それはとある冬の夜
09/21 誤字修正しました、ご報告ありがとうございました!
吐く息が、白く凍る。
寒さのせいだけではなく震える足を懸命に前に出して、マリーアンはなんとか夜の街を歩いていた。
一歩歩むごとにぐらぐらと視界は回り、部屋着しかまとわぬ身体に冬の冷気が突き刺さる。本当なら今すぐにでも、何も考えず道の端に寝転がってしまいたい。けれども痛みと、そして、本能的な恐怖が彼女の意識を強引につなぎ止めていた。
すでに時刻は深夜であり、街にはほとんど人気がない。これが暖かな時期ならばまだ、陽気な酔客の集団でも見かけただろうが、めっきり寒さを増してきた今日、通り過ぎる人影は片手の指でも余るほどだ。
もっとも、人が来たとして、マリーアンはおそらくそれを避けていただろうけれど。
(……痛い……)
心臓が動くたび、ずくり、ずくりと両手の先から痛みが走る。身体は凍えそうなほど寒いのに、手だけは焼けるように熱かった。そこに乗っているハンカチに視線を落とし、マリーアンは唇を噛む。
元は色とりどりの糸で彩られていたハンカチは、今や彼女の血を吸って全体が赤黒く変色していた。皮膚に張り付いたまま乾きかけたそれが、支えるもののない布を強引に寄り添わせているのだ。
痛くて、辛くて、悲しくて。
けれど泣くまいと、マリーアンは前を向く。
それだけが、彼女にできるせめてもの抵抗だったから。
(きっと、もう二度と、私の指は針を持てない)
ふらついてしまった身体が、人を避けるように入り込んだ狭い路地の片壁に当たった。そのまま右肩を壁にこすりつけるようにして、マリーアンは進んでいく。どこへ行く当てもなかったが、一歩でも遠くへ行きたかったのだ。だらんと腕を垂らし、壁に身を預けて進む少女の姿は異様だったが、それを気にするものは誰もいない。家々の窓に明かりはなく、闇に沈んだガラスに映るのは最低限の手入れだけしかされていない濃藍の髪と生気をなくした同色の瞳だ。とはいえその髪も今は泥まみれになっているから、傍目には色などわからないかもしれない。
そんなひどい姿でも、誰に気にされることもないまま、マリーアンはただ、進んでいく。
すると、光の零れる窓が彼女の前に現れた。
(この家の方は、まだ起きているのね……)
こんな時間にわざわざ外を気にする者もいないだろうが、なにせ見た目が見た目だ、万一見つかれば騒がれるに違いない。なるべく早く通り過ぎようとして、何の気なしにマリーアンは窓の中を見た。
足が、止まる。
そこはまるで、楽園のような場所だった。
美しい光沢を放つ布が部屋の中に所狭しと掛けられており、テーブルの上には無造作に転がされたいくつもの糸巻きが見える。そのどれもが、一つとして同じ色がないのでないかと思うほど、沢山の色で染められていた。あまりに美しい光景にマリーアンは息を呑み、その瞬間だけは痛みも忘れて、四角く切り取られた色彩の楽園をただ、見つめることしか出来ずにいた。
(きれい)
ああ、その糸の一色でも。その布の一片でも。
この手に持って、針を通すことが出来たなら。
そうして己の愛した、懐かしい図柄を、描くことが出来たなら――。
「――俺の家に何か用か?」
低い声が耳に届いたのはその時だった。マリーアンはまるで夢に漂っているようだった己の意識を現実に引き戻し、声のした方に顔を向ける。見れば防寒着を着込んだ男性が、数歩離れた位置からこちらを見ていた。
「いいえ……明かりが点いていたので、気になっただけなんです。すみません」
自分に関わらせてはいけないと、マリーアンは首を横に振り立ち去ろうとする。しかし男性は丸いメガネの奥にある瞳をはっと見開いた。琥珀に金が混じったような、不思議な色の瞳だ。
まずいと気づき逃げ出そうとするより早く、大股で近づいてきた彼の手袋に覆われた手が強く肘を掴んでくる。皮膚が動き、びりりと痛みが走ってマリーアンは呻くことしかできなかった。
「っ、すまない! だが、……その手を、見せてくれ」
「あっ……!」
男性はマリーアンが何か言う前に、血まみれのハンカチをめくって中をのぞき込んだ。固まっていた血が剥がれたのか、ひきつれるような感覚とともに新たな痛みが襲ってくる。すでに深い部分まで苦痛がしみこんでいるというのに、それでもまだなお痛いと訴える己の両手が、いっそおかしかった。
「な、んて、むごいことを……っ!」
見なくても、わかっている。
そこにあるのはマリーアンの指だ。だが、それはもう指と呼べるようなものではない。
あり得ない方向にねじ曲がり、折れ、皮膚が破れているだろうそれは、もう何の役にも立たない、ただの肉と骨なのだ。
この指はもう、針を持つことも、布を持つことも、糸を通すことも出来はしない。
――可哀想ねぇ、マリーアン? 大好きなお母様みたいになれなくて、悲しいわねぇ? 刺繍どころの騒ぎじゃないわ、アンタの手は、これでもう二度と針を持つことすらできやしない! アハハハハ、いい気味よ! 平民のくせにあたしを馬鹿にしたアンタたちには、お似合いの最後だわ!! 一生後悔しながら、動かない手を眺めて泣けば良いのよ!! アハハハハ!!
狂ったような、勝ち誇ったような姉の哄笑が、まだ耳に残っている。
(私は、あの人たちを馬鹿にしたかったわけじゃない)
ただ、ただ、自分には、これしかなかっただけなのに。
「……悪いが、目を閉じるか、横を向いていて欲しい。直視しない方がいいだろうから」
何故かとても辛そうに呟いた男性が、そっとマリーアンの両手を自分の手で包むようにする。痛みにマリーアンは眉をひそめたが、言われたとおり横を向いた。どうせ何があったって、この手はもう戻らないのだ。相手が何をしようとも、これ以上悪くはなるまい。
「念のため聞くが、……こうなったのは、二十四時間以内だな?」
「? はい、そうですが……」
どういう意味だと、聞くより早く。
言葉通り骨に響くようだった痛みが、すっと消えていく。両手が熱くて、自分の意思でなく指が動く気配があった。何が起きているのか気になったが、見ない方がいいと言われていたのもあって、マリーアンはあえて横を向き続ける。しばらくして、もういいぞ、と男性の声がした。
恐る恐る、顔を戻す。
男性が頷いたのを見てから、そっと、自分の手に視線を落とす。
「君が早く来てくれたのが功を奏した。大丈夫だ、この手はちゃんと元通り動くようになる。もっとも、少し練習はいるけどな」
マリーアンの手は。
あんなにねじくれ曲がって、気味の悪い枯れ木のようになっていた、血まみれの指は。
血の跡こそまだ残っていたけれど、何事もなかったかのようにまっすぐに、十本全部、そこにあった。
昨日までと、何も変わらずに。
「あ……あ……」
もう二度と、針を持つことも、布を持つことも出来ないと思っていた。
日常の些細なことさえも、自分では出来ないと思っていた。
誰の手も借りられないのならば、もはや死ぬしかないと思っていた。
なのに、なのに。
今、この指は微かにだけれど、動いている。
他の誰でもなく、マリーアン自身の、意思によって。
「君の手を失うのは惜しいからな、間に合って本当に良かった。ところで、色々と事情があるんだろうが、少し話を聞かせては――」
男性の声が、酷く遠い。
世界が回る。空と地面が逆転する。おい、と慌てたような声がうっすら聞こえて。
マリーアンはそのまま、意識を手放した。