百万回『鬱』と書いたなら

初めて書いた短編小説となります。

元々は長編で予定していたのですが

筆が止まってしまい、頑張って短編に

しました。

優しい心で読んで頂けると幸いです

　穏やかに日が射す午前の事。とある高校の国語の授業の最中、少女はひたすらにシャープペンシルをノート上に走らせていた。

　少女の机の上には教科書と筆記用具の他に二冊のノートがある。片方のノートには黒板をそのまま写した様な一般的な高校生らしい内容。そして、残りの一冊には同じ文字ばかりが刻まれていた。

『鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱

　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱

　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱』

　規則正しく並ぶ『鬱』の文字。それを刻む少女の表情は他のクラスメートと比べても大差のない無表情。少女の異様な行動は日常の空気に溶けている。

　国語教師の朗読が眠気を誘うような朗らかな時間。何事もなく授業の終わりまで続くかと思われたが、少女の隣に座る少年が少女の異常な行動を目にしてしまった。

　少年自身、自分の顔が強張るのをはっきりと自覚した。これが『死』とか『呪』とかだったなら、悲鳴を上げていた自信すらあった。それにしたってドン引きしていた。

　完全に病んでいる。隣同士ではあったが少年と少女は大して面識は無かった。喋った事はあったし、今まではちょっと無口の普通の女の子という印象だった。

　彼氏にでも振られたのか、他に何かあったのか、少年には分からなかったが触らぬ神に祟りなしと関わらない事を決意した。

　結局の所、何時もと変わらず授業は進み登場人物の心情は明らかにされ、終了のチャイムがなり教室が喧騒を取り戻す。

　10分の休憩時間が始まると若人達はそれぞれ友人の下へと集まっていく。少女の気味の悪い行動を見た少年も例に漏れる事なく友人に近寄った。

　少年の口は誰に縫われる事も無かった為、少年はちょっとばかし自慢気に獲得したばかりのヤバい話を口にした。

　内緒話の様に拡散された話題は徐々に広がっていく。少女に友人は居ないのか、直接尋ねる者は居なかったが噂は簡単にクラス中に広まった。

　少女は休み時間の間は『鬱』という字を書かなかった。それが何故かを聞き出す者がいなかった為に不明である。授業の終わりと共にペンは置かれ、ノートは閉じられ、代わりに少女の手には文庫本が収まる。何の変哲もない読書をする姿はいつも通りの少女だ。

　異変があるという認識だけが変わり、１つ２つと授業は進み。少女の書き込む『鬱』の文字はさらに増える。やけに綺麗で整った『鬱』がゲシュタルト崩壊を招いてなお、余るくらいに並んでいく。変わらず少女は無表情だ。

　昼休み。ついに少女へと声をかける者が現れた。男女いる学級委員長の内、女子である方の委員長だ。彼女は絵に描いた様な優しい人間だった。困っている人が居れば助けるべきだと、建前なく言える様な人間だ。

　委員長は噂を耳にして打算なく少女へと近付いた。

　「大丈夫ですか？」

　ゆったりと角のない声色で委員長は少女に問う。

　無理に傷口に触らない様に、じっくりと話せる様に、慣れた様子で悩みを抱えていそうな人間の悩み相談へと誘う。その委員長の姿に「また、良い子ぶってる」と教室の隅でこっそり誰かが呟く。

　少女は手元の本から顔を上げて、堂々と委員長を見据えると「どうしたんですか？」なんて聞き返した。知らばっくれる訳でなく、本当に不思議そうに何故自分へと声を掛けるのかと口にしたのだ。

　人助けや悩み相談を何人にも行ってきた委員長としても違和感の塊をうっかり飲み込んでしまったような感覚だった。実は悩みなんて無いのじゃないかと錯覚したが、噂が真実らしいのは聞いている。

　「えーと、ちょっと元気無さそうに見えたから何か力になれないかなって。」

　「……うーん、元気無さそうに見えますか？昨日睡眠時間が足りなかったのかも？」

　「あはは、ちゃんと寝なきゃ駄目ですよ。夜更かしは健康に良くないですから。」

　会話はどちらも上部を撫でるだけで、うすら寒い空気がやりとりされる。彼女たちを野次馬根性で眺めていたクラスメート達も何処か気持ち悪さを感じていた。

　衆人環視の中では少女の内心へ触れるべきではないだろうと委員長は「放課後に少し話しませんか？」と言って、少女は簡単に頷いた。

　委員長は一先ずその場を去った。少しだけ大変そうだと感じたので教師へと放課後空き教室を使う許可を求めに教室は後にした。

　少女はその背中を見つめるなか、一瞬申し訳無さそうな顔をした。

『鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱

　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱

　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱』

　午後の授業でも少女は一冊のノートに『鬱』と書き続けた。教師が横を通る際には黒板を写す方のノートを上に置いて隠した。だから、授業は止まる事なく進んだ。

　放課後、委員長は掃除用具を綺麗に整え仕舞うと少女を空き教室へと誘う。

　「ここ、ちょっと雰囲気良いと思いませんか。静かなのに、誰かの声が遠くから聞こえてくるのが落ち着く気がするんです。」

　四階西校舎の端にポツリとある空き教室。文系の部活が少し離れた所にあり、吹奏楽部の演奏が微かに聞こえる。春先の風にゆったりと薄黄色のカーテンが揺れる。

　何となく落ち着く場所という雰囲気がある。委員長は少しだけ歪に並んだ勉強机の一つから椅子を奪って別の勉強机へと向きを変更した。

　委員長は机の向こうへ少女を座らせ対談を始めた。

　「あっ、時間とか大丈夫でしたか？用事とか聞くの忘れちゃってた。ごめんなさい。」

　「何もなかったから大丈夫です。」

　一対の会話の後に沈黙が訪れる。委員長は少女から会話を切り出すのを待っていたが、少女は口を開く様子はない。自分から話があると招待した委員長がこのまま待つ訳にもいかず、本題を切り出した。

　「…貴方が何に悩んでいるか聞かせて頂いていいですか？」

　「うーん、数学の授業が難しくて次のテストどうしようかなって悩んでますけど…。でも、そんなに深刻な話じゃないですよ。ちゃんと後で勉強しますから。」

　少女とて、何故普段関わりの薄い委員長が自分を呼び出した理由など察しがついているだろう。だが、少女はそれを悩みとして扱う事はない。適当な悩みを吐いた。

　委員長もその事に気付き、聞き方を変える。

　「どうして『鬱』と書いていたのですか？」

　こんな直球な聞き方は委員長の好むものではなかった。どうしたって責めるように聞こえるからだ。だけど、他に方法はないように思えた。

　「気になりませんか？」

　今度は少女から委員長へと問う。

　「もし、100万回『鬱』って書いたら

　　　　　どうなると思います？」

　「え？」

　酷く簡単に委員長の頭の中で「精神的におかしくなる」という答えが見つかる。

　「止めた方が良いですよ。きっと、良いことなんて一つもない。」

　どんな人間だって同じ様な答えを出すだろう。それが委員長の様な正しくある事を大切に生きる人間でなくても常識的な判断だ。

「でも」

「こうやって悩みを聞きに来てもらえました。」

　今度は委員長の頭に否定のための言葉は見つからなかった。自分の行動が少女の言い分の証拠になっているからだ。だが、否定出来ないからと少女への説得を諦める事を委員長は是としない。この行為が彼女なりの悲鳴なのだと判断し、手を差しのべる。

「なるほど、一理あるかもしれません。」

「だけど、そんなに難しい漢字ばかり書いていると腱鞘炎になっちゃいますよ？」

　人好きのする笑みを浮かべ、誰も彼も救ってしまいそうな声色で彼女の正義が動く。暗闇に差す一筋の光の様に、救いを求める人に可能性を見せる。

「私と友達になりませんか？きっと、『鬱』って文字を沢山書くより楽しい時間にしてみせますよ？」

　この伸ばされた手を取るのだと、ひっぱり上げてやるのだと、それは名言なんかより確かなものとして伸ばされた。少女が微笑む。委員長は少女の表情に安堵した。

　次の言葉を聞くまでは。

「うん、友達にはなりたいです。でも、書くのは止めないと思うからやめておきましょう。」

　委員長は少女の考えを理解していなかった。少女は既に凡人ながらに壊れていた。少女には委員長の理解が届かぬ破滅願望が巣食っていた。

　「私、自分が嫌いなんです。努力が出来ないんです。それこそ、死にそうって感じても出来ないぐらい。すぐ逃げちゃうんです。」

　努力とは才能である。同じ環境にあっても出来る者と出来る者で分かれる。後天的に簡単に得られるものでもない。努力の出来ない人間は存在する。

「それが嫌で死のうと思ったんですけど、駄目でした。怖くなってしまって。」

「自分じゃ全部無理だって分かったんです。私、助けてくれるヒーローを待ってるのと同じくらい、壊してくれる誰かを待ってるんです。」

　少女は目を奪われてしまう様な美しく恍惚とした表情を浮かべる。少女にとって自分は先のない人間だった。死のうと決意した時には全てを諦めている。

　正当な人間から掛け離れて尚、人間性の塊の様な姿に委員長は目を見張る。困っている人を助けようとした差し伸べた手に今、自分の全てを救うというのかと問われている。

　委員長は他人の人生の重さという奴を改めて実感した。戸惑いが一瞬を永遠に変えて思考を巡らす。生唾が喉を伝う。

　自分で歩けないから、自らを激流に投げ込む。委員長は少女の言動にそんなイメージを持った。激流に飲まれ、溺れ死ぬことにすら希望を見ている。少女が『鬱』と書き連ね続けるというのなら、クラスメート達は異端となった少女をどう扱うだろうか。

　気味が悪い存在へ、止めろと言って止めない存在へ、どんなに良くても冷たい言葉は吐かれる事だろう。もしかしたら、少女は途中で『鬱』と書くのを止めるのではないか。彼女は凡人だ。自分で努力が出来ないと言っている。

　だけど、これは少女にとって努力ではない。諦めのついてしまった人生からの逃走だ。死にたいという言葉にする人間は、根本的に逃げたいと言っているのだ。

　今の環境や犯してしまった過ち、何もかもから逃げ出せる手段が死というだけだ。少女の行為が逃走ならば、少女が自分が壊れるまで続ける可能性は否定出来ない。

「それでも、それでもいいよ。」

　あぁ、なんという事だろう。良心というものが人間の悪夢である日があるなんて。自我など捨てて、自分の為に生きたいと嘆く日が来るなんて。何とか誤魔化して友達になるなんて話を有耶無耶にだって出来るのに。

「私がヒーローになってみせるよ」

　委員長の宣言に少女は酷く悲しげな顔をした。

「何の得もないですよ？それに、自分でどうにかする日が来るかもしれない。先生とかカウンセラーとか、そういう義務みたいなのがある人は他に居るんですから委員長が無理をする事ないですよ。」

　少女は委員長が言葉を覆すのを待って数秒の間待ったが、委員長は少女の目を真正面から見つめている。

「ごめんなさい。」

　少女は謝罪の後に付け足すべき言葉を知っていたが、少女の思想は変わらない。委員長の優しさに胸打たれて『鬱』という文字を書かないと宣言すれば、全うな何者かになれるかもしれない。

　けれど、少女は変われなかった。誰かの言葉で自分を変える事は出来なかった。少女はまた、努力が出来なかった。一歩踏み出せば掴める幸福へ手を伸ばさなかった。

　もし、もしもだ。100万回『鬱』という文字を書いても、委員長が友達のままだったなら。今度こそ、努力が出来るのだろうか。

　身勝手な言い分にまた１つ自分を嫌悪して、「諦めてくれる方が嬉しいかもです」と本心ながらも口にしたくなかった言葉を呟いて少女は空き教室を出た。

　既に夕日が机の影を最大まで伸ばしている。そろそろ帰らなければ日が暮れる事を知って委員長も自分の鞄を拾い上げ、空き教室を出ていく。

　後日も少女は『鬱』という字をノートへ刻む。

　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱

　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱　鬱』

　『鬱』と書き連ねた初めのノートは埋め尽くされた。少なくとも少女は簡単に諦めたのではないらしい。

　ノートの終わりには『幸』という字があった。

　幸せになれたのか、それとも幸せになれず求めたからこそなのか。

　100万回『鬱』と書こうと思ったのなら、人はどうなるのだろう。誰かが助けてくれるのだろうか、それとも人生を壊してしまうのだろうか。

　100万回『鬱』と書いたなら、その時は？

どうして、こんなダメ人間へ期待してしまう

のでしょう。自分という人間が嫌いな筈なのに。