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18.ほっとひと息

 荒い息遣いだけがその場を支配していた。晶と賢吾は互いに視線を交わし合い、壊れた窓枠の方へと歩いていく。


 真下の植え込みがクッションになったのか、男は動かないながらも低く呻き声を上げていた。


「生きてますね。一応」

「ああ。そうみたいだな」

「晶!」


 下を覗き込み、ほっと安堵する晶と賢吾のもとに流が駆け寄ってきた。そのまま晶をぎゅっと抱きしめる。


「ばかやろう、心配させやがって」

「流……」


 晶は戸惑いながら、そっと流の背中に手を置いた。不安と痛みが溶けていくような温もりに、うっとりと目を閉じる。


「晶」

「……」


 流が抱擁を解きふたりの身体は少し離れた。身動ぎする気配に、晶はキスされるのだと思い、期待を込めて目を閉じたまま待つ。


 だが、柔らかいものが触れたのは唇にではなく、怪我をした額にだった。


「っ!?」

「痛いだろ? ごめんな、バンソーコ持ってなくて」

「それ、私があげたハンカチ……」


 流はジーンズのポケットから取り出したハンカチで晶の顔についた血を拭き取る。傷口に触るのは避け、血が目に入らないよう、そっと押さえるだけに留めていた。


「そーだよ。ちゃんと持ってるんだぜ? オレにしてはすごいだろ」

「嬉しい」


 流が歯を見せてニカッと笑う。晶は他の誰にも見せない、極上のはにかみ笑顔でそれに応えた。


 階下からは慌ただしい物音やサイレンがようやく聞こえてきていた。おそらく、警官隊の突入やら何やらがあったのだろう。耳を澄ませていた晶の表情が曇る。


「下におりて話を聞こうぜ。ほら、肩、貸してやる」

「ありがとう、流……!」

「当たり前だろ」


 明日菜を心配する晶の気持ちを一番に考える流は、擦り傷だらけの彼女を支えながら一階へと下りていった。彼らの目には賢吾たちは映っていないようだ。


「なぁに、アレ。いちゃいちゃしちゃって〜」


 美智子は肩をすくめると、賢吾の方へ歩いてきた。壁に背中を預け足を投げ出していた賢吾は、美智子を見上げると、足の位置を変えて彼女が横に座れるようにした。


「ものの見事に無視されたな」

「若いっていいわね〜。お互いのことしか見えてませ〜ん、って感じ」

「ははっ。…あてて!」

「ちょっと、大丈夫? 賢ちゃん」


 笑った拍子に傷口が引き攣れてしまい、賢吾は身体をくの字に曲げて悶絶した。美智子が心配そうに覗き込んでくるのに、片手を上げて「心配ない」とジェスチャーで応える。


「大丈夫だ。ありがとな」

「本当に? 実は今すぐ救急車呼んできたほうがいいんじゃない?」


 美智子はむ〜、と唇を尖らせてしかめ面をしてみせる。乱闘沙汰に巻き込まれて髪の毛は乱れているわ埃っぽいわの有り様だったが、それでも賢吾にとっては最高に可愛らしかった。つい笑顔が浮かんできて、またしても痛みに呻いてしまう。


「あ、ほら! どのくらい痛む? 最大が十だとしたら、どのくらい大丈夫じゃない感じ?」

「ん〜。九かな」

「ダメじゃないの! ちょっと待ってて、今ひとを呼んでくるから」

「いいって。もう少し休んだら自分で下りる。階段を担架で運ばれる方が怖いし。それより……」


 立ち上がろうとしていた美智子を引き留め、賢吾は真剣な顔をした。


「美智子、助けてくれてありがとな。いつも側にいてくれて、感謝してる」

「賢ちゃん」


 美智子の頬が一瞬のうちに紅く染まる。照れ隠しにわたわたと手を振りながら美智子は言った。


「わ、私こそ賢ちゃんにはいつも助けられてばっかりだわ! ていうか、今回ほとんど役に立ててなかったしぃ? 賢ちゃんは大活躍だったじゃない、あんな大きな男をズドーンて倒しちゃうし! 晶ちゃんのことも……!」


 ふいに賢吾の唇が美智子の口を塞ぎ、その言葉の残りを飲み込んだ。二度、三度と軽く重ねて、口づけが深くなっていく。


 こうしている今だけは、いつもの日常に戻れる気がして、美智子は目を閉じて触れ合う感覚だけに集中した。


 だが、それも長くは続かなかった。


「いっ、つ……」

「あ。やだ、ごめん!」

「いや、違う違う。殴られて口の中切れてただけだから」


 ふたりは顔を見合わせて笑った。


「とりあえず、終わった、な」

「そうね。まさかこんなことになるなんて思わなかったけど。刺激があると言えばそうなんだけど……二度とごめんよね」

「そうだなぁ。滞在中はもうこんなことないといいんだが」

「ちょっと賢ちゃん、フラグみたいなこと言うのやめてよ〜。まだ来たばっかりよ? これからたくさん見て回って写真撮って、思い出づくりするんだから〜」

「いや、まさか。もう巻き込まれるだけ巻き込まれて、ぜんぶ使っちまったよ、そういう運は。それより、今気づいたんだけど、やっぱり骨折れてる」

「ちょっと賢ちゃん! 大丈夫じゃないじゃない!」


 美智子が慌てて飛び出していく。バタバタと階段を下りていく音を聞きながら、賢吾は壁に頭をもたせかけて、ため息と共に微笑を漏らすのだった。

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