺はこんなおっさんで、相手は十六のお嬢さんだぞ? 何をどうしたらそういう話になるんだ」
「お前がおっさんなのは見た目だけだろう、もう五十年もおっさんのままじゃないか。それに十六なら結婚だってできる歳だし、貴族ならそのくらいの外見差の結婚は普通にあるぞ」
「だからそういう問題じゃない、そもそも異種族の俺なんかを恋愛対象に据えたらマリーに失礼だという話で」
「待て意味がわからんぞお前、それを決めるのはマリーアン嬢であってお前じゃあるまい。大体マリーアン嬢のことばかりどうこう言っているが、お前の気持ちはどうなんだ? さっきから聞いていれば年の差だの種族違いだの、逃げを打ってばかりじゃないか」
「逃げている訳じゃない……ないんだが……なんというか……彼女は俺の恩人のひ孫であって……だから……」
「だからなんだ? だから一緒にいて、だから大事にしていて、それ以外のことは何もないと? その大恩ある人の墓にきちんとそうやって報告できるくらい、お前はこれっぽっちもマリーアン嬢に個人的な感情を抱いてないと?」
「……ダニー、頼む、勘弁してくれ」
弱り切った調子で言って頭を抱えたレグラスに、ダンクレストは笑い転げた。琥珀を混ぜた金の瞳が、指の間から恨みがましくこちらをにらんでいる。菓子の手配を終えたらしいテルジンがすっと戻ってきて、新しい酒を注いでくれた。辛口の葡萄酒だ。とても美味い。
「いやあ、今夜はいい酒だなぁ! まさかお前のそんな顔を肴に飲めるとは!」
「俺はお前がずいぶん性悪に育ったことに驚いてるよ……昔はやんちゃだが素直な子供だったのに……」
「残念ながら昔のままでやっていけるほど、この冠が軽くなかったのさ。……なあレグ、お前のことだから、そういう面倒くさいことを全部先に考えて足踏みしちまってるんだろうが……それを一度みんな取っ払って、ちゃんと自分の気持ちに向き合った方がいいんじゃないのか?」
「……」
「俺には竜の王として永い時を生き、俺たち人間を見送るばかりだったお前の気持ちはわからんだろう。だがな、俺のような人間の方からすれば、案外に種族の差ってのは気にならないもんだ。マリーアン嬢がどういった人なのか俺は知らないが、お前がそうして惚れるくらいの女性だ、きっとそういうことを気にする人じゃないと思うぞ」
「……自分の気持ちと言われても、正直、俺にはよくわからないんだよ、ダニー」
レグラスが、のろのろと起き上がるとグラスを口に運ぶ。
「この街での暮らしも五十年を超えた、他の街をあわせればもっと長いこと、俺は君たちに混ざって生きてきた。俺にとっての君たちは庇護するもので、見送るもので、それでいて時折、驚くほど眩しく光るものでもあって……元々俺は、人間というもの自体が好きなんだろう。だから君たちの良き友でありたいと、ずっと思ってきた。それでも君たちの一生は、俺からすればあまりに儚い。そして友を喪い、見送ることは、やはり悲しいんだ。だからこそ、今まで近くで生きたことはなかった」
竜は、孤独だ。
「マリーは、俺の大恩ある女性のひ孫だ。初めて見たときすぐにわかったから、彼女の恩に報いたいとマリーを庇護することを決めた。それからは彼女の良き先達であろうとしてきたし、良き友でありたいとも思った。今でもそれは変わらないんだ。……彼女を守りたいと思うし、笑っていて欲しいと思うし、できるだけ長い時をそばにいて欲しいとさえ思う。だが、それがお前の言うような恋や愛といった感情なのか、それとも最初からそうであったように彼女の良き友でありたいと思うからなのか、それすら俺にはわからないんだよ、ダニー……」
それは彼らが一際長命だから、というだけではない。
彼らはかつての自分たちの愚行を今でも悔いて、つがいとなった場合を除き竜同士で集まって暮らすことを禁じている。ひとつの国が複数の竜の住み処になることはままあるが、その場合必ず竜たちは離れた場所に住むのだ。というか、彼らは国境などというものをまったく重視しないので、お互いに距離感を保って生息場所を決めた結果同じ国に複数の竜が住むことになった、というのが正確なところだろう。
であるから、竜同士時折の交流はあれど、人間でいうところの家族のように常に一緒に暮らし寝食を共にするような相手というのは、つがいがいる場合を除き基本的には存在しない。レグラスのように姿を変え街で人とともに暮らす竜もいると噂では聞くが、竜は人間の常識を遙かに超えて長命だ。そして姿形はほとんど変わらないため、一つところに長く住むことができないのだという。レグラス自身も、この王都で二度ほど住み処を変えているはずだ。だから、特定の相手と近しい距離で過ごし続けるという経験がない竜はとても多い。レグラスもまた、そのひとりなのだ。
竜は孤独だ――少なくとも、彼らはそう思っているのだ。
「なあ、レグ。その気持ちは、お前さんの恩人にも、感じたものか?」
「……彼女のことも、守りたいと思ったよ。笑顔が綺麗だと思った。その頃彼女は孫が生まれるのを楽しみにしていたから、俺のそばにいて欲しい、とは思わなかったな」
どうやら思っていたよりも高齢の恩人だったようだ。先程までの話を総合するに、その孫というのがメルローズなのだろう。
「ということは、その恩人には伴侶がいたってことだよな?」
「ああ、いた。それから数年で空に還ってしまったが……穏やかな、いい男だったぞ」
「……マリーアン嬢に伴侶がいたとしたら、お前、どう思う?」
「どう、とは?」
「だから、もし今マリーアン嬢が急に、実は結婚したい相手がいるんです、と言ってお前の知らない男を連れてきたらどう思う、って聞いてるんだ」
「……」
レグラスの、琥珀混じりの金の瞳が、落ち着かなく右往左往する。
口が開き、一度閉じて、それからもう一度開かれた。
「それは、……それは、……その」
「嫌だろう?」
「……、……ああ、うん、……嫌、だな……」
「自分がそうであればいいのにと、思うだろう?」
「それは……、……、俺であれば……いや、だが……」
まだどこか迷うような彼の声に、ダンクレストはもう少し背を押してやらねばならぬかと言葉を継ぐ。
「じゃあもう一つ。お前、マリーアン嬢に口づけたいと思ったことはあるか?」
「ぶほっ、ごはっ……なっ、おま、なに……!?」
葡萄酒を吐き出さずにこらえたのは見事の一言だが、その分どこか入ってはいけないところに液体が流れ込んだのだろう、盛大にむせながらこちらを睨んでくるレグラスに構わずグラスを傾ける。今日はずいぶんと酒が進んでしまっているが、こればかりは仕方あるまい。
「なに、じゃない。あれだけ言ってもわからないなら、もっとわかりやすい指標がないと駄目ってことだろう? だとしたら、これが一番適切な指標だと思ったから聞いただけだ」
「だからってお前……! 彼女に対して、そ、そういう不埒なことを考えたことは一度もないぞ、俺は!」
「いい歳こいて接吻くらいで不埒とか言うな。じゃあ彼女とは口づけ出来ないか?」
「できないわけないだろう!」
「できるんだな?」
「できる!」
「じゃあ決まりだ。お前はやっぱりマリーアン嬢のことが好きなんだよ、レグ」
レグラスがもう何杯目かわからないグラスを空けて断言したから、ダンクレストはそう言って笑った。虚を突かれた顔で一瞬黙り込んだ彼が、再び満たされたグラスを揺らす。
「……好きか?」
「ああ、好きであってるよ。良かったな」
「そうか、……そうなのか。君たちが言っている、人を好きになる気持ちというのは、こういうものか……」
ふわふわと柔らかなものを慈しむ声音で漏らしたレグラスの姿は、まるで初めて恋を覚えた深窓の令嬢のようで。
ずいぶんごつくてむさい令嬢がいたものだと、己の思考回路にダンクレストは苦笑したのだった。