947. 老僧侶の記憶の中で
皆に朝が訪れ、それぞれの用に合わせて動き出した後も、ベッドに置かれたままのシャンガマックは、何も変化がなかった。
それはまるで人形のようで、パヴェルたちが心配して何度か見に来ても、僅かな震えさえ見られない。息はしているが、あまりにも静かで、音も聞こえなければ、胸の上がり下がりも気が付かないほどだった。
何度も医者に見せようとするパヴェルに、リヒャルドさんは止め『変化がない以上、医者も何も出来ない』とご主人様を説得した。
「分かっているよ。でも気の毒だろう。彼は今、生きているのに死んでいるようなんだ。もうじき、彼らは出発するのに」
「一縷の望みを医者に掛けても。変化があれば、医者も頑張れるでしょうが、彼は昨晩と何一つ変わっていないのです。呼ぶだけ、医者にも気の毒ですよ」
「リヒャルド。彼の剣を見ただろう?龍の顎の骨と話していたよ。大きくて白い、重そうな剣だ。あんな凄い剣を振り回すような人なのに、こんな状態なんて。決定的な何かがなければ、こうならないよ」
パヴェルは自分たちが見えていない理由があるはずだと、リヒャルド相手に懸命に話す。リヒャルドも頷きながら、落ち着かない主の話を聞きつつ、丁寧に口を挟んで彼を宥めるしか出来なかった。
リヒャルドもそう思う。でも、もう―― ここはパヴェルと違うところ。
自分がテイワグナ出身だからか、ハイザンジェル育ちの大旦那様と違う部分。大旦那様の気がついた『決定的な何か』は同感だけれど、それは、人の手でどうにかなる気がしなかった。
褐色の眠れる騎士を、時々目端に映しながら、執事は彼の昏睡が終わる為に、自分たちの出来ることは殆どないと感じていた。
*****
「バニザット。懐かしい」
「何だ?俺の何かを知っているのか」
歩き続けた先にあった大きな空間で、ホーミットとシャンガマックは、時の流れも感じないまま、座り込んで会話をしていた。
空間を包む広い天上を見上げたホーミットは、碧の目でじっと、動き続ける天井や壁の絵を見つめて呟く。
その言葉に反応したシャンガマックは彼を見て、何を思い出しているのか訊ねる。すると大きな男は笑った。
「違う。お前じゃない方のバニザットだ。同じ名だから、混同する」
「そうか。懐かしいとは」
「おい。ちょっと、こっちへ。こっちへ来てみろ。俺の横に座れ。あれが見えるか」
触ることは出来ない二人。真横に座ったシャンガマックは気を遣いながら、彼に触らないように、出来るだけ近くで、真上を示した彼の指先の続きを目で追う。
「動いている絵だ。赤い布かな。あれは人か・・・あれ?あれ、お前のようだ。ホーミット、影に」
「そうだ。あれは俺だろうな。俺は、獅子の姿の時間が多いんだ。ここに入ってから、ずっと人の姿だが、こんなことはあまりない。
分かるか?ここはバニザット・・・過去のバニザットの、記憶の空間だったんだ。あいつが俺のこの姿を維持してくれているのかも知れない」
過去の男の記憶の中。その男はバニザット、と聞いたシャンガマック。じっと碧の瞳を見つめて『ここが、彼の記憶の中だと言うのか』と呟いた。どうしてそんなことが?と訊ねる。
大男は直に答えを出さない。その代わり、幾つか指差して、証拠の見える場所を教える。
「あの布に包まれた男がそうだ。ほら、あっちにもいる。その先にも、あそこにも。あれはバニザットだ。お前の先祖だ」
示された場所にある、壁や天井を覆う無数の板の中に、赤い色がちらつく。それをよく見てみれば、全て、背の高い老人が布をまとって立っている姿だった。
「あれが、俺の先祖・・・・・ 」
「もっと近くで見たいか」
ホーミットは、褐色の騎士を覗き込んで楽しそうに言う。シャンガマックは頷き、先祖がどんな顔をしていたのかを知りたいと思った。でも壁も天井も、固定されていないように動く。近づけば揺らいで距離が開く、不思議な場所なので、近くで見ることは出来ない。
「ちょっと待ってろ」
見たがっている若いバニザットに、フフンと笑ったホーミットは、両手を前に突き出して、両手指の先を向かい合わせると、手の内側に円を作った。
「よーく見ろ。この中だぞ、見ていろよ」
シャンガマックに、自分の作った手の内の円を見るように言う。シャンガマックが、焦げ茶色の指に区切られた空間を見つめると、その円の中にふわっと何かが映った。『何だ?』驚くシャンガマックは、次にもっと驚く。
「あ!顔が、顔がこんなに近くに!なぜ」
「ハハハ。驚いたのか。距離を縮めているわけじゃないぞ。壁を近くで見られるようにしただけだ」
しただけ・・・って、とシャンガマックは首を振る。そんなこと出来るのかと思うと、ホーミットが何てことなく取った行動に、潜む力量が気になってしまう。
ホーミットは、シャンガマックの戸惑う顔なんて気にもしない。
機嫌良さそうに、円を作った手を少し近づけてやり、見えるかと教えてやる。褐色の騎士がじっくり見ている様子にも満足して見守り、『こいつが俺の理解者だ』と話した。
黒い髪。漆黒の瞳。赤みがかる肌。強い意志を宿した目つき。シャンガマックの一族と分かる風貌。
「顔はお前と似ているな。バニザットは老人だったが、そんなふうに感じなかった。あいつはいつでも、その体から強さを滲み出していて、それは人間じゃない相手も警戒させた」
「そんなに。そんなに凄い人だったのか」
「そうだ。大した男だったよ。俺を恐れもせず、近づいたらすぐに自分から寄ってきた。情熱と知恵への探求が、彼を常に支配していた。バニザットに怖かったものなど、なかったように思う」
「ホーミットは。バニザットの友達だったのか」
思い出して話す姿が、とても楽しそうに見えたので、シャンガマックは思わず『友達』と口にする。さっと表情の変わった大男は、少し固い顔つきに戻り『友達なんてものは、俺にいない』ぴしゃっと言い切る。
その変わり様にハッとした騎士は、急いで言い直した。
「そうか。余計なことを言った。俺はそんなつもりじゃなかった。でも、その。きっとバニザットは、お前を友達だと思っただろう。俺の先祖なら、きっとそうじゃないかと思う」
言いにくそうに、シャンガマックは少し声を小さくして、悪気はなかったことと、人間らしい感覚で『友達』だと感じることを伝えた。ホーミットは眉根を寄せて黙っていたが、ちょっと溜め息をつく。
「お前と話していると、過去のバニザットを思い出す。顔も年も違うのに」
ホーミットの呟きを聞いて、シャンガマックはそっと彼に目を戻した。そして今更気がつく。大きな体の腰に巻かれた、赤い布に。
「その。布は」
ん?と顔を上げるホーミットは、自分の腰に視線を落とした、騎士の言いたいことを察し、頷く。『そうだ。バニザットが死んだ時、これを持って来た』何てことなさそうに言う大男。
シャンガマックは彼を少し見つめたが、黙っておいた。でも内心は、ちょっと嬉しかった。それは、ホーミットと先祖はやっぱり友達だ、と思えたからだった。
「もし。俺が死んだら。俺の剣を貰ってくれるか」
いきなりそんなことを思いついて口走ったシャンガマック。
うっかり言ったものの、驚いているような碧の目を向けられて、自分も慌てた。『いや。あの、何でもない。ちょっとそう、何となく』深い意味はないと言い掛け、ホーミットの顔が笑ったのを見て、黙る。
「お前の剣は貰えないだろ。俺が触れない」
「あ。そうか、そうだ。龍の顎だから。忘れてた」
赤面するシャンガマックは、もごもご言いながら俯いた。俺は何を言っているんだろうと思い、また、忘れていた属性の違いのこともありで、恥ずかしくなる。
困って下を向いた騎士をじーっと見つめたホーミットは、可笑しそうに『お前が何かな。俺に触れるものがあれば、それを受け取る』と伝えた。漆黒の瞳がさっと目を合わせ、その顔が子供のように見える。
「お前は精霊の加護と、龍のものを使う。サブパメントゥが手に入れるには、仕掛けでもないと触れないんだ。無害なものなら、俺は受け取るだろう。それで良いか」
ホーミットに提案されて、シャンガマックはこの話をもう終わりにしたかったけれど、赤面しながら頷き了解した。頭を掻く騎士の横で、大男は笑っていた。それから話は変わる。
「序だ。こんな場所、早々来れないからな。教えてやるか。バニザット、あれが誰か分かるか?」
「え。どれだ。うん?・・・え!イーアン」
「違うぞ、あれはズィーリーだ」
ホーミットは、目を丸くするシャンガマックに、よく見るように言う。離れた場所でも、揺れて動く絵は、大雑把な特徴くらいだと確認出来る。大男は指先で、ひょいひょいと特徴を示す。
「角。ないだろう?イーアンは角がある。ズィーリーの方が少し若いのか。イーアンよりも、女らしい雰囲気があるし」
本当だ。とは、言えないシャンガマック(※遠慮と気遣い)。
長衣を羽織った、小柄な女性。古い時代の服装と分かる、不思議な衣服をたっぷり着込んだ姿。黒い髪の毛はうねっていて、渦巻くイーアンの髪の毛が、もう少し伸びた感じ。
イーアンと同じような肌の色で、微笑む顔がそっくり。服を多く着ているからか、少しふくよかにも見える。
イーアンは筋肉質で、男から見れば細いにしても、女性としてはがっちりしている体付き。ズィーリーは何と言うか。本当に普通の女性(※イーアンに気を遣うと、これ以上の表現却下)らしい体型だった。
大まかな印象は掴めるけれど、よく似ているにしても、やはり別人なんだなと思うところ。
「イーアンは目が垂れてるから、相手を見下す顔が性悪に見えるが、ズィーリーはそうでもないだろ?いつもこんな表情だったんだ。
彼女は大笑いもしないし、静かで大人しかった。何を考えているか分からない女ではあったな」
どう答えれば良いのか。悩むシャンガマックは困って、うーんうーん唸るだけ。
イーアンは性悪じゃないし、見下す相手がいればそうなるだけで、普段は優しい笑顔で皆に元気をくれる。
垂れ目だから、確かに見下ろされて文句でも言われたら、バカにされている感は結構ありそうだが。シャンガマック自体はそんな目に遭ったことがないから、ホーミットに頷くに頷けなかった(※ホーミットは見下された)。
そんな悩むシャンガマックの様子が理解出来ないホーミット。昔の話に切り替えてやる。
「バニザットは、ズィーリーの側にいつもいた。ズィーリーが最初から最後まで、ずっと頼った男だと思う。彼女は警戒心が強く、誰が相手でも態度を変えなかったが、バニザットには心を開いていただろうな」
「最初から。旅の前から?」
「そうだ。俺は後から知った。ズィーリーがこの世界に来て、彼女が世話になった店があった。その店は食べ物屋で、近くの僧院にも届けていた。ズィーリーは仕事で出かけ、僧侶のバニザットと出会った。
正確には、バニザットがズィーリーに気が付いて、彼女と話すようになったみたいだ。旅路のことも、使命の事も、彼が教えたと言っていたな」
そうなのか・・・自分の役割と近いなと、シャンガマックは思う。先祖は僧侶。そして、僧院に仕出しで出向いたズィーリーを導いた。
ぽかーんとしている褐色の騎士に、ホーミットは少し微笑んだ。
「人間の家族なんか、俺は知らないが。親子みたいな感じだっただろうな。イーアンよりも、ズィーリーは若かった気がするし、バニザットは老人だった」
「だから頼れたのか。ズィーリーは、あの。総長の家系の・・・言いにくいけど、ギデオンという名の男に随分大変だったみたいだから(※浮気)。バニザットの存在は救いだっただろうな・・・彼が死ぬまで、ズィーリーは側にいたのかな」
「ん?死ぬまで?バニザットは旅が終わったら、離れたぞ。あいつは謎を追いかけて、自分の旅を続けたんだ。
ズィーリーは知らん。恐らくギデオンと一緒には、なっただろうが。あの男は放浪者だからな。ズィーリーの性質から、最期まで添い遂げる感じじゃなかったぞ」
何だか複雑・・・・・
人間模様が複雑な過去の旅路を、思いがけず耳に入れたシャンガマックは、脳の容量がぱつぱつ(※真面目だから、こういう話は理解困難)。
困っている顔の騎士を見て、笑うホーミットは『お前は気にしなくて良い』と言い、『過去は、全然違ったと思えば』そう続けた。
「さて。面白い時間だったな。この場所は覚えておこう。ただ、次に来た時も、同じとは限らない気もするが・・・とにかくここは、バニザットの記憶の中だったんだな。見るものも見たし、戻るか」
ふーっと満足そうに息を吐き出して、ホーミットは金茶色の髪を揺する。それはまるで、獅子のように見え、シャンガマックはその野性に少し見惚れた。立ち上がった男に合わせて、自分も立つシャンガマック。
「ホーミット。帰るのか」
「そうだ。お前も帰った方が良いだろう。こういった場所は時間が曖昧なんだ」
「俺はお前の役に立ったのか?不満はなさそうに見えるが、手伝えたのか」
「良い質問だ。手伝ったぞ。上出来だ」
ニコッと笑うシャンガマック。その笑顔に少し拍子抜けするホーミット。
『本当に若いな。同じ名前だから、ついバニザットを思い出すのに、お前は子供みたいだ』ハハハと笑って、恥ずかしそうにする騎士に歩くよう、促す。
歩きながら、シャンガマックはホーミットを見上げる。『知りたかったことはあったか』と訊ねると、緑色の瞳がすっと自分を見た。
「あったかと言われてみれば、ちょっと違った。だが、想像していないものは手に入れた。これも醍醐味だ」
その答えに、シャンガマックの胸が温かくなった。自分もそう思う・・・小さな声で呟くと、ホーミットは背を屈め、顔を寄せて、シャンガマックと目を合わせる。
「俺は光の中を動けない。サブパメントゥだから、コルステインと同じ条件と思え。夕方くらいなら、少しは出れる。
・・・・・本当なら、頭の中で話すことくらい出来るもんだが。龍のイーアンでも可能だというのに、お前の手に入れた加護は強過ぎてそれも出来ない。
俺を呼びたかったら、影に入って名前を呼べ。その口で、その声で。俺は、お前の頭の中に答えることは出来ないが、すぐにお前の元へ行くだろう」
大きな男の、真っ直ぐに向けられた碧色の瞳。シャンガマックは、彼が誠実だと感じる。少し頷いて了解した。
「俺が。ホーミットを呼んでも良いのか?そんな場面は、なかなか無さそうだが」
「あるだろう。この先。俺を頼る時も来る。
バニザット、俺の目的はお前に話せないが、お前たちの足を引っ張ることはしない。女龍は俺の話を『仲間を利用』とかな。意地の悪い言い方をしたが(※根に持つ男)。楽しかっただろ?」
「楽しんだ。こんな遺跡に触れたのは初めてだ」
ホーミットはフフッと笑って『お前をまた呼ぼう』と答えた。だから、自分も呼んで良い。そう付け加えた言葉に、シャンガマックは素直に嬉しかった。
この後も、お互いのことを少しずつ話しながら、二人は長い長い通路を歩き、どれだけ時間が流れたか分からない、外の世界へ出た。
シャンガマックは遺跡の外に出るなり、ふっと、体も意識も光に消えたように感じた。その時、ホーミットの姿も見えなくなった。
お読み頂き有難うございます。




