ともだちになりたい
会話が途切れたちょうどその時、ここん、と癖のあるノックの音が響いてきた。
「おばあ、ちゃん。オジサンが来てるって、聞いたんだけど、いる?」
低く掠れた声は壮年男性のものと言われても通じそうなものだったが、言葉の端々に漂うのは年若い女性の気配だ。マリーアンが不思議に思っていると、アンヌローザがレグラスへと視線を送り、そのレグラスはマリーアンを見て頷いた。それだけで声の主が誰なのかわかって、マリーアンは居住まいを正す。大丈夫よ、楽にしていて、と囁いたアンヌローザが、ドアの向こうへ声を掛けた。
「ええ、ここにいるわ、あなたに紹介したい人も一緒に。いらっしゃい、ミスティカ」
木製の扉が、ためらうようにゆっくりと開く。
最初に目に飛び込んできたのは艶やかだが癖のある黒髪だった。しかし背の半ばほどのその髪はあっちこっちに好き勝手跳ねていて、どこかだらしない印象を与えてくる。綺麗な紫の瞳が、乱雑に切られた前髪の隙間からマリーアンをじっと見つめていた。身長はマリーアンより少し高いか、同じくらいだろう。着ているものは古びたチュニックとズボンで、それだけ見ればまるで少年のようだ。けれどその服装を含めてもなお、ぱっと見た瞬間に同性なのだとわかるほど、彼女の顔立ちははっきりと「少女」のものだった。髪や服を整えればきっと、人形のように愛らしい少女になるだろう。
(でも、さっきの声はこの方の……ミスティカさんのものなのよね。こんなに可愛らしい人なのに、あんな低い声が出せるなんて……すごいわ!)
マリーアンは感激していた。
元々、姉たちの声が高いものだったこともあり、女性の高音があまり得意ではないマリーアンである。自分の声ですらもう少し低くなりたいとまで思っていたのだが、こればかりはどうにもならなかった。レグラスの低音にも憧れていたから、一度こっそり真似していたら見事に喉を嗄らし、事の次第を知った彼にさすがにそれは難しいだろうなと困ったように言われたのは記憶に新しい。その時もらった甘苦い薬湯の味とともに、なかなか消せない恥ずかしい思い出としてマリーアンの脳内に黒々と記されているのだ。
これがミスティカの地声なら、彼女はなんと素晴らしい声帯を持っているのだろう。低く掠れてはいるけれど、ミスティカの声にはどこか優しい甘さが滲んでいたし、言葉が聞き取りにくいということもない。金切り声で怒鳴られたり、嘲笑されたりするのはいくら教えを請う身としても耐えがたいのではと思っていたが、彼女の声でなら叱責されても頑張れる気がした。なんと素晴らしい人に師事できるのかと、マリーアンは我が身の幸運をかみしめながら勢いよく頭を下げる。
「ミスティカさんですね、はじめまして! 私っ、マリーと申します! 刺繍を教えてもらいに来ました! よろしくお願い致します!」
「あ、う、うん……そう、キミが……マリーなの……」
完全に鼻白んでいるミスティカの返答に慌てて顔を上げると、レグラスとアンヌローザが何か面白いものを見るような目でこちらを見ている。ミュリエルに自己紹介した時のような空気に、また何か間違ってしまったかとレグラスに視線だけで問いかければ、彼は気にするなと言うように笑ってくれた。
「いや、かなり気合いが入っているようだと思ってな。しかしマリー、やる気があるのは良いが、あんまり前のめりになると相手も驚くぞ」
「あっ……す、すみませんっ……」
確かに、自分が逆の立場なら、いきなり知らない人間にこうして詰め寄られたらかなり気圧されてしまうだろう。怖いとすら思うかもしれない。
レグラスと会うまではほとんど一人、多くてもシヤと二人きりで過ごしていたマリーアンは、他者と関わる際の適切な距離感というものがいまだによくわからないのだ。しかも、シヤは言葉を話せなかったから、言語を使った他者との交流という面ではほとんど頭数に入らなかったといっていい。
会って早々ミスティカに嫌な思いをさせてしまったかとそちらを見れば、呆気に取られたような紫の瞳と目が合う。
「ミスティカ、彼女が以前話したマリーアンだ。いろいろあって、今はマリーと名乗っているから、君もそう呼んでくれ。……見ての通り、少しばかり世間離れしているというか……なんというか、うん、ちょっと驚くようなところもあるが、とても良い子だよ」
ぽんと肩に手を置かれ、マリーアンはレグラスを見上げる。いつもと変わらない、優しげな金色混じりの琥珀の目が、こちらをじっと見下ろしていた。その視線に勇気をもらった気がして、マリーアンは深々と頭を下げる。
「マリーはとにかく刺繍が好きでな、技術的にはまだまだ未熟だろうが、情熱と才能に関しては俺が保証しよう。面倒を見てやってくれ」
「マリー、この子は私の孫娘のミスティカよ。ちょっととっつきにくいかもしれないけど、優しい子だから心配しないで。身内の欲目を差し引いても、この子はいつかメルを超えるんじゃないかと思っているから、あなたが刺繍を教わるにはちょうど良い相手だと思うわ。お互い切磋琢磨して、素敵な作品を作り上げてちょうだいね」
「せ、先生、才能なんて私には……」
「お、おばあちゃん……それ、言いすぎ……」
身に余る言葉に慌てて顔を上げれば、ミスティカもちょうどアンヌローザの言葉を否定しているところだった。
マリーアンの濃藍と、ミスティカの紫。
混ざればアンヌローザの瞳になる、お互いの目が見合わされて。
ふ、と、ミスティカの口元がやんわり笑んだから。
(このひととなら、だいじょうぶだ)
どうしてか、そんな直感が、胸の奥から湧き上がってくる。
「……これから、よろしくね、マリー」
「は……はい! ありがとうございます、ミスティカさん!」
少しためらいがちに差し出されたミスティカの手を、マリーアンは両手で握った。ミスティカはどこか面映ゆそうにそれを見て、それからレグラスに顔を向ける。
「オジサン、少しマリーを、借りてもいい? ボクの部屋を案内、したいんだ」
「ああ、もちろん構わないさ。俺はもう少しアンヌと話してるから、終わったらここに戻ってきてくれ」
「わかった。……マリー、一緒に、来て」
軽く手を引かれて、マリーアンはミスティカに導かれるまま部屋を出た。廊下を進み、階段を上って二階に上がる。その間もずっと、ミスティカはマリーアンの手を離さずにいてくれた。さすがにもう両手で握っているわけではないから、振り払おうと思えば払えるだろう。それでもそのままつないでいてもいいと思うくらいには、彼女が自分を受け入れてくれたのかと思うと嬉しかった。
二階の廊下をお互い何も言わぬまま進み、突き当たりにあったはしごを登って、屋根裏部屋らしき場所へとたどり着く。
部屋に入った途端、目に飛び込んできたのは鮮やかな色彩だ。
マリーアンは思わず歓声を上げた。
「わあ、素敵……!!」
「……ここが、ボクの、刺繍部屋だよ」
白い布に色とりどりの糸で、あるいは、色つきの布に白い糸や黒い糸で。
部屋中所狭しと置かれているのは、大小様々な刺繍が施された布たちだ。
あるものは壁に掛けられ、あるものはそのまま床に放置されている。まだ刺しかけとおぼしき、枠がはめられたものもいくつか転がっていた。美しい手仕事の楽園に、マリーアンは興奮してしまう。一瞬にして、魅了の魔法にでもかかったような気分だった。
(なんて綺麗な百合の刺繍! まるで今、そこに咲いているものをそのまま閉じ込めたみたい! こっちの紋様はとても細かい柄なのに、糸一本のずれもないように刺してあるわ! 待って、あれはどうなっているの? どうしたらあんな風に立体的な模様ができるの? この、×印をたくさん組み合わせて模様を作っているのは何? こっちは、刺繍してあるのに糸の間に布がないわ! ああ、すごい! 知らない技術がいっぱいある!! ミスティカさんは、本当に刺繍が得意なんだわ……!!)
こんな素晴らしい腕を持っている刺繍職人について教われるなんて、本当に、幸運にも程がある。あんまり嬉しくて、マリーアンは思わず部屋の隅にいたミスティカに駆け寄ると彼女の両手を握りしめた。
「とっても素敵です!! こんな素晴らしいものを見せてくださって、ありがとうございます!!」
「……マリーは、刺繍、好き?」
「はい、大好きです!! あっ……でも、あの、きちんと教わったことはなくて、自己流なんですけど……」
「教わらなかったのに、刺繍、してたの?」
不思議そうなミスティカに、
「その、裁縫全般の基礎的なことだけは、教わったんです。だから刺繍も、本当に基礎の基礎だけは……。なので、母の遺した刺繍を参考にして、恥ずかしながら見よう見まねでずっとやってきたんです」
「おかあ、さん」
「は、はい……」
母の名を告げるべきか、一瞬マリーアンは迷った。
先程アンヌローザから聞いた、ストラバル伯爵家の手の者が来たという話が脳裏をよぎる。自分の正体がばれることを極力回避したいなら、本当のことなど誰にも言わない方がいい。レグラスからも、口止めしたとて話が漏れるのは人の世の常だから、話さないのが一番良いのだと言われていた。しかも、アンヌローザですらメルローズに子供がいたと知らなかったのだ。正直に話したとして、信じてもらえない可能性が高かった。
けれど、ミスティカはアンヌローザの孫だ。ということは、マリーアンにとってみれば従姉である。同じ人を祖母に持ち、しかもこうして弟子入りする身であるのだから、極力隠し事はしたくない。それに信じてもらえなかったとしても、別に構わないのだ。少なくとも、この面倒な話の中に、ミスティカを巻き込まないで済むのだから。
なにより、彼女とは正面から向き合いたいと、マリーアンの心が告げていた。
「……母は、メルローズといいます。その、……アンヌローザさんの、娘です」
「メルローズ……、……えっ、じゃあ、キミは、メルおばさんの……子供なの?」
「はい」
ミスティカは紫の瞳をこぼれ落ちそうなほど大きく見開いてマリーアンを眺めてから、桜色の唇をはっきりと笑みの形に変えた。マリーアンが掴んでいた両手が、今度は逆にマリーアンの両手を掴んでくる。
「そうなの! メルおばさんの娘、ってことは、ボクのイトコ! 年はいくつ?」
「え、ええと、十六です」
「ボクの方が、年上! お姉ちゃんだね! ボク、十八だから!」
「まあ、そうなんですね! じゃあ、ミスティカさんの方がお姉さんです!」
「うん! ボクがお姉ちゃんだ! ねえ、ねえ、メルおばさんの刺繍をキミは見たんでしょう!? 刺してるところも見た!? ボクはね、メルおばさんの刺繍が大好きなの! メルおばさんの刺繍は、本当に色使いが素敵で、しかも、図案もほとんど自分で描いててね、そこにある百合なんか、すごく素敵でしょう!? うちに残ってたメルおばさんの刺繍をね、真似して刺したんだけど、本物はもっと素敵でね! 大体メルおばさんの刺繍は家紋とかイニシャルとかの精密さを褒められることが多いけどボクは自然のもの、つまり草とか花とかそういうものを描いてる作品の方がその魅力を――」
嬉しそうに、楽しそうに、目をキラキラさせながらミスティカはメルローズの刺繍の美しさについて語り続けた。マリーアンも、時折零れそうになる涙をこっそり拭いつつひたすら彼女の話を聞くことに徹した。
(おかあさま……私はお母様のことを、ほとんど何も知りません。幼い頃はそばにいたのだとしても、記憶に残っていることは何もありません。でも、こうしてミスティカさんがお母様のことを話してくれる……それを聞いているだけで、なんだか、針を持つお母様の姿が目の奥に浮かんでくるようで……)
母の遺したものについて、こんなにも愛おしげに語ってくれるひとがいるのだということが、マリーアンにはただただ嬉しかったのだった。これまで自分が聞かされてきた、悪意と侮蔑にまみれた言葉ではなく、心の底から母の刺繍を、そして母自身を純粋に慕ってくれている人の言葉が浮かび上がらせるメルローズという存在は、あまりにも美しく輝いている。自分が知らない、けれど確かに実在した母親そのひとを、ミスティカの言葉が針糸になり、まるで目の前にある刺繍のように描き出してくれていた。
「……っ、ぁ、ご、めん……」
やがてひとしきり話し終えたのか、満足げに笑ったミスティカは次の瞬間はっとしたようにマリーアンの手を離し、蚊の鳴くような声で謝るとうつむいてしまった。先程までの喜びようとは真逆の雰囲気に、マリーアンは慌てて彼女の顔を覗き込む。
「み、ミスティカさん? どうしたんですか? あっ、話し過ぎて喉が痛くなったりしましたか?」
「違う……そうじゃなくて、ボク、また、一人で話し過ぎたと思って……」
「そんな、気にしないでください。私は、母のことを好きな人の話がたくさん聞けて、嬉しかったです」
「そう……なの?」
「はい。これまで、私に母の話をしてくれた人たちはみんな、母が嫌いだったので……」
しかも彼女らが話すメルローズの評価といったら、「少し手先が器用だからって」とか「ちょっとばかり刺繍ができるからって」などといった曖昧なものばかりなのだ。ミスティカのように「植物を描いた図案がとりわけ良い、中でも花は本当に生き生きしてる」だとか「色の使い方がすごく素敵で、こことここは同じ紫なのに微妙に糸の色を変えているところがすごく好き」だとかといった、メルローズの人となりを推し量れるような情報は何も得られなかったのである。
だからミスティカがメルローズのことについて話してくれるのに、喜びこそすれ何も文句などはないと告げると、彼女は眉を寄せて不機嫌そうな顔をした。
「……メルおばさんのこと、悪く言うヤツが、いたの?」
「ええと、まあ、はい、結構……」
「最低。メルおばさんの、刺繍の腕は、前の王妃様だって、認めてた。それを買って、うんと、誰だっけ……貴族の人が、家に連れてったんでしょ?」
「ストラバル伯爵、ですね」
「そうその、伯爵って人。それなのに、その刺繍のことまで馬鹿にするなんて、酷すぎる。最低」
「……あの、ミスティカさんは、私がメルローズの娘だっていうことを、疑わないんですね?」
ふと疑問に思って、マリーアンは尋ねてみた。
ミスティカの口ぶりでは、おそらくアンヌローザからメルローズがストラバル伯爵家に行った事情やその後のことを――あくまでも、「刺繍の教師として流行病で亡くなった」のであり、「伯爵のお手つきになり名ばかりの側室となって娘を出産、その後死亡した」とは伝えられなかったということを――、彼女は聞いているのだろうと思えた。だとしたら、自分がメルローズの娘だということはにわかには信じがたい告白なのではないだろうか。
しかし、ミスティカは不思議そうに首を傾げた。
「うん。だって、本当の事、でしょ?」
「え、ええ……本当の事、なのですが」
「うんと、あのね。少し前に、オジサンがね、ボクに会いに、来たんだ。もう少ししたら、ボクに会わせたい、女の子がいるって。その子はとっても刺繍が好きで、でも、知らないことがいっぱい、あるから。ボクが、刺繍の技術を教えて、あげて欲しいって」
ミスティカのギザギザした前髪の間から覗く紫の瞳が、楽しげに笑っている。
「その子はね、ボクに隠し事をするかもしれない。だけど、嘘は、絶対に吐かない。だから、信じて良いって……オジサンは、約束してくれたの」
「先生が、そんなことを……」
「ボクが、お母さんのことを聞いたとき……マリーがもし、隠し事をしたいなら、名前を言わずに、ごまかしたでしょ。でも、マリーはボクに、メルおばさんの娘だ、って言った。ボクはマリーのこと、まだちょっとしか、知らないけど……オジサンが、嘘吐く人じゃないのは、知ってるよ。だから、ボクもマリーを、信じる」
きっとレグラスは、メルローズの娘であるということを、自分がミスティカに隠さねばならない可能性も考えていたのだろう。だから隠し事はしたとしても、嘘だけは吐かないと言ったのだ。彼の細やかな気づかい、そして嘘は吐かないと断言してくれた信頼が嬉しくて、マリーアンは胸の奥が温かくなるのを感じた。それと同時に、ミスティカの優しさをも嬉しく思う。いくらレグラスが約束したからといって、会ったばかりの他人の、しかも信じがたいような言葉を信用するなどそうそうできることではないだろう。
「ありがとうございます……ミスティカさんは、優しい方なんですね」
「? ボクは、優しく、ないよ。優しいのは……マリーの、方でしょ?」
「いえ、いくら先生が保証してくれたのだとしても、刺繍を習ったことがないのに好きだとか、そんなことまで笑わずに聞いてくれるんですもの。ミスティカさんは十分、優しい人ですよ」
「それを言うなら、マリーだってば。ボクが喋っても、笑わないし、嫌がらないで、聞いてくれるじゃない」
マリーアンは首を傾げた。笑わないし嫌がらない、とミスティカは言うけれど、一体何故ミスティカが話すことで笑ったり嫌がったりしなくてはならないのかが、まったく理解できなかったのだ。すると彼女は少しだけ悲しそうに目を伏せて、口元を歪ませた。
「その、ね……ボクは、小さい頃、から、ずっとこの声、で。みんなが……声だけ、おっさんで、顔が、女なのは、変だって……笑うんだ。気持ちが悪いから、ボクと話すのは、嫌だって……言われて、さ」
「そんな……!!」
「ボク、お人形遊びも、冒険者ごっこも、好きじゃなかった。ずっと、刺繍が……好きで。それ以外は、好きになれなかった。だから、みんなと話が、合わなくて……刺繍とか、針と糸のことは、話せたけど……それしか話せないの、変だって、笑われて、ばかりだから……」
これまで感じたことのない感情が、腹の奥からせり上がってくる。指先が震えて、頭が熱くなった。その衝動を抑えきることが出来ず、マリーアンは叫ぶ。
「ミスティカさんの声も! お話も! わたっ、私はっ、私は大好きですっ!」
声が低いだけで。
(自分ではどうしようもないことなのに)
刺繍が好きだからその話をしたいだけで。
(好きなものを好きでいたいだけなのに)
なのにどうして、笑われて、嫌われて、悲しい思いをしなくてはならないのか。
(そんなのって、そんなのって、おかしい!!)
ぐろぐろとした熱い何かが身体の中で渦を巻く。だって誰にも迷惑なんてかけていないし、誰かを傷つけるようなことでもない。声が低くても、刺繍が好きでも、誰かを泣かせたりするわけじゃない。なのにそんな扱いを受けなくてはならないなんて、理不尽だ。
言葉に出来ない思いが溢れて、マリーアンは歯を食いしばる。濃藍の瞳が潤んで涙がぼろりと落ちた。自分でも、どうしてこんなに腹が立つのかわからなかった。これが怒りであることすらも、涙が零れて初めて理解したほどだ。
自分は怒っているのだ。ミスティカを虐げたものたちに。
そして――自分自身を、虐げてきたものたちに。
(ああ、わたし……私は、ずっと、怒りたかったんだ)
悔しかった。
卑しい平民の娘だと罵られ、礼儀も知らぬ薄汚い娘だと嘲られて生きてきた。最初はずっと悔しかった。しかしあるときから、その悔しさすらも摩耗していった。いくら悔しさに泣いても理不尽だとわめいても、叱責や鞭打ちの数が増えるだけで、自分にとっての利など一つもないと気づいてしまったのだ。そうしてマリーアンはただ、その日その日を生き延びるだけの生き物になっていった。
けれど、刺繍に出会って、その世界にほのかな色が付いて。
ささやかな希望を、消えかけのろうそくのように懸命に守って、あの冬の夜までを生き抜いてきたのだ。
(本当はあのときも、私は、怒りたかったのかもしれない)
姉たちから理不尽に罵られ、二度と針糸を持てぬようにと指を潰された、あの冬の夜。
マリーアンの胸にあったのは、恐怖の他には悲しみばかりであった。
恐ろしくて、悲しくて、しかし悔しさや怒りはそこになかった。何故自分だけがこんな目に遭うのかと、その理不尽に怒ってもよかったのに。
自分を害した人間に対して、普通なら抱くであろう感情を、あのときのマリーアンはまったく抱いていなかったのだ。
だって、彼女たちが自分を虐げるのは、もう当たり前のことだったから。
「泣かないで、マリー……ありがとう。やっぱりキミは、優しいよ。ボクのために、怒ってくれた、もの」
「っち、ちが、う、んです……わた、し……わたし、勝手に、ミスティカさん、と、自分を……重ねて……」
ハンカチを差し出してくれたミスティカの言葉をしゃくり上げながら否定するが、彼女はくすりと笑って首を横に振った。
その拍子に、紫の瞳からほろりと涙が落ちる。
「それなら、もっと優しい、ね。こんなボクのこと、自分のことみたいに、考えて、くれたんだ」
もう言葉は出なかった。マリーアンとミスティカは抱き合ってわんわんと泣いた。泣いて泣いて、お互い泣き疲れて座り込み、真っ赤に腫れた瞼で笑い合った。先程のアンヌローザとの邂逅で、マリーアンは向こう三年分くらい泣いた気がしていたのだが、それにもう二年ほど追加された気がする。こんなにも感情が揺さぶられた一日は初めてだった。
「ねえ、マリー、ボクには、敬語で話すの、やめてよ」
「えっ……で、でも、ミスティカさんは、お姉さんですし」
「年はね、二つ上だけど……でも、あのね、ボク、……あの……」
泣き腫らした瞼をゆっくり一度上下させて、ミスティカが言葉を継ぐ。
「あの、……マリーとは、友達に、なりたいの」
「とも……だち……」
「だから、敬語じゃなくて、話して、ほしい。……ダメ、かな?」
心なしか不安そうに揺れる紫の瞳に、マリーアンはげほんと一つ咳払いをした。もう声を出すのも精一杯、と訴えてくる喉に気合いを入れて、できる限りはっきりとした声を出す。
「ダメ、じゃないです! 嬉しいです、ミスティカさん! ありがとうございます!」
「えっ?」
「えっ?」
「えっ、……あの、敬語、やめよって」
「あっ」
はっとして頭を振ると視界がぐわんぐわんと回ってしまった。今日は泣きすぎたせいでとてつもなく頭が痛いのだ。両手で頭を押さえていると、ミスティカがくすくすと笑う声がする。それから、柔らかい手で頭を撫でられた。
「二日酔いのときの、お父さん、みたい。でも、頭痛いの、わかる。マリー、果物は、好き? 今朝絞った、ジュースがある、はず。飲みに、行こ。立てる?」
「はい、あ、えと……」
手をつながれる。
自分と変わらない大きさの手。レグラスや、グウェンリアンとは違う手。
それがなんだかとても嬉しくて、マリーアンは笑った。
「……ありがとう、ミスティカ」