プロローグ 〜紅月千夜の生涯〜
初めまして。ハネルと申します。
このお話なのですが、かなりの長編になる事と思われます。
しかし、必ずハッピーエンドで終了する事をお約束します。
それでは、よろしくお願いします<(_ _)>
〜???〜
────!!!
………!!?!
周囲に漂うのは濃厚な血の香り、耳に入ってくるのは無数の怒号や悲鳴、そして目に映るのは、鬼気迫る表情で剣を構え、こちら側の勢力を殺さんとする大勢の人々。
「おいッ!ボサっとす───……」
仲間と思われる隣に並んでいた男が、口を開いた瞬間、側頭部に敵の放った弓矢が射さり、そのまま倒れた。
ギィンッ!!
そうこうしている内に、降り注ぐ矢の雨は止み、今度は距離を詰めてきた敵であろう中年の男が、勢い良く剣を振り下ろしてきた。
それを、手にしていた剣で抑え込む。
「死ね……!!殺してやるッッ!!バルザの仇ィッッ!!」
名も知らぬ男は、家族か、戦友か、定かではないが、バルザという者の仇を討つべく、血走った目でこちらの剣を弾き返し、再び斬り掛る体勢に入った。
――――――ザンッ!
「……あ……がッ…………!」
その隙を突き、男の胴の鎧の切れ目を横薙ぎに斬り裂いた。
すぐに傷口からは大量の血が流れ、そのまま、声にならない声を上げながら、こちらを睨み続け、地へと倒れた。
この男が最期の瞬間まで、殺意以外に何を思っていたのか分からないが、きっと、何か大事なものを、人を奪ってしまったのだろう。
そして、手にした剣で、彼が生まれてきてから積み重ねてきた人生すらも、たった今、奪った。
……しかし、奪う者には、必ず奪われる時が来る。
「くたばりやがれェェッッッ!!!」
男の死に激怒した彼の仲間が、叫びながらこちらへと飛びかかってきた。
咄嗟の事に反応が遅れ、刃が真っ直ぐ頭に振り下ろされる瞬間、確かに見た。
刃に反射した、紛れもない俺自身の顔を。
……しかし、次に気が付いた時は、自身を除いた視界の全てが黒へと染まり、目の前に炎で象られた、巨大な『鬼』の顔が現れた。
『……此度の生も、我が糧となろう』
『鬼』はそう告げると、俺の身体を巨大な口でひと息に飲み込んだ。
──────────────────────
〜PC室〜
キーンコーンカーンコーン………
「……ん」
「……以上で授業は終わりだ。次回までにちゃんとプロフィールを作っておくように。放課後にパソコン室を使いたい場合は、俺に許可を取ってくれ」
鐘の音に目を覚ますと、授業が終わっていた。
PCの授業担当、そしてこのクラスを受け持つ教師、田島が締めの言葉を口にすると、日直が挨拶をし、本日最後の授業は終了した。
(掃除も無いし……帰るか……)
硬い枕と化していた教科書と、筆入れを纏めている時、田島の声が飛んできた。
「あぁ、それと……千夜、紅月千夜。俺の所に来るように」
どうやらすぐには帰れなくなったようだ、呼ばれたからには行かねばならない。
荷物をその場に置き、田島の元へと向かう。
「俺のコンピューターの授業はやっぱりつまらんか。いや、教師不足で体育教師の俺が不慣れなのもあるな。ワハハハハ!!」
田島は笑いながら自分の頭をかく。
確かに、田島の専門は体育であり、パソコン担当ではない。
しかし彼なりに努力をし、生徒に分かりやすく説明出来るくらいには、頭に入っているようだ。
決してつまらないという事もなく、ユーモアを混じえた授業は、他の生徒達に人気だ。
「いえ、先生の授業は楽しいです。俺の方に問題があるんです」
「……『眠気』か」
田島は困った表情で、無精髭の生えた顎をかく。
田島も含め、他の教師も知っている、千夜の持つ『持病』であり、それは中学に入った頃から起こり始めた。
……突然訪れる『眠気』、そしてその眠気には必ず『夢』がついてまわる。
それは同じであり、同じではない夢。
……ある時は、戦国時代の足軽。
……またある時は、どこかの国の貴族。
……そしてまたある時は……女。
時代、性別、そして、身分、全てが違う。
しかし、しかしだ。
水面に映る自分の顔を見た時、手鏡を見た時、相手の持つ剣が、俺を斬り裂く瞬間、剣に反射した自分の顔を見た時その全ての顔が、俺と全く同じ顔をしている。
俺の見る夢なのだから当然、俺なのは間違いないだろう。
しかしこうもシチュエーションが違う夢で、その全てが自分自身、そして最後は必ず死を迎え、謎の『鬼』に喰われる。
病院にも行ったが原因は不明、医者は過去のストレスと、当時の状況から脱却をしたいという思いに関連した、一種の変身願望だろう、と結論付けた。
「………俺は脳みそまで筋肉みたいな奴だ。だが何か悩みがあったら遠慮無く言ってくれ。脳筋なりに一緒に悩んで、答えを出してやりたいんだ」
「ありがとうございます、先生」
今どき、これ程までに生徒に親身になり、授業に熱心な教師はそういないだろう、田島先生に礼を言い、千夜は荷物を取りつつPC室を出た。
〜アーケード〜
部活に所属している訳でもない千夜は、田島の話が終わってすぐに学校を出て帰路に着いていた。
重い灰色の空からは、ちらほらと雪が降ってきていた。
帰りの道すがら、自己紹介を考える。
先程、田島先生も言っていたが、パソコンを利用する授業の一環で、自分のプロフィールを作り発表しろ、との事らしい。
誰に向けた訳でもない、自分のプロフィールの確認だ。
俺は紅月千夜。
名前の由来は、秋生まれなのと、四字熟語の「一日千秋」から来ていると聞いた。
一日千秋の意味は、一日が千日に感じる程に、非常に待ち遠しい事という事らしい。
両親は俺が産まれてくるのを、今か今かと楽しみにしていた、そして俺は遂に秋の夜、産声をあげた。
職業は何の特徴もない高校に通う、ただの高校2年生。
趣味は料理、特技は軽めの武道、料理は小学生の頃から、武道は現在の俺の保護者である爺さんから学んだ。
最も、普段の生活で料理こそ使えど、武道が日常で何か役に立つかと聞かれれば答えは「No」だ。
じゃあ人へ向けて使いたいか、と聞かれれば、これも「No」である。
誰も傷つかない平和な人生こそが何よりだ。
夢の中で嫌という程見ている容姿については、どこどこの俳優に似ている、などとは言われた事も無いが、まぁ見れなくはない見た目はしているんじゃないだろうか、多分。
それと、俺は人間が嫌いだ。
いや、誰も彼も、女子供も全員嫌いという訳では無い。
嫌いなのは私欲の為に人を傷付け、利用するような奴だ、幼少期からそんな悪意に晒されていれば、そうも育つだろう。
「センヤ、困っている人がいたら、貴方が手を差し伸べてあげなさい」
底抜けに優しかった両親はことある事にそう言っていたが、俺はその事に未だ疑問を持っている。
一体何が優しさなのだろうか、その優しさは、悪意を向ける者にも与えなければいけないのだろうか。
優しければ、命が奪われても仕方がないのだろうか。
………これから話す事は、全てが終わった後に、男の口から語られた言葉を、警察が紙に纏めて俺に手渡してきた内容だ。
重い心中とは対照的に、この軽い紙切れに両親の最期が書かれている事に虚しさを感じた事は今でも忘れられない。
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俺が小学生の頃、ある男が家にやって来た事だった、年齢は20代後半だろうか。
まだ若い男が数週間前から、住宅街の中にポツンと建つ、既に閉店した店の軒下に佇んでいた。
風呂に入っている様子もなく、日に日に男の髪は脂で光沢を放ち、髭も伸び放題でみすぼらしくなっていった。
そこを通りかかる人々は口々に「不気味だ」「ホームレスか?」「警察を呼んだ方が良い」と言った。
奇異の視線や、悪口を投げかける者は数多くいたが、誰も彼に手を差しのべるものはいなかった。
そんな中、俺の母さんは彼を見つけるなりこう言った。
「お腹……空いてませんか?」
母さんがおにぎりやパンなどを男に渡すと、彼はそれを貪り食うように口の中へ突っ込んだ。
ペットボトルのお茶も渡し、男はそれを一息に飲み干すと、小声で礼を言った。
余程腹が減っていたのだろう、荒い息を立てる男に、母さんは微笑みながら言った。
「もし良かったらウチのお風呂に入っていきません?困った時はお互い様ですから!」
普通の人なら有り得ないだろう、しかし両親は本当に人を疑う事を知らず、よくこうして知らない人を連れてくる。
過去に連れてきた人々が、少ししてにお礼を言いに来る事もザラであった。
「ただいま!千夜!」
「おかえり、母さん。後ろのお兄さんもこんにちは」
「……こんにちは」
千夜が塾に行く為、靴を履こうとした所、玄関のドアが開き、母さんと知らない男性の2人が現れた。
いつも通りの事だったので、千夜は特に驚きもせずに男にも挨拶をした。
「じゃあ俺は塾に行ってくるよ」
「あら?今日は塾だったかしら?行ってらっしゃい!」
「うん、行ってくる」
男の横を通り過ぎる際、前髪に隠れた男の視線が、ギラギラとこちらを追い掛けて来ているのを不気味に思ったが、塾の時間が迫っていた為に、特に気にせず家を出た。
塾への道のりは家から歩いて10分、走れば5分で着く距離にあった。
千夜は小走りで住宅街を抜け、繁華街と住宅街の交わる場所に建てられた塾へと向かった。
「こんばんは、よろしくお願いします」
「こんばんは、千夜くん。今日の飴はミルクキャンディだよ」
塾の入口にはカゴが置かれており、中には飴が入っていて、来たら1個か2個、取って食べながら授業を受けたり、問題を解いたりする。
これは糖分を取りながら勉強をすると、脳に栄養が行って記憶力がアップ!という、先生の持論からであった。
飴を1つ口に放り込み、千夜は学校の友達や、他校だが仲の良い奴らに声を掛け、先生から渡されたテキストを解き始めた。
暫くして、生徒達が黙々と問題を解く中、不意に塾の先生の携帯が鳴り、先生は皆の邪魔をしない様に、部屋の奥へと引っ込んだ。
千夜を含め、他の生徒達も特に気にせず、渡された問題を解き続けた。
「……はい、ええ……な……ッ!なんだってッ!!!?」
部屋の奥からでも聞こえてくる程の先生の声に、生徒達は、ただならぬものを感じ、ザワザワと話し始めた。
少しして、部屋の奥から小走りで先生が戻って来たが、好奇心から話を聞こうと思っていた生徒達は、出てきた先生の表情が、とても話を聞ける雰囲気ではなかった為、固唾を呑んで次の先生の行動を見守った。
先生が机に座った生徒たちをかき分けるように、千夜の元へと向かってくるのが分かった。
そして、千夜の机の前に立ち止まり、荒い息でこう告げた。
「千夜君……!き、君のお父さんとお母さんが……変な男にナイフで刺されたらしい……!」
「……!」
……ダッ!
「千夜君!」
テキストや筆入れが床へ投げ出されるのも構わず、机と椅子を倒し走り出した。
塾を抜け出し、先程来た道を全速力で戻るが、身体と心の速度が追い付かず、とてももどかしかったのを今でも覚えている。
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〜千夜の自宅前〜
「う……嘘だ……そんな…………」
息を荒らげ、家に着いた千夜を待っていたのは、暗闇に浮かび上がる赤いサイレンの群れと、野次馬と警察に見守られながら、玄関から担架で運び出される、既に息を引き取った両親の姿だった。
「そんな……父さん……!母さん……!なんで……さっきまで、さっきまで普通に話してたのに……!」
既に息絶えた両親の亡骸に駆け寄る。
2人ともまだ身体が温かく、残酷にも、先程までいつもと変わらずに生きていた事を、千夜に静かに訴えかけていた。
突然の出来事に、そして両親が亡くなったという事実で纏まらない頭に、近くの野次馬の声が聞こえてきた。
「可哀想に……お子さんはまだ小さいらしい。それにしても知らない人間を家にあげるか?」
「殺した後に自分で連絡してきたらしい。紅月さんもなんでまた連れ込んだんだか……」
「あんな人助けるから……」
野次馬が口々に勝手な事を抜かす。
この場にいる野次馬には、普段から千夜の両親に困り事を相談し、手助けをしてもらった者達が数多く存在した。
助けてもらう時ばかり良い顔をし、2人が亡くなった途端、手のひらを返すように批判を始める者達に、千夜は我慢が出来なかった。
「……ふざけるな……!好き勝手言いやがって……ッ!!」
「父さんや母さんに助けられた奴だってここには何人もいるはずだ!!それなのに……!亡くなった途端にその態度かよ!!ふざけんな……ふざけんなよッ!!」
怒りと悲しみに震え、こちらを睨み付ける千夜に、野次馬達は気まずそうな顔を浮かべ、途端に黙った。
そして1人、また1人と蜘蛛の子を散らすように消え、暫くして辺りには警察関係者達のみが、現場検証の為に集まっていた。
「……君が千夜君だね?……こんな時に申し訳ない、少し話を聞かせてくれないか。一体……ご両親に何があったんだ……?」
「警部……!今、彼はそんな状態じゃありません!やめてください、後にしてもらえませんか……!!子供なんですよ!」
千夜は警察の1人に肩を叩かれ、被害者の家族として聴取を求められたが、もう1人の若い刑事がそれを咎める。
しかし、今の千夜には警察達のやり取りが耳に入る事は無かった。
両親が亡くなったという事実が、思考や身体の全てに重く
頬を熱い涙が流れ落ちる。幾つも、幾つも。
その後の事は覚えていない。
いつの間にか千夜は病院に移され、やっと自分の意識が自分の元にうっすらと戻り始めていた時には、既に数週間の時が経っていた。
もう事件の事を話しても良いだろう、と判断され、手渡された聴取内容の紙には、不幸な自分と違い、幸せな家庭を築いているのを見せ付けられ、全部をぶっ潰してやりたくなった、と男が語った内容が詳細に書かれていた。
千夜の両親は2人とも、既に親が亡くなっており、千夜も法廷に呼べる状態ではないと判断された。
犯行に計画性はなく、突発的な行動と断定され、2人を殺害しても死刑にはならず、執行猶予無しの無期懲役となった。
しかし、本当の地獄はここからだった。
千夜の身柄等の難しい手続きは、あまり親交のない一番近い親戚の男が、千夜が軽い心神喪失状態にあった時に行ったらしく、程なくして千夜はその男の元へと引き取られた。
「しっかしお前の両親は底抜けの馬鹿だなァ……だから俺はこうして美味〜い上等な酒が飲める!世の中は弱肉強食って奴よ。馬鹿が死に、俺みたいな賢い奴が生き残る!」
親戚の男は手続き中や、保護施設の担当員の前では善良そうに振舞い、職に就いていると言っていたが、それは一時的なもので、担当員がすぐに来なくなると、さっさと仕事を辞めてしまった。
この男は狡猾であり、金の匂いにはとても敏感な人間だった。
「父さんと母さんを悪く言うな……!」
「なんだァ?その目は?誰のおかげで生きてけると思ってんだよ!調子こくなよこのクソガキがァッ!!」
ドガッッ!!
「ぐっ……ガハッ……!」
男に思い切り腹を蹴られた衝撃で、壁に打ち付けられた千夜は、痛みに腹を抱え蹲る。
それを全く気にする事無く、男は再び酒瓶を空にした。
「チッ……だからガキは嫌いなんだよなぁ。恩っていうモンを知らねぇ。上下関係ってのを仕込まねぇとな」
程なくして、青アザの絶えない千夜を見掛けた近所の人間によって通報され、男は捕まったが、千夜は再び親戚の元をたらい回しにされ、その度に両親が残した金を食い荒らされた。
彼の身元が児童相談所等に引き渡される事もなく、虐待を受けてはそれが発覚し、また欲深い別の親戚の元へ移される。
4年生から6年生まで、各地を転々とし、2年間まともに通えなかった小学校を、形だけで卒業した3月。
最後に千夜は遠縁だという、轟鬼雷造と言う高齢の男性の元に移された。
千夜の担当員はさっさと帰ってしまい、彼だけが雷造の家の前に残された。
千夜は無言でインターホンを押し、雷造が出てくるのを待った。
少しして、中で人の気配がし、玄関の扉が開いて、中から厳格そうな顔をした、高齢の男性が現れた。
彼がこの家の主人であり、何度目か分からない、千夜の新たな保護責任者の雷造本人であった。
千夜と対面した雷造は、まじまじと、彼の痣のある身体、そして、ぼんやりとしている千夜の目をまっすぐと見た。
少しの沈黙の後、雷造はゆっくりと口を開いた。
「……お前さん、色々苦労してきたみたいだな。今まで何があったかは聞きはしねぇさ……好きにしな」
千夜は俯くと、雷造に向かって、何かをボソボソと話し始めた。
雷造もそれを遮る事も無く、目の前に立つ少年の言葉の1つ1つを、ゆっくりと聞く事にした。
「……ありがとう……ございます……これから、よろしくお願いします……頑張って働きます……何でもしますから……お金は、もう殆どありません……許してください……ごめんなさい……ごめんなさい……」
目の前で、年端もいかない子供が、心を限界まですり減らし、震える虚ろな目で、子供に言わせてはいけない言葉を口にするのを目の当たりにした雷造は、拳を震える程に固く握り締め、目を見開き怒鳴りつけた。
「……!子供が……ッッ………!!!」
「子供がそんな事言うんじゃねぇッッッ!!!」
目の前に立つ少年の言葉は、今まで彼自身が味わってきた地獄を、雷造にありありと目に浮かばせた。
握り締めた拳は、あまりの強さに爪がくい込み、手のひらから血が滲み、食いしばった歯はギリギリと鳴った。
「俺はお前さんの事情は知らん!だがな……だが……!こんな子供に……こんな悲しい事を言わせる様な生き方をさせた奴らを……!俺は許さんッッ!!!」
雷造は、今までの人生で感じた事の無いほどの、際限のない怒りに打ち震え、涙を流した。
千夜にとっても、両親以外で自分をこんなにも想ってくれる人がいた事は、初めての事であった。
「良いか!俺は今までの奴とは違う!お前さんに必ず年相応の生活を送らせる!覚悟しておけッ!!」
そう言うと、雷造は千夜を強く強く抱きしめ、千夜も今まで押し殺していたものが溢れ、大声で泣いた。
……これが爺さんとの出会いだった。
────────────────────
……そして今に至る。
千夜は爺さんの元で、年相応の生活をさせてもらい、無事高校生となった。
しかし、大人達から受けた心の傷は今も完全には癒えておらず、同級生を含めて爺さん以外には、距離を置いていた。
周囲の大人への抵抗感、幸せそうに過ごす同級生、どうしても彼らと自分の『違和感』が拭えなかった。
壁を作っているのは自分自身だと自覚はあったが、この思いを誰かに話す気にもなれず、理解や同情なども特に求めてはいなかった。
……長々と俺の独白に付き合わせてしまって申し訳ない、決して喋るのが嫌いな訳じゃない、むしろ喋るほうだ。
(今日の料理担当は俺だな……野菜のストックはあったかな)
雷造と二人暮らしの千夜は、お互いに当番制で夕飯を作っていた。
雷造が作るのは昔ながらの和食や、子供の頃に食べていたという聞いた事のないが、美味い料理であり、逆に千夜が作るのは今風の料理であった。
2人とも、作ろうと思えばどちらのジャンルも作れるのだが、どちらかと言うとそっちの方が得意だから、という理由で、片方に特化して料理を作っていた。
(ま、帰ってから見て無かったら買い出しだな。寒いし……早く帰ろう)
防寒具の上からも沁みる寒さにぶるり、と震えた千夜は、少し足早に帰路を急ぐ。
……しかしその時だった。
「キャッ……!か、返して!」
「オラッ!どけよッ!どけェッッ!!!」
千夜から数十メートル程手前で、銀行から出てきた高齢の女性から、カバンを奪った男が、道行く人を突き飛ばしながらこちらへと走ってくる。
どうやらひったくりのようであった。
(ひったくりか……)
人を助けた所でどうせロクな事など無い、千夜はそのまま男を見逃…………
しはしなかった。
千夜は雷造に買ってもらった通学鞄をガードレールの柱に置き、男の前へと立ち塞がった。
目を見開き、如何にも必死そうな顔付きの男と目が合う。
「邪魔すんなガキィッッ!」
「年寄りには優しくし……ろっ!」
ドゴッ!
引ったくりの男は左手にカバンを持ち、右手で無茶苦茶な動きをしながら千夜を殴ろうとしたが、それよりも先に、爺さん仕込みの回し蹴りを、突っ込んでくる男に食らわせた。
身体の柔らかい千夜の回し蹴りは高く上がり、男の側頭部に綺麗に叩き込まれた。
男は街路樹へと吹っ飛び、幹へと全身を打った。
「〜〜〜ッ!!!……っんのガキがァッ!」
男はすぐに立ち上がり、千夜へと殴り掛かってきたが、それは怒りに任せただけの隙だらけ、大振り、出鱈目な拳。
千夜はそれを簡単に払い、流し、躱す。
(右、右、左、右……遅いな)
「もう止めろ、これ以上は本当に怪我するぞ」
開幕の蹴り一発のみで、避けてばかりで相手が疲れるのを待ってはキリがないと判断した千夜は、そろそろこちらからも何発かお見舞いしようか、と思った時だった。
「クソがァァァァッ!!」
「……ッ!」
高校生に翻弄され、怒りが頂点となった男は、ポケットから中型の折りたたみ式ナイフを取り出す。
千夜もこればかりは予想外だった。
(相手は自棄だ……恐らくそのまま突っ込んでくる。躱して…回り込んで足を掛け転ばせて、立ち上がる前にナイフを持った手を足で何回か踏んで、ナイフを手から引き剥がす……か?この辺も爺さんに習っておくべきだったな……)
まさか武道が実際に役立つ日が来るとは思ってもみなかったが、今、求められているのはその武道にある程度慣れた上で、更なる技術が要求されるものだった。
「死ねやァァァッッ!!!!」
男は目論見通り、真っ直ぐ千夜に突っ込んで来たので、千夜は横にステップし、すぐさま回り込むが……
「──ッ!」
これも予想外だった。
「ヒハハハハハッッ!!!バァーカ!!まずはテメーだ!!ババアッッ!!」
千夜の後ろには、先程ひったくりにあったお婆さんがおり、警察に通報をしていたが、男と揉み合っている内に、いつの間にか千夜の後ろに、お婆さんがいる向きになってしまっていたようだ。
男は千夜を振り返る事無く、このままお婆さんを刺し殺すつもりだ。
「婆ちゃんッ!下がれッ!!」
千夜はすぐ様走り出し、間一髪、男と婆ちゃんの間に滑り込む。
ザンッ……
「…………ッ……!」
脇腹に冷たい衝撃が走ったかと思えば、すぐ様傷口から熱い血液が流れ出した。
下に視線を移すと、柄まで千夜の身体の中へと刺し込まれたナイフが見えた。
「オォ……間に合ったか、クソガキ……」
男は刺さったままのナイフをグリグリと動かしながら、千夜の耳元に顔を近付け、ゆっくりと語り出した。
「どんだけ汗水垂らして働こうが、頭を何回下げようが、心にも無い事を笑顔で喋ろうが、差は一生縮まらねぇ。世の中は生まれた時点で決まってんだ……」
血がどんどん溢れ、意識が朦朧としてきた。
千夜が刺されたのを目撃し、野次馬達が悲鳴をあげながら散っていく。
「クソ程仕事も出来ねぇ天下り、七光りの馬鹿管理職共のご機嫌を取ろうが、そいつらの気分次第で俺の人生はパァ、だ。だから俺はこの金でのし上がる……!アイツらより金持ちになって、アイツらを笑ってやんだよォッ!!」
男は語るだけ語ったが、不意に千夜の顔を見て、その表情は怪訝なものへと変わった。
千夜の意識は朦朧としていたが、彼は不敵な笑みを浮かべ、男と目を合わせた。
「一回刺しただけで随分余裕そうじゃねぇか……!上昇志向は結構だが……金を手に入れる手段から、今の状況までの全部……」
グッ……!
千夜は男の胸倉を掴み引き寄せ、額を思い切りぶつけると、衝撃で怯んだ男がナイフを一瞬手放す。
「『詰め』が甘ぇッ!!」
────ゴッ!!!
千夜の渾身の掌底が、男の顎へとヒットする。
鈍く太い音が響き、上へと打ち上げられた男は思い切り地面へと落下し、そのまま気を失う。
男は制圧したものの、とうとう足に力が入らなくなり、千夜は地面へと前のめりに倒れた。
(ハハ……冷てぇな……ダメだ……起きる力も…………)
荒い呼吸に脈打つ心臓。
呼吸を繰り返す度に傷口からは大量の血が流れた。
少しずつ積もろうとしていた雪を溶かし、うつ伏せに倒れた千夜の腹辺りには、血溜まりが出来始めていた。
(やっぱり…人助けなんてするもんじゃ無いな…爺さん…ごめんな…何にも孝行できなくて…)
降りしきる雪は千夜の血溜まりへと落ち、血液の温度に溶ける。
頬に触れる雪の冷たささえ、感じなくなってきた。
(でも…父さん、母さん…俺、やっぱり2人の子供だったよ………結局……見て見ぬ振りは出来なかった………)
荒かった呼吸は少しずつ小さくなり、視界が占める黒の面積が徐々に増える。
(今……そっちに向かう………よ………)
(……………………)
そして数えるより先に、千夜の意識は闇へと落ちた。