揺らぐ自信
目の前で赤い髪が揺れて落ちていった。
ボトリと音がして、足元にその髪の塊が転がって来る。
女の首はフューリズの方を向いていて、その目はただひたすらフューリズを見据えていた。
それは恐怖に歪んだ顔でもなく、悲しみに濡れた表情でもなく。
ただ慈しむような眼差しで、フューリズを見続けていた。
しばらくフューリズはその女の顔から目が離せなかった。
この女に自分の力は通用しなかった。従えさせようとしたが効果が無かったのだ。
高位の貴族や王族であればそんな事もあっただろう。しかし、こんなみすぼらしい女一人従えられない事は今まで無かった事で、その事にもフューリズは恐怖した。
「フューリズ様、大丈夫ですか?」
「え……? あ、あぁ、もちろん……大丈夫よ……」
「この者は住人に処理させます。ご安心ください。一つ確認ですが……お知り合いではありませんよね……?」
「し、知り合いな訳ないわ! こんな女! 私が知る訳ないでしょう!」
「そうですね。では荼毘に付さずともよろしいですね?」
「え、えぇ……」
「ではいつものように処理させます」
「……そう、ね……」
怪我人の場合は問題ないが、死人が出たとなれば大問題である。その命が脅かされない限り、いくら貴族や王族とは言え簡単に命を奪う等あってはならないのだ。
フューリズもその事は知っていたが、これまで感情に任せて思うように処罰を与えてきた結果、命を奪ってしまうことも起こってしまっていた。
そんな時、ローランに任せれば住人に遺体の処理をさせる手筈を整えてくれる。
解体し、公園に植えられている木の側に埋めるのだ。そうやって植えられてしまった人は何人もいる。誰も気にせずに利用する公園が、墓場のような役割を担っていたのだ。
もちろん住人は操られた状態でいるから、指示されれば抵抗する事なく従うし、それを見ている者も何事もないように振る舞う。だからこれが問題となることは無かった。
しかしフューリズには監視が付いている。国王フェルディナンがこの事を知らない筈はない。
それでもフューリズには何も出来ないでいた。結婚すれば落ち着くのではないかと、そんな淡い期待を持ち続けているしか出来なかったのだ。
人の命を奪う事を平然としてのけるフューリズだったが、今回は思うところがあった。
あの女は自分が母親だと言った。そんな事を言う者は今までいなかった。きっとそれは自分を謀ろうとしたのだろうと考えられるけれど、それだけではないように感じてしまう。
何かとんでもない事をしてしまったような気になった。そんなふうに思ったのは初めてだった。
「ローラン、帰ります」
「え? もうよろしいので?」
「疲れたの。帰ってゆっくりするわ」
「畏まりました」
すっかり気落ちしてしまったように見えたフューリズに、ローランは何も言えることは無かった。が、ローランもこんなフューリズを見るのは初めてだった。
自分が手にかけた女はフューリズとそっくりだった。フューリズに自分が母親だと名乗ったが、それを簡単に信じる等、ローランも愚かではない。
けれど、フューリズとあの女の纏う空気感と言うのか、雰囲気もよく似ていた事を思い出す。それは真似をしようとして出来る事ではない。体から滲み出るモノだからだ。
だとするならば、あの女の言うことが真実なのだろうか。そうであれば、フューリズは慈愛の女神の生まれ変わりではないのではないか。
ふとそんな事が頭を過るが、ローランがそう思ったところで何が変わる訳ではない。ローランも操られているのだ。
だが思考は正常だった。どんなに嫌だと心が思って拒否しても、フューリズの言うことには逆らえない。心と体が分離したかのような状態だった。
だからどんなにフューリズを嫌悪しても、顔を見れば敬うように微笑み、従順に従ってしまうのだった。
フューリズは疲れたと言って邸に帰ってきた。本当に疲れて気落ちしているように見えた。こんなフューリズを見るのは初めてだとローランは思った。
「フューリズ、帰ってきたんだね」
「え……お父様!」
居間には父親のブルクハルトがいた。それにはフューリズは嬉しくなって、思わず駆け寄ってその胸に飛び込んだ。
「どうしたんだい? フューリズ?」
「お父様が来てくださったから嬉しくて……!」
「ハハハ……まだまだ子供だね。三日後には王太子妃となるというのに」
「そんな意地悪言わないでください……お父様の前では、私はいつまでも子供でありたいのです」
「そうだな。すまなかったね。フューリズはいくつになっても、私の可愛い娘だよ」
「そうですわよね? 私はお父様の娘ですわよね?」
「そうだが……どうかしたのかい?」
「いえ……! なんでもありませんわ! でも随分と早く来てくださったのですね」
「こうやって親子で一緒にいられるのも出来なくなるからね。今まであまり側にいてやれなかったから、これが最後の娘孝行だとでも言うのかな?」
「娘孝行なんて聞いたことありませんわ。ふふ……でも嬉しいです。ありがとうございます」
さっきまでの暗い気持ちが嘘のように晴れてきた。
もしあの女が自分の母親だとしたら、自分は慈愛の女神の生まれ変わりではないのではと、フューリズもまた考えていたからだ。
しかしブルクハルトが来てくれた事で、フューリズの心は嘘のように晴れた。
出されたお茶をテラスで二人で飲み、穏やかな時間を過ごす。そんな時、フューリズは幸せを感じるのだ。
「ねぇお父様、私が生まれた時の事を教えて頂けないかしら」
「生まれた時……そうだね。フューリズはロシェル……お前の母親のお腹にいた時から元気でね。よくお腹を蹴っていたんだよ」
「まぁ、そうでしたの?」
「フューリズを宿してからロシェルは元気になってね。それまでは病弱でよく寝込んでいたんだよ。それが妊娠をきっかけにすっかり元気になって、よく街へ行くようになってね。それには私は気が気じゃなかった」
「ふふ……その様子が目に浮かぶようです」
「病弱であってもロシェルはしおらしいタイプではなかったからね。元気なのにじっとしていられないとばかりに、あっちへこっちへ行っては皆を心配させていたよ。じっとしていられないのはお前に似ているのかな?」
「そうかも! 私はお母様に似たんですわね!」
「ハハハ、そうだね。本当はね、ロシェルは子供を産めない体だと言われていたんだよ。でもお前を授かった時に、「この子は絶対に産まなければならない!」って言い張ってね。誰になにを言われても、ロシェルの心は動かせなかったんだ」
「お母様はその命と引き換えに私を……」
「あぁ、すまない! その……それは気にしないでほしいのだ! フューリズの命はロシェルが望み、そして私も望んだ事であったのだ!」
「分かっていますわお父様。そんなに焦らなくとも大丈夫ですわよ」
「う、うむ……なら良かった……」
「それからは……どうでしたの?」
「あぁ……私は仕事で家を離れなくてはならなくてね。私が不在の間にお前が産まれたんだよ。知らせを受けて急いで帰ったのだが、その時にはもうロシェルは……」
「そうでしたのね……」
「ロシェルの傍らに眠るお前を初めて見た時、凄く愛しいと思ったよ。可愛らしくてね。鼻と口元がロシェルに、似、て……」
「お父様?」
「あ、いや、なんでもない! とにかく嬉しかったよ。こんなに可愛い娘が生まれてきてくれた事がね」
「お父様ったら……」
ふとブルクハルトはその時の事を思い出した。あの後フューリズはすぐに王都に連れていかれ、その時の事をすっかり忘れてしまっていたが、あの時自分は産まれたばかりの我が子を見て、ロシェルに鼻と口元が似ていると思ったのだ。
今はそんなふうには感じない。それでも、子供は成長と共に顔つきは変わっていく。だから何も可笑しな事はない。そう思い直して僅かに浮かんだ疑問を払拭させた。
「それからすぐに私は王都に来たのですか?」
「そうだね。夜にお前が産まれて、次の日の夜だったかな。お前に母乳を与える為に、乳飲み子を抱える魔女に母乳を分けて貰っていたんだよ」
「魔女に……?」
「そうだよ。赤い髪のね。美しい人だったよ。うちの邸で働いて貰っていたんだ。逃げ出してしまったんだけどね」
「赤い髪の?! ひ、瞳、は?!」
「瞳? そう言えば瞳も赤かったかな。フューリズと同じ日に生まれた赤子を抱えて出ていったと言っていたよ。何か不満があったのかもしれないね」
「赤い髪に赤い瞳……」
「どうしたんだい? フューリズ?」
「いえ……! なんでもありません!」
「そうかい?」
「えぇ……同じ日に生まれた子がいたんですね……」
「あぁ。その子も確か、髪も瞳も魔女に似て赤かったようだね」
「そうなんですね……!」
「何か気になる事でもあったか?」
「いいえ! そんな事は! そ、それから私はすぐに連れて行かれたのですね?!」
「そうだ。すぐだったな。突然王城から使者がやって来てね。フューリズを慈愛の女神の生まれ変わりだと預言者が告げたそうだよ。私はフューリズを取り上げられそうになっていたたまれない気持ちになったが、母親も亡くなり、私も邸にいれない事が多いのでね。ここで育てるよりは環境がいいのではないかと思ったんだよ」
「そうでしたのね……」
「離れるのは名残惜しかったんだがね」
「その時にこの腕輪を着けてくださったのですか?」
「ん? 腕輪?」
「えぇ……この腕輪です。私の左手首にある……」
「それはフェルディナン陛下から賜った物ではないのか?」
「え……」
「陛下はフューリズを大切にすると誓ってくださったのでね。幸運を引き寄せる為に左手首に着けてくださったと思っていたんだが……違うのか?」
「そ、そうでしたわ! 私ったら、すっかり忘れてしまっていて!」
「昔の事だからね。陛下はそれだけフューリズを思ってくださったという事だよ」
「そう、ですわ……ね……」
フューリズはこの腕輪はブルクハルトからの贈り物だと思っていた。
まだ幼い頃、フェルディナンにこの腕輪は王城に来る前から着けてあったと聞かされた事があった。
父親に会えなくて寂しそうにしているフューリズに、離れ離れになる我が子を思ってブルクハルトが贈ったのだろうとフェルディナンが言っていたのを思い出す。
ではこれは誰が着けたのか?
ブルクハルトが忘れてしまっているのか? いや、そんな事はないだろう。離れ離れになる娘に贈った物を忘れるなんて、そんな事はあり得ないと考えられる。
では誰に? いつ?
分からない。そしてフューリズは分かりたくないとも思っていた。答えを出してはいけない気がした。
赤い髪と赤い瞳の魔女……
今日会った、自分が母親だと言った女……
考えるな。繋げるな。頭の中でそんな言葉が渦巻く。
私は慈愛の女神の生まれ変わり
私は慈愛の女神の生まれ変わり
私は慈愛の女神の生まれ変わり
何度も心でそう呟いて、フューリズは自分を鼓舞した。
そうしないと、何かが崩れていきそうな気がしたのだった。




