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竜の仕立屋  作者: 翠乃ねぎ
12/24

竜と人、おじさんと少女

 フランシェル縫製工房を辞して、日が落ちかけた街を歩く。

 まだ火照っている瞼に、冷えてきた風が心地よい。


「刺繍枠に、刺繍糸に……うん、これでミスティカ先生の宿題は終わりだな。じゃあ最後は晩飯か……マリー、今日はどこかで買って帰ろうかと思うんだが、それで構わないか?」

「うう……ご、ご迷惑をおかけして、すみません……」

「大方の誤解は解けたんだ、気にしないでくれ。晩飯のことなら、たまには違う店を開拓したかったからなおのことさ。……しかし、本当に見事に腫れたなぁ」

「あ、あんまり見ないで下さい……!」


 結局あの後、マリーアンもミスティカも泣きすぎて盛大に腫れた瞼や掠れた声のままレグラスとアンヌローザの元に戻る羽目になり、一体何があったのかと仰天した彼らから散々問い詰められてしまった。二人が事と次第を話すうち、人生の先達たちはどんどん表情を緩ませていって、最終的には何かとてもいい笑顔でぽんぽんと肩を叩かれ若いって良いな、などと言われたりしたのだが、それはともかく。


「ああ、すまんすまん。それにしても、俺にはいまいちわからないが、明日までに治るものなのか?」

「私も、こういうのは経験がないので……ただ、ミスティカ……に、言われたように、冷やしておけば少しは良いんじゃないかと」

「そうか……早く引いてくれることを祈るばかりだな。じゃないと、俺は明日もまた不審者扱いされてしまうぞ」

「ほんっとうに、ほんっとうに、申し訳ありません……!!」


 ミスティカから、今後の授業――彼女はそう呼ぶのを恥ずかしがったが、マリーアンからすればミスティカは立派な師匠なのだ――に必要だろうと思われる物の一覧をもらったので、ついでだから帰りに買っていくかというレグラスの提案に乗ったのがまずかった。

 かたや四十絡みの偉丈夫、かたややせっぽちの十六歳。おまけに女の方は泣き腫らした眼をしていて、男の方を先生と呼び、他人行儀に敬語で話しているのだ。どう見たって親子でも兄妹でもない、平然としている男と泣いていたらしき女の二人組を、放っておけない店主もいるわけで。

 結果、レグラスは入った三軒の店の全てで、店主に声を掛けられマリーアンとの関係性を問いただされたのだった。


「ははは、いや、ちょっとした冗談だ、気にしないでくれ。むしろな、俺は呼び止められたことが嬉しかったんだよ」

「嬉しい……ですか?」


 マリーアンを気遣って、というわけではなさそうなレグラスの笑顔に、思わず首を傾げて聞き返せば彼は頷いた。


「俺たちは客だ。店主の知り合いでも何でもない、今後二度と会うこともないかもしれないただの客だ。つまり店からすれば、カネが人間の皮を被っているだけの生き物だといっていい。なのに、店にとっては商売のチャンスを失う危険を冒してまで、見ず知らずの少女のために俺を誰何し、何なら警備隊を呼ぶとまで言った。……そういう気持ちを持っている店主が、ちゃんといるんだってことを知れたのが、嬉しいのさ」


 夕暮れ時の赤い光が、行き交う人々の影を長く伸ばす。

 この光景を、レグラスは何度、見てきたのだろう。


「俺は、リン……いや、君のひいおばあさんと、約束した。この国に住まう全ての人々の友となり、彼らに竜の加護を与えると。だから俺はこの国に住み、いつも友の幸福を、そして平和を願っているが……結局のところ、人を助けるのはやはり、人なんだと思っている」


 眩しげに丸眼鏡の奥の目を細めて、レグラスは囁くように言葉を続けた。


「俺の身に満ちる魔力が国を潤しているといっても、それは直接的に誰かを救えるようなものじゃない。土が肥え、大気が安定し、草木がより良く芽吹く……その程度のものさ。加護についても、特定個人に与えるならともかく、一国という規模になればその影響は微々たるものだ。きっとせいぜいが、これまでより少し運が良くなったりする程度だろう」

「先生……」

「だからといって、こうして君たち人間とともに日々を過ごしても、手を伸ばせる範囲などたかが知れている。まあ、元より全てを救うことなんて、俺には出来ないんだから当たり前だが……しかしさっきの店主たちのように、人を救おうとする人がいるのなら話は別だ。俺の手は二本しかないが、そういう人が増えれば増えただけ、誰かを救える手は増えるだろう?  そしてそういう人間が存在するのなら、この国の民全てに加護を与え、この地を潤すために住み処と定めた俺の決断も、少しは役に立っているんじゃないかと思えて嬉しいのさ」


 大きな手が、マリーアンの髪をそっと撫でてくる。

 見上げた先、琥珀に金を湛えた瞳に夕焼けの赤が差し込んで、そのあんまり綺麗な色合いに、マリーアンは言葉もなく見とれてしまった。


「君とミスティカを引き合わせて良かったよ。君たちのどちらにとっても、いい出会いになると思っていた」

「ミスティカにとっても、ですか?」

「ああ。ミスティカのことは、アンヌやミリィから元々相談されていたんだ。家族とは仲が良いんだが、外の相手……特に同年代とうまくいかなくて心配しているとな。だが、俺ではどうすることもできなかった。そこに君が現れて……君たちは、どことなく似ていると思ったんだよ。だからきっと、上手くいくんじゃないかと」


 レグラスにできないことが、自分にできるとは思えない。けれどその口ぶりからすると、自分は彼にできなかった何かを成し遂げられたのだろう。そこまでは理解できたが、それが一体何なのかはまったくわからなかった。だってマリーアンがしたことといえば、ミスティカと会い、刺繍を見て、一緒に泣いたくらいのものなのだ。特別なことなど、なにもできていない。

 だから思ったままにそう答えれば、彼は苦笑して。


「それが大事なんだよ、マリー。特別なことじゃないと、君が思っていることこそが大事なんだ。当たり前のように言葉を交わして、当たり前のように彼女に共感して、当たり前のように彼女の扱われ方に怒ったこと。それが大事で、そしてそれが、きっと俺にはできないことなんだ」

「でも先生、それは……」


 それは、人間だとか竜だとか、そういう話の前に。

 レグラスが大人の男で、ミスティカと自分がまだ少女であるから、なのではないだろうか。

 たとえば自分とグウェンリアンのように、歳が離れていても同性であればまた話は違うのだろうが、ミスティカにとってのレグラスは年上の異性という共感するにはもっとも遠いであろう存在だ。それに比べて自分はミスティカと同年代の同性で、趣味も彼女と同じ刺繍だ。共通点が多ければ仲良くなれるというものではないだろうが、共感は得やすくなるだろう。

 だからレグラスが言うような、種族が違うが故の超えられない壁などではなくて、もっと単純な話なのではないかと。

 マリーアンは思ったのだが、それを言葉にするより早く、聞いたことのない男性の声が割り込んできた。


「それはね、種族だのなんだのって面倒な話じゃなくて、ズバリ師匠がおっさんだからですよ。うら若き乙女と仲良くするに、四十絡みのおっさんではちょいと無理がございましょう。その証拠に、ほら、こうして俺様がここに呼ばれておるわけですし?」

「ナッシュ……お前、どうしてここに」

「優しい小物屋のおじいさんから、体格の良いおっさんと華奢な少女が店に来たが、どう見ても親子あるいは兄妹または夫婦といった感じではなく、しかも少女が目を真っ赤に泣きはらしているのが気にかかる、というご連絡をいただきましてですね、たまたま詰め所に残っておりました俺様が、該当のおっさんと少女を探しておりました次第です、ハイ」

「それはまた、お勤めご苦労。しかしな、そうもおっさんと連呼することはないんじゃないか?」

「おっさんをおっさんと呼ぶことのどこに問題がありましょうや、師匠」

「問題はないし、俺がおっさんなのは自他共に認める事実なんだが、あまり言われるとちょっと複雑な気持ちになってくるんだよな……」


 目の前でぽんぽんと交わされる軽妙な言葉のやりとりに、マリーアンが目を白黒させていると、割り込んできた声の主――赤茶色の髪をした青年がこちらを向いてにこりと笑った。


「やあ、突然割り込んじゃって申し訳ない。俺様……じゃなかった自分はナッシュバート・グランシェット、長いからナッシュって呼んでもらえれば助かるよ。師匠……レグラスさんとは以前ちょっとした関わりがあってね、以来、師匠と呼ばせてもらってるって寸法なんだわ。あ、その目、おうちに帰ったら濡らしたタオルかなんかでしっかり冷やした方がいいよ? 折角の綺麗な目が充血してたんじゃ、もったいないもんねぇ」

「は、はあ……あ、ありがとう、ございます……?」


 ナッシュバートと名乗った青年はどういたしまして、と軽い調子で言って笑みを浮かべた。人好きのする笑みだが、にこにこ、というよりはもっと軽い……へらへら、という擬音がしっくりくるようなものだ。赤茶の髪に深緑の瞳が映えていて、背はすらりと高く、歳は二十代前半くらいに見える。顔立ちは割合と整っていたが、あまり美形といった感じは受けなかった。どちらかというと、とっつきやすそうな人、だろうか。口調の軽さも相まってか、なんだか彼自体から明るく陽気な空気でも出ているかのようだ。

 こんなに良く喋る男性を見るのは初めてで、どう返事をして良いのか迷ってしまったマリーアンは、直後往来の向こうから聞こえてきた大きな声にびくりと身を竦ませた。


「ナッシュさーん! 今日はありがとー!」

「またガラス割っちゃったらよろしくねー!」


 自分よりも少しばかり年下だろうか、数人の少年少女がこちらに――ナッシュバートに向かって手を振っている。それに気づいたのだろう、彼もまた手を振り返して声を張り上げた。


「もう二度とやらないようにって言っただろー! 次は一緒に頭下げてなんてやらないからなー!」

「うそー! ケチー!」

「そんなだからモテないんだよー!」

「誰がモテない警備兵ナンバーワンだ! もう普段からモテてモテて大変だっての!」

「そこまで言ってねーし!」

「あと明らかにモテてねーし!」

「黙れお子様連中! モテるっつってんだろ俺様は! 本当だぞ! 本当だからな!」

「……すまんな、マリー。ナッシュはいつもこんな調子なんだ」


 マリーアンの肩をぽんと叩いたレグラスが、そう言って肩をすくめた。レグラスとはあまりにも性格が違いすぎて驚いたが、その口ぶりからするにわりと仲の良い相手らしい。彼の元に世話になりだしてからもう三ヶ月が経つが、ナッシュバートを見るのは初めてだし、レグラスが彼のことを口にした記憶さえないのだが、一体どういった関係なのだろうか。そう思っていると、レグラスが苦笑した。


「ナッシュがまだ幼い頃、俺が彼を助けたことがあってな。それ以来、師匠なんて仰々しい呼び方をされているんだ。やめて欲しいと言っているんだが、あの通り口が回るもんだから、のらりくらりと言い逃れられてしまってな……」

「まあ……じゃあ、ずいぶんと昔からのお付き合いなんですね?」

「そうだな、もう二十年くらいになるのか? 多分、そんなものだろう。あいつは城勤めの騎士だから、昔はともかく今じゃ俺よりずっと位が上なのに、困ったもんだ」

「騎士……?」


 騎士といえば鎧姿、と思っていたマリーアンは、目の前にいる青年の服装を見て首を傾げた。紺色の、おそらくは制服なのだろうかっちりした衣服に身を包むその姿は、マリーアンが思い描く騎士のイメージとは大分異なっている。腰に剣が吊られてはいるけれど、身を守る盾もがっちりした鎧も見当たらない。しかしその制服にはどこかで見覚えがあった気がして、マリーアンは首をひねった。

 道行く子供たちとの会話を終えたらしいナッシュバートが、マリーアンを見てへらりとした笑みを浮かべる。


「一応、騎士の扱いではあるんだけどね、俺様は今警備隊所属になってるから。重い鎧を着たまんま、泥棒追っかけて走り回るのはちょっと厳しいでしょ? この制服の下に最低限の防具は着けてるけど、重鎧とか盾はお休み中なのよ」

「警備隊というと、あの、詰め所にいる方々ですか?」

「そうそう、あと時々街の中をうろうろしてる方々。詰め所は……師匠のとこからだと西三が近いよね。俺様の正式な配属もそこだから、近くに来たら寄っていってよ。むさ苦しいとこだけど、お茶くらい出すからさ。ちょっとまずいけど」


 ようやく得心がいって、マリーアンは頷いた。どこかで見たことがあると思った制服は、時折街中や彼が言ったとおり詰め所で見かける警備隊のものだったのだ。レグラスとナッシュバートが話してくれたところによると、警備隊に所属する警備兵には二種類あり、ひとつが王城から騎士が派遣されてくる特別警備兵で、もうひとつが最初から街中の警備隊として雇用される一般警備兵なのだという。ナッシュバートは前者で、彼が所属する西三詰め所では唯一の特別警備兵であるらしい。とはいえ、制服や装備に違いがないから、見た目では――外部の者からは、わからないのだと。


「とりあえず事件性のない通報で助かりましたわ。おっさんは少女を庇護する立場であり、肉体的及び心理的な暴力は確認されなかった、と調書には書いておきますね」

「そうしておいてくれるとおっさんも助かる。……ところでお前、北区のばあさんから手紙を預かってるぞ。早く渡せて助かった」

「おおっ、ついにお返事をいただけるとは! 謹んで受け取らせていただきます」


 もうおっさんと呼ばれることについては追及しないと決めたのか、あっさりそう言ったレグラスが懐から出した封書をナッシュバートに手渡す。北区といえば、貴族の家や彼ら相手に商売をする店が軒を連ねる区画だ。マリーアンが逃げ出してきた、あの忌まわしい屋敷も北区に建てられているのだと、そこを出てから初めて知った。

 妙に恭しく手紙を受け取って、ナッシュバートはへらりと笑う。


「きちんと読ませていただきますって、もし会えたら伝えておいて下さいね、師匠。……それと、明日は通報されないように頑張ってください」

「あのな、俺だって好きで通報されてるわけじゃないんだぞ? 出来ることなら平穏無事に過ごしたいに決まってるだろう」

「ああああのっ、それに関しては全面的に私が悪いんですすみません!」

「いや、マリーは別に悪くない。確かに、俺と君がこうして並んでいる所を見たら、大抵の人は関係性を見極めるのに苦労するだろうからな」

「すみませんっ、も、もっと先生の隣に立つのにふさわしくなれるよう頑張ります……!」

「待て待てそういう意味じゃないぞ!? 単純にだな、年齢差とか性別が違うとか、あと俺になんだその、指南役っぽさがないという話であって……!」


 苦笑交じりのレグラスの返答に被せる形で、マリーアンは思わず声を上げた。もしもこの件で明日も警備隊に連絡がいくとなれば、それは間違いなく自分の目が赤いせいなのだ。だとしたら責められるべきはレグラスではなく自分であり、だからと声を上げたのだが、レグラスは更にそれに異を唱え、マリーアンも負けじと彼の言葉を否定する。

 ナッシュバートはそんな自分とレグラスを交互に見て、先程までのへらりとした笑みではなく、本物の苦笑をその面に載せた。


「まあその、なんですわ。いっそのこと夫婦にでも間違われたら良かったのでは?」

「なんだその、投げやりな一言は」

「いんやぁ、それが一番平和だし実のところ一番的確だったんじゃないかと思いますけどねぇ、俺様」


 レグラスの言葉に片手を振って、ナッシュバートはまたつかみ所のない笑みを浮かべた。


「ではでは、おっさんと少女の件については事件性ナシということで、俺様はこの辺で失礼致します。もう日も暮れますんで、……いや、師匠がついてればなんも問題はないでしょうが、うら若きお嬢さんが夜間出歩くことは警備隊としてお勧めできませんので、一応早めにご帰宅下さいね」

「はい。お気遣い、ありがとうございます」

「どういたしまして。そうそう、気遣いついでにもう一つ……王城の星見が言うには、もうじき嵐が来るそうですよ。今日明日のことじゃないでしょうが、あの人らの天気予報はまず外れないんで、気配が見えたら外出は控えることをお勧めしますぜ」

「嵐……ですか」


 この季節には何度か、嵐と呼ばれるように雨風の激しい日がある。かつて暮らしていた離れなど、吹き飛んでしまうのではないかと思うほどの強風で、毎年その時期が来るのが憂鬱だったことをマリーアンは思い出した。作りの脆い屋根からは雨水が漏れてきたし、風に乗って壁や窓を叩く雨の音でろくに眠れもしない。それが数日も続く時は最悪だ。母屋の調理場から食事を運ぶ係も風雨の中移動することを嫌がるから、一日に一食しか食べられないときもあった。それならせめて量を多くしてくれればいいと思うのだけれど、どういった理由かマリーアンにはいつも計ったように同じ量の食事しか与えられなかった。


「……嵐の日には、風の竜が飛び回るんだよな、確か」


 あまり思い出したくない記憶を辿っていれば、ふと、レグラスの声が落ちてくる。

 マリーアンは彼を見上げた。

 金色混じりの琥珀の瞳が、いつも通りの優しさでこちらを見ていた。


「知らないか? 嵐の流れに乗って、どこへともなく気ままに飛んでいけるのが良いと、風の竜たちは荒天を選んで飛び立つんだ。だから目を凝らしていると、雲の合間に竜の姿が見えたりする」

「本当ですか!?」

「今度の嵐のときに、確かめてみたらいい。うちからだと少し厳しいから、場所を考える必要があるが……どうせなら、ミスティカも誘ってみたら良いんじゃないか? あの家からなら、空もよく見えるだろう」

「はいっ!」


 竜、という一言を聞いただけで、途端に上向いた自分の心の単純さに呆れもするが、それでもマリーアンにとってやはり竜は特別な生き物だった。目の前にいるレグラスも、先日会ったグウェンリアンも、竜と言われてはいるが見た目はただの人間だ。しかし、嵐の合間を飛ぶという竜は、きっと本来の――翼を持つ姿であるだろう。それを見られる可能性があるのなら、何時間だって窓にへばりついていたい。ミスティカがどう言ってくれるかはわからないけれど、想像するだけでマリーアンの心は躍った。


(やっぱり、先生は、すごい)


 あんなに嫌いだった嵐も、彼の言葉ひとつでまるで待ちわびているかのような気持ちになれるのだ。

 彼は時折、種族のことを気にしたそぶりを見せるけれど、マリーアンはそんなもの些細な差だと思っている。

 だって彼は自分を救ってくれた。他の誰でもなく、異種族の、竜である彼だけが自分を救ってくれたのだ。

 レグラスは人間のマリーアンだからミスティカを救えたと言うけれど、そのマリーアンを救ったのは、レグラス自身なのだから。


「……あれ? ナッシュさん……?」


 ふと気づけばいつの間にかナッシュバートの姿が消えていて、マリーアンは目を瞬いた。つい先程までそこでへらりと笑っていたはずの青年は、もう影も形もなくなっている。まったくあいつは、とレグラスがため息を吐くのを見てこれが珍しいことではないのだと理解し、おかしくなってマリーアンはくすりと笑った。神出鬼没、というのだろうか。あの飄々とした雰囲気の彼には、その言葉が似合っている気もする。

 そこでマリーアンはとんでもないことに気がついた。


「……あっ、先生! 私、ナッシュさんに名前をお伝えしなかったんですけど、良かったんでしょうか!?」


 彼は調書がどうこうと言っていた。そうした書面を作成するのに、自分の名前は必要だったのではないだろうか。レグラスのことは旧知の間柄だったから良いとしても、自分のことなど彼は知らないはずだ。どこぞの少女が、などといった書き方でも問題がないのなら良いのだが、もし名前を聞いておかなければならなかったのに自分とレグラスとが話し込んでいたせいで聞くに聞けなかったのだとしたら申し訳ない。

 するとレグラスは苦笑して肩をすくめた。


「どうせ近いうちにアイツの方から聞きに来るだろう。マリーがミスティカの授業中だったら、俺が答えておくよ。さあ、それより夕飯をどこで買うかが問題だ。マリーはどこか、気になっている店があるか?」

「ええっと、特には……」

「……ふむ、その顔は気になる店があるという顔だな」

「ど、どうしてわかったんですか!?」


 実のところ、先日グウェンリアンから話の合間に美味しい包み焼きの店があると聞いて気になっていたマリーアンである。しどろもどろになりながらその話をすれば、レグラスはじゃあその店に行くか、とすたすた歩き出してしまった。彼の後を着いて歩きつつ、マリーアンはなんだか納得いかなくて頭をひねる。


「先生は、どうして私の考えてることがそんなにすぐ、わかるんですか?」

「実は俺はな……人の心が読めるんだ」

「そ、そうなんですか!?」

「冗談だよ。マリーは素直な良い子だから、顔を見ていればわかるさ」

「うう、か、からかわないでください……!」


 明るい笑い声が響き、大きな手がマリーアンの頭を撫でてくる。


「ははは、すまんすまん。だが、可愛い弟子の考えを察することができるようになりたいなと、いつも思いながら見ているんでね。少しはその成果が出たということかな?」

「もう、先生! それもまた冗談でしょう!」

「いやいや、今のは本気だぞ?」

「――はー、無自覚って怖いわぁ……」


 じゃれ合いながら通りを歩いて行く二人の姿を物陰から見送って、ナッシュバートはため息を吐いた。

 本人たちに自覚はないようだが、あれなら本当に夫婦と間違われた方がいいのではなかろうか。ただの師弟関係と言い張るには、少々間に流れる空気が甘すぎる気がするのだが。


「……ま、そのうちなるようになるでしょ。俺様は自分のお仕事お仕事、っと」


 先程レグラスから渡された封書をもう一度確認する。宛先はない。しかし、いつもの封蝋がしてあった。

 ということは、届け先はただ一つ。

 ナッシュバートは封書を大切に懐にしまうと、己の勤め先とは逆方向へ――王城の方角へと、歩き出した。

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