8. 自己紹介
森は静かだった。
相変わらず魔物の気配は感じるのに、何故か不自然な物音一つ、聞こえることはなかった。 日が天の真上に入って日差しが一層明るさを増す。森の道は涼しく、木漏れ日と土の匂いが心を癒す・・・・・ のだが。
手綱を握るドルドレンは、女を包むような乗馬の姿勢に気持ちが落ち着かず、森の風景を楽しむことがなかなか出来なかった。これからこの女をどう世話したらよいのか、いつまで保護するのか、そんなことも考えるが、何となく気が散ってしまうのだった。
「寒くないか?」
泉からずっと沈黙を通してきた時間の居心地の悪さに、ドルドレンは声をかけてみた。
女は振り返ってドルドレンを見上げ、微笑んだ。
「着せてもらったので寒くありません。とても暖かいです」
「そうか・・・・・ 」
話が続かない。女の返事に頷いたが、そこからどう話をしたら良いのか困った。
あの登場の仕方について、それにこの国では見慣れない衣服や種族の様子について、聞きたいことはたくさんある。
だが、自分が知らないだけで、彼女がアレコレ経緯があってのこうした状況下に置かれている一般人だとしたら、根掘り葉掘り赤の他人に聞き出されるのも嫌ではないか。
その可能性だってあるだろう、とさっき思ったのだ。異様な出会いだし、見た目も疑問があるが、実はそれほど大した話ではないということだってある。
偶々、夢で見たから・・・・・ 何かあるのではないか、と勘繰っている自分がいるだけである。しかし、彼女も何も話さない。 緊張しているのか、話したくないのか、これから何か話すのか。
どこから何を話そうかと悩んでいたら、ふと、名前はもう一度聞いてみても良いのでは、と思いついた。
「聞きたいことがある」
ドルドレンの低い声に、女はまた彼に振り向いた。
「名前を。 さっきも聞いたのだが、名前をもう一度尋ねても良いか?」
ああ、と女は口を開いた。「はい、もちろんです」 何か合点が行った様子で、女は一人うんうんと頷いてた。その様子にちょっと拍子抜けしたが、今度は聞けそうだと安心した。
「私は、日合・・・・・」
「イーアン?」
ドルドレンは名前の発音が分かりにくくて聞き返した。 え? と女が小さく声を漏らす。
「イーアンか?」
「ええっと。 ひー・あ、ぃ・・・・・ 」
女は少し戸惑うように、もう一度名前をゆっくり、自信なさ気に伝えた。でもドルドレンが繰り返した名前は、やはり『イーアン』であった。女は目を瞬かせ『うーん』と唸り、眉を下げて固まっていた。
「発音が。 どうも発音が互いに異なるのか、名はイーアンとしか聞こえない」
白髪の混じる黒髪をかき上げて、ドルドレンも困ったように言う。直後、あっと声を上げて背を屈めて『イーアン』の顔をのぞきこんだ。
「俺も名乗っていなかった。 ドルドレン・ダヴァートだ。すまない、忘れていた」
ああ、はい・・・・ と、イーアンは驚いた様子で、至近距離にある灰色の瞳を見つめて頷き、そして一つ大きく息を吐き出すと、ははは、と笑い声を上げた。ドルドレンは彼女の笑い声に慌て、イーアンの口に手を被せた。大きな手が顔の半分を覆ったことにイーアンはビックリして声を止めた。
「イーアン。 笑うのは後にしよう。ここは危険だ」
大きな手にこもった力を緩めながら、ドルドレンはイーアンに囁いた。 笑い声が危険と知ったイーアンは緊張が走ったように唾を飲み込んだ。「ここは、危険な場所なのですか?」鳶色の目で不安そうに見つめ返す。その目を見てドルドレンは頬を緩め、微笑んで頷いた。
「一応な。 でも大丈夫だ。静かに話していれば。これについては後で教える」
笑っても良い場所に着いたら、と小声で付け加えた。イーアンも「気をつけます。私、よく笑うから」と小声で答えた。 イーアンは再び前に向き直り、ドルドレンも口を閉じ、馬は規則正しい歩調で森の道を進んだ。
ほんの僅かな、自己紹介。 だがドルドレンにとって、この自己紹介の時間は充分満足だった。
少し前まで沈黙の時間が居心地悪く思えたのが、もう今はない。イーアンの笑った顔は人懐こくて、つられて笑いそうになった。それで自分は安心したのか。
どんな人物なのか分からないから、あれこれ想像していたが、イーアンと名乗った女はそれほど警戒する相手ではないことがよく分かった。自分がこれほど簡単に人を信用することにも驚いたが。
イーアンは、普通の人なのだ。ドルドレンの厳しい風貌に何の反応もしない、落ち着いている大人。 聞けば正直に返事をするし、多分、嘘もついていない。警戒心も感じられないから、含むものを携えていることもないだろう。
普通の応対が、普通に出来る、普通の大人。ただの一般人。 性質に危険はないと判断した。
出身地やら、立場やら、そうしたものは外見に過ぎない。そんなものは後から聞いて確かめれば良いものだ。何かの理由でこの国へ来て、それで泉に落ちていただけだ。いや、これは無理があるか。
久しく ――信用する人間がいなかったな、とドルドレンはふと回想した。
大体の人間が、ドルドレンを最初に見たときの印象で接する。接する態度は恐れだったり、探りだったり、構えだったり、媚だったり。女性は、豪胆な者だと下心に任せて擦り寄ってくるなどがあったが、怖がられるほうが常だった。
近年は特に、殺気立った自分の側に来る者は男女共に減った。付き合いは心にまで届くことはなく、誰かを信用することは引き換えに危険と繋がるような、そんな人間関係が続いていた。
イーアン。 彼女はこの国以外の他所から来たからだろうか。
自分を見つめた目には恐れの色がない。少しのやり取りで、含みのない笑顔を向けてくる。会ったばかりなのに、何故か信用して良い気持ちが湧いてくる。
久しぶりの、普通の会話。(内容は普通ではないが) 普通に、初めて会った人と会話している状態を味わっている。
それに――
『綺麗な色ですね』
灰色の瞳を真っ直ぐに見つめた一言。
思い出した途端、ドクンと体の中で何かが大振りに音を立てた。 自分の腕の内側に座るイーアンに聞こえたんじゃないか、とドルドレンは焦った。
イーアンに心の声が聞こえたのか。彼女の頭は少し後ろにそらされて、お互いの目が合った。
「さっきから思っていたんですけど、ドルドレンの目の色・・・・・ 本当に綺麗ですよね」
灰色の眼の色は初めて見たから、とイーアンがにっこり笑った。恥ずかしそうでもなく、ただ単に伝えたいだけ。それが素直に言葉になって、何の引っかかりもなくドルドレンに流れ込む。
ドルドレンは何も答えられず、ああ、とか、うん、とか、もごもごするだけだった。 体の中で何かが聖堂の大鐘の如く豪快に揺れて、ドルドレンをしばらく戸惑わせていた。
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