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竜の仕立屋  作者: 翠乃ねぎ
10/24

母と娘

「メルは……メルローズは、あなたも聞いた通り、とても腕の良い刺繍職人だったわ。初めは私と一緒に針子の下請けをしていたのだけれど、やがて王室御用達のお店に引き抜かれて、そこで刺繍を専門にするようになったの」


 かつてアンヌローザは仕立てで生計を立てていたが、自分の名を表に出したいとは思わず、交流のある縫製工房の下請けをして暮らしていたのだという。それは彼女の母、つまりマリーアンの曾祖母の頃からのことだったらしい。

 だがやがてメルローズが母であるアンヌローザの手伝いをするようになり、めきめきと腕を上げていった。仕立ての腕もだが、なにより彼女が得意としたのは刺繍だった。季節の動植物と家紋やイニシャルなどを上手く絡めた芸術的な図案を描き上げるだけでなく、それを布に美しく刺す手腕は熟練の職人も舌を巻くほどで、いつしか彼女の刺繍の腕は王家とも取り引きのあるような高級店にまで知れ渡っていった。そして、その中の一つから専属として働いて欲しいという打診があったのだという。

 このフランシェル縫製工房は、メルローズの弟であるロデリックが興した工房だ。当時から弟が将来的に縫製工房を興したいと公言していたこともあり、メルローズは経験を積むため他店で働くことを希望した。アンヌローザにとっても、身内の欲目を引いてさえ良い腕を持つと断言できる娘に、暮らしにこそ困らないものの細々とやっているだけの下請け作業ばかりさせるのは忍びないという思いがあり、結果、メルローズはその店で働くことになったのだ。


「それからしばらくして、メルの刺繍の腕を王妃様が……ああ、もう新しい方になっているから、今の王妃様ではないのだけど。当時の王妃様が、とても買って下さっているという話が聞こえてきた。そしてあるとき、王妃様専属の刺繍職人として、王宮に上がって欲しいという打診があったの」

「専属の刺繍職人?」

「簡単に言えば、刺繍や裁縫の手ほどきをして、ついでに話し相手になる係のようなものらしいわ。あまり詳しいことは私もわからないけれど……そもそも私たち庶民は、王族や貴族から望まれればそれがどんなに無理な要求でも、まず断ることなど出来ないものよ。でも、王妃様はあくまでも、メルの意思を尊重すると言ってくださった。だからこそ、メルも行きたいと言ったんでしょうね。心配もあったけれど、私たち家族は結局、メルを送り出したの」


 けれど、メルローズの幸運は長く続かなかった。

 王妃がそれから二年ほどで、若い生涯を終えてしまったのだ。

 当時王妃には息子――王子が三人いたが、王女はいなかった。基本的に、刺繍や裁縫は女性の嗜むものだとされている。王女がいれば、メルローズはそのまま王女付きの刺繍職人になっただろう。しかし、教えるべき相手がいない状況では、彼女の立場はどうにも不安定なものになっていった。


「一度王宮に上がれば、滅多なことでは街に戻れない決まりなのだけれど……王妃様が亡くなられたときに三日間、この家に帰ってくることを許されて、メルは戻ってきた。これからどうなるんだろう、って不安な顔をしたから、お暇を出されたら大手を振って帰ってらっしゃい、楽しみに待ってるわ、なんて言ってね……本当に、あのとき帰って来られたら、良かったんだろうけれど……」


 アンヌローザの声が、震える。

 藍色の瞳が、ゆらりと涙に揺れる。


「……それから一年くらいは、月に一度手紙が来る暮らしが続いたかしら。王妃様を亡くされて気落ちされている王様の話し相手をしているとかで、何であれやることがあるのなら良かったと思っていたら、ストラバル伯爵のところへ行くことになった、と手紙が来たのよ」

「伯爵の……」

「ええ。奥様と、お嬢様に刺繍を教えることになったんだと。やっときちんとした自分の居場所を手に入れられたからか、手紙からもメルが喜んでいるのが伝わってきたわ。だから、無理をしないでね、身体に気をつけるのよ、と返事を出すことしか出来なかった」


 二本目のビスコッティを食べきって、アンヌローザがふうと息を吐いた。


「確か、その連絡を受けてから二年くらい後、だったと思うわ。伯爵のところから使者が来て、メルが流行病で死んだと聞かされた」

「……え?」


 予想外の言葉に、マリーアンは思わず声を上げる。

 王宮に上がり、その後、伯爵の元へ行くことになった。それ自体は、マリーアンが聞いていた話と同じではある。先程アンヌローザは「メルローズが子供を産んだとは知らなかった」と言っていたから、彼女の話にマリーアンの存在が出てこないことは理解できるのだが、もう一つ、出てこないとおかしいものが完全に消えている。

 アンヌローザはそんなマリーアンを悲しげな目で見、もう一度物憂げに息を吐いた。


「ええ、そうなのよ、マリーアン。私たちはそもそも知らなかった……メルローズが、伯爵の側室になったことをね」

「そんな……」

「だから私は、メルは刺繍職人として死んだのだと思っていた。流行病だと、流行を防ぐための法律に基づいて、死者の身体は教会に預けられて炎で清められ、埋葬される決まりになっている。故人が大切にしていた物なんかも、大抵は一緒に燃やすわ。だから遺品は一緒に清めたので渡せないと言われても、特におかしいとも思わなかった。彼女の働きに感謝して、と、手紙と一緒にいくらかのお金が送られてきて、それだけだった」

「おそらくは、メルローズを側室にするという手続き自体も、きちんと踏んではいないだろう。彼女は仮にも亡き王妃の『お気に入り』だ、誰かの妻に……側室になるとしたら、国王にだって多少なりと思うところはある。なにせ、彼は王妃を溺愛していたしな。もっと言えば、流行病だなんて話そのものに、怪しいところがあると俺は思ってる」


 コーヒーのせいではなく苦いものを飲み下すような顔をして、レグラスは言った。


「マリー。あのハンカチを、アンヌに見せてくれないか」

「えっ? あ、は、はい」


 マリーアンは慌てて、ポケットを探り竜の刺繍のハンカチを取り出した。きちんとした布と糸で刺繍をするようになった今では、この最初の作品がいかに拙い物であったかがありありとわかって、先輩も先輩、殿上人のような技術を持つ相手に見せるのは恥ずかしいのだけれど、「きっとあの家ではこのハンカチが何より君を助けてくれる」と事前にレグラスに言われていたから、いつでも取り出せるようにポケットにしっかりしまってきたのだ。

 針目もがたがた、糸も絡まった無駄に色彩豊かなその竜を、アンヌローザはしばらく無言で眺めていた。こぼれ落ちそうに見開かれた、紫混じりの藍色の目が、ゆっくり一度閉じられる。

 そして、そこからひとしずく、涙が零れた。


「……メル。大丈夫よ。あなたはちゃんと、我が子を守ったわ」

「おばあさま……?」

「マリーアン、この刺繍は、メルが持っていた布絵本から図案を起こしたのかしら?」

「ず、図案を起こすなんて大層なものではないんです! ただその、上に布を重ねて、木炭で、なんとかそれらしく形を写して……その、私の手元には、それしか本らしい本がなかったのと、きっとお母様の持っていた本だと、思ったので……」


 恥ずかしさからしどろもどろになるマリーアンの答えを、アンヌローザは優しく笑って受け止めてくれた。そして、膝の上に閉じて置かれていた布絵本のページをめくる。

 この部屋に入ったとき開かれていた、あのマントをまとった竜のページを開くと、アンヌローザはその横にマリーアンのハンカチを並べて置いた。

 意外なことに二つの図案は似通っていたが同じものではなかった。まず竜の向き自体が右と左で真逆なのだ。全体のデザインや雰囲気は似ているけれど、マリーアンはこの布絵本が自分の見ていた物と同じではないことをすぐに悟った。母の布絵本の竜は白地に銀糸で竜の翼を図案化した刺繍が施されたマントを身につけていたが、この布絵本の竜は同じ白地ながらも金糸で太陽らしき模様が刺されているのだ。ただ、あまりにもあの布絵本と似ているから、無関係だとは思えない。


「あの本はね、私の母……あなたのひいおばあちゃんが、メルローズのために刺してくれた本なのよ」

「お母様の、ために……」

「ちょっと変わった本だったでしょう? 竜がマントを着けたり、服を着たりしたがるお話なんて、普通の絵本にはまずないわ。だけど母さんも、私も、メルも、この本が大好き。だってこれは……母さんと、レグラスさんのお話だから」

「……えっ?」

「いや! これは、アンヌが君を孫だと認めたら言おうと思っていたんだ! 決して言う気がなかったわけでも、言いそびれたわけでもないぞ!」


 先日グウェンリアンに怒られたことが思い出されたのか、慌てたように手を振り弁解してくるレグラスに、つい笑ってしまう。


「ふふ、ええ、大丈夫ですよ。じゃあ……先生は私のひいおばあさまと、お友達だったんですか?」

「ああ、そうだ。彼女がいたから、俺はこの国を住み処と定めた。だからアンヌのことは子供の頃から、メルのことは生まれた時から知ってるよ。……君が昔のメルにそっくりだと、初めて見た時にすぐ思った。ただの知り合いの俺ですらそう思うんだ、母親であるアンヌなら見間違うはずもない。その後伯爵家からの横槍をアンヌから聞いてな、尚更、是が非でも君たちを会わせなきゃならんと思ったのさ」


 金色混じりの琥珀の瞳が、マリーアンを優しく見下ろしてくる。大きな手に頭を撫でられて、マリーアンは不思議な気持ちになった。彼はきっとこの手で、母の頭も撫でたのだ。祖母の頭だって、撫でたのかもしれない。どう頑張っても上はギリギリ四十代、下は三十代半ばにしか見えない彼が、今隣で微笑んでいる祖母の幼い頭を撫でたのだと思うと、竜という生き物の不思議さを思い知る。


「ねえマリーアン、母さんとレグラスさんが友達になった話はね、本当に面白いのよ」

「……なあ、アンヌ、その話はわざわざしなくてもいいんじゃないか?」

「あれは、私が十二になった年の冬だったわ。レグラスさんが、ただのお客として母さんのところへ冬服の……コートの仕立てを頼みに来てね。寒いのが嫌いだっていうこのひとのために、母さんはとても素敵な黒いコートを仕立てたの」


 何故か眉を下げたレグラスが、アンヌローザを止めようとする。しかし彼女はまったく気にせずに言葉を続けた。


「レグラスさんはできあがったものを喜んで受け取っていってね、母さんも満足そうだった。なのにそれから三日くらいして私が母さんと買い物に出たら、街の中をボロボロになったコートを着たレグラスさんが平気な顔して歩いてたのよ! ただ汚れたとかほつれたとか、そんなもんじゃないの! もう、本当にボロボロで、何をどうしたらこんなに生地が傷むのかわからないほどだった」


 竜の身体からは魔力が漏れる。

 レグラスの言葉を思い出してマリーアンははっとした。普通の服であれば一日で駄目になることもあるのだと、以前彼は言っていたはずだ。特殊な加工を施せば一冬保つとも言っていたが、ただの客として来たというレグラスがそれを伝えたとも、また一介の仕立屋であったはずの曾祖母にそんな加工技術があったとも思えない。


「そしたら母さん、通りを勢いよく走っていって、レグラスさんの襟首を捕まえてね、『アンタはあたしの服をなんだと思ってるんだい!』っていきなり怒鳴りつけたのよ!」

「ええっ!?」

「それで『いいからうちに来な! そんなボロボロになったものを着られちゃこっちが迷惑だ!』って言って、そのままレグラスさんをうちに連れて帰ってきてね……そこで初めて、この人が人間じゃなくて竜だってことや、魔力っていうのが漏れるせいで普通の服はすぐ駄目になるんだってことを知ったのよ」

「……俺は、後にも先にも人間が怖いと思ったのは、あの一瞬だけだよ……鬼気迫る、というのは、ああいうのを言うんだろうな」


 遠い目をして語るレグラスに、ちょっぴり同情してしまう。

 彼にはきっと、服はすぐ駄目になるのが当たり前だという思いがあったのだろう。だから大して気にもせず、劣化したものをそのまま着ていたに違いない。

 しかし仕立てた側としてはどうだろうか。自分が精魂込めてこの冬を越せるよう作った服が、たった三日であり得ないほどボロボロになり、しかも買った当人がそれを着て平然と出歩いているのだ。わざと服を痛めつけたりしたのではないか、あるいは自分の仕事に不備や不満があったのではないか、そうしたことが気になったとしても仕方ないだろう。


「しかもな? 俺が、自分は竜だから服の傷みが早いのは仕方がなくて、あなたの仕事は素晴らしいものだったと言ったら、彼女なんて言ったと思う? 『アンタ、竜なら竜だと依頼の時にはっきり言っておいとくれ、普通の人間用の服を作っちまったじゃないか! これじゃ一から作り直しだよ、さあ、竜の服に必要なことをここに全部書き出しとくれ!』って怒るんだぞ? その瞬間、ああ俺はこのひとには敵わないな、と悟ったわけさ」

「あの頃のレグラスさんは、今とはちょっと違う見た目だったけど、それでも普通の人間だったものねぇ」

「それまでにも自分が竜だと言ったことがないわけじゃなかったが、どこの仕立屋もまず信じなかったし、俺もそれが当たり前だと思ってた。だから、あれには……本当に、参ったよなぁ」


 困ったような口ぶりながらも、レグラスの顔には柔らかな笑みが浮かんでいる。それだけで彼が曾祖母をとても大切に思っていたのだということがわかって、マリーアンはつい、つられて微笑んだ。

 誰もが信じてくれなかった告白を、ごく当たり前のものとして受け入れてくれたこと。そしてその上で、もう一度彼のための服を作ると言ってくれたこと。

 それはきっと、レグラスにとって何よりも嬉しいことであったのだろう。

 誰にも服を作ってもらえなかった竜に、美しい刺繍のマントを作ってあげた仕立屋の物語。

 だからこれは確かに、曾祖母とレグラスの紡いだ、物語なのだ。


「……さて、話が少し脱線したな、本題に戻ろう。この本とハンカチが君の身を守ることになるという理由だが、まず第一にマントをまとった竜なんて絵が出てくる市販の絵本は、少なくとも俺が調べた中にはない。そして、このハンカチの図柄はこの絵本の絵に酷似している。ここまではいいか?」

「はい」


 一度話を整理してくれるつもりらしいレグラスが、言葉を切ってからコーヒーで口を湿らせる。


「あの絵本は、君の曾祖母であるマリーアンが作ったものだが、ここにある絵本はアンヌローザがその絵本を元に作ったものだ。そうだな、アンヌ?」

「ええ、そうよ。メルは小さな頃からあの絵本を読んで育ったから、あれが大好きで、王宮に上がる時も当然持っていったわ。この絵本は、私がミスティカのために刺したもの。原本はメルが持って行ってしまっていたから、記憶を頼りに刺したせいで、ほら、竜の向きが逆でしょう?」


 そういう理由だったのかと、マリーアンは納得した。であれば、全体の雰囲気が似ているのに、細部は色々異なっていることも理解できる。


「だから竜の仕立屋を描いた布絵本は、世界に二冊だけしかないわ。ひとつはここに、そしてもうひとつは――メルがあなたを産んだ場所に」


 不出来ながらも雰囲気は掴んでいる、マントをまとった竜の刺繍。その図柄を描き起こせるのは、世界で二冊の布絵本を前にした者だけだ。そして、あの冬の夜レグラスに会ったときすでにマリーアンはこのハンカチを持っていた。アンヌローザとは今日が初対面である。となれば、マリーアンが竜を刺せたのは伯爵家にあったメルローズの布絵本を見ていたから、ということになるはずだ。しかもレグラスに会った時点でマリーアンの両手は酷く傷つけられており、最近まで満足な刺繍もできなかった。彼に会う前に刺したものであることに疑問を差し挟む余地はないだろう。


「君があの家にいて、そこから逃げだし、俺の元へ来た……もし伯爵と対峙する羽目になった時、そのハンカチはなによりの証拠になるはずだ」

「伯爵と……」

「大体妙な話じゃないか? アンヌには遺品は炎で清めたと言ったくせに、どうしてメルが一番大事にしていそうな絵本は残ってるんだ。誰にも見つからないように隠されていたとでも言うつもりか? マリーがそれを見てるってことは、普通にわかる場所にあったんだろう?」

「はい、普通にありましたし、私以外の人の目にも触れていました。でも……誰も持って行こうとはしませんでしたね」

「もしも本当に彼女が流行病だったなら、遺品が残っているとわかった時点で処分するはずだ。誰だって病にかかりたくはないからな」


 マリーアンは混乱する頭を少しでも整えようと、甘いミルクティーを一口飲み込んだ。ざわざわと落ち着かない胸の奥が、その一口分だけ平らになった気がする。

 伯爵は、メルローズを側室としたことも、マリーアンが産まれたことも、外には隠していた。しかもメルローズの死因さえ、偽っていた可能性が高い。もし本当に流行病だったのなら、自分を罵ることにかけてどんな要因も見逃さないだろうあの三姉妹が、それを攻撃の種にしないはずがないのだ。なのにマリーアンはただの一度も、そうした暴言を吐かれたことはなかった。つまり対外的にはメルローズは流行病で死んだと言っていたものの、内部の人間にはそう言っていなかったということになる。普通は流行病など出したら大変だから、外には言わず中だけで止めようとするものだ。全く逆の話である。


「どうして、……伯爵は、そんなことをしたんでしょうか」


 思わず口を突いた呟きに、レグラスが軽く肩をすくめた。


「さてな。俺には、貴族とやらの考えることはさっぱりわからん。さっぱりわからんが、しかし少なくとも、伯爵がしたことが褒められた行為じゃないのは確かだ。アンヌにメルを側室にすると伝えなかったことも、君の存在を隠したことも、出るところに出れば厳罰は免れないだろう。……そこで、ひとつ確認しておきたいことがある」


 すうっと、空気が冷たくなった気がした。

 マリーアンは隣に立つ彼を見上げる。金にきらめく琥珀の瞳が、いつも通りこちらを見下ろしている。

 けれど、何故だろう。

 その美しい双眸が、今はまるで、磨き込まれた刃を思わす冷たく怜悧な光を湛えているように見えるのは。


「君は――いや、君たちはどうしたい?」

「……どう、というのは?」

「君はメルローズの娘。君はメルローズの母。彼女の辿った足跡が明らかになった今、その血縁である君たちが望むのならば、俺は俺の持てる全ての力を使って伯爵を追い詰めよう。我が友マリーアン・タイノールは竜の加護を放棄し、代わりにこの国の民全てを守護し友とせよと俺に言ったが、それでも俺にとって君たち一族は特別なんだ。君たちが望むのならば、俺はそれを叶えたい。マリーアン、アンヌローザ。君たちは、伯爵をどうしたい?」

「……」


 背筋がひやりと冷えるような感覚。

 これまで聞いたことのないレグラスの声音に、マリーアンは思わずアンヌローザの手を握っていた。


(先生が、こんな風に冷たく話すことも、あるんだわ)


 よく研がれたナイフを手に持ったときのような、恐怖と、そして高揚に近い感情が、じわじわ胸の奥から這い上がる。人の姿を取ってはいるが、彼の本性は恐るべき力を持った竜なのだ。一言頼めばなんだって叶えてくれるに違いなくて、彼自身もそれを喜ぶのだろうと、直感的にマリーアンは理解した。

 そして、だからこそ、それを望んではならないのだとも。


(マリーアン、悪いことを望んではだめよ。先生に、酷いことをさせてはだめ。こんなに優しくて、素敵な竜の先生を……穢すようなことを、私が、願ってはだめ)


 きっと一言マリーアンが、伯爵を殺して欲しいと言えば、レグラスは簡単にそれを叶えてくれるだろう。一族郎党の首だって、望めば並べてくれるに違いない。あの三姉妹だって、彼が本性を現せばひとたまりもないはずだ。

 けれどもそれ故に、望んではならないのだとマリーアンは思った。それを望む自分が酷く醜いものに思えたし、なにより自分のためにと悪事に手を染めるレグラスを想像すると胸が痛む。マリーアンにとってレグラスは、いつでも優しく愉快で親切で、朝が弱くて部屋の片付けが苦手な、誰よりも頼れる憧れの先生なのだ。きっとそれだけではないのだろうが、少なくとも彼が自分の前で見せてくれているその顔を、自分から剥ぎ取るような真似はしたくなかった。


「……正直、真実を知った今では、許しがたいと思う気持ちもあるわ」


 ため息交じりにアンヌローザが言って、でもね、と腕が引かれる。

 マリーアンは素直に、ベッドに乗り上げてアンヌローザと抱きしめあった。


「でも、今ここにマリーアンがいる。メルローズが守りたかった大切な子が、無事にこうしてここにいる。今更伯爵をどうこうしたって、メルが帰って来るわけじゃない。だから私は、これ以上私たちに関わらないでくれるなら、伯爵のことはどうでも良いわ」

「おばあさま」

「マリーアン。あなたは直接伯爵から酷い目に遭わされていたんでしょう? あなたには、望む権利があるわ。いいのよ、思うままをレグラスさんに言っても」


 力づけるように背を撫でてくれたアンヌローザに、くすりと笑う。


「いえ、私も同じ気持ちです、おばあさま。私はもうあの家を離れることができて、あの頃よりずっといい暮らしができて……今の私の周りには、優しい人たちがたくさんいてくれる。それだけで十分だなって、思うんです。おかあさまのことは正直、まったく覚えていないので、私よりおばあさまのほうが辛いと思いますし」

「……マリーアン……」

「毎日暖かいお布団で寝られて、柔らかいパンと具のあるスープが食べられて、先生に貰った布や糸で刺繍ができて……あっ、実は今度、初めての刺繍のお仕事も決まったんです! あとは食堂で会う方も、皆さんとっても優しいんですよ! それにこうしておばあさまにも会うことができたし、もう、今の毎日がしあわせで、だから」


 ベッドから降りて、レグラスと向き合う。

 先程までの冷たさが消えた、柔らかな金と琥珀の混じった瞳が、こちらを見下ろしている。


「だから、私も何も望みません。今のまま放っておいてくれるなら、それだけでいいです」

「……君の手を潰した三姉妹は? 同じ目に遭わせることだって、できるんだぞ」


 指先がびくんと震えた。

 あの冬の夜。痛みを痛みと認識できないほど打ち据えられ、二度と針も糸も持てぬと嘲笑された己の手が、いまだ残る恐怖を訴える。

 両手を握ってそれを押さえつけ、マリーアンは変わらぬ思いで、レグラスを見上げた。


「あのひとたちにされたことを、忘れることは出来ませんし、許すことも出来ないと思います。でも、私の手はまた糸を持てて、針を握れます。私には、それだけで十分ですし……きっとあのひとたちが同じ目に遭っても、私のように絶望することは、ないと思いますから」


 両手の自由が利かなくなっても、貴族の娘なのだ、日常のありとあらゆる世話をメイドにやらせれば良いだけの話である。自分の手でなにもできないことは辛いだろうけれど、刺繍しかなかった自分がそれすらも奪われたあの日の絶望を、同じように味わわせることはできないに違いない。なにより正直、もう彼女たちのことは思い出したくもなかった。関わらずにいてくれるのなら、それだけで十分だとさえ思うほど。


「……わかった。君たちがそう言うのなら、俺がしゃしゃり出る幕じゃない。ただ、余計なちょっかいをかけられないようにだけ、気をつけておこう」

「ありがとうございます……あ」

「うん?」


 ふと、マリーアンの脳裏をあの下女の姿がよぎる。

 年かさの、口のきけない彼女。シヤという名前の、マリーアンを押さえ込む手が震えていた彼女。

 あの後彼女はどうしたのだろう。三女のヴァレリアがメイドを首にするようなことを言っていたが、結局どうしたのだろう。思い返せば時折、見慣れた下女やメイドがいきなりいなくなることがあった気がする。もしかしたらあれは、三姉妹の気まぐれで追放されていたのだろうか。


「その……、……あの家で働く皆さんが、不当に追い出されたりしないようにって、できますか……?」

「ふむ、少し調べてみよう。伯爵家では使用人にも虐待を?」

「私はあまり、関わりがなかったので詳しくないんですが……あの夜、そんなようなことをあの人たちが、言っていたので」

「わかった。悪いようにはしない、辛い記憶なのにすまないな」


 いいんです、とマリーアンは微笑んだ。

 確かにあの晩の記憶は恐ろしいものではあるけれど、今はこうしてレグラスやアンヌローザが自分を受け止めてくれるから、思い出すこと自体は辛くないのだ。

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